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魔法使いはひたすら笑う
大貴のところへ面会に来てから数日後。
今日の仕事を全て終えた高貴は、自分の家に帰ってきた。
店から数十メートル程度離れた位置にある築20年の3階建てマンションの一室で、広さは約10畳。
駅からは結構な距離があるものの、めったに遠出することがない高貴には、それは大した痛手ではなかった。
「あー、ただいまあ…」
誰がいるわけでもない部屋でひとり、高貴は帰りの挨拶をすると、疲れた体を引きずりながら冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫のボトルポケットにはミネラルウォーターと無色透明の液体が入った酒瓶があり、高貴はそこからミネラルウォーターの入ったペットボトルを引っ張り出すと、冷蔵庫を閉めた。
棚から取り出したグラスにミネラルウォーターを注ぎ入れると、トクトクトク…と小気味の良い音が鳴り、高貴の疲れた体を少しばかりながら癒してくれる。
ペットボトルを置き、グラスの水を飲み干せば、冷たい水が喉から胃まで一気に流れ込み、疲れで火照った高貴の体を冷やす。
──これはもう、捨てた方がいいのかなあ
空になったグラスを片手に、高貴はもう一度冷蔵庫を開けた。
高貴が言う「これ」というのは、ボトルポケットに入っている酒瓶のことだ。
この酒瓶の中身はスピリタスである。
アルコール度数は96度。
現時点で、世界最高の純度を誇る酒として知られ、そのアルコールの純度ゆえに、タバコの火程度の小さな火でも火事に発展してしまう。
スピリタスが体に付着していたことに気づかないままタバコを吸おうとしたところ、そこから発火してしまって大火傷を負った事例も存在するほどの、危険な代物だ。
ためしに高貴は、ミネラルウォーターをグラスに半分注ぎ、スピリタスを1口分入れて、それを飲んでみた。
「ごほっ…うえっ…」
飲んだスピリタスはわずかだというのに、舌が痺れるような感覚がして、高貴は思わず咳き込んでえずいた。
「何度飲んでもやっぱりムリだなあ、コレ…」
これは水やジュースなどと割らずにそのまま飲用すれば、口内を刺すような痛みと凄まじい焦熱感に襲われると聞く。
──これじゃあ、貴彦が死ぬのは当然だよねえ
15年前、高貴が貴彦に飲ませたのはこれだった。
ドラ息子たち4人が仙次に説教されているそのスキに、高貴は焼酎のボトルにこれを入れ、中身をそっくりそのまま入れ変えたのだ。
酒に慣れておらず、その前にもワインやビール、シードルなんかを飲んでいた貴彦がこんなものを飲めば、無事で済むはずもない。
あっという間に倒れて寝込んでしまい、そのまま意識を手放して死亡してしまった。
状況が状況だから、真っ先に疑われたのはともに飲んでいた大貴と雄盛、陽太だったし、証拠となるスピリタスはすでに貴彦の胃の中におさまってしまったため、高貴は今日まで疑われることなく、のうのうと過ごせた。
──女に盛って強姦 するつもりでいたのに、まさか自分に盛られるとは思ってなかったんだろうな、あのバカども…
そもそも、なぜスピリタスがあの部屋の冷蔵庫にあったのかといえば、大貴たち4人は居合わせた女性にこれを飲ませて泥酔させ、その上で悪事を働こうと考えていたのだ。
それで自分が死ぬことになるなどとは微塵も考えず、早々にあの世へ旅立った弟のバカさ加減に、高貴はクスクス笑った。
──お前と大貴が悪いんだよ?僕の平穏な生活を乱そうとするから…
高貴はミネラルウォーターで口直ししながら、26年前のことを思い出した。
人間は10歳を越えるようになってくると、自分の置かれた環境や、他人と自分との違いにいやでも気がついてくる。
高貴だって例外ではなかった。
両親に明確な婚姻関係はなく、父親は大勢のオメガを番にして囲っているという状況の異常さに、いい加減気づき始めていた。
おかげで、周囲からは「愛人の子」などと不名誉なあだ名をつけられ、この上で大貴と貴彦のような素行の悪い身内がいるとあって、当時の高貴の肩身は狭かった。
ろくに働きもせず多くのオメガを番にして囲っている父親、そんな父親に依存しきって生きている母親と愛人たち、生まれつきアルファであったという、ただそれだけで学校で横柄に振る舞う兄と弟。
高貴は齢10歳にして、自分の置かれた立場にウンザリしていた。
身内にろくでなしが一人でもいると、周囲からはそれと同等に扱われる傾向が強いし、何らかの割りを食らうことだってある。
学校で大貴や貴彦に何らかの危害を加えられた他の生徒や教師が、その意趣返しと言わんばかりにきつく当たってきたり、代わりに謝罪を要求されたこともある。
しかし、何より高貴をイラつかせたものは、父親の豪貴の有り様だった。
いつだったか、学校から帰ってきた高貴に、豪貴はこんなことを言ってのけた。
「お前もおっ勃つようになったかあ?」
酒臭い息を吐きながら、豪喜はニヤけた。
その汚らしい笑顔と無神経な言い草に、高貴は酷い胸焼けと吐き気を覚えた。
「やだもう、豪貴さんったら!」
母親の譲が、クスクス笑いながら豪貴に抱きつく。
そんな2人に背を向けて、高貴は逃げるように自室に向かった。
母親があんな風に甘えた猫撫で声を出すのは、決まってこれから事に及ぶときだった。
思春期の少年にとって、親の営みほど目に入れたくないものはない。
──マジで殺してやりてえ…
高貴の心に、親に対する殺意が芽生えたのは、まさにこのときだった。
同時に、正妻の知世との交流が始まったのも、この頃である。
兄や弟に代わって他人から怒りを向けられることがしょっちゅうだった高貴は、他人の感情を読み取るのが得意だった。
大人並みの損得勘定も覚えつつあった。
そのため、知世が譲を含めた愛人たちを快く思っていないこともすぐに悟ったし、豪貴が知世の弟の俊介 に情欲を抱いていることも気づいていた。
そうなってくると、近いうちに豪貴が知世の弟を番にすることが予測できたため、それを暗に知世に教えてやったのだ。
十人並の容姿ながら名門大学出身の知世に対して、俊介は美形ながら知性に乏しい。
その対照的な個性が、2人の仲を悪くしていた。
高貴はこの2人の仲の悪さを大いに利用して、在宅時間はもちろん、常に鍵をかけていないこと、大貴はしょっちゅう学校をズル休みして家にいることなども口に出した。
精神的に不安定なところがあり、常日頃から豪貴に強い怒りを持ち、弟の俊介に並々ならぬ嫉妬を抱いていた知世が行動に移さないわけがない。
そして、高貴の思惑通りに知世は目障りな父親を殺してくれた。
もっとも、高貴にとって計算外のことがいくつもあったのだけど。
高貴の予想では、知世はその場にいた大貴も殺してくれるはずだったが、逃げ足だけはやたらと速い大貴は難を逃れた。
おまけに、そこには日頃から可愛がっていた腹違いの弟の円もいた。
したがって、高貴の殺害計画は失敗とも成功とも言えない中途半端な結果に終わった。
父親が死んだ途端、母親は大きな顔ができなくなり、豪貴の実家で縮こまるような生活を送ることとなった。
豪貴は子どもたちが悪さをしても決して叱ることのない男だったが、豪貴の実家の年嵩連中は躾が厳しかったため、大貴と貴彦は、以前ほど学校で横柄に振る舞わなくなった。
この2点においては、成功と断言できる。
おかげで高貴は、幾分か過ごしやすくなり、聡美と英美もこの状況を喜んだ。
──円には、悪いことしちゃったな…
しかし、弟の円に深いトラウマを残してしまったことには、どうにも胸が痛くなる。
──まあ、今の円にはいい人がいるし、大貴は刑務所から出られなくなったし、僕も平穏に過ごせるんだし…もういいか
さっき感じた胸の痛みなど忘れて、高貴はまたミネラルウォーターを飲んだ。
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