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あなたと雨傘 ⑵

 ちょうど1週間後の同じような時間帯に、俺は再びこのカフェに訪れた。  からんからん。  入口の扉の軽やかな鈴の音と、店内に流れる静かなジャズが出迎えくれた。まだ2度目だというのに、不思議と落ち着いた。ざっと室内を見渡す。客数は多くも少なくもない。ファミレスのような騒がしさがないのがいい。  今日もアイスカフェオレを頼んだ。偶然にも、先週間違ってホットコーヒーを運んできた店員がオーダーを取ってくれた。彼女も俺の顔を覚えてくれていたようだ。 「先週は失礼いたしました」  彼女の方から声をかけてくれた。俺は首を横に振り、彼女を見上げた。 「また来ちゃいました」 「ありがとうございます。嬉しいです」  彼女は本当に嬉しそうに笑った。改めて彼女の名札を見る。  久我(くが)と書いてあった。  今後ここのカフェには世話になるかもしれない。彼女の顔と名前を頭に叩き込んだ。  今日は小説を持参してきた。カフェオレとともにひたすら読書に没頭し、気づけば1時間。丁度カフェオレも飲み干してしまった。  ...そろそろ店を出よう。  ページに栞をして席を立ち、伝票を持ってレジへと向かう。小銭を探していると、からんからん、と客の入店を知らせる鈴の音が鳴った。何気なく入ってきた客の顔を見た瞬間、思わず手が止まった。  見覚えのある彫り深い顔。色黒の肌。小綺麗なスーツ姿のその人は記憶に新しい、先週まさに隣に座っていた男だった。男も俺に気づき、驚いたように少しだけ瞳を大きくした。 「あれ?この間の....」  男も俺を覚えていたようだ。今度は俺から会釈をした。 「こんにちは。奇遇ですね」 「ほんとに。もう帰るんですね」  改めて聞いたその声は、思っていたより低い声だった。間近で見ると、少しばかり年上の雰囲気がある。頭1つ分ほど俺より身長が高かった。しっかりとネクタイを締め、シャツは糊がきいており、革靴も綺麗に磨きあげられていてとても清潔感がある。  そして、鞄を持つ左手の薬指には、指輪が光っていた。  ...よくできた奥さんに違いなかった。 「...はい。1時間も居座ってしまいました」 「ここ、つい長居しちゃいますよね」  その口ぶりからして、やはり彼はこのカフェの常連なのかもしれないと思った。だとしたら、またここで顔を合わせる可能性は高い。  「いらっしゃいませ」という声が聞こえ、久我さんが店の奥からこちらに向かってくる姿が目に入った。  俺は彼の左手に視線を落としながら、早口で別れを告げた。 「それではごゆっくり」 「うん、ありがとう。...また、会えたらいいですね」  信じ難いような言葉が降ってきたその瞬間。店内の心地よいジャズも、人の気配も、目の前の彼を除いたあらゆる存在が一瞬にして俺の意識から遠ざかる。目線を上げた時には、彼はもうこちらに背を向けていた。俺はただその場に立ち尽くし、呆然と男の背を目で追った。  久我さんが小さく手を振って彼を迎える。彼も手を挙げてそれに応え、親しげに会話を交えながら店の奥へと進んでいく。  ここの常連客であることは、もう間違いなかった。 「あのう...」  レジの店員の控えめな声で、我に返った。  周囲の環境音が意識の中に戻ってくる。鼓動が、乱れていた。1つ深呼吸して、呼吸を整える。  店員が、スタンプカードはお持ちですかと訊ねてきた。俺は即答した。 「作っていただけますか?」  ...もし、彼が言葉をかけてくれてなかったら。カードを作ることも、今後この店に訪れることも、なかったと思う。  俺は店員から受け取ったスタンプカードを眺め、静かに自嘲した。

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