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第2話
今日も相変わらず暑い。
昼も過ぎ、アパート入り口の掃き掃除をしていると背後から「すみません」と声がしたので振り返ると若い男が立っていた。
「すみません、コーポ宮永って、ここで合ってますよね?」
なんとも屈託無い笑顔で話しかけてきたこの若い男は、昨日姉が話していた例の二十歳の大学生だろうと予想がついた。
ーー綺麗な顔をしてるな、が第一印象だ。
若々しく張りがあるが、モヤシみたいに生っ白い肌だ。顔なんか手で覆うとすっぽり隠れちまいそうな小ささで、そのくせ目はパッチリと大きな二重ときてる。
声を聞いていたから、男と分かったが、黙っていたら男か女か悩んじまいそうな感じだ。
「ああ、そうだ。あんた、新しく入居する日向さんかな?」
「そうです。日向 瞬と申します。これからよろしくお願いします」
そう言うと青年は、礼儀正しく頭を下げた。
「俺は山浦 一豊、正確にはアパートの管理人は姉だが、雑用等は俺がやってるから、よろしく」
簡単に挨拶と自己紹介をすませ。
「とりあえず、本格的な入居は一週間後だろう。今日のところはアパート周りと部屋の中を少し見ていくかい?」
「はい、お願いします」
青年はいちいち、眩しいくらいの笑顔をこちらに向けて返事をする。それに引き換え、俺はどうにも元来から愛想というものが無いので、真顔でも不機嫌そうだと言われてしまう面相なもんだから、側からみたら、随分対照的な二人だなと思われるだろう。
「それにしてもあんた、若いのにこんな古臭いボロアパートじゃ嫌だろう。もうちょっと探せば、他にもっといいとこもあるだろうに」
このアパートは古く、全体的に煤けていて、薄暗い印象がする。階段や柵などの鉄部分はあちこち錆び付き、塗料は剥げている。
実際に他の住民は、年金で細々と暮らしている爺さん婆さんばかりで、家賃は他より多少安いのかもしれないが、自分が若ければ、もう少し高くても他を探すだろうって、場所だ。
「いいえ、僕は好きですよ。この趣きがある感じ、素敵だと思います」
趣きねぇ⋯⋯ 物は言いようだが、俺から言わせてもらえば、ただボロいだけだろう。
しかし、この青年は物腰は柔らかく、言葉遣いも相手を不快にさせないような、優しげなもので、いかにも好青年といったところか。もし俺がこんな態度をとれる男だったら、女房も出ていくことなどなかったのだろうか⋯⋯
そんなことを考えながら、入居予定の一○ニ号室の鍵を開け、扉を開けた。
中は実に質素なワンルームで、玄関右に流しと、コンロが置いてあるが、料理をするには狭すぎて、せいぜい湯を沸かすくらいしかできない。左側にはユニットバス。真正面には畳部屋があり、ガラス戸で仕切られた縁側もあるが、日当たりが悪いもんだから、昼でも薄暗い。
「狭い部屋だろう」
この部屋を見て、やっぱやめるなんて言い出すんじゃないだろうか。苦笑いしながら、そう話しかけると。
「でも、僕一人なんで、このくらいで丁度いいです」
「そうか、じゃあ、一週間後。入居でいいんだね」
「はい、よろしくお願いします」
本当に笑顔を絶やさない青年だ。ひとつひとつの仕草が無邪気で、歳より更に幼く感じるところがあるかと思えば、相手の気遣いはしっかりできていて、そんなところは、ひょっとしたら俺よりも大人らしいかもしれない。
「では、僕は宮永さんにもご挨拶していきますので、これで失礼致します」
性格はキッチリと頭を下げ、「今日はありがとうございました」と礼を述べてきた。
そして、向かいの本当の管理人である、姉の家へと向かって行った。
まぁ、感じは良さそうな青年だ。多分、トラブルなど起こさないだろう。 タチの悪そうな奴が来たらどうしたもんかとも思っていたが、とりあえず、一安心だな。
そう考えがまとまると、俺は、塀に立て掛けておいた箒を持ち、掃き掃除の続きに取り掛かった。
夕暮れ時になると、姉が夕飯のおかずをタッパーに詰めて持って来てくれた。
「姉さん、毎日昼飯も食わせてもらってんだから、夕飯くらいは自分で何とかするって」
「何言ってんの、あんた料理できないでしょ、スーパーのお弁当ばかりじゃ栄養も偏るし。それにね、夫婦二人じゃ、そんなに量も食べられないから、どうせ余らせちゃうから、丁度いいのよ」
姉はそう早口で言い終わると「ちょっと上がっていいかしら?」と訊ねてきたので「どうぞ」と部屋へ促した。
俺の部屋も、今日青年に案内した部屋とほとんど一緒の間取りで、中央に小さいちゃぶ台と壁際にテレビを置いてあるくらいだ。
姉はちゃぶ台におかずのタッパーを置いて、「それから瞬くんが挨拶に来てくれたときにくれたの、あんたにもどうぞって」と言いながら、手提げの紙袋から、いかにも手土産用といった箱を取り出し、中身のどら焼きを渡してくれた。
「瞬くんて、可愛くて良い子よねー。色々話し込んじゃったわ」
姉はちゃぶ台の向かい側に座わり。そう、嬉しそうに話してきた。
「それから、あんた結構瞬くんに気に入られたみたいね、色々聞かれたわよ」
「あっ?気に入られる様なことなんか何にもしちゃいないが、なに聞かれたんだよ」
「あんたもあのアパートに住んでいるんですかとか、お一人暮らしなんですかとか。まぁ、色々ね」
会ったときは別段、変わった感じはなかったと思ったが。
「余計なこと言わなかったよな?」
おしゃべりな姉のことだ、それにこの上機嫌さを見ると、なんでもかんでもベラベラと喋っていそうだ。
「いやねぇ、別に変なことなんて言って無いわよ。それより、瞬くんの入居楽しみね。ちゃんと面倒見てあげてね」
姉はそれだけ言い切ると、立ち上がり「じゃあ、帰るから。おかず残さずちゃんと食べるのよ」と言いながら、サッサと玄関を出て行ってしまった。
一人ちゃぶ台に座り込んでいた俺は
ーー気に入られた?あんな若い奴に?というか、どう気に入られたんだ?
なんてことを考えながら、流しに、姉の用意してくれた夕飯をたべる箸やらお茶を取りに向かった。
入居日当日、日向 瞬は手でキャリーケースを引きながら、大きめのリュックを背負い、再びコーポ宮永にやってきた。
「荷物はそれだけなのか?」
大荷物ではあるが、引越しの荷物としては随分少ない。まぁ、この狭い部屋では、荷物が多いとすぐにいっぱいになっちまうから、少ないに越したことはない。
「簡単に引越しの準備ができるように、必要最小限の荷物にしました。あんまり物が多いと大変になりそうなんで」
「その方がいいだろうな、これが部屋の鍵だから」
スボンのポケットから部屋の鍵を取り出し、青年に手渡しした。
「君の隣の一○一号室が俺の部屋だから、もし何かあったら、言ってくれ」
青年は受け取った鍵を少し見つめてから、俺の顔をジッと見てきた。それから、思い切った様子で「あの」と話しかけてきたので、何事だろうかと、俺の方もジッと相手の顔を見返して
いると。
「あなたのこと一豊さんって、名前で呼んでいいですか?」
予想外の言葉に少々面食らっていると、続けて
「僕のことも瞬って、呼び捨てで呼んでください」
「いや、どう呼んでもらっても構わんが、いきなり呼び捨てっていうのも⋯⋯」
「全然構いません、むしろ呼び捨てで呼んで欲しいんです」
柔らかに微笑みながら、そんなことを言ってくる。
別に頑固としてその申し出を拒否する理由も無いから「分かったよ、瞬」と返事をしておいたが、なんだか変に照れ臭くなり、頭を掻きながら少し目線を逸らしてしまった。
目線を戻し瞬の顔を見て見ると、頰が少し赤みを帯びている様に見え、実に幸せそうな笑顔をこちらに向けてくるので、俺は再び、目のやり場に困ってしまった。
「それじゃ荷物、部屋に片付けてきますから、これからどうぞよろしくお願いしますね、一豊さん」
そう言い残して、颯爽と部屋へと歩いていく瞬の後ろ姿を、多分俺は呆けた顔で眺めていた。
ふっと、姉の言っていた「気に入られたみたいね」という言葉を思い出した。
ーー俺の一体どこをどう気に入ったんだか。
どう見たって、ここに居るのは髪はボサボサで猫背のくたびれた爺さんだけだろうに。
「若い奴は分からんな」と首を傾げながら呟き、俺はアパートの庭の手入れに取りかかった。
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