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事件後のマンション

母方の実家に来てから数日後の午前中。 高貴は右手に大きな紙袋を下げて、拘置所の面会室に向かっていた。 「やあ、久しぶりだね。大貴兄さん、シャバの空気は恋しいかい?」 高貴はパイプ椅子に腰掛けて、アクリル板の向こうに座っている自分の兄に呼びかけた。 「…うるせえよバカ」 大貴が目尻を吊り上げ、歯を剥き出して睨みつけてくる。 「はいはい、そんな般若みたいな顔しないの。せっかくのイケメンが台無しだよー」 高貴は「ああウンザリ」という顔をして、わがままを言う2歳児を宥めるような声を出した。 「ほーら、差し入れだよ。たくさん持ってきたからねー」 高貴は持ってきた紙袋を肩の高さまで上げた。 紙袋の中にはTシャツにカットソー、ジャケットやカーディガン、ジーンズやチノパン、下着や靴下などの衣類がたくさん入っている。 大貴の逮捕直後、マンションの後始末をしてくれた総之介が渡してきた大貴の私物だ。 事件発覚から数日後に、総之介が高貴の営む店にやってきて、話す機会があった。 総之介曰く、大貴に貸した最上階の部屋は異常なほどに散らかっていて、とても人の住めるような状態ではなかったらしい。 ブランド物の靴や服、大貴の番たちが使っていた化粧品やアクセサリー、手垢がついてベタベタになった子どものおもちゃなどが散乱していて足の踏み場もなく、総之介が雇った清掃業者は土足で室内に上がって、すべてを片付けてくれたという。 この部屋は広いウォークインクローゼットや背の高いシューズボックス、ロフトなんかが備えられていたが、それらはまるで活かされていなかったようだ。 こんな、廃屋に住んでいるのと何ら変わらない無理な暮らしにやりきれなくなり、子どもを連れて逃げ出した番もいたらしい。 部屋によっては、糞尿が一面に撒き散らされている場所もあり、その処理がなかなか大変であったと総之介は愚痴をこぼしていた。 総之介曰く、空腹などで泣き喚く子どもたちをここに閉じ込めていたのだろうとの見解であった。 これについては、高貴も同意した。 自分の父親の豪貴も、お気に入りの番と事に及ぶ際、子どもたちを別室に移動させて鍵をかけていた。 そうなるとトイレに行けないから、ときどき失禁することもあった。 父親ゆずりの放蕩ぶりを発揮している大貴がこれと同じことをしたとて、大して疑問には思わない。 もっとも、豪貴にはそれを後で処理するくらいの育児能力と衛生観念はあったが。 部屋がこんな有り様では、普通の清掃業者の手には負えない。 特殊清掃を呼ぶハメになり、その出費もすさまじかった上、今回のことでまた人が寄り付かなくなり、賃料を下げても果たして次の住人が入ってくるかどうかわからない。 「泣きっ面に蜂とはこのことだよ。本当にいい加減にしてくれよな」 高貴が淹れたアイスコーヒーを飲みながら、総之介はひっきりなしに嘆いていた。 「大丈夫だよ伯父さん。どんなことがあったって、身の丈に合わない家に住みたがる見栄っ張りはいつの時代にもワンサカいるんだから。あと、わざわざ事故物件に住みたがる物好きとかも世の中にはいるんじゃない?」 落ち込んでいる総之介に、高貴はこんなことを言って慰めた。 高貴のこの見解は当たりだった。 すでに事件から3ヶ月ほど経過しているが、「見学がしたい」「空き部屋はあるか」と何件か問い合わせが来たそうだ。 もっとも、豪貴と大貴が住んでいたタワーマンションは駅が近く、周辺はコンビニエンスストアやスーパーマーケット、ショッピングセンターがいくつもあり、保育園に幼稚園、小学校も近いから、単なる見栄や好奇心というより、子育てのしやすさからこのマンションを選んだ可能性もある。 事件の煽りを受けて賃料も下がっているから、「住むなら今だ」との判断もあるのかもしれない。 「そりゃあ、そうだけどなあ。今度は廊下にゴミ捨てねえヤツが来てくれることを祈るだかりだわ」 総之介は氷が溶けて結露したグラスを、節くれだった手で拭った。 「敏幸(としゆき)さんのメンタルにも関わってくるんだもんね」 「…まあな」 敏幸というのは、総之介の番であり、妻の名前だ。 オカルト作家をしており、現在は事件現場となったタワーマンションの1室に住んでいる。 彼は事故物件とわかった上であのマンションに引っ越してきた変わり者だが、総之介曰く「お行儀はいい」そうだ。 出会いは敏幸が「あの事件について知りたい」と取材してきたことに始まり、そこからしばらく交流していくうちに番となった。 子どもはアルファの息子が2人とベータの娘が1人で合計3人、孫は4人いて、もうすぐ5人目が産まれるそうだ。 「敏幸さんたちは元気?お腹の赤ちゃんの具合はどう?順調かい?」 「ああ、おかげさまで。このまま順調に育てば、再来月には生まれるよ」 総之介がにっこり笑うと、厳格なマンションのオーナーの顔が、孫を溺愛するお祖父ちゃんの顔に切り替わった。

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