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窓からの来訪者

「こんにちはっ」  ある初夏の日。  ひょこりと窓に乗っかって顔を出した人物にノアは露骨に顔をしかめた。ノアがこんな表情をしたり見せたりすることは滅多にないのだが。  窓からぶら下がって明るい挨拶をして、にこにこ笑っているのは少年。  少年、ではあるのだがその頭には獣の耳がついている。髪と同じダークブラウンで大きなそれはオオカミの耳。  彼は狼男なのだ。まだぎりぎり子供の部類ではあるが。  人間の姿をしていても耳はオオカミのそれであり、尻尾もついている。ふっさりしているそれをきっと機嫌よさげにぱたぱた振っていることであろう。  オオカミ少年のコリンはいかにも少年そのもの。  ふわふわのダークブラウンの短髪は活発な印象。くりっとした金色の瞳は好奇心をたたえていて子供っぽい表情を見せることも多々。  ただし背丈は割合大きかった。まだノアよりも低いものの、子供のそれではない。  コリンが聞かれもしていないのに勝手に喋ったところ曰く、人間でいうところの十六歳くらいらしい。オオカミなので年齢換算は人間と異なるのだが。  あと一、二年くらいすれば成人してオオカミ少年なんかじゃなくて立派な狼男になるんだ、と言っている。なので青年間近の少年ということになるだろう。 「なにをしにきたんだ」  ノアの発した声は警戒を含んでいた。  コリンが嫌い、なのではない。  個人ではなく、彼がオオカミ少年であることが問題なのだ。  何故ならノアは重度の犬嫌いであったのだから。  子供の頃、大きな野犬に襲われ、乗りかかられて酷く噛まれて以来、トラウマなのである。  そのときはたまたま来ていた街の大人が助けてくれて祖母の薬と治療で回復して生き永らえたものの、それ以来、犬は見るのも嫌だった。  そして狼男、つまり半分はオオカミの存在。  オオカミといえどイヌ科である。犬のにおいが確かにするし雰囲気もあった。  それにある意味、犬より凶暴で恐ろしいだろう。ヒトが半分であるとはいえノアには恐怖を抱かせてしまう存在なのであった。 「美味しそうなにおいがしたから来ちゃった」 「鼻がいいな。オオカミが」  コリンは窓にぶら下がったまま、しれっと言う。  ノアは窓を開けっ放しにしていたことを心底悔やんだ。初夏の心地良い空気を部屋に取り入れたくて窓を全開にしていたのだ。 「それ、ウサギ肉が入ってるんでしょう。いいにおい」  ノアの指さしたのはテーブルに乗せて冷ましていたパイだった。  さっき焼いたばかりの焼き立て。ノアが昼食にひと切れ摘まんだだけでまだ大方が残っている。 「……肉食め」  くそ、肉の香りにつられてきたのか。  それもノアの気に障る。  肉ばかり食べている狼男。野蛮な生き物だと思わされる。 「オオカミなんだから当然でしょ」  なのにコリンは気にした様子もなく、しれっと言った。 「ね、少しちょうだい」  そしておねだりである。  ノアがコリンの来訪を嫌っているのはわかっているだろうに図太いことだ。 「断る」  ノアははっきりと断ったがコリンはじゃあわかった、などというわけがない。頬を膨らませて不満げに言った。 「ええー、ニンゲンにはあげてるじゃん」 「なんでお前がそんなことを知ってるんだ」 「見たんだもん。ねぇお願い。ひと切れでいいから」  どこぞから覗き見られていたなど、ぞっとする。コリンからはただの好奇心であるのだろうがノアにとっては、やはり。 「断ると言って……」 「えー。じゃあ狩っちゃうよ?」  続けたノアの言葉を遮って言ったコリンはふざけた口調だったが、ノアはびくりとしてしまう。  狩る。  対象はパイに決まっているだろうが自分が捕って食われるところを想像してしまったのだ。恐ろしくてならない。  もうパイなどどうでもよくなった。  このオオカミ少年をさっさと森の奥へ追い返してしまいたい。  震える手でパイをひと切れ取って薄紙に包んだ。テーブルの端っこへ置く。  手渡すなどとんでもない。近付きたくもない。 「も、もう勝手に持っていけ! それで出てけ!」  ノアがパイをくれるということは伝わっただろう。  ちょっと膨れつつも笑顔を浮かべてくれた。窓から手を伸ばしてテーブルのはしのパイを取り上げる。 「ほんとにつれないなー。まぁいいや。ありがとっ。またねー」 「もう来るな!」  お礼を言って、窓から飛び降りるためだろう、パイの包みを口に咥えて、ぱっとコリンの姿は消えた。  下から、たしっと身軽な着地音が聞こえてすぐにまた軽やかに走っていく、たたた、という音が聞こえた。  やっと帰った。  はぁ、とため息をついてノアはふらふらとソファへ近付いて腰かけた。  なんだか非常に疲れた。  気疲れではあるが。  薬を作るよりも、人間の重い相談事を聞くよりもずっと疲れてしまうことなのだ、このオオカミ少年の来訪は。  緊張したせいか喉の渇きを覚えたがそれより少し座っていたかった。背もたれに寄りかかって反り返るほどに身を預けて、目を閉じて、はーっと息を吐きだす。  思い出したくもないのに先程のコリンの嬉しそうな笑顔が浮かんだ。それすらノアは自分で自分が気に入らない。  コリンはこの森のもっと奥で暮らしていると話していた。  狼男の暮らす集落があって、そこで小さなコミュニティに入っているのだと。母親や兄弟も一緒らしい。  森の奥の奥。  歩いていける距離ではないが、オオカミ少年のコリンは駆けるのが大変得意で、ここまでだって一時間もかからないよ、なんて得意げに言っていた。ノアにとっては余計に恐ろしく思ってしまう事象ではあったが。  今だってそこへ向かって全力で走っているだろう。  どこぞで落ち着いてパイを齧るのかもしれないが。  そう、まるで獲物をしとめた狼のように。  想像して、またぞくりとしてしまう。恐ろしい。  それでも恐怖感はましになったほうであった。  初めて押しかけられたときは震えあがった。雨戸を閉ざして何日か籠城してしまったほどだ。  今日と同じように窓から「こんにちは」と来られたのだ。  ただし一応礼儀はあるということなのか、今するように勝手に覗くのではなく窓を叩いてからだったが。  ひっと叫んで、部屋の端まで逃げたノアを少し不思議に思ったらしい。 「お邪魔かな」  首を傾げて、そこからは敵意も野蛮も感じられなかったがノアにとってはあまり意味をなさなかった。 「クッキーの焼けるいい香りがしたんだ。良かったらオレにも分けてくれない?」  言ってもノアは壁に張り付いてぶんぶんと首を振るしかなかった。その様子にコリンはますます不思議そうな顔をしたものだ。 「ヒトを襲ったりしないよ」  狼男はヒトを襲うものではないと知っていたが、そういう理屈ではないのだ。ノアはもう一度ぶんぶんと首を振る。 「なんでそんなに怖がるの」  言われて、こんな存在に言うのは癪であったが言わないわけにはいかない。 「犬は嫌いなんだっ」  ノアの『理由』にコリンは、きょとんとした。 「オレ、犬じゃないよ。狼男」 「同じだ!」  ノアにとってはなにも違いなどなかった。 「違うよー。動物じゃないもん」 「同じだ!」  考える余裕もなく同じ言葉を叫んだノア。コリンは不満げだったがそのときはそれで引いてくれた。 「……そう。そんなら仕方ないね」  「オレはコリン。また来るね」と軽やかに窓から飛び降りて去っていって、そのあとは前述のとおり。  その籠城事件からすると現状すらまだ進展したほうだといえよう。コリンは不満なようだが。  オオカミ少年とはいえ、コリンがノアに対して乱暴な振る舞いをしたり傷つけたりする行動をしたことは一度もなかった。  それどころか人懐っこいコリンは優しい性質もたっぷり持っていたといえよう。  が、ノアにとってはオオカミであるというだけで受け入れがたい存在であったのだ。

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