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あなたと雨傘⑸
からんからん。
会計を済ませ、扉を開けた。雨のにおいがする。雨音は室内よりも一際大きく聞こえた。軒下から片手を外に出して雨粒を受ける。多分、これくらいなら大丈夫だ。大事な小説は万が一濡れることのないように、普段から持ち歩いているナイロン製のエコバックにあらかじめ包んでおいた。
「やあ。今帰り?」
さあ行こうと意気込んだその時、不意打ちに声をかけられた。ドキリとしたが、声の主はすぐにわかった。今ではすっかり聞き慣れた、彼の声だ。
声のした方に振り向くと、紺色の傘をさしたスーツ姿の彼が立っていた。雲間から太陽が顔をのぞかせたときみたいに、憂鬱だった胸のうちがぱぁっと晴れていくのがわかった。
「......こんにちは。今、帰るとこでした」
俺の様子に気づいたのか、彼は困ったように笑った。
「もしかして傘、忘れちゃった?」
「はい。家まで近いし、走って帰ろうと....」
「近いってどれくらい?」
「えーっと...5分ほど、でしょうか」
そう言うと彼は、腕時計を見て少しの間何か逡巡する。やがて俺に向き直ると、雨音に負けないくらいの声で、爽やかにこう言ったのだ。
「送るよ」
「え!?」
「だって濡れちゃうでしょ」
「いや、でもっ」
「送るくらいの余裕はあるから、時間のことなら気にしないで」
そうなのかもしれないけど...いやいや、そうじゃなくて。
俺がまごついていると、彼はハッとして罰の悪い顔を浮かべた。
「ああ、そうか、さすがに自宅は知られたくないよな」
「えっ」
「悪かった、無神経なことを言ってしまったね」
「いえ、...あの....っ!」
言葉にならない言葉が溢れる。彼の捲し立てるような口調に言葉が追いつかず、頭の中で大渋滞を起こしていた。
そんな中、傘の柄を持つ彼の左手が目に入った。今ではもはや無いことの方が当たり前なのだけれど、今日も指輪が付けられていないことに、心底ほっとしている。つくづく俺は愚かだ。
バッグの中の小説さえ濡れなければ、自分の身が雨に濡れたって構わない。
彼は好意で声をかけたくれたのだと思うけれど、仕事の合間の時間を奪ってしまうのは申し訳ない。
自宅である賃貸マンションがあるエリアは、複数の棟がある。部屋の前まで送ることはしないだろうし、住まいまで特定されることはないと思うが、彼の言うことは常識的で最もだと思う。
でも実際、そんなものは建前でしかないんだ。
できることなら、自分自身も濡れたくなんかない。すぐにシャワーを浴びなきゃだし、後片付けも面倒だから。
俺はあなたからの申し出が、とても嬉しかった。あなたの傘の中で、肩を並べて話ができると思ったから。
あなたは無神経だったと俺に詫びたけれど、そんなことはする必要はないんです。
だって俺は多分、あなたのことが少し気になっているから。
...俺はまだ名前も知らない彼に向かって、彼に聞こえないように口のなかで呟いていた。
黙り込む俺を前にいよいよ不安気な表情を浮かべ始めた彼に、俺は勇気を出して告げた。
「...お願い、できますか」
しとしとと、雨は降り続いている。この雨のおかげで、俺はこうして初めて彼とまともに会話ができた。そしてこれから、彼の傘の中で、もう少し話ができるのだ。
今朝の天気予報に感謝しながら、俺は彼を見据えた。
「もちろん」
紺色の傘の中。
雨雲を払拭するほどの彼の晴れやかな笑顔が、眩しかった。
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