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怒りの鉄槌
大貴は現在、26年前のあの事件の現場となったM区のタワーマンションの最上階に、番や子どもたちと一緒に住んでいる。
このマンションは、建設当時から豪貴の腹違いの兄#総之介__そうのすけ__#がずっと管理していたが、事故物件となった上、時代の移り変わりもあって、賃料が著しく下がった。
かつては「高級住宅街」「住みたい街」と憧憬の的だったM区は今や、「成金や落ちぶれた金持ちが体面を保つために住む場所」というレッテルを貼られている。
そんな評価も構わず、大貴は「タワマンに住みたい」という願望から、ここに入居させてもらうよう総之介に要望してきた。
このマンションは現在、建っている地区そのものの評判が悪く、なかなか買い手がつかない。
そんな背景から、入居者をひとりでも確保したいという事情があった総之介は、身内のよしみということもあって、渋々ながら大貴に売り出してくれた。
「お前もここを事故物件にするようなことがあったら、番とその子どもたち含めて、全員出て行ってもらうからな!」
鍵を渡されたとき、いの一番に言われたセリフがそれだった。
自分が管理していたマンションを、腹違いの弟に事故物件にされた総之介は、その子どもと番である大貴や譲を快く思っていない。
こんな言葉を投げかけるのも、仕方のないことであろう。
おまけに、念願のタワーマンションに住めると浮き足立っていた大貴の耳には、総之介の言葉はまるで入ってこないらしく、総之介からの度重なる苦情もろくに取り合わなかった。
大貴のこういった振る舞いも、総之介の怒りを買うには十分なのだろう。
「ホントに落ちぶれたもんだよ!今あそこに住んでるのは、金はあるけど、金持ちのコミュニティからはハブられたような、品性下劣なヤツばっかり。あとは、あの事件に興味持って入居したオカルトマニアの作家とか、そういう一部の物好きだけ。正直言うとさ、その人たちの方がまだ上品な方だよ。成金どもときたら、何かにつけて踏ん反りかえっててえらそうだし、廊下にゴミ捨てるし、野良猫にエサやるし、そのことを注意しても知らん顔だし!」
総之介は、大貴を含めた住人たちの態度に頭を悩ませていたようだった。
「聡美ちゃんか高貴くんか英美ちゃんなら、喜んで売るんだけどなあ…ったく、同じ両親から生まれたのに、どうしてこんなに差ができるかねえ?」
総之介は大貴に対して散々愚痴をこぼした後、舌打ち混じりにこんな嫌味を吐くのが常だった。
──そんなこと、私が聞きたいくらいだよ…
子どもたちの中でもとりわけ出来の悪い長男に、譲も悩まされていた。
こんな息子では、社内で大した地位に就けないことは明確だ。
同じ派閥にいる元愛人たちとその子どもたちも、後ろ盾とするにはあまりにも力弱い。
だからこそ、それなりの商才があり、年嵩連中からの信頼も厚い次男の高貴に頼ろうと思ったが、それさえも、なかなかうまくいかない。
実家の狭い自室で譲がひとり嘆いていると、電話が鳴った。
いったい誰からだろうかと、譲は廊下に鎮座している電話台まで歩いていく。
「もしもし?」
受話器を耳に当てて対応すると、よく知っている声が聞こえてきた。
「母さん、大貴はそこにいるかい?」
電話の相手は、高貴であった。
「ねえ大貴、お前、何したんだい?さっき、高貴から電話かかってきて…すごい怒ってたけど……」
譲は、数時間前に何の連絡もなく実家にやって来た大貴に尋ねた。
この息子ときたら、自分の立場が危ういこの時期に、居間のソファで呑気にくつろいでいる。
譲は先日、大貴の子どもの身なりについて、総之介から小言を貰っていた。
おそらく、大貴はその小言を聞くのが嫌でここに逃げてきたのだろう。
大貴は子どもの頃から、逃げるのだけは得意なのだ。
「昨日の夜にさ、アイツの店に行って、ちょっと#けしかけた__・__#んだよ」
大貴がニヤリと笑ったと同時に、玄関扉を乱暴に開ける音が聞こえた。
乱暴な足音が廊下に響き、それがどんどん大きくなっていく。
「久しぶりだね、母さん」
自室の襖がバンッと音を立てて開けられたかと思うと、そこに立っていたのは、やはり高貴であった。
「うちの従業員が世話になったね、大貴さん?」
顔に怒りを滲ませた高貴が、皮肉混じりに兄をさん付けして呼ぶと、ゆっくり居間に入ってくる。
「久しぶりだなあ、高貴さん?いやあ、あの軽井沢くんって子、かわいいよねえ」
大貴が、高貴がしたのと同じように、弟をさん付けして呼んだ。
「僕はずっと言ってたよね?「店に来るな」って。お前、本当にいい加減にしろよ!!」
高貴が怒鳴り散らした。
「じゃあ、お前がこっちについてきてくれない?そしたら店にも行かないし、あの子を追うのは止めにするよ。なんならさ、あの店は畳まずに、別の誰かに任せるって手もアリじゃね?」
高貴の怒りなどお構いなしに、大貴がいけしゃあしゃあと述べた。
やはり、彼の目的は高貴を自分たちの側に引き寄せることだった。
そのために、純は巻き添えを食らったのであった。
「……わかった。僕、今まで右往左往してたけど、決めたよ」
「それ、本当?高貴、こっちに来てくれるんだね?」
大貴と高貴のやりとりをそばで聞いていた譲が、嬉しそうな顔をしてすり寄ってきた。
その態度の、なんと卑しいこと。
エサを欲しがる卑屈な犬の目だ。
そんな母に嫌悪感を抱きつつ、高貴はポケットから何かを取り出した。
それは、成人男性の手のひらにおさまるくらいの大きさのICレコーダーだった。
高貴がICレコーダーのスイッチを押すと、聞き覚えのある声が流れてくる。
『前にも言ったよね?アルファとオメガの番っていうのは主従関係なんだよ?咬み傷はアルファの所有の証であって、オメガには選ぶ権利も求める権利ももともと無いんだよ。これだけわかりやすく説明すればわかる?』
ICレコーダーから流れてきた声に、大貴は気まずそうな顔をして押し黙った。
「軽井沢くんに万が一のことがあったら、と思って仕込んでおいたんだよ。これを週刊誌や新聞社に送ることにしたよ。大企業の会長の親族がこんな発言して、世間一般のベータやオメガの皆さまが知ったら、どう受け取るだろうね?人権団体にも送ろうか?今の時代はただでさえオメガの地位向上に対する声が大きいんだ。そういう人たちが黙ってないんじゃない?」
「お前…!」
思わぬ反撃を受けた大貴が、高貴を睨む。
「新聞沙汰になっちゃうかもね?そうして足を引っ張るようなヤツ、会社のおジジ様たちには邪魔で仕方ないだろうね?お前、ガチで立場追われるかもよ?」
言いながら高貴が、ICレコーダーをポケットにしまう。
「高貴、お前、自分の兄さんを売るのかい!」
譲が高貴の両肩を掴んだ。
「お前の現状を、僕は知ってるよ。親父と同じで、ろくに仕事もしないで放蕩三昧して、何人ものオメガを番にして囲って、無鉄砲にバカスカ子ども生ませてるらしいじゃないか。違う点といったら結婚してないことだけ。親父はね、一応結婚することで他家とのコネ作るっていう貢献をしてたんだよ。お前、親父のコピーどころか…」
「真知子さん!話が違うじゃないか!」
高貴の言葉を遮って、譲は高貴の後ろに黙って立っていた忍尾真知子に詰め寄った。
この女は、長居貴一郎氏の長女であり、豪貴の姉であり、大貴たちの伯母なのだ。
「ええ、私は高貴さんの見張り役を買って出ました。ですが、高貴さんの行動を止めるとは一言も申し上げておりませんよ?」
真知子が冷淡に返した。
「ねえ、大貴さん。あなた、軽井沢さんの価値観を「そんな理由で番を組む者など探しても見つからない」と笑い飛ばしていたでしょう?そんなのはおとぎ話だと」
「それが何?」
いきなり話をふられた大貴が、困惑の表情を浮かべた。
「私から言わせていただければ、「咬み傷は所有の証だ」というあなたの理論も大概おとぎ話ですよ。あんなものはただの生理現象のひとつです。皮膚を切れば血が出たり、お産をすれば腹に肉割れができるのと一緒です。何ら深い意味はございません」
真知子がゆっくりゆっくり、居間に入っていく。
「人間なんて、みんな平等に無価値ですよ。特に、「老い」と「死」の前においてはね。私たちの父がそうです。生きている間は金も地位も土地も番も余るくらい持っていましが、老いてしまえば使いようがない。死んでしまえば、自分が必死になってかき集めた金や土地は誰かのもの。番が何人いたかなど、何の意味もなくなります」
大貴の目前で、真知子は立ち止まった。
「あなたなら、わかるのではないですか?父親の死を目の当たりにしたのですから。アルファのボンクラ御曹司だろうが、アメリカの大統領だろうが、中東の石油王だろうが、もちろん、あなただって。いきなり背中から刺されて大量の血を失えば死にます。誰ひとり、「死」からは免れないのです。死神ほどの平等主義者はいませんよ」
ソファに座った大貴を見下ろした真知子は、フッと嘲るように笑った。
「それと、アルファとオメガは主従関係とおっしゃるなら尚のこと、オメガの皆さまを侮るべきではないかと。イエス・キリストしかり、ユリウス・カエサルしかり、織田信長しかり、従者に裏切られて足元をすくわれた君主など、数えきれないぐらいいるんですから。あなたの父親だってそうでしょう?」
真知子が大貴の襟首を、両手で思い切り掴んだ。
「だからお前は豪貴の劣化版なんて呼ばれて、こんなところに追いやられてんだぞ!ベータにもオメガにも劣るボンクラがえらそうに!!」
真知子が一喝したと同時に、バチンッと大きな音が居間中に響きわたった。
真知子が大貴の頬を、思い切り引っ叩いたのだ。
「いってえ!」
叩かれた頬を押さえて、大貴は悲鳴をあげた。
「これに懲りたら、2度とうちの店に来るなよ。軽井沢くんはもちろん、従業員のみんなにも近づかないこと」
「このこと、私はメディアに漏らしはしませんが、上層部の皆さまには報告させていただきますね。この件、私には少々目に余るように感じますし。おそらく、このことで大貴さんの評価は著しく下がるでしょうね?」
高貴も真知子も、それぞれに言い捨てて、その場を去っていった。
「久しぶりに来たけど、この辺は相変わらず何も無いなあ、「ザ・田舎」ってカンジ!」
高貴は辺り一帯に広がる田んぼを見つめて、感想を述べた。
「まあ…牧歌的で、趣がありますよね」
とってつけたような褒め言葉を吐き出して、真知子はロングスカートのポケットから車のキーを取り出した。
2人は真知子の車でここまでやってきたのだ。
都心から離れたこの土地まで行くには、どうしても車が必要になる。
「ホンットに嫌になるよ、サッサと帰ろう」
譲たちの家から駐車してある平地まで、かなりの距離があるから、相当歩かなくてはならない。
この辺りは道路整備もろくになされていないから、駐車できる平地も限られているのだ。
「忍尾さん…いや、「真知子伯母さん」って呼ぶべきかな?」
歩いている道中、高貴はつい最近まで面識のなかった伯母に尋ねた。
高貴が真知子を自分の伯母だと知ったのは、大貴が軽井沢を犯そうとした日の翌日であった。
身分を明かされたときには心底驚いたが、それよりも、大貴が軽井沢にしたことに対する怒りの方が大きかった。
「自由にお呼びください」
「それで、なんだってアイツらに「私が高貴さんの見張り役をします」なんて買って出たワケ?」
「私が嫁いだ忍尾家に、あの厄介者たちが接近するようなことがあっては困るんですよ。だから、先にあなたのところで一悶着起こして、さっさと大人しくもらおうかと思いまして」
真知子が、まとめて結い上げていた髪をバッとほどく。
同時に、彼女が使っている整髪料の香りが、空中を舞った。
「ひどいなあ。僕をダシにしたのかい?」
「譲さんたちが真っ先にすがりついてくるのは、間違いなくあなただろうと思いましたので」
真知子のこの予測は大当たりと言えた。
──忍尾さん、とんでもない人だなあ…
結局、真知子の思惑通りに事は進んだワケだから、とんだ策略家ではないか。
高貴は少しばかり身震いした。
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