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予期せぬ事態 ※
穏やかな昼下がり、純は友人の橋 すみれとカフェでおしゃべりしていた。
「あんたさあ、最近なーんか丸くなったね」
すみれがティーカップを自分の方へ寄せた。
「え?ぼく太っちゃったあ?」
もちろん、すみれがそんなつもりで言ったワケではないことは百も承知の上だ。
「違うわよ。すっごく楽しそうっていうか、イキイキしてるっていうの?」
「うん、今の仕事、すっごくやりがいあるっていうか、楽しい」
「アンタのことだから、アルファの上司ねらってるのかと思った」
「うーん、高貴さんはねえ、そんなじゃないかなー。お父さんとかお兄さんみたいなカンジ!」
高貴と純は、年齢差にして15歳。
父というには若すぎるし、兄というには歳上すぎる。
しかし、言葉で表すならそんな距離感だった。
「結婚相手探すのはやめたの?」
「ううん。まだ探してるけど、今は仕事を優先したいと思ってる」
「なるほどね。あ、悪いけど、もう時間だから、そろそろ失礼するわね!」
すみれはカフェの壁にかかっている時計を見て時間を確認すると、せわしない様子で立ち上がった。
「うん、彼氏と楽しんできてね!」
去っていくすみれを見送ると、純も店を出た。
──帰ったら、キャベツのみじん切りと、ニンジンの飾り切りの練習だな
今までの純なら、こんなふうに家に仕事を持ち込むことなど考えられなかった。
──「仕事が楽しい」って感じられる日が来るなんて、ぜんぜん思わなかったなあ
今の職場を紹介してくれた富永円に感謝しつつ、帰宅を急いだ。
帰宅した純は手を洗うと、首につけていた拘束具をはずしてテーブルに置いた。
今度はキッチンに移動して、冷蔵庫の中を確認していく。
「えっと……まずは千切りの練習から!」
狭い部屋で独り言を放つと、純は野菜室の引き出しを開けようとした。
瞬間、体が熱くなり、下半身がじくじく疼き出した。
──まずい、発情期だ!
純は冷蔵庫を閉めると、ふらつきながら立ち上がり、抑制剤を保管してある引き出しを開けた。
そこから錠剤を引っ張り出すと、グラスに水を入れて、錠剤を口へ流し込む。
飲み込んだ拍子に軽く咽せたが、なんとか薬を喉の奥へ滑らせることができた。
ひと安心した純はその場に座り込み、火照りが鎮まるのを待った。
──ダメだ…ぜんぜんよくならない
純は、生まれつき薬の効きが悪い。
抑制剤を毎日正しく服用していても、フェロモンがほとんど抑えられない。
母も祖母もそうだった。
純のこの体質は、遺伝的なものなのだ。
フェロモンを抑えられない以上、仕事は休まざるを得なくなるし、そのことで周囲から疎まれ続けてきた。
この調子では、明日から数日間休まなくてはならないだろう。
そうなれば、高貴さんや長田さん、日菜乃さんや仁志に迷惑がかかる。
──ああ、最悪……
重たい体を引きずりながら、ベッドに寝転がった。
そして、足の付け根に手を伸ばすと、そこはしとどに濡れていて、しっかり兆していた。
──早く、吐き出したい……
竿を握って、ゆるゆると2~3回しごくだけで、あっという間に射精できてしまった。
だのに、まだ体の火照りは鎮まらない。
そればかりか、疼きは強まっていき、腰の奥から電流が走ったかのような感覚に見舞われた。
止むを得ず、もう一度足の付け根に手を伸ばそうとしたところ、インターホンが鳴った。
──誰だろう?
まったく心当たりの無い訪問だ。
きっと新聞の勧誘か、ネット回線だかウォーターサーバーだかの営業だろう。
だから、無視して居留守を使っても問題ないだろうと判断して、純はドアの向こうにいる相手が立ち去るのを待った。
そのうち諦めて帰るだろうと思ったが、相手は予想外の行動に出る。
ドアノブをしばらくガチャガチャ動かしたかと思うと、カチリと音がして、ドアが開く音がした。
──鍵開けて、入ってきた?てことは、母さんかな?
この部屋の合鍵を持っている人物は限られている。
純の頭に最初に思い浮かんだのは、母親だった。
しかし、母親ならわざわざインターホンを鳴らしたりしない。
では、いったい誰なのだろうか。
パタ、パタ、パタ、パタ、と足音が近づいてくる。
人影が純のベッドの前で立ち止まると、声を発した。
「ジュンちゃん、どうしたの?大丈夫?具合悪いの?」
訪問者の正体は、仁志だった。
そういえば、彼にも合鍵を渡していた。
万が一、帰り道などで発情期が来たとき、すぐに家に連れて帰って介抱できるようにとの考えからだった。
それこそ、何度か家に遊びに来たこともあるし、もはや勝手知ってる仲であるから、返事がなければ鍵を開けて入るのも、何ら不思議なことではない。
「……仁志、なんでここに?」
「いや、親戚からジャガイモ貰ったんだよ。それで、おすそ分けしようかと思って……」
仁志が、持っていたビニール袋を胸の高さまで上げた。
「そう……」
いつもなら軽い調子で「ありがとー!」くらい言えるのに、今はそれどころではない。
体が熱くて、まともに立つことすらできないし、頭もうまく回らない。
「あの、大丈夫?熱冷ましとか買ってこようか?水とかもいるよね?」
寝込んでいる純の様子を見た仁志が、不安げな顔をしてかがみ込み、純の顔を覗き込んだ。
おそらく、風邪と判断しているか、発情期のオメガに対する対処がわからないのだろう。
「……熱冷ましも、水も要らないよ。これ、風邪じゃないから」
「じゃあ、何か欲しいものある?買ってくるから、待ってて!」
仁志はジャガイモが入っているビニール袋をその場に置くと、すっくと立ち上がった。
「…何も買ってこなくていい」
「えっと、じゃあ…」
「……助けて」
仁志の言葉を遮るようにして、純は仁志の腕を掴んだ。
「あの、オレ、どうしたらいいかな?ごめんな、役立たずで……」
純の懇願に、仁志はオロオロしはじめた。
本当に、どうすればいいかわからないのだろう。
「……抱いて」
「…え?」
仁志が間抜けな声を出した。
いきなりこんなことを言われたのだから、当然と言えば当然の反応であろう。
「お願い……そうしないと、発情期が治らないんだよ」
「え、あ…あの、薬は?抑制剤ってのがあるんだよね?」
仁志が顔をキョロキョロ動かして、部屋中を見回した。
「さっき飲んだんだよ。あのね……仁志、ぼくは抑制剤が効きにくいんだよ。毎日きちんと薬飲んでても、ぜんぜん効果なくて…母さんも、おばあちゃんも、そうだったから……遺伝なんだよ。そういう人は、やっぱりダメなんだよ…周りに迷惑かけるから、嫌われたり、バカにされたりしても、仕方ないんだよ、どうしようもないんだよ……」
言ってるうちに、純はなんだか心細くなってきて、涙が流れてきた。
「泣くなよジュンちゃん。オレ、なんとか助けてやるからさ」
仁志は体をかがめると、幼児をあやすときみたいに、純の頭を軽くポンポンと叩いた。
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