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一夜が明けて
翌朝は、朝がきたことを窓から差し込む光で知ったものの到底動く気になれなかった。
心がショックにまだ凍り付いていたのだ。
まさか誰かが居たらという恐怖もある。
ジェームスがまたやってきていたら。
もしくはコリンが来ていたら。
ジェームスはともかくコリンは自分に敵意などないことを知っているが、昨日見てしまった恐ろしい姿はノアに畏怖を与えるのにじゅうぶんなもので。
今はただ姿を見るのも恐ろしかった。
昼近くになるまで布団にくるまっていただろうか。
太陽の明るさに促されるように、思い切ってノアは布団を出た。
そろそろと鍵を外してドアを開け、まわりをきょろきょろと見回す。
誰もいない。
明るい中、しんと静まり返っていた。
ちょっとほっとして、しかし警戒は解かないままにそろそろと昨日の部屋へ向かう。
逃げるようにノアが部屋を去ったせいでドアは開いていた。
部屋の中が見え、ノアの心はもう一度凍り付いた。
床には血が点々と散らばっている。
血だらけ、というほどではないが物騒に見えるほどには血痕が残っていた。
血を見ることは、基本的にあまり苦手ではない。怪我の軽い治療くらいはするのだし、見慣れているほうだ。
が、ひとが目の前で傷つけられるところは初めて見た。
おまけに狼男に噛みつかれるところなど。
恐怖と痛みに悲鳴を上げ、血を流して。
思い出してしまってぞくりとした。
やはり自分が幼い頃に犬に噛みつかれたことを連想してしまったのだ。
あのときも血が流れていた。どこからだったか、腕だったか足だったか。
それすらもう恐怖の感情で上書きされて曖昧だったが。
ちがう、傷つけられたのはオレじゃない。
ノアは必死に自分に言い聞かせた。
視線を少し上に遣ると窓が見えた。無残に破壊され、ぼろぼろになって外がそのまま見える窓。
これは大工に直してもらわないといけないだろう。
こちらも無残であることに変わりはなかったが、血の痕よりずっと恐ろしくない光景だった。
動かねばならないことはわかっていた。
が、ノアはやはり数十分もそこでぼうっとしてしまっていた。
この光景を見ても、昨日のことはまだよく理解ができなかったし、恐ろしかった。
男に襲われたこと。
その男に狼男が噛みつき、怪我を負わせたこと。
主にふたつがノアに恐怖を与えていた。
短くはない時間が経ち、ノアはやっと、ふら、と後ずさった。
とりあえず自分が落ち着かないことにははじまらない、と思う。
なにか食べて、風呂にでも入って、落ち着かなくては。
自分に言い聞かせる。
しかし食欲などわくはずもないし、湯に浸かってのんびりできるはずもない。
結局キッチンで簡単な粥をつくった。米をどろどろに煮込み、そこへ梅を干したものを乗せる。
喉を通らない気しかしなかったが無理やり押し込む。恐ろしい出来事の起こった部屋のことを考えないように無心で。
そのあと薬棚から薬を取り出した。
鎮静剤だ。ハーブから抽出し、何種類かをブレンドした、心を落ち着かせる作用のある魔女の薬。
苦いそれを水で飲み込む。
自分で自分の作った薬を飲むことは今までにだってあったがこんな酷い状況で飲むことになったのは初めてだった。
しかし薬はきちんと効くはずだ。出来と効果には自信がある。
食休みも兼ねてソファでひじ掛けにもたれてじっとしているうちに、確かに少しずつ気持ちは落ち着いてきた。
大丈夫、大丈夫だ。
少しはそう思えるようになり、今度向かったのは風呂だった。お湯を張って浸かる気にはなれなかったのでシャワーだけ浴びる。
あたたかなお湯が身を叩く。体があたたまるだけではなく自分の身に触れた男の手の感触や触れられた事実すら流れていくような気がして、ほっとした。
別段、傷つけられたわけではない。
が、そういった経験のないことも手伝ってノアにとっては衝撃的な出来事だったのだ。服を引きはがされて無理やり触れられるなどされれば、誰でも同じになるであろうが。
数分お湯を浴び、石鹸で体を洗う。すっかり身を綺麗にすると、ほうっとため息が出た。ようやく人心地ついた気持ちになれた。
そのあともう一度、身を落ち着かせるためにキッチンでお茶を一杯飲んでソファで休む。その頃にはもうすっかり夕方になっていた。
本当なら昨日の部屋の片づけをするつもりであったが、少しだけ考えて、やめておいた。
明日以降にしよう、と思う。
暗闇に誘われて嫌なことを思い出してしまわないとも限らない。
食事とシャワー、そして薬とお茶。
それらの行為や効能によって人心地ついたためか、昨夜まったく眠れなかったことも手伝って眠気を覚えた。
今度は寝付きをよくする薬でも飲もう。
そして寝てしまおう。
そうすればもっと落ち着くことができるはずだ。
思って、ノアは薬棚からやはり薬を取り出した。昼間とは違う瓶を出して薬を飲む。
寝室へ入り、やはりしっかり鍵をかけてベッドに潜り込んだ。
薬の効果もあるのか、ずっと気が張られていた疲れのためかすぐにノアは眠りに引き込まれる。
怖い夢を見たらどうしようかなどと考えたのは一瞬。
眠りにつけば夢など見なかった。
ただ泥のように眠った。すべてを忘れてしまいたいというように。
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