28 / 37

第28話

 ◇  人の気配に気づいて、リュドラーは目を開けた。室内は深い藍色に染まっている。カーテンの隙間から差し込む月光が、かろうじて物の輪郭を浮かび上がらせていた。 「……」  気配はドアの外にある。息を殺して、リュドラーは深夜の訪問者の出方を待った。体は自然と折りたたまれて、どのような場合にも対処できるよう、神経が研ぎ澄まされる。  ドアノブが軽い音を立てて、扉が滑った。現れた人影に、リュドラーは虚を突かれて反応を忘れた。 「……起きていたのか」  ためらいがちに室内に滑り込んできたのは、トゥヒムだった。すらりとした体躯をやわらかなモスリンのスリーパー――男性用ネグリジェ――に包まれた姿が、淡い月光に包まれて闇夜から切り離されている。トゥヒムは慎重に扉を閉めると、足音を立てないように注意しながらベッドに近づいた。 「こんな時間に手燭も持たず部屋を出たのは、はじめてだ」  叱られることを覚悟した苦笑を、リュドラーはポカンと見つめる。どうしてここにトゥヒムがいるのか、まったくわからない。 「驚いているようだな、リュドラー」  警戒体勢のままのリュドラーに手を伸ばし、頬に触れたトゥヒムは痛ましそうに悲しげな目つきで言った。 「会いたかった」  瞬間、驚きの呪縛から解かれて、リュドラーはベッドから降りるとトゥヒムの前に片膝をついた。 「このような場所にわざわざお越しくださるとは思いもよらず、挨拶の遅れた非礼をお許しください」 「いい。それほど驚いた、ということだろう? 私も驚いている。自分にこれほどの行動力があるとは思わなかったな」 「……あの、トゥヒム様。なにゆえ、このような時間にいらっしゃったのですか」  うん、とトゥヒムははにかみ、視線を落とした。 「今宵なら、リュドラーのもとへ忍んでも大丈夫だと教えられたんだ」 「誰にです」 「ティティだ」  まばたきをして、リュドラーは眉をひそめた。 「なぜ、ティティがそのようなことをトゥヒム様に申したのです」 「会話をしたわけじゃない。その……、おまえが…………、いや、おまえを私が……、した、時に…………、こっそりとティティから紙片を渡されたんだ」  スリーパーを握りしめて真っ赤になったトゥヒムの姿に、リュドラーの腰のあたりがむずがゆくなった。それを無視して、リュドラーは問いを重ねた。 「その紙片には、なんと書いてあったのです?」 「今宵、フクロウが鳴く刻限に、部屋を忍び出てリュドラーのもとへ行け、と」 「フクロウの鳴く刻限?」  そういえば、夢うつつにフクロウの声を聞いた気がすると、リュドラーは記憶をたどる。 「どういう意味かはわからなかったのだが、習ったことをさらっておこうと本を読んでいたら、フクロウの声が聞こえてな。それで、部屋を出てみたんだ」 「なんと危ないことを……。俺たちがこの屋敷で、どういう立ち位置なのかはトゥヒム様もよくご承知のはず」 「わかっている。だが、会いたかったんだ。リュドラー……、おまえに」  両頬を繊細な指で包まれて、リュドラーの胸が熱くなった。それ以上はなにも言えず、リュドラーはただトゥヒムを見つめる。 「手紙には、部屋の場所も書いてあった。甘いと言われるだろうが、私はティティを信じることにした。……なにより、あの者に私をだます理由はない」 「ございます、トゥヒム様。あれは性奴隷です。奴隷制度を容認している王族や貴族たちを、恨みこそすれ慕うはずがございません」 「彼がいまだに性奴隷であるのは、暴動があっても解放をされなかった……、あるいは、そのほかに生きる道がないからではないのか。ならば私を恨む必要もないだろう。それに、ティティは私たちの元の身分を知らないのだろう?」 「トゥヒム様と私を密会させ、それをサヒサに知らせて追い出そうとしているのかもしれません」 「それで、なんの益がある? 手引きをしたものが自分だと、すぐにわかる可能性があるというのに」  リュドラーは口をつぐんだ。トゥヒムは顔をほころばせ、室内を見回す。 「ずいぶんと手狭な部屋を与えられたのだな。不自由はないか?」 「いえ。……使用人の部屋というものは、えてしてこの程度の広さです。ですので、俺の現在の境遇からすれば上等の扱いかと」 「ああ、そうか。……そうだったな。つい…………」  言いかけて、トゥヒムは口をつぐんだ。申し訳なさが、壁を見る横顔に浮かんでいる。リュドラーは眉を下げてほほえみ、立ち上がった。 「どうぞお座りください。とは言っても、イスは硬くていけません。クッションもないので、ベッドに」 「ああ、すまない」  こだわりなく腰かけたトゥヒムに出すお茶もなく、それを命じる相手もいない。そんな現状に、あらためて境遇の変化を思い知らされたリュドラーは、部屋の隅にある蜜酒に目を止めた。 (あれをお出しするわけにはいかない)  直接的な害意はないが、なにか意図があって置かれているのは明白だ。なにより、潤滑油と蜜酒はおなじ花の香りがした。  思い出し、身震いしたリュドラーの脳裏にティティの声が響く。 ――僕は屋敷の中を自由に歩き回れるからね。トゥヒムの部屋にだって、行こうと思えば行けるんだよ。 「トゥヒム様」 「なんだ、リュドラー」 「ティティは、トゥヒム様の部屋を訪れたことはございますか」 「ティティが? いいや、ない。なぜだ」 「いえ……、すこし気になったもので」 「そうか。――この部屋には、ティティが訪れるのか」 「いえ」 「……その、答えづらいだろうが、かまわないか」 「どんなことでも」  リュドラーは胸に手を当てた。トゥヒムは浅くうなずき、それでもためらいながら唇を動かした。 「ティータイムの時に……、おまえはその……、ずいぶんと乱れていた」 「さぞ見苦しく、不快に思われたことかと」 「いいや、そうじゃない」  トゥヒムは目じりを赤く染めた。ドキドキと心音が高くなる。うつくしいと感じたと言えば、リュドラーに幻滅されるだろうか。それとも、慰めの言葉だと取られるだろうか。 「まったく見苦しくなどなかった。……ただ、気になって」 「なにが、でしょう?」  やはりうつくしくなよやかな男でなければ、性奴隷には向かないと言われるだろうと、リュドラーは予測した。ティティをはじめとした性奴隷の青年たちは、中性的な雰囲気と肢体を持っていた。鍛え抜かれた肉体と日に焼けた褐色の肌をした自分では、とうてい男の欲望を引き出せない。リュドラーはそう考えていた。 (しかし、サヒサは俺にこのようになれと条件を出した。だからトゥヒム様をお守りするために、俺は……)  なによりそれは自分のためでもあるのだと、リュドラーは胸に刻んでいる。トゥヒムを守る以外の生き方など考えられない。そしてティティのベッドで肌を暴かれ、乱れる自分の姿を目の当たりにしたことで、抱かれることへの悦楽が肌身に芽生えていると自覚した。 (それを知られれば、あさましいと嫌悪されるだろうな)  自嘲を口の端に乗せたリュドラーを見て、トゥヒムは自分があざけられたのだと思った。騎士の尊厳を捨ててまで守ろうとしてくれている相手に、この上もなく欲情していると知られれば愛想をつかされるのではないか。 (だが、私は――)  リュドラーを誰にも渡したくはなかった。彼が己のものだと確かめたい。そのために、危険だとわかっていながらここに来たのだ。 「おまえを貫いたのは、私がはじめてなのだろうか。その……、サヒサに聞いた。充分に下ごしらえをしなくては、体を傷つけてしまうと。そしてあのとき、おまえの準備はできていると言われた。そのために私はサヒサに連れられ、あの部屋へ行ったのだ。――おまえを、貫くために」  ゾクリと身を震わせて、リュドラーは胸を抑えた。 (俺を貫くために、トゥヒム様はいらした)  そしてリュドラーは彼に貫かれた。  ヒクリと秘孔がうごめくのを、リュドラーは感じた。 「ティティがしたのだろう? その、下ごしらえとやらを。そのときに、おまえは彼に貫かれたのか。本当に、私がはじめてなのか」 「なぜ、そのようなことを……」 「教えてくれ、リュドラー」  悲壮な声に、リュドラーはトゥヒムの手を取った。 「間違いなく、私を貫いたのはトゥヒム様のみ。――ティティにはただ、指と道具で拓かれただけでございます」 「そうか」  安堵したトゥヒムに、リュドラーも目元をなごませる。しかしなぜ、そのようなことを気にしているのだろう。 「それを聞くために、わざわざお出ましになられたのですか」 「それもある。だが、本来の目的は別だ」 「本来の、目的?」  ここを逃げ出そうとでも言うのだろうか。無垢なトゥヒムには、連日の痴態はさぞ神経に堪えただろうとリュドラーは胸を痛める。だが、告げられたのは予想だにしない言葉だった。 「おまえを抱きに来たんだ、リュドラー」

ともだちにシェアしよう!