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あなたと雨傘 ⑹
彼と並んで歩くのは初めてだった。せっかくの話せるチャンスだというのに、俺は始終緊張していてそれどころではなかった。せめて顔に出てしまわようにと、澄ました顔をしていたつもりだ。彼に話を振られる度に心臓が小さく飛び跳ねる。静かにしてくれと訴えるが、心臓は俺の言うことに耳を貸してはくれなかった。彼の顔を見れないまま、はたまた俯くでもなく、ただ無心で真っ直ぐ前を見て歩いた。話した内容は、正直しっかり覚えていない。...ついさっきまで浮き足立っていたはずなのに。それくらい余裕がなかったのだ。
それでも一つだけ、余裕のない心の僅かな隙間に詰め込んだものがある。
彼の名前だ。
「名前、聞いてもいいかな」
去り際に、彼が訊ねてきたのだ。鼓動が一気に早くなるのを感じながら、落ち着いて一呼吸置き、俺は答えた。
「...五十村です。五十村 凪人(いそむらなぎと)。俺も、名前聞いてもいいですか」
「夏木だよ。夏木 弦(なつき げん)」
「...夏木さん。なつき、さん」
やっと、あなたの名前を知れた。
それだけのことなのに、達成感で胸がいっぱいになり脱力しそうな感覚が襲った。
名前を呼ばれた夏木さんが、ふふ、と少し照れくさそうに笑った。
...こんな顔、するんだ。
初めて見る彼の表情になんだか感動してしまって、喉の奥が熱くなった。
店へと引き返す夏木さんの背中を見送る中、夏木さんの着ているスーツの右肩の辺りが濡れて色濃くなっていたことに気付いた。咄嗟に自分の左半身に触れてみる。ほとんど濡れていなかった。
夏木さんを追いかけようとして、右脚が一歩進んだ。
夏木さんの名前を呼ぼうとして、すっ、と短く息を吸い込んだ。
「........っ」
だが、続けて左足が踏み込まれることもなかったし、口から出たのは夏木さんの名前ではなく、音のない空気だった。
だんだんと雨脚が強くなってきた。
雨で霞む夏木さんの広くて背筋の伸びた後ろ姿を見つめる。
喉の奥が、また少し熱くなった。
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