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第3話

第七章 コブラと呼ばれる女  「ライラ様の話が本当なら、早く手を打たないといけませんね」  コブラは魔王城の長い廊下を歩きながら言った。ルイナの王女は海辺のモンスターが出る町をいくつか通ってから国に帰るらしい。彼女を見送り、タイムはライラが言ったことを思い出していた。 「ああ。でもどうやって助ける?テレサスの民は納得しないだろうな。今でさえ、俺が難民支援に金を割いてるのを批判してる」 「あなたがこれまで、国民の機嫌を取ろうとしたことなんてありましたか?」  コブラは言い、タイムは苦笑した。 「場合によっては、ルイナとの全面戦争になるかもしれない」 「その準備はできています」 そうか、とタイムは言った。その顔には緊張が見てとれた。彼はいつも緊張しているな、とコブラは思った。 「スパイをルイナに送ることができればいいんだけど」 「そもそも、王女が嘘をついている可能性は?」 「ない。前に難民キャンプに行ったけど、太陽族はひどい状態でこっちに来てる」  この人はいつも他人の心配ばかりしているな、とコブラは考えた。それが彼のいいところではある。彼にとって、自分に関係ないことは一つもないのだ。そして、コブラにとっての問題も、「関係ないこと」ではなかったのだ、と思う。  コブラの本名はサムヌア村のタムといった。だが本名で彼女を呼ぶ人は昔からほとんどいなかった。彼女が幼かった時、周りの人間は皆彼女に微笑むように言った。少女はそうするべきだと。だが、武功をあげて故郷に帰ってきた時、「笑え」と言う人間は誰もいなかった。彼女はもう村の人たちを信用しなかった。人は簡単に手のひらを返すことを知ってしまったからだ。  タイムが三百年前に封印された魔王を覚醒させた後、テレサスの国は混乱に見舞われた。新都市は軍の施設ごと地中に陥没してめちゃくちゃになり、伝説上の存在でしかなかったモンスターが跋扈し始めた。新都市にあった軍の上層部はほとんどが謎の雷に打たれて死に、生き残った者たちが魔王城に集まった。「四天王」と呼ばれる中将クラスの四人が大広間に集められ、魔王となったタイムに対峙した。 「軍は今後、魔王の支配下に置かれる。テレサス軍はそのまま魔王軍となる」  眼鏡をかけた中将のうちの一人が言った。 「魔王、はやめてくれ」  タイムは言ったが、誰もそれに反応しなかった。 「誰かリーダーがいる。大将クラスは全員死んだからな、魔王のせいで。ああ、『前の』魔王か」  髭の紫陽族の男が言った。 「将軍ってところか?この中から選ぶしかないな」  赤毛の太陽族の男が手を挙げて言った。壁に背を預けた女……コブラは腕を組んで黙っていた。 「魔術師の下で動くのは気味が悪い。何をするかわかんねえぞ」  髭の男が人差し指を挙げながら言った。 「この中で」  タイムが口を開いた。 「この中で一番強い者を将軍とする」  ふん、と赤毛の男は思わず失笑した。誰も手を挙げなかった。コブラが首を傾げると、ゆったりと結った黒髪が揺れた。  しばらく誰も何も言わなかった。それから、コブラが手を挙げた。 「この中では私が一番強い」  タイムはテーブルから顔を上げた。 「みんな私の強さに理由をつけたがるし、何か重いものを背負わせたがる。でも、私がここまで来たのは、単純に強かったからです」  コブラは筋書きを読むような調子で言った。 「この女に騙されるな。何人殺したと思う」 「そういうことですよ。彼も数百人を殺してる。なぜ私だけが糾弾されるのか?私が女だからです」 「馬鹿言うな」 「醜いね」  タイムは首を傾げて言った。 「あなた方が内輪揉めをするタイプには見えなかった」  コブラは肩をすくめた。 「そもそも、この男は偉そうに言える立場なのか?」  髭の男が言った。 「そうだ」  眼鏡の男が同調した。 「我々に指図できるほど潔白ではないでしょう。私は知ってるんだ。アカデミーで、この男が紫陽族の男と一緒にいたのを」 「それは本当か?」 「ああ、二人は恋仲だったらしい」  タイムは唇を噛んだ。そのせいで、自分が潔白じゃないなんて言われる覚えはない。だが、思考とは裏腹に身体は言うことを聞かなかった。タイムの額を冷や汗が流れ、手が震え始めた。  コブラはテーブルの横を移動して、タイムのところに行った。そして震える手を取った。 「お言葉ですが、ラス」  コブラはタイムの手を握ったまま、足を組んでいる髭の男に尋ねた。 「あなたの足はどうしたんでしたっけ?」  全員が彼の足元を見た。ズボンの裾から見える男の足は木でできた義足になっていた。 「戦争でやられた。だが、あなたに説明する責任は俺にはない」 「同じことですよ」  コブラはテーブルの向こうの男たちを見渡した。 「彼がそのことについてあなたがたに説明する責任は、どこにもない」  コブラは深い色の瞳で、タイムをじっと見た。その目に見つめられていると、タイムの手の震えが落ち着いてきた。 「こんな凝り固まった連中にあなたのことを伝える必要はありません、タイム」  タイムは茶色の目で彼女を見つめ返した。彼は昔からこの人のことを知っていたような気がした。 「陛下、騙されるな」  ラスと呼ばれた髭の男が言った。 「私たち二人なら、きっとどこにでも行ける。私たちは強いから。初めから、強かったから」  コブラはタイムの手にもう片方の手を重ねた。 「コブラ、君の本当の名前は何?」  タイムはコブラの手から指を離して、言った。もうその手は震えていなかった。 「サムヌア村のタム」 「俺と似てる」  タイムは少し笑ったが、その表情は一介の青年のものだった。少なくともコブラにはそう見えた。 「サムヌア村のタム、通称コブラ、あなたを正式に将軍とする」  コブラの人生はその時、初めて意味を持った。  実際、人々は彼女の強さに理由をつけようとした。  村の子供向けの大会で他の子供を全員打ち負かした時、誰も何も言わなかった。彼女が一番強い人間であることを、誰も祝福しなかった。いつしか村の伝説にちなんで、タムはコブラと呼ばれるようになった。  村では刺繍が盛んだった。それを生業としている者がたくさんいた。村の女の子は将来の結婚相手に渡すための刺繍を小さい頃から製作するのが常だった。  だが、コブラは刺繍に興味がなく、彼女が唯一得意だったのは、戦うことだった。いつしか彼女を本名で呼ぶ人間はいなくなった。  アカデミーに入ったのは彼女にとって救いだった。誰もが彼女をコブラと呼んだが、強ければ誰も彼女を非難しなかった。  戦いがあり、その武勲を証明する旗をコブラは故郷に持って帰ったが、その意味を理解する者はいなかった。 「お母さん、そういうのは分からないわ」  母は言った。 「ああ、すごいんじゃないか?」  父は言った。  両親が健在なのはいいことだ。コブラはそう思おうとした。新都市へと戻る前に、母は綺麗に刺繍がされた布を彼女に渡した。 「タムちゃんは刺繍ができないから、お母さんのをあげるね」  コブラはそれを持って帰った。赤い布には鮮やかな刺繍が施されていた。それは解けない呪いだった。コブラはそれを地面に叩きつけた。その上に水がぽろぽろと落ちて、彼女は自分が泣いていることに気がついた。  誇りに思われたかった。それだけだった。他の子どもと同じように。どうしてそれが叶わないのだろう。 「落としてしまったのかい」  その時、通りがかった男がコブラに声をかけた。 「これくらいの汚れなら、すぐに取れるよ」  男は布を拾って彼女に差し出した。  彼女が魔王軍の将軍となった日、タイムと彼女は長い長い話をした。シズの話も、その時に聞いた。翌朝、タイムが自分の部屋と決めた質素な場所のドアを開けて、コブラは赤い布を差し出した。 「これ」  タイムは困惑しながらそれを受け取った。 「綺麗な刺繍だな。これは……あなたの出身地のものか?」 「これは証明です。あなたも私も間違っていないという証明。これをあなたの大切な方にお渡しください。その時まで、私があなたをお護り致します」  コブラにはもう帰るところがなかった。タイムもそうだった。彼はもう小さな村には帰らないと決めているらしかった。  コブラは「大切な人に渡してくれ」とタイムに布を託したが、自分にとって大切な人には渡さなかった。その必要はなかったからだ。  布を地面から拾った男は名前をナギと言った。彼はアカデミーの「頂上決戦」を見に来ていて、コブラの名前を聞くと目を輝かせていた。というのも、近くで子供を収容している施設で働いていて、アカデミーからの寄付品をもらいに来たついでに観戦したらしい。  じゃあ、と施設を訪れたコブラが見たものは、彼女が今まで叩き込まれてきたものとは全く違っていた。弱い者は強い者に食われる。紫陽族や太陽族の強さを超えるために、誰よりも強くならなければ、というのが彼女の中に作られた信念だった。ナギと施設の子供はそれをみんな壊してしまった。 「この子は無愛想だが刺繍が得意で、一日中夢中になっている」  せっせと布とにらめっこしている男児に視線を向けてナギは言った。 「刺繍?女がするものだ」 「この作品を見ればわかる」  そこには物語が丸ごと刺繍によって語られていた。コブラも聞いたことがある伝説が、一本一本の糸の集合によって表されていた。 「……すごい」 「ね?女とか男とか関係ないって分かるだろ」  ナギは快活に笑った。 「彼らが将来、病を治す薬を作ったり、機械を作ったりするかもしれない。でも、それだけじゃない。今は分からなくても、もっともっと後の世代になって、我々は真理を手に入れるかもしれない」  力の弱い者、小さい者を守っているとき、守られているのは単に彼らの身体だけではない……我々の未来を守っているのだ。  コブラはそのことをタイムを見るたびに思い出すのだった。  コブラとナギが婚約したのは、ナギが布を拾ってから数か月後のことだった。ほどなくしてコブラは中将となった。 「昇進おめでとう。君の能力なら当然のことだ、コブラ……いや、タム」  背の低い太陽族のアカデミーの学長はビールのジョッキを傾けた。それに応えると、コブラは早速食事に手を付けた。 「まだトップじゃない。それに、まだ全ての能力を活かしているわけじゃない。私が男だったらもっと速く昇進したはずだ」 「君は充分うまくやっている。人の金で食う飯はうまいかね、コブラの旦那さんよ」 「彼の名前はナギだ。コブラの旦那ではない」  彼女は訂正した。 「君の施設はどうだ?」 「うち一つでは足りない。隣国からの太陽族の移民は増えるばっかりだ。一体何が行われている?」 「その話だが、先日太陽族の子どもがアカデミーに入学した。隣国で数百人の兵士を殺したらしい。一人で」  コブラは東洋風の焼き飯を頬張りながら目を見張った。 「少年兵か?なぜ私にその話を?」 「一般市民だ。レジスタンスの正式なメンバーですらない。自分の身と仲間を守るためだ。君を思い出した」 「なぜ」 「入学した時の君と同じ目をしていたからさ」 「へえ」  あまり昔の話を思い出したくないコブラはスープを啜った。 「太陽族の収容施設の幹部を殴り殺そうとして、追放処分になりそうだったところを、アカデミーに入らせたんだ。幸い、うちには寄付金がたくさん入っているからね」 「その子、字は読めるんです?」 「今勉強しているところだ。賢い子だから、勉強も戦術も覚えがいい。すぐに君に並ぶ伝説になるだろう……パルフは」  コブラとタイムが隣国についての話をしている時、ナギは保安官に尋問されていた。 「もう解放してくれませんか。子どもたちが待っているんですが」  根が真面目なナギは丁寧な口調を崩さなかったが、内心は早く終わらないかな……などと考えていた。シーゲートに来るべきではなかったかもしれない。モンスターが出て以来、保安官たちは魔術の取り締まりを強化しているらしい。文書をこちらの施設に届けに来たというだけで、怪しまれた。こちらの施設では魔術ができる子どもにそれを教えているだめだ。 「もうそれぐらいにしてやったらどうだ、おっさん」  横から紫陽族の男が口を挟み、ナギは一歩下がった。 「なんだ、お前たち……シズの一行か?」 「さすが、俺って名が知れてる」  シズは後ろのスタンにニヤリと笑いかけたが、スタンは固い表情のままだった。 「あんたの顔は知ってる。正義面してるけど、人殺しだろ」 「あぁ?何言ってんだコノヤロ」 「お前じゃない、そこの戦士気取りに言ってるんだ」  壮年の保安官の男はパルフを指差した。 「人を指差したらいけませんよ」  ナギが丁寧に注意した。 「言いたいことはそれだけか」  パルフは何の感情もない声で言った。 「おいてめえ、俺の仲間を侮辱してただで済むと思ってんのか」 「やめろ、シズ。どうせ無駄だ」 「タイムもあんたも、いつもそうやって言わせておくだけなのか?ありえねえ」 「勇者よ」  保安官がシズに言い、彼は「オエッ」と抗議の声を上げた。 「次に保安局の目に留まるようなことをすれば、後はないと思え」  両者は睨み合って、背を向けたら襲われると思ってでもいるように後ずさりをしながら遠ざかった。 「ふう、ああいう空気、苦手なんだよな」  スタンが額の汗をぬぐって言った。 「次の目的地は?」 「『ザ・マスタープラン』によれば、ジャバウォックが出るセント・マイケル教会」  スタンは本をめくりながら答えた。 「そういえば、『ザ・ゴールデン・パス』って言うからには、王の宝物の中にはゴールドが入ってるのかな?」 「誰も、封印する前に王の宝物を開けたことはないらしい。中身は分からないままだ。伝説ができて、みんなが巡礼するようになって、道が整備された」 「どんな願いでも叶えてくれるんだっけ」  彼らは歩き出そうとして、後ろにナギがいたことを思い出した。彼らは振り返って、ナギが大丈夫かどうか確認した。 「助けてくれてありがとう。私はナギ。君たちはどこへ向かうんだい?」 「俺はシズ、この二人はパルフとスタンだ。次はセント・マイケル村に向かう。腕試しの途中でね、モンスターを何体もやっつけてるんだ」  スタンは不満げにシズのほうを見たが、彼は気にしないふりをした。 「じゃあ、私はシーゲートに寄ってから、旧都のほうに戻るよ。気をつけて」  ナギは馬に乗ると、高らかに駆けていった。 「感じのいい人だったな」 「うん。道、間違えてると思うけど」  三人は迷子未遂を救うべく馬が駆けていった方向にダッシュした。  数日後、コブラとナギの居間で二人はお互いの早い帰りを喜んだ。もっとも、コブラのほうは魔王城と家を行き来しただけだが。 「シーゲートに書簡を届けに行く道中に妙な輩に絡まれてね。保安官らしいんだけど。そうしたら、勇者の一行に助けられた」 「珍しいな。ナギは別に弱そうには見えないのに」 「君ほど強いわけじゃないからな。それに軍が退去してシーゲートも治安が悪くなってる」 コブラは首を傾げてみせた。 「私の上司のせいだって?」 「そうじゃない。とにかく、そのパーティも変だったんだ。たった三人のパーティで、そのうち一人は子供だったから、実質二人だ」 「へえ」 「腕試しだと言ってた。モンスターを次々と倒してるらしい」 コブラはすっと目を細めた。 「その中に紫陽族の男はいたか?」 「ああ、紫陽族の男が一人と、太陽族の背の高い女性と子供が一人ずつ。姉弟らしかった」 コブラは息を呑んだ。もしかして。 「……その紫陽族の男、顔に火傷跡はあったか?」 「頬に傷みたいなのはあったな。よく見てないけど」 「ダーリン、悪いけど、今から城に行かないといけない」 「えっ?今帰ってきたところじゃないか」 「その一行に会ったのはシーゲートの近くだったな?タイムに伝えないと。今すぐ」 コブラはコートに腕を通しながら言った。  「タイム様!……何をしてるんです?」 「さ、逆立ち、の練習」  タイムの簡素な部屋のドアをバンと開けたコブラは、逆さまになっている上司を見つけて目を白黒させた。 「君みたいに……身体能力が良くなったらいいな、とか思って」  タイムは遊んでいるところを咎められた子供のように、起き上がって顔を伏せながら手を払った。 「その話は後で。夫がシズらしき人物と遭遇しました」  相手ははっと息を呑んだ。 「彼は太陽族の姉弟と一緒にいるらしい。姉のほうは、前に学長と食事をした時に聞いたアカデミーの生徒と特徴が一致します。彼らはシーゲートでモンスターを倒していたらしい」 「本当か」 「誰もあなたに嘘なんてつきません」 「だとしたら……」  どうすればいい。ここからシーゲートまでは、かなりある。それに、シズたちは既に移動しているかもしれない。  彼に会う方法を、タイムは知っているはずだった。  彼は魔王城の図書室に向かい、いくつか本を手に取ってそれをめくった。 第八章 We Have the Power (Reprise) ルイナ 午後2時40分  彼女はレンガ造りの建物の間を必死で走っていた。じきに勅令軍の追手が来るだろう。髪にスカーフを巻いていても、太陽族らしい明るい肌の色は隠せない。はあ、はあ、と自分の声がいやに響く。走ったりするような年齢ではないからだ。でも走らなければ自分の命はない。彼らは冷酷に太陽族を追ってくる。女も子供もだ。収容所に入れられれば、何をされるか分からないというのは聞いている。収容所から戻った者はいない。そういうことだ。遠くで人の叫び声が複数する。矢が風を切る音もする。どうか私に当たりませんように。彼女は祈って、それから離れ離れになった息子を思い出した。彼は今、どうしているのだろう。きっと大きくなっているだろう。あの子はレジスタンスの手に託すしかなかった。私と姉とでは守ってやれないから。無事にテレサスに行ったのだろうか。それとも途中で殺されただろうか。建物の陰から様子を伺うと、通りの向こうで家から出てきた太陽族の男女が連行されるのが見えた。思わず身を隠し、泣き出しそうになるのを堪える。は、と小さく息をついて、別の方向に走り出す。すると行き止まりに突き当たった。戻らなければ。  呻き声が聞こえた。痛みに耐えるような声だ。ちらりとその方向を見ると、兵士らしき紫陽族の男が座り込んでいるのが見えた。足を矢にやられたらしく、出血していた。その腕にはマークがあるのが見えた。勅令軍だ。男の呻く声と速い息はどんどん大きくなる。彼女は男の恐怖を感じ取る。どうすればいい。  息子も、大きくなっていればあれくらいの年だろうか。いや、もっと幼いだろうか。彼女は考えた、というよりも、判断した、という方が近い。さっと建物の陰から出て、男に近寄る。スカーフを取って、兵士の太腿に巻き、止血する。声を上げようとする男に、しい、と人差し指を唇に当てて制止する。それから、さっと身を引いて、逃げる……逃げようとした。 「そこまでだ」  いつの間にか後ろに立っていた紫陽族の兵士が言った。 「敵の命を助けようとしたのは、血も涙もない太陽族には珍しい行為だが……あなたを見逃すわけにはいかない。この町の太陽族は連行する。来なさい」  彼女は声を上げて逃げようとしたが、腕を強く掴まれる。気づくと四方を兵士に取り囲まれている。  と、ゴン、と音がしたと思うと腕を掴んでいた兵士が倒れた。周りの兵士が何事かと辺りを見渡すが、次々と倒れていく。少し経って、そこに立っていたのは太陽族の女性と紫陽族の男性だった。彼らの服の袖には蝶の刺繍があった。 「レジスタンス」  彼女は思わず声を出した。実在しているとは。勅令軍の暴挙を止めるために、レジスタンスという組織が暗躍していると聞いたことがある。蝶の刺繍がその目印だという。 「パルフがいればこんなの一瞬だったのにな」  太陽族の女性が頭を掻きながら言う。 「あの子のことはもう忘れろ」  紫陽族の男性が、倒れた兵士たちを引きずって壁に寄せながら言った。 「あなた、名前は?あなたはもう安全です。テレサスに行くんだよ。早く、町の端で馬車が待ってる」  太陽族の女性に手を引かれ、彼女はかさかさになった喉から声を発した。 「イライザ。私の名前はイライザ」 テレサス 午後2時40分  ジャバウォックは古代の民話にも登場する怪物で、人の悪夢を餌にしている。悪夢というのはこの場合、思い出したくない記憶のことだ。身体は薄橙のうろこに覆われ、角があり、小さなドラゴンのような形をして宙に浮いている。それはセント・マイケル教会の地下墓地におり、人々の奥底にある仕舞っておきたい思い出を互いに見せてくる。その隙に攻撃をしかけてくるのだ。しかし、ジャバウォックそのものではなく、精神攻撃にやられてそのまま殺し合いになり、地下墓地の一部となった冒険者は多い。  「ジャバウォックか。正直、怖いな」 「あんたにも怖いとかいう感情あるんだ」  スタンが平坦な声で言った。セント・マイケル村にあるその名もセント・マイケル教会は荘厳なロマネスク建築で、石壁の重々しさが辺りに不穏な空気を醸し出していた。 「だって精神攻撃してくるんだろ?何してくるかわかんねえし」  「パルフ!」  その声に三人は振り返った。東洋人らしいヒューマンの青年が仲間らしきグループを引き連れてこっちに向かっていた。 「元気だったか、ヤン」  彼の姿を認めてパルフは珍しく微笑んだ。短髪に涼やかな切れ長の目をした勇者らしき青年は、さわやかな笑顔を一行に向けた。 「スタン!久しぶりだな」 「会えてよかった」  スタンは思わぬところで会った知り合いに駆け寄った。 「そっちは……友達?」 「同僚です」  スタンはすぐに訂正した。 「もしかして……シズ!噂は聞いてます」 「噂?」 「手ひどく振られたんでしょう?魔王……タイムに」 「は?」 「違いましたか?」 「ちょっと待て、なんで戦術学校の生徒が俺たちのことを知ってるんだ」 「同じアカデミーだからですよ。あなたはギフトのメンバーだったし、告白はみんなが聞いてたし、何よりあなたは人気者だった」 「まあな」 「そこは否定するとかなんとかしろよ」 スタンが横から口を挟んだ。 「パルフ、あんたも知ってたのか?」 「一応。でも私がそんなことに興味あると思うか?」  シズは首を振った。この場合、それが都合のいいことなのかどうか、もう分からなかった。このヤンという男も、後ろにいる彼のパーティも、恐らくアカデミー出身者なら全員噂を知っている、というわけ。 「あなたにとって喜ばしいことかどうかは分かりませんけど、みんな知ってましたからね。二人が付き合ってたことも」  ヤンは悪気がなさそうに快活でよく通る声で言った。後ろでパーティのメンバーたちがひそひそと話している。 「それがどうして、こんなことになったのか」 「俺たち、殺されかけたんだ」  ヤンは眉を顰めた。 「……殺されかけた?」 「ああ。軍の奴らにな」  シズはギフトのメンバーが旧都に招待されたこと、それは軍の陰謀で、彼らが殺されかけたところをタイムが魔王を復活させることで救ったこと、を説明した。 「そんなことが」  ヤンと彼のパーティのメンバーは言葉に詰まっていた。 「パルフたちもジャバウォックに挑戦しに行くのかい?」 「ああ、腕試しだな」  スタンがシズを小突いたが、彼は無視した。 「腕試しをするには危険すぎる相手だ。共倒れになる可能性もある。我々は賞金のために来ているんだが……もしかして、他に理由があるのでは?」  ヤンは目を細めた。この男の目の奥には得体の知れないところがある、とシズは思ったが、得意の笑顔を纏って取り繕った。 「俺たちもそんなところだよ。お互い、いい結果になるといいな」    ジャバウォックに先に挑むのはシズたちになった。教会の扉に続く階段を上がりながら、彼はパルフに話しかけた。 「普通だったな」 「何がだ」 「あんたとヤンの関係だよ」  パルフは首を傾げた。 「ヤンは私をいつも評価してくれてる」 「そうじゃない。忘れたわけじゃないだろ?アカデミアの戦術学校、頂上決戦さ」 シズは言った。  アカデミアの戦術学校の「頂上決戦」。卒業前に、「最強」と呼ばれる生徒同士が「殺す以外は何でもあり」の戦闘をする。かつてはコブラも行った試合だ。「戦術学校最強」と呼ばれていたパルフと、「二番手」に甘んじていたヤンとの試合はアカデミーの誰もが見たがった。賭けが認められており、毎年かなりの額が賭けられるのが常だった。 「俺は見てたんだ、あんたが激昂して、ヤンを何度も殴ってレフェリーに止められるところ」  パルフの名は魔術学校の中でも有名だった。正体不明のルイナ人。一人で何千人も殺したとかいう噂がある太陽族の女。その試合をシズも見に行った。  審判が合図すると、二人は間合いを詰めながら近距離戦を始めた。除けるのも上手いので、どちらの拳も当たらない。パルフがヤンの足元をキックで狙うが、それも躱される。速すぎて、素人の目には見えないのではないかと思うほどの動きだった。しばらく手に汗握る戦いが続いていたが、ヤンがふとパルフに何かを耳打ちした。  次の瞬間、パルフはヤンを地面に転がすと、その上に馬乗りになった。ヤンの顔を一度、二度殴る。レフェリーが笛を吹いたが、パルフは止まらなかった。 「感情をコントロールできなくなるなんて、あんたらしくない。何があった?」  ギャラリーがざわめいた。パルフの表情はシズのいたところからは見えなかったが、何かに取り憑かれたように彼女はヤンを殴り続けていた。 「それは、言えない」  パルフはいつもの冷静な声で言った。 「それより早くジャバウォックを片付けよう。魔導書を奴から奪ってしまえば、ヤンはすることがなくなるな」  パルフはトントンとシズの肩を叩くと、重い扉を開けた。教会の中は謎の煙に包まれていた。 「パルフ、スタン。離れるな」  シズはせき込みながら言った。しばらくして、煙が晴れた。 「どこだ、ここ」  シズがいるのは森の中だった。他の二人はどこに行ったのか。それとも……これはジャバウォックが見せている幻影の中なのか。  馬のひづめの音がする。馬車か。シズはとりあえず見つからないように木の陰に隠れた。馬車が近づいてくる。紫陽族の軍人らしい御者が乗っている。トン、とその男の首に矢が刺さり、男が倒れた。 「え」  シズはその唐突さに思わず声を上げた。馬がいなないて暴れる。木の上からさっと誰かが飛び降りた……パルフだ。長い髪をひとまとめにしている。馬を落ち着かせて、倒れた御者が死んでいるか確認をし、荷台に向かう。さっと荷台にかぶさった布を取ると、そこには何人もの人がすし詰めになっていた。太陽族だ。 「もう大丈夫だ」  パルフは一人一人に声をかけて、荷台から降ろす。太陽族……女性や子供もいる……は憔悴した様子で一方向に向かっていく。  死んでいたはずの御者が立ち上がり、パルフを後ろから攻撃しようとした。 「危ない」  シズは思わず声を上げそうになった。だが、パルフは後ろから羽交い絞めにされたにも関わらず、相手の足をすくい、地面に倒して、腰から短刀を取り出すと一気に首を掻き切った。太陽族の女性が怯えた声を上げる。 「大丈夫だ」  パルフは返り血を浴びた顔で淡々と言った。急に、ぐにゃぐにゃと目の前の景色が歪む。煙がまた出てくる。  それが晴れたと思ったら、今度は開けた道にいた。読みが正しければ、これはジャバウォックの「食べている」幻覚だ。そして、これはパルフの記憶ということになる。  向こうからまた馬車がやってくる……シズは道の端に寄ったが、身を隠すところはどこにもない。今度はヒューマンの御者だ。身に着けているのは確か……ルイナの王家の紋章だ。  茂みから何か獣のようなものが飛び出して、御者を襲った。彼の首が掻き切られて辺りに血が飛び散る。パルフだ。速すぎて見えないが、確かにこの容赦のなさと冷静さは彼女の動きだ。馬車が止まり、後ろにはやはり太陽族が乗っている。 「パルフ」  茂みから太陽族の女性が出てきた。 「乗って。誰かがみんなを安全に導かないといけない」  彼女の服の袖には蝶の形をした刺繍がついていた。パルフは頷き、荷台に乗る。茂みからヒューマンの男性が出てきて、御者台に座る。彼の服にもまた蝶の刺繍が入っていた。 「途中まで行って、また戻ってきてくれればいいから」  太陽族の女性はパルフの血の付いた手を握って、念を押すように言った。馬車が走り出す。そこで、シズは自分の中に感情がいきなり流れ込んできたことに気づいた……怒り、焦り、そういったものが満ちあふれてくる。これはパルフの感情なのか?  しばらく走ったところで、彼女は気づく。この馬車はテレサスまで向かっているのだと。「途中」などない。あの女性は彼女を裏切った……いや、裏切ったのはパルフだ。彼女はレジスタンスの人間を失望させた。だからこの馬車は向かっているのだ……国境へと。 「降ろしてくれ」  パルフは御者に向かって叫んだ。だが彼はこちらを少し振り返って微笑んだだけで、止まらなかった。 「まだ助けないといけない人がたくさんいる」 「パルフ」  御者は困ったように笑った。 「君がこのカオスから抜け出して、教育を受けるのは、レジスタンスのみんなの願いなんだ。君はこんなところにいるべきじゃない」 「私の仲間が無残な目に遭ってるのを、のうのうと見ていろっていうのか?」 「頼む、パルフ。とにかく君はテレサスに行くんだ。いいね?」  目の前がまた歪んでいく。煙が立ち込める。  次に気がついた時には、シズは施設の中にいた。 「あれ、スタンじゃん」  シズは部屋の中にスタンの姿を認めた。先程までの光景を考えると、知っている人間を見るのはなんだか安心できる気がした。  部屋の中にいたのはスタンだけではなかった。髭を生やした壮年の太陽族の男がいた。 「……だから私が言うように、ここでうまくやっていくには色々としなければいけないことがある。通過儀礼というやつだね。君にはお父さんがいなかったから、そういうことを教えてくれる人がいなかったようだけど」 「はい」 「なぜ私が君を呼び出したか知っているかい?君は今のところ、とてもうまくやっているからだよ」  男はスタンの頭を撫でた。 「スタン、そいつから離れろ。今すぐ」  シズは叫んだが、彼の声はスタンには届いていないらしかった。 「もっとうまくやろうと思ったら、いろんな大人の言うことを聞かなければいけない」  スタンは大真面目に頷いた。男は座っているスタンに近づいた。 「例えば、こんな風に」  彼はさらに近づいた。 「え?」 「君はいい子だね、スタン」 「はい」 「いい子だから、君はできるよね?」 「何を」  スタンが聞き終わらないうちに、男が壁まで吹っ飛んだ。パルフが後ろから殴ったのだ。 「姉ちゃん?」  パルフは男に馬乗りになり、黙ったまま頭を殴り続けた。彼の口内が切れて出血しても、構う様子はなかった。 「姉ちゃん、やめてよ!オレがたった今話してた相手をぶん殴るわけ?」 「こいつはお前に近づくべきじゃなかった」  パルフはそう言っただけで、彼を殴り続けた。 「何かが起こる前で良かった」  そのうち施設の大人が二、三人部屋に入ってきて、一心不乱に男を殴り続けるパルフを急いで止めた。  また目の前が歪み、次に気づいた時には、部屋の中にいた。重厚な石造りで、この場所をシズも知っている……アカデミーの学長室だ。 「彼女を入学させようなんて正気じゃない。施設長が子どもに暴行しようとしていたのは別として……何人殺したのか、ご存じですか?レジスタンスの話じゃ数百人はくだらない」  パルフは手を血まみれにさせたままソファに座っていた。向かいには男が二人、座っている。一人は背の低い太陽族、アカデミーの学長だ。 「それは彼女の同胞の連行を止めるためだろう。ルイナの王は既に何千人もの太陽族を収容させているらしいからな。もしかすると、コブラを超える存在になるかもしれない。正しく教育を受けられれば、の話だが」  どうやらパルフの処遇が決められようとしているらしい。二人はまるでこの部屋に本人がいないように話していた。そんな話し方はやめろ、とシズは思う。 「ごちゃごちゃうるさい。必要な措置を取ってくれ」  パルフは身を乗り出して言った。 「君には教育を受ける権利がある、パルフ」  学長は彼女を制止して言った。 「私は君の動きを見ていて、あることを学んだ。世の中には他人を蹴落そうとする人間もいるが、他人が立ち上がれるために奔走する人間もいる、ということだ。パルフ、ルイナでの太陽族の処遇は、私も心配しているところだ」 「心配?彼らはどんどん殺されていってる、私はこんなところにいるべきじゃない」 「パルフ、彼らをより多く助けるためには、君がここに留まることが必要なんだ。今まで、君に起こったことは非常に残念だと思う。君がしなければいけなかったことも。だが、大事なのはこれからだ。君が、これから助けられる人たちのことを考えてくれ」  また視界が歪む。ワアッと人の声が聞こえてくる……歓声だ。この光景はシズも見たことがある。「頂上決戦」の時だ。 「ヤン」  パルフは向かいに立っている男に話しかけた。 「彼は……アングスは、何と言っていた?」  その瞬間、パルフの記憶がシズの中に流れ込んできた。ヤンについての記憶だ。  戦術学校での訓練があった。パルフを仮想敵として、他の生徒たちがアジトに乗り込む、というものだ。土色の戦闘服を身に着け、口をスカーフで覆った生徒たちがレンガの壁沿いを伝ってアジトに近づく。ハンドサインを出し合い、弓やナイフといった思い思いの武器を構えて、一列になって入り口から中に入る。  一人目。矢を持った男が入ると、パルフに持ち手を取られて壁に投げ飛ばされた。二人目。ナイフを持った男はパルフに近づこうとし、軽いナイフさばきと共に近距離戦に突入するが、一瞬のうちにナイフを奪われて壁に押し付けられる。その後ろから三人目がパルフを羽交い絞めにする。頭突きを受けて、彼(彼女?)は逡巡する。その隙にナイフを突きつけて、床に伏せさせる。四人目が入り口から入り込む。彼だか彼女だかの矢が壁に刺さる。訓練用の矢だから先には木の実が付いている。パルフは四人目の足を払って、床に倒れさせる。  立っている者はパルフのほかにいなくなった。床に転がっている四人目がスカーフを取って笑った。ヤンだ。 「君は速すぎる」  パルフは笑わなかった。 「実戦なら全員死んでいるぞ」  後から入ってきた教官が部屋の中の光景を見て溜息をついた。 「ヤン、笑ってる場合じゃないぞ」 「はい」  一風変わっていたパルフは戦術学校でもその強さのために「浮く」ことが多かったが、ヤンは何かと彼女を尊敬して、気遣ってくれた。彼は誰にでも親切で、快活で、リーダーとしてふさわしい人間に見えた。  そんな彼の意外な一面をパルフが見たのは、ある夕方のことだった。彼女はたまたまヒューマン用の寮の裏側を通り、スタンのいる収容所のほうに行こうとしていた。呻き声が聞こえて、パルフはさっと木陰に隠れてそちらを見た。紫陽族の男が、ヒューマンの男の腹を殴っていた。げほ、と彼は声を上げた。 「静かにしろよ」  紫陽族の男は腕を振り上げたが、その腕が降ろされることはなかった。パルフが後ろから手首を掴んでいたからだ。 「やめろ」 「何だ?お前」  パルフは殴られていたヒューマンの男を見た。 「ヤンじゃないか」  パルフが知る限り誰よりも強い男がなぜ、細身ですぐ倒せそうな紫陽族の男に殴られているのか、彼女には分からなかった。 「悪いけど、邪魔。これはちょっとした痴話喧嘩ってやつだから。安心して」  紫陽族の男は言って、しっしっとパルフを追い払おうとした。 「誰だ?こいつは。知り合いか?何でヤンはこんなことをされてる?」  ヤンは言いにくそうに口を開いた。  「俺の彼氏だよ」  ヤンが男性と付き合っているというのはパルフも噂に聞いていた。 「私の知っている限り人は恋人を殴ったりしないものだが」 「俺たちの間のことは分からなくていいんだよ」  紫陽族の男が言い、ヤンの腰に手を回してにっこりと微笑んだ。 「だから悪いけど、今日は二人にしてくれる?」  パルフは心配そうな顔をしたが、ヤンは硬い表情で「大丈夫」と頷いた。 「『大丈夫』、じゃないでしょー、ヤンったら真面目だね」  相手の男はヤンの短い前髪をいじりながら言った。  パルフは一旦その場を立ち去ったが、思えばヤンは一度、目の周りを殴られたように青黒くして訓練に出たことがあった。恋人の男……アングスはヤンより身長も低く、魔術学校の人間だったが、パルフにはよくわからない力でヤンをコントロールしているようだった。 「なんであの男から離れない?」  目元に殴られたような痕をつけてきたヤンに一度、パルフは聞いたことがある。 「離れるとかいう次元じゃないんだ、俺たち」  ヤンは困ったように笑ってそう言っただけだった。  『頂上決戦』当日。パルフとヤンは互角の戦いを続けていたが、ヤンの一言によってパルフは逆上し、レフェリーに止められても彼を殴り続けた。 「もしかして」  一部始終の光景を再び眺めていたシズは思い当ることがあり、呟いた。 「八百長か」  それが発生しているという噂は数年前からあった。頂上決戦への賭けがヒートアップしていく中で、事前に結果が決まっていく、というものだ。 「あんたはヤンを守ろうとしたんだな」    「アングスは君が勝つ方に賭けた」  ヤンはあの時、パルフにそう囁いた。その声は悲痛に聞こえた。思えば、なぜか彼の動きは本調子ではなかった。戦っているうちに感じていたことだ。その時、彼女の中で、何かがパチンと弾けた。  気づくと思考にまかせて彼を殴り続けていた。 「殺す」  彼女はそう呟いた。これが終わったら、絶対にあの男を殺す。ヤンに不正をさせてしまった男を。理不尽を彼に課している男を。  そして実際彼女はそうした……殺しはしなかったが。決戦が終わった後、医務室にいたヤンは頭に包帯を巻かれてベッドに座っていた。パルフはよろよろとそこに近づいた。 「もうあんたは心配しなくていい」  パルフは掠れた声で彼に言った。その拳は血まみれだった。ヤンはベッドのそばに立ったパルフにしがみ付き、啜り泣いた。 「俺のために」 「あんたは自分の生きたいように生きる権利がある。あの男に支配されることは、もうない」  バチンと音がして、シズはよろめいた。視界には石壁が映る……ジャバウォックの教会に戻ってきたのだ。 「パルフ!」  シズは立ちすくんでいる彼女に話しかけた。話しかけようとした。パルフはナイフを出し、シズに切りつけようとした。 「うわ、何」 「見たのか?」  すんでのところでパルフの攻撃を避けると、シズは相手が混乱状態にあることに気づいた。こっちが仲間であることも認識していないらしい。 「見たのか」  パルフはもう一度そう言い、ナイフを振るった。ヒュン、と刃が風を切る音がする。シズはパルフがいつもそうするように相手の足元を崩そうとしたが、力量の差は明らかだった。ナイフでは届かないと判断したと見え、パルフはナイフを落として拳を繰り出してくる。  シズはそれを避けきれず、まともにパルフのパンチを食らい、壁に叩きつけられた。ぐえ、と彼は呻く。 「あんたの悪夢が何でできてるか、分かったよ」  彼は混乱状態にある相手を落ち着かせようとして、言った。 「理不尽をふるってくる人間に対する怒りでできてるんだな」  パルフはこっちを見たが、その目は虚ろだった。 「一番に力の犠牲になるのは子供だ。私がどれだけ強くなっても見逃してしまう…あいつらは止められないんだ」  スタンのことを言っているのか。シズはどうにか立ち上がったが、パルフは全身から殺気を出しながら近づいてくる。このままでは殺される。どうすればいい? 「言葉のあやはナシだ」  シズが自分に言い聞かせる前に、拳が飛んできた。すんでのところでそれを避けると、バキ、と音がして彼女の手が石壁にめり込んだ。この細い体のどこからその力が出ているのか分からないが、今はそんなことを考えている場合ではない。シズはパルフの頬に手を添えた。その額に、自分の額をつける。 「救えなかった人間のことは今は考えるな……あんたが!救った人のことを考えろ!」  うう、と混乱状態のパルフは呻いた。 「何人もの命が助かって、テレサスに来て、教育を受けられてるんだ……あんたは無力なんかじゃない。今だって、魔導書を集めて伝説の謎を解くことで何万人もの人間を救えるかもしれない。俺たちには、力がある」  シズは手から青い光を出して、パルフの両手首に向かって放ち、バチンと音をさせて拘束した。彼女は腕を動かそうとするが、青い光がまとわりついていて離れない。 「俺たちは無力なんかじゃない」 「……シズ?」  パルフの目からすうっと虚ろさが消えた。シズはパッと魔法を解き、彼女の腕を自由にしたが、反動でパンチを顔面に食らって壁まで吹っ飛んだ。 「いってえ……」 「シズ!すまない」  パルフはそこまで駆け寄り、シズの頭に手を添えた。 「スタンは?」 「あそこだ」  シズは教会の端で座り込んでいるスタンを指差した。 「ジャバウォックを倒さないと」  グオオと唸り声がしたが、それは地下から聞こえているようだった。 「地下だ」  シズとパルフは走って階段のあるところを目指した。   ふと、シズはあることに気づいた。パルフの記憶には、途中からしかスタンが登場していない。彼はパルフとスタンを交互に指差して、二人に尋ねた。 「もしかして、あんた達は本当の姉弟じゃないのか?」 「今ごろ気づいたのか?そもそも私たちの訛りは違うしな」  パルフはなんでもない表情で言ったが、シズは今まで信じてきたものがガラガラと崩れる気がした。 「他人に興味がなくて悪かったよ」  地下室は暗く、墓地のようになっていて、乱雑に人骨が散らばっていた。 「気味が悪いな」  もしかしたらこの中には、ジャバウォックが見せた幻覚のせいで仲間割れを起こしたというパーティの骨も入っているのかもしれない、とシズは思った。その数は一つや二つではないだろう。あんなに鮮烈に「悪夢」を見せてくるんだから。 「いたぞ」  二人はジャバウォックを地下室の端に追い詰めた。 「飛び回るから的が当てにくいな」 「シズ」  彼は手から青い光を出し、いくつか円を作った。それを階段のように使い、パルフがジャバウォックに近づく。相手はかなり速い。パルフを落とさないように細心の注意を払いながらシズは魔術でできた円盤をコントロールする。パルフがジャバウォックの背に乗り、ナイフが一閃した。ジャバウォックは大きくうねり、咆哮を上げて暴れる。パルフがその頭を殴り、首元をナイフで掻き切った。鮮血がはじけるように流れ、ジャバウォックが地面に落ちる。彼がゆっくりと倒れ、その姿がすうっと消えて、後には魔導書のかけらが落ちていた。 「よっしゃ」  シズはパルフを空中から戻すと、拳を握った。 「戻るぞ」  パルフは魔導書を拾い、階段を駆け上がった。  スタンは隅に座り込んだまま小さく震えていた。 「スタン。大丈夫か」 「姉ちゃん」  彼は小さい子のようにパルフが差し出した手につかまり、ゆっくりと立ち上がった。 「ジャバウォック、怖かったな」  シズが言ったが、スタンは何も答えなかった。  教会から出ると、外でヤンの一行が待っていた。 「悪い。ジャバウォック、倒して消しちゃった」 「ええ?」  ヤンと彼のパーティの人間は狼狽えていたが、シズはにっこりと笑って手を振った。  「次のモンスターはなんだっけ?そろそろ終わりじゃないか」  宿で彼はスタンに聞いたが、相手はぼうっとしていた。 「スタン」 「え?ああ」  彼は辞典をめくっていたが、その手が止まった。 「もうやめたら?」 「え?」  シズは相手の言っていることが分からず、聞き返した。 「俺たち二人って、結局あんたのせん妄に付き合わされてるだけじゃない?」 「何言ってんだ、スタン。もうすぐ魔導書を全部集められるんじゃないか」 「それだって伝説でしょ。魔王を王座から解放するなんて、ホントにそうなるわけ?」 「そうなってる。実際ここまで魔導書を集めてきたじゃないか」 「魔王に固執してるけど、やっぱり、魔王はあんたのことなんて忘れてるんじゃ……」 「そんなことない!スタン、お前ジャバウォックにやられてからおかしいよ」  シズは焦って言った。そして彼が大きな教会の隅で震えていたことを思い出した。一体何を見た? 「どうしてそうじゃないって確信が持てるんだ?俺たちがあんたについていくのを決めたのは、こんなことのためじゃない。まあ、経験が積めて長続きしそうだったから、ってあんたにとっては理想じゃないだろうけど」 「……例えあいつが俺を忘れていても、俺にはしなくちゃいけないことがある」 「それが固執だって言ってるんだよ」  スタンはぼうっとした表情で言った。 「俺たち、今日は疲れてるんだよ。ひとまず寝てから考えようぜ」  ぶつくさ言うスタンを寝かしつけてから、シズは自分もベッドに潜り込んだ。 「シズ」  しばらく経ってから名前を呼ばれて、彼は目を開けた。確か自分は宿にいて寝ていたはずだ。隣にはスタンがいる。 「シズ、俺だ」  懐かしい声に彼はばっと身を起こした。 「タイム?」 「ナギからあんたの話を聞いて、居所をさぐったんだ」  見慣れた姿が目の前にはあった。タイムがそこに立っていた。 「そのクソダサ上着、支給されたのか?全然似合ってない」 「ありがと」  水色の上着を着たタイムは微笑んだ。シズは思わず彼を抱きしめようとしたが、腕は空を掴むだけだった。 「魔術で意識を飛ばしてるんだ。今、俺は魔王城にいる」 「そんなこと、できるのか」 「できた」  タイムは腕を広げてみせた。 「それで、意識が飛ばせるということは……」 「もしかして、俺と同じこと考えてる?」 「ああ」  タイムは微笑んで頷いた。 「じゃあ、やめとけ!」 「ルイナに行く」 「だからやめとけって。あんたは魔術の腕は一級かもしれないけど、スパイ活動に関しては素人だ」  はあ、とシズは大きくため息をついた。この男は、ルイナに意識を飛ばして何が起こっているのか調査する気だ。それが彼の持っていた目的とはいえ、敵地に侵入するのはあまりに危険に思えた。 「大丈夫だ」 「何がだよ。あんたって地味なくせにいつも無謀だよな」 「今度はひとりじゃないから」  タイムは笑ってそう言い、シズは面食らった。 「もう置いて行ったりしない」  タイムは触れないと分かっているにも関わらず、腕を伸ばしてシズの肩を持った。 「タイム」 「行くぞ、シズ」  彼の声に迷いはなかった。

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