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ふりかかった災難
「知世さん?え?な、なんで⁈あなた、一生刑務所から出られないはずなんじゃないの⁈どうしてここに⁈」
目の前の中年女性がようやく誰かわかった譲は、あからさまに驚いた顔をして、素っ頓狂な声をあげた。
「呆れたもんだね。母さんたら、無期懲役と終身刑の違いさえもわからないの?」
あわてふためく譲とは裏腹に、高貴は楽しそうにクスクス笑った。
それにつられたかのように、知世もクスクスと笑う。
「仕方ありませんよ、高貴さん。そういうことって基本的に学校では習ったりしませんし。まして、高校さえも出ていない譲さんではねえ…」
「なっ…⁈う、うるさいな、この人殺し!高貴も高貴だよ!なんでこの人がここにいるの?それ以前に、なんでこの人をわざわざここに連れてきたわけ?」
知世の言葉にカッとなったらしい譲は、高貴の腕を掴んで詰め寄ってきた。
「手土産のひとつは持っていく、って言ってただろう?忘れちゃった?」
高貴は掴んできた譲の手を振り払った。
「タチの悪い冗談はやめてくれないかな⁈お前ときたら、とんだ親不孝者だね!!」
「僕が親不孝?「長居家との繋がりは何がなんでも断ち切るな」って言いつけをまともに守れなかった母さんには言われたくないな。そんなだから、自分の兄貴に嫌われて、こんな部屋に追いやられてるんじゃないの?」
現在、この家やこの地一帯の切り盛りは譲の長兄が引き継いでいる。
この長兄と譲は、お世辞にも仲の良い兄弟とは言い難かった。
長兄がアルファ、譲がオメガという点でまったくの正反対、というのもあるが、何より兄弟間の溝を深めた原因は譲にあった。
長兄から言わせていただければ、譲は豪貴と番になった頃から、長居家との繋がりが強いことを鼻にかけるようになったのだという。
譲の5人の兄たちはもちろんのこと、譲から見れば甥や姪にあたる兄の子どもたち、父方と母方双方の叔父や叔母、従兄弟たち、使用人に至るまで、口を揃えてそう証言していた。
彼らに言わせれば、若い頃の譲は高慢で無神経で、目に余る言動が多々あったという。
曰く、都会のタワーマンションに住んでいることや、アルファの子どもが4人いることをしょっちゅう自慢していた。
曰く、ブランド物のバッグやら時計やらアクセサリーやらをこれ見よがしに身につけて帰省していた。
曰く、「こんな田舎で一生過ごすなんてありえない」と地元住民全体をバカにしていた。
などなど、挙げて貰えばキリがない。
それだけなら良いが、長居家と繋がりを持ったことで、譲の両親(高貴たちから見れば母方の祖父母にあたる)は決してこの末息子を咎めることはしなかった。
これが、譲をますます増長させてしまったのだろう。
歳を取ってから「今までの行い」が原因で配偶者から離婚を切り出されたり、親類や友人から縁を切られ、急激に孤立する人は多い。
譲はまさに、この典型と言えた。
大貴が逮捕されて以降、少し前まで協力関係にあった愛人2号3号とその子どもたちとも、すっかり縁が切れてしまっていた。
譲にずっと味方してくれていた両親だって、譲が50を過ぎるか過ぎないかの瀬戸際で亡くなっている。
今の譲は、完全なる四面楚歌状態であった。
「兄さんたちだって兄さんたちだよ!自分がお父さまとお母さまに可愛がられてなかったからって私をひがんで、こんな嫌がらせして!!」
譲の悪態は止まらない。
──こんなのが僕の母親なのか…
そのあまりの見苦しさに、高貴は譲から目を逸らした。
依存気質というのか、自分の生活を誰かに委ねるだけで自立しようとは微塵も思わない。
このみっともない有り様は、母方の祖母(つまり譲の母親)に似ていた。
祖母はいつでも夫の顔色を伺っていたし、自分の意見などまるでなかった。
それでも、祖母は度を越した失言はしなかったから、必要なときには口を閉じておくくらいの良識はあったのだろう。
この最低限の良識が、なぜ末の息子にあたる譲に受け継がれなかったのか。
亡き祖母の写真を見るたび、高貴は嘆かわしく思った。
「ふふ、譲さんたら、あの頃からちっともお変わりないご様子で…」
目の前でヒステリックに喚き散らす譲のことも、隣でウンザリした様子でいる高貴のことも、まるで意に介さない様子で知世は優雅に笑った。
「嫌がらせも何も、衣食住に不自由は無いんでしょ?それだけでもありがたいと思いなよ」
目を逸らしたまま、高貴は譲をたしなめた。
「うるさい!こんな嫌がらせするために来たっていうなら、もう帰ってくれないかな⁈」
「わかったよ。じゃ、知世さん。母さんのこと、よろしく頼むよ」
高貴は知世に向かって手をひらひらと振ると、部屋を出て行こうとした。
「かしこまりました」
知世が高貴に向かって、浅くお辞儀した。
「何ワケのわからないこと言ってるの?知世さんも帰ってくれる?」
譲が知世に詰め寄った。
「あ、それなんだけどね、母さん。知世さん、ここの使用人として働くことにしたから。もう伯父さんにも話をつけてあるんだよね」
「そういうことです、譲さん。これから、よろしくお願いしますね」
知世がペコリと軽く会釈した。
「は?ちょっと待って!どういうこと⁈」
「知世さん、ここの使用人として働くことになったんだよ」
高貴はさっきと同じセリフを繰り返した。
「僕ね、知世さんが刑務所入ってる間、よく面会に行ってたんだ。で、知世さんが刑務所出たあとの働き口探してるって言うし、母さんも身の回りの世話してくれる人がいたら助かるだろうと思ってさ。だから僕が伯父さんと話つけて、ここに住み込みで働く許可もらったんだよ」
「そんな…使用人なんか、ほかに当てがいくらでもあるだろう。なんでよりにもよって知世さん⁈」
「知世さんは母さんと違って生活能力があるからね。掃除も炊事も洗濯もしっかりできるよ。ここで使用人やるには、それで充分さ。ていうか母さん、前々からずっと文句ばっかりだね?電話口でさ、ここの使用人ときたら、部屋の掃除も洗濯もろくにしてくれないもんだから、汚れだとかホコリだとかで居心地悪くてイヤになっちゃう!って泣き言垂れてたのはどこの誰だったっけ?それで掃除や洗濯してくれる人を連れてきたらきたで文句言うの?」
「高貴、お前…」
謀ったな!と抗議しようにも、譲は何も言えなかった。
「ねえ、まだ何かある?」
高貴の口の両端が、にゅっと釣り上がった。
「…知世さんも知世さんだよ。元本妻が愛人のところで使用人するなんて、頭がおかしいんじゃないの?」
譲の不満の矛先が、今度は知世に向かって行った。
「あら、子どもが産めなかった私ですもの。せめてこれぐらいは役に立とうかと思いまして…」
「え?」
「私、あなたに言われたことを今も覚えてるんですよ。「子ども産まなくても本妻ってだけで大きい顔できるんだから羨ましい」とか「知世さんはまだなの?私はポンポンできて困っちゃう」「もうこれで5人目だよ」なーんて…」
知世はクスクス笑いながら話すが、その目の奥は少しも笑っていなかった。
「そんな昔のことを今も覚えていたなんて、これほど義理堅い人もいないよねえ。実にありがたいことじゃないか。じゃあ、僕はもう失礼するよ」
皮肉混じりな言葉を吐き捨てて、高貴は部屋の外に出た。
「ちょっと、待ってよ高貴!」
知世の様子に恐怖を抱いた譲は、高貴の肩を掴んで制止した。
「悪いけど、僕は忙しいんだよ。母さんと違って仕事してるんだからね。今日だって、従業員に無理言ってここに来たんだよ?」
掴んできた譲の手を振り払って、高貴はその場から去っていった。
「待って!待ってよ高貴!!」
悲鳴にも近い母親の訴えが、高貴の背後で響く。
ただでさえ狭い部屋に追いやられて惨めで苦しくて辛いのに、自分を憎んでいる対象と四六時中屋根の下とあっては、心穏やかではいられまい。
──それにしても、母さんの要らんこと言いは昔からだったんだなあ…
高貴は、またしても母親の頭の弱さに呆れてしまった。
高貴たちが物心ついた頃から、譲にはこういうところがあった。
デリカシーが無いというのか、悪意無く失言するのだ。
悪意なく、というところがポイントである。
悪意あってのことなら是正のしようもあるが、譲にはそれができない。
この無神経で自覚なく傲慢なところは、祖父から引き継いだのだろう。
祖父も譲と同じく、持ち前の傲慢さとデリカシーのなさが原因で周囲の人たちに嫌われていたし、高貴もあまり好きではなかった。
そのせいだろうか、彼は晩年には脳卒中を起こして入院し、しばらく経ってから病院内で息を引き取ったが、その間に見舞いに訪れる者はひとりもいなかったという。
姉の聡美や妹の英美が譲を嫌う理由は、自立心が微塵も無く、他人に何かと依存するという気質もあるが、いちばんの理由はこの無神経ぶりであった。
ちなみに聡美は、「結婚も出産もしないで仕事だけしていたい、なんてワガママだよ」「女のアルファって可愛くない人が多いよね」などと心ないことを言われたことがきっかけで独立を考えたそうだ。
聡美本人から指摘されても、これらの発言のどこがどう問題なのか、譲はいまだに理解できないらしい。
こんな調子だから、知らず知らずのうちに本妻の怒りを買って、結果としてあんな事件に発展したのだ。
言ってみれば、事件の引き金を引いたのは豪貴の放蕩三昧もあるが、もうひとつは譲のこの無神経ぶりであった。
譲に、ほんの少しの慎重さがあったら、あんな事件は起きなかったし、豪貴が番にしていた数多くのオメガやその子どもたちは路頭に迷うこともなかった。
また、事件現場となったタワーマンションの管理をしていた総之介は、「事故物件の運営」というはずれクジを掴まずに済んだし、大貴が起こした揉め事の後始末もやらずに済んだ。
高貴から見れば腹違いの弟にあたる円は、重いトラウマを背負うことになった。
彼の母親の拓美から、円は思春期にさしかかった頃から、顔に水滴が付くのを嫌がっていたと聞いている。
事件当時、飛び散った父親の血液が頬についたことが原因なのだそうだ。
事件が起きたときに譲か、もしくは他のオメガの誰かが勇気を出して円を連れ出したなら、こんなことにはならずに済んだかもしれない。
しかし、譲にそんな度胸は無い。
要は臆病なのだ。
その一方で、強い立場の人間には従順そのもので、それが豪貴に気に入られたポイントでもあったのだけど、それは貴一郎の愛人になった後では何の効果もなかった。
貴一郎は、従順さだけが取り柄の人間を優遇するほど暗愚ではなかったのだ。
譲の全盛期は、あまりにも短かかった。
自立心がなく、依存気質で無神経で臆病。
それが高貴から見た譲の評価であった。
──まったく、あのバカ母。とんだ疫病神だな…
高貴は疫病神に背を向けて、もう来ることは無いであろう土地に別れを告げた。
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