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襲撃
一週間ほど経った日のことだった。もうすっかり暑い。
しかしノアの家は森の中。
樹々が太陽のひかりを遮っていてその下にある家まで直射日光は降ってこない。なので、暑くとも家の中まで蒸さないので特別暑さ対策をするほどではない。
街の人々も言う。
「この家は涼しいねぇ」と。街中の家よりずっと涼しいようだ。
そんなわけでノアの生活はあまり変わらなかった。
ただ暑い折で、食物や生で使う薬草が傷む危険は高まるのでむしろそちらが気を抜けない。
緑が生き生きとしているのは良いことで気持ちがいいが、あまり快適な季節ではないといえる。
今日はお客もないようだ。ふらっと訪れる客が大半なのでそういう者が来ないとは限らないが。
久しぶりに菓子でも作ろうか、と思う。
ここしばらくご無沙汰だったのだ。薬のストックがいくつか同時に切れたりしたのでそちらを作ることが優先となっていて。
たまには美味しいものを作ったっていいだろう。
よって冷所に置いていたバターを取り出して、卵や小麦粉も用意する。
バターを練って、砂糖や小麦粉を入れて……としているうちに、ふと玄関のベルが鳴った。
おや、不意の客だ。
ノアは思って「はーい」と返事をして粉のついていた手を洗った。タオルで手を拭き、エプロンを取って玄関へ向かう。
そこに立っていた者を見て、ノアはちょっとぎくりとした。それはジェームスだったのだから。
「ちっと相談があるんだが」
だがジェームスはなにか大切な用で訪ねてきたようだった。表情がやや硬い。
よってノアはそのまま訊いた。
「……そうなのか。深刻なことなのか?」
「ああ、割と」
「そうか」
数秒だけ考えた。
言われたことを思い出したのだ。
『あまり優しいと付け入る輩がいるかもしれないよ』
『あのひと良くないにおいがするよ』
二人に言われたことを考えなかったわけではない。
しかしノアは自分の仕事を考えた。
これほど深刻そうな顔をしているのだ。
追い返せるはずがないではないか。
誰にだって平等に接さなければいけない。
人々を助けるのが仕事の、魔女として。
そのように考えたノアは大変義務感が強かったといえる。
「では、オレで良ければ話を聞こう」
真面目なノアはそのままジェームスを家に入れてしまった。
部屋へ先導するノアを追う前に、ジェームスがこっそり、かちりと玄関の鍵を閉めたことにも気付かずに。
「菓子を作っていたのか?」
まだ焼いてはいないがバターの香りでも感じたのだろう。ジェームスは言った。
「ああ。クッキーでもと思ってな」
「邪魔しちまったかね」
「いや、菓子くらい、いつでも作れるから」
ジェームスの言葉をやんわりとノアは否定した。
実際、そうだ。
菓子作りの途中でお客が来ることなど珍しくもなんともない。冷所に置いておけば別に後回しにしたってかまわない。
よって作りかけのクッキーのたねを涼しい場所へ置いてからノアは来客に使っている部屋へ入った。
今日も暑い折。
窓は半分ほど開けていた。森の涼しい空気が入ってくるのだ。
「それで。なんの相談なんだ?」
椅子に腰かけていたジェームスの前。自分の椅子に腰かけながらノアは訊いた。
ジェームスはやはり深刻そうな顔になる。
本当に困っていることがあるのだろう、とノアは思った。
「実は、好きなやつがいるんだが」
しかしジェームスの言った『相談』はそんなものだったので、ノアは驚いた。
このひとに恋の悩みなど、あまりイメージがなかった。
いや、そんなことを思ったら失礼だ、とノアは心の中で謝る。
人間誰しも恋のひとつやふたつしてきたことはあるだろう。ジェームスが何歳なのかは知らないがノアと同年代であることは察せた。
ノアとて幾つか恋をしてきたことはある。実ったことはないが。
まだ若い盛りなのだ。
幸せなものでも、悲恋でも、恋の悩みなどあって当然ともいえる。
「そうなのか。どんな女性なんだ?」
「いや、男なんだ」
ノアがまずはそこから、と訊いたことには真逆の回答。
相手は男なのか。
ちょっと驚いてしまう。
しかしそれも打ち消した。
同性同士で惹かれ合うのも別段、珍しいことでもない。
禁忌でもない。個人の問題だ。
なのでそのまま受け止めてノアはジェームスの話を聞いた。
「綺麗なやつなんだ」
「優しくて、困っているやつを放っておけなかったりする」
「料理も上手い」
端的に挙げられていくことをノアは、うんうんと受け止めていたのだがなんだか違和感を覚えはじめた。
その正体がわからないままにジェームスが言った。
「それで……ちょっと甘いところがある」
言われてノアはなんだかぞくりとした。
ジェームスの目の奥。ぎらりと光ったような気がした。
「……脈がないのか?」
なんだろう。嫌な予感がする。
これはコリンの言った『良くないにおい』の類なのだろうか。
ちらっと頭によぎったが、遅すぎることだった。
「脈、ねぇ。わからねぇな」
口の中で呟くような言い方だった。
それにもう一度なにか言おうとしたノアだったが直後、思い知ることになる。
ジェームスがいきなり立ち上がった。
え、とノアはそれを見上げ……気付いたときには背中が硬いものに強く打ち付けられていた。天地がひっくり返ったように意識がくらっと揺れる。
「いった……!」
思わず呻いた。
なにが起こったのか、と目を開けてノアは凍り付いてしまう。
自分が体を打ち付けたのは、床。
ジェームスがその上に乗りかかっていた。ぎらぎらとした獣のような眼で。
今はもう深刻そうな顔などしていなかった。
それどころか、いやらしいにやにや笑いが浮かんでいる。
「言っただろう。『甘いところがある』ってさ」
ひっ、とノアは息を呑んだ。
それはつまり、そういうことだ。
見下ろしてくるジェームスが話したことは自分のことだと。
そして多分、考えたくないことだが……自分を狙ってずっとここへ通っていたのだと。
言葉も出なかった。
裏切られた。
一番はじめに思い浮かんだのは、それ。
困っているひとだと思って親切にしていたのに。
ああ、でも何度も感じていた。
不快感だの、違和感だの。
でも自分は「そういう人間なのだ」「よそ者で、この街の者とは文化が違うのだから」と思うようにしていた。
ジェームスの言うとおり、『甘すぎる』馬鹿なことだったのだ。
今更思い知ったがもう遅かった。
ジェームスは明らかにノアより体格が良く、力も強いのが歴然としていた。逃げることも抵抗することも難しそうだと実感として迫ってくる。
ノアの胸に恐怖が膨れた。
「で、オレはその甘さに付け入らせてもらうってわけさ」
ねめつけるような眼、勝ち誇った眼でジェームスは言う。
舐め回すようにノアの肉体を見回しながら。
「そ、そんなことは許されないだろう」
やっと言った。
「このようなことは、想い合う者がするもの……ぐっ!」
言いかけた途中、突如ジェームスの手が伸びてきた。ノアの首元を掴む。
絞め殺されるかと思ったくらい強い力だった。
しかしなにも知らない生娘ではないのだ。ジェームスのしようとしていることが、殺害などではないのはよくわかった。
わかりたくないと思ったがノアにとってはどちらでも変わりやしない。
抵抗などできないのだから。傷つけられることは確定なのだから。
だがせめてもと言ったのだがばっさりと切り捨てられた。
「純粋なんだな。けど、それは命取りだって嫌でも理解しただろ」
そのとおりだった。ジェームスのたくらみどおりになってしまっているのだから。
「大丈夫だぜぇ、オレは優しいからな。気持ち良くしてやるだけだ」
粘つくような声がノアに降ってくる。
しかしそんなことは関係ない。
気持ち良いということになんの魅力も無いのだから。合意でない時点で大丈夫なはずがないだろう。
おまけに襲い掛かり、首まで絞めてくるほど乱暴な男。
強姦、それも酷くされるのなどわかり切っている。今度こそなにも言えなかった。
ノアが『抵抗できない』と理解したのは伝わったのだろう。
ジェームスは嬉しそうに笑った。爽やかどころか下品な笑みであったが。
「物分かりがいいじゃねぇか」
言いながら顔を近付けてくる。
有無を言わさずくちづけられた。
一瞬にしてノアの身を吐き気が走る。触れたくちびるからは不快感しかない。
おまけに煙草の、ノアの嫌う煙草の臭い香りが鼻を満たした。
本気で吐くかと思ったほどだ。しかし今、嘔吐などすれば暴力が待っていることくらいはわかる。必死に吐き気を飲み込んだ。
手がノアのシャツの中に入ってくる。手が動いて触られるたびにおぞ気が走る。
はじめられたばかりなのにこんな有様でこの先が耐えられる気もしない。
くちびるを離されジェームスが離れた瞬間、口から出ていた。
「だ、誰か……たすけ、うぐっ!」
誰もいないことなど重々承知だったが言ってしまった言葉は途中で塞がれる。口元を手で掴む勢いで塞がれたことで。
だがジェームスの感じたのは怒りではなく、むしろ楽しさだったらしい。
獲物が無力な抵抗をするのを抑え込む、征服欲。
「誰もくるもんか。鍵はかけたしな。きたとしても入ってこられねぇよ」
鍵!?
もうひとつノアの心に衝撃が走った。
では自分はこの家に閉じ込められたということではないか。
声を聞いて誰かがきてくれたとしても、ドアを破らない限り入ってこれやしない。
ドアを破るなんて簡単なことではないし、それでは遅すぎることになるだろう。
本当に逃げ場などない、助けてもらえることもないことを実感してノアは絶望した。
自分がまさか男に襲われようなどと思わなかった。
第一、そういう趣味も無いのだ。片想いをしたことは何度かあってもすべて女性だった。男をそういう眼で見たことなどない。
その自分がこのようなことに。
ただ知識だけはある。男同士でどうセックスするのか、とか、そういうものは。
そしてそれはある意味、女性を犯すよりも危険なものであることもわかっていた。
『気持ち良くしてやる』などとんでもない。
肉体的にも傷つけられるに決まっている。
ノアの心に襲われるのとは別の、肉体を傷つけられる恐怖も追加された。
ノアの心情を読み取ったようにジェームスは舌なめずりをし、そしてノアのシャツに手をかけた。
脱がされる、と身を固くしたノアだったがそんなことは甘かった。
布の裂けるビリィッと鋭い音が耳を刺す。
ぶちっとボタンがはじけ飛ぶ音、こんこん、と床に転がる音までが妙に鮮明に聞こえた。
「綺麗な肌じゃねぇか」
喉を鳴らしてジェームスはノアの胸を撫でまわす。勝手に触られていることよりもシャツを引き裂かれたことにノアは恐怖した。
夏場の薄手のものだとはいえ、シャツを破るなんて、なんと乱暴で剛力なのだ。
これでは、このあと。
恐怖に身が震えた。
「いい顔だなぁ」
ノアの恐怖を覚えた顔すらジェームスの気に入ったらしい。にやにやと粘つく声で言い、もう一度くちづけてきた。
そして手を伸ばしてノアの下半身を撫で上げる。
反応などしているはずがなかったが敏感な部分である。ひっ、と声が出た。
このようなところ、他人に触られたことなどない。羞恥までもが生まれた。
撫でまわされても感じることなどなかった。
気持ち悪さしか感じない。当然のように反応もしない。
それは気に入らなかったようで、ジェームスは、ちっと舌打ちをした。
「ニブいなぁ。直接触ってやらないとか」
流石にパンツは引き裂かれることなくベルトに手をかけられた。
カチャカチャと自分の手ではなく外されていく音、ずりおろされる感触。
今度こそ嫌悪感がはっきり生まれた。
「嫌だ! やめ……うぐっ」
もう一度、ガッと首を掴まれる。脱がそうとしているところを邪魔されたからか、刺すように睨みつけて顔を近付けられた。
気道を塞がれてもう続きの悲鳴すらも発せない。
息もできなくてノアが苦しさに苦悶の表情を浮かべたのを見たのか、にたぁと笑われる。
「うるせぇな、誰も来……」
そして言いかけたのだが。
バキィッとなにかが割れる、いや、折れるような鈍い音がした。
直後、一拍遅れてガラスが砕けるガシャン、という鋭い音も。
ノアの心臓が違う意味で跳ねた。
一体、なにが。
だがそれはジェームスも同じだったらしい。
ぎくりとした顔をして、ばっとそちらへ顔を向けた。それはノアも同じであったが。
しかし目に映ったのは、なにかがザッと飛び掛かる残像と感覚だけ。
「ギャァァ!?」
唐突にジェームスが悲鳴を上げた。
ノアの首元を締め付けていた拘束も、上に乗りかかられていた体も消え失せる。
人間のこんな悲鳴は今まで生きていて聞いたことがなかった。
ノアの心臓が一気に冷える。
なにが起きているというのか。
数秒してノアの視界にはっきりとした様子が見えた。
だが見えたものの、なんなのか理解は出来なかった。
それは知っている人物……のはずだった。
が、そうであるとは到底思えなかった。
突き倒したジェームスの上に誰かが乗りかかっている。
顔を埋めている、と思ったのは一瞬。
肩に噛みついているのがはっきり見えてしまった。
「ギャァァ!! はな、はなせっ」
もう一度ジェームスの苦悶の悲鳴があがる。次に聞こえた声でノアははっきり思い知った。
「ノアに触るな!!」
聞いたこともない低い声。
だが確かに知っている。
知っているどころではない。
すっかり顔見知りになっていた存在、コリンだ。
ただし普段の様子とは真逆。狼そのものの形相と行動だった。
もう一度ジェームスが悲鳴をあげる。
今度は痛みではなく恐怖に、という様子の「ひぃっ!!」というものであった。
「ノアに触るな。次は喉笛噛み切ってやる!!」
低く唸り声すらあげながら、コリンは血まみれになった口元で言った。
血はジェームスのものらしい。
見れば肩からだらだらとおびただしい量の血が流れている。
コリンが肩に噛みついたのだ、とやっとノアは理解した。
コリンの目はぎらついていた。
先程見せられたジェームスのぎらつきとは違うたぐいのものであったが。
怒り、攻撃、そのような感情が爛々と目に表れていた。
「ひっ……く、くそっ」
ガタンと音がしてジェームスが這いずるのが見えた。噛みつかれて血まみれの肩を押さえながらなんとかと言った様子で立ち上がる。
「ば、番犬付きかよ畜生!」
それが最後だった。ガタガタとすら音がしそうなほど激しく足音を立てて逃げだす。
部屋を出ていってすぐに先程と同じ、バキッと音がした。
木の裂ける音。玄関を蹴破られたのかもしれない。
やはり同じようにバタバタと激しく走る足音が聞こえ、すぐに遠ざかった。
一連のことはノアにとってただ見ているしかないものであった。
見ていたものの、一体なにが起こったのか理解すらできない。
理解もできないほど混乱し、ぼうっとした意識は少しずつ現実に戻ってきた。
はじめに目に入ったのはコリン。
肩を激しく上下させ、フーッ、フーッと荒い息をついていた。
手も口元も血まみれだ。おまけに口からは鋭い牙が剥き出しになっている。
ばっとノアが視線を向けると、床にも点々と血が飛び散っていた。
コリンがジェームスに噛みつき、食いついたのだと実感して背筋が凍えた。
しばらくその場にはコリンの荒い息だけが満ちていた。
数分が経ったのだろう。ノアにとっては時間の感覚が消え失せたようだったが。
やっとコリンの荒い息が少し落ち着いてくるのをなんとか感じる。
「……ノア」
名前を呼ばれてノアは、はっとした。
一気に恐ろしさを実感した。がたがたと体が震えだす。
「大丈夫?」
コリンの声はだいぶ落ち着いていた。
近付こうとしてだろう、一歩踏み出す。
しかしノアの心は違う恐怖に満ちてしまった。
「ひ……っ」
喉から掠れた恐怖の声が出た。
ノアの感じた恐ろしさ。
それはジェームスに襲われた恐怖だけではない。
コリンの見せた、人間を襲う凶暴な一面。
血まみれの口元と鋭い牙。
幼い日に犬に襲われたときのことがフラッシュバックして混乱に陥り叫んでいた。
「来るな!!」
「……ノア?」
コリンはまだぎらついている眼ではあったが不審そうに顔をしかめた。もう一歩踏み出す。
それはノアを心配してのものだったのだが、恐慌状態に陥っているノアにそんなことはわかるはずもなく。
「ひっ……来るな!!」
腰が抜けたように力が入らなかったが、じりじりと後ずさる。
コリンはそれをぼうっと見ていたようだ。
が、どうやらノアが恐怖を感じていること、その対象が自分であることを理解したらしい。
自分の手を見た。
血で真っ赤になっているのを見て、だろう。
すべてわかった、というように顔を歪めた。
「ごめん!!」
今度、身をひるがえしたのはコリンだった。ばっとノアから離れて、たたっと走る音がして窓から飛び出していった。
いつもそうするように、たしっと着地音がする。そのあと、たたっと駆ける音も。
呆然としたノアが見た窓は無残な有様になっていた。
ガラスは砕け散り、窓枠はバキバキに折れている。コリンが飛び込んできたときそうなったのだろう。
独りきりになっても、ノアは呆然と座り込んだままだった。
どのくらい自我を失っていたのかもわからない。
短時間にあまりの多くのこと、衝撃的なことが起こりすぎて現実が受け入れられなかった。
はっとしたのは窓から入ってくる月明かりを見て、だった。
何時間も経っていたようだ。太陽はすっかり沈んでしまい部屋の中は真っ暗になっている。
その中に身を置いていることが急に恐ろしくなった。がくがくと震える足を叱咤してノアはなんとか立ち上がる。
ふら、と一歩踏み出した。
血が点々と散らばる床をなるべく見ないようにしながら、ふらふらと部屋の外へ出る。
向かったのは寝室。今、一番救いとなる場所だった。
ドアを開けて中へ入り、しっかり鍵をかける。
こうすれば誰も入ってこられない。少なくとも、簡単には。
ベッドに潜り込む。布団をかぶると一気に恐ろしさが復活した。
体が瘧(おこり)のようにがくがくと震える。
必死で布団を握りしめ、なにも考えない、なにも考えない、とひたすら自分に言い聞かせ続ける。
勿論眠れるはずもない。
布団を頭からかぶったままノアは一晩中、恐怖に震えていた。
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