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 音は、リビングからで。  出所は、冬人からだ。  冬人が勢いよく立ち上がり、座っていたイスを倒したことによって鳴った音らしい。  俺と龍介はなにも言えずに、ただ音を鳴らした本人からの返事を待つ。  冬人はテーブルに手をつき、下を向いている。  その体勢のまま、冬人は突然──。 「──平兵衛ッ!」  今まで聞いたことがないような声量で、まるで怒鳴るように、俺の名を叫んだのだ。  俺と龍介は、それでもなにも言えない。  ……『平兵衛』? 初めて、呼び捨てにされたな?  別にそれは不快ではないし、むしろウェルカムな姿勢ではあるが……なぜ、今?  冬人はテーブルから手を離し、それから俺の腕を掴んだ。  そのまま睨み付けるように俺を見上げて、怒鳴るように捲し立てる。 「──困らせるだけだとは分かっている! だが、私はあなたに行ってほしくないッ!」  それだけ言い、冬人は俺の腕から手を離すと、リビングから出て行ってしまった。今度は、龍介が待っている玄関に向かったらしい。  慌てて俺も、玄関へと向かう。  すぐさま、龍介はビクリと体を震わせた。 「なっ、なんだよ、その目は……っ」  ガラは悪いが、龍介の性根はただのビビりだ。初対面の男に睨まれたら、こうしてすくみ上るほどには……。  冬人は龍介に詰め寄り、腕を伸ばした。 「そちらの言い分も分かっている。……だが! それでも、平兵衛の【今日】の先約は私だ!」  そう言うと冬人は、龍介の背中をグイグイと押し始める。まるで、追い出すかのように。 「な、なにッ! なんだよ、オイッ!」 「冷静じゃないので、今の私は論理的な言葉を選ぶことができない。だから、単刀直入に言わせてもらう。今すぐ帰れ!」 「ちょ、押すなって! 分かった、イヤ、全然分かんねェけど自分で出るからッ! だから触んなってのッ!」 「本当に申し訳ございません!」 「分かってると思うけど、お前の言ってることとやってることが全然違うからなッ!」  ……すっ、すげぇ……ッ。冬人が、あの龍介を圧倒してる……っ。  なにもできず、俺は黙ってふたりのやり取りを見ていることしかできない。  だが、龍介は俺以外の人間には打たれ弱い心の持ち主だ。オマケに、人嫌いだからあまり関わろうとしない。  いきなり他人が詰め寄って来たから【出て行ってあげた】と言うよりは【逃げた】の方が正しいだろう。  龍介が出て行くと、冬人はすぐに玄関のカギを閉めた。まさかの、チェーンもだ。  そして玄関の扉に手をついたまま、なぜか冬人は戻ってこない。 「……ふゆ、と……?」 「……っ」  突然の言動に驚いたからか、俺は口の中は一気に乾いてしまい、思うように声が出てこなかった。  それでもなんとか名前を呼ぶと、冬人はビクリと体を震わせる。  そして……。 「──待て待て待てッ!」  ──まるで何事もなかったかのようにクルリと玄関に背を向けると、冬人はそのまま俺の横を素早く通り過ぎていった。  自室に入ろうとしたものだから、思わず俺は冬人を追い掛けて、その腕を掴んだ。 「なんだ」 「イヤイヤ! それは俺のセリフだ! なんだよ、今の!」 「なんでもない。なにもなかった。だから、なんでもない」  あんな突飛なことをしでかしたくせに、冬人は一向に俺と目を合わせようとしなかった。

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