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影石譲の憂鬱

影石譲(かげいしゆずる)は憂いていた。 今の状況はすこぶるよくない。 2度目の番となった老人が死に、今は肩身の狭い実家に身を寄せている。 この実家において、オメガである譲の立場は弱かった。 譲は、かつての番に思いを馳せていた。 目を閉じれば、今もあざやかに思い出される、あの華やかな毎日。 最初の番、豪貴(ごうき)と出会ったのは、親の紹介だった。 当時は高校在学中で、まだ17歳。 結婚ではなくて、愛人という間柄を望まれたが、6人兄弟の末息子で、オメガであるという立場上、断りようもなかった。 他の兄弟はアルファなのに、自分だけがオメガであるから尚更だ。 通っている高校は私立の名門校といえば聞こえはよかったが、多額の寄付金を払えば簡単に入れるという側面もあることから、「バカな金持ちの子女の遊戯場」という烙印も押されていた。 そんな事情もあったから、「こんなところに通っていてもしょうがない」と諦めて、高校を中退。 成金令息のアルファと番になり、家庭に入ったほうがマシだろうと考えて、向こうからの条件を飲んだ。 そして、いざ番になってみれば、悪くはない生活が待っていた。 居をかまえたのは都会のタワーマンション。 上層階の広い部屋を与えられ、さらに最上階の豪貴の部屋には、好きなだけ行き来できる。 発情期に悩まされることもなくなり、贅沢三昧。 豪貴は次々に愛人を作っては番にしたが、生活に支障はなかったし、豪貴の寵愛は失せることがなかった。 愛人たちは、最初の愛人であり、年長者である譲をそれなりに敬って立ててくれたし、そのおかげで、大した争いや揉め事とも無縁の平穏な生活を送ることができた。 しかし、譲が34歳のとき、豪貴は本妻に殺され、そこから生活が一変した。 生活の面倒を見てくれる番がいなくなった上、そのときには、すでに5人の子がいた。 実家の年嵩連中からは「長居貴一郎との繋がりは何としてでも保っていろ」と言われているから、実家には頼れない。 譲自身、あんな田舎にはもう戻りたくないと思っていた。 どうしたものかと悩んだ末、実父の口利きで、なんとか長居貴一郎の新しい愛人としておさまることができた。 長居家での立場は弱かったが、問題なく生活できたし、窮屈な田舎での暮らしよりは幾分贅沢なものだった。 5人の子どもたちも順調に優秀に、すくすくといい子に育っていった。 この子たちかいずれ長じたあかつきには、自分の立場を万全なものにしてくれるだろうと考えていたが、その読みはことごとくはずれた。 第1子にあたる長女の聡美は、独立して出ていき、今は自分の会社を経営していて、祖父の会社を継ぐ気は微塵もないという。 その上、どうしたわけかわからないが、自分を嫌っているせいで住居も連絡先も教えてもらえず、接触すらかなわない。 第3子にあたる次男の高貴は、ある日突然「家政婦さんのお店を継ぐ、おじいさんの会社とは関わらない」と言って出ていき、今は小さな洋食店の店長におさまっている。 こちらが呼びかけても、快い返事はもらえなかった。 第4子で三男の貴彦(たかひこ)は20歳になったのを機にハメをはずして過度に飲酒し、急性アルコール中毒で早逝。 第5子で次女の英美(ひでみ)はベータだから、重要なポストに入る見込みはない上に、この子も聡美と同様に自分を嫌っている。 何より、いちばん期待をかけて育てた第2子で長男の大貴は、いちばん期待を裏切ってくれた。 3歳で九九や読み書きができるようになり、小学校も中学も高校も大学も、誰もが知るような難関と呼ばれるようなところに、大した苦労もせずに入れた。 しかし、この息子はそこまでのものだった。 いざ社会に出てみたら、何ら大したことはなかった。 仕事ぶりはベータと変わらず、アルファというには今ひとつという有り様で、祖父の会社の一部署を任された際には、父親ゆずりの無能ぶりを発揮した。 企画した案件はたびたび失敗し、それを取り戻すことができるほどの要領の良さはあったが、その部署は発展することもなく、周囲からの評価はプラスマイナスゼロといった塩梅だった。 そのくせ、父親譲りの好色ぶりはすさまじく、父親と同じように「番集め」に余念がない。 長男がこうでは、次男を説得してこちらに帰らせ、彼に会社の重要なポストに座ってもらうしか、自分の立場を守る方法がない。 このままでは、肩身が狭く、窮屈でみじめな田舎暮らしが待ってるだけだ。 「頼んだよ、真知子(まちこ)さん…」 古びた日本家屋の縁側に座り込み、譲は高貴のところに送った人物の名前を呼んだ。

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