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夕暮れのキス

「ちょ、速い……もっとゆっくり歩け……」 どのくらい歩いたか、まだそう遠くまでは来ていないのだが、ノアはぜいぜいと肩で息をしていた。 「えっ、あ……ごめん。速すぎたんだね」  少し前を歩いていたコリンは足をとめて、申し訳なさそうにノアを見た。  少々足と息がつらくとも妙な意地で無理やり速足をしていたのだが、ギブアップだった。コリンの足についていくのは無理だと思い知らされる。 「ごめんね。もっとゆっくり行こう」  言って、コリンはノアのもとへやってきた。 「もう少し行ったところに、岩とかいくつかあるところがあるんだ。少し腰かけて休もうよ」 「そ、そうしてもらえると……助かるかな……」  不本意だが確かに少し休みたかった。  ゆっくり歩いてその場所にたどり着き、岩に腰かけるとノアは、はぁーっと大きなため息をついてしまった。  歩くことには慣れているのだがいかんせん森の中である。  整備された道とはまったく違う。疲れの度合いも違って当たり前である。  無理をして速足などしなければ良かった、と思う。  思いながらバスケットを開けて水筒を取り出した。  二本の水筒。一本をコリンに差し出す。 「お茶だ。飲むか」  少し長く歩くことになると思ったのでお茶を水筒に入れて持ってきていた。ずいぶん冷え込むようになっていたのであたたかいお茶を、だ。 「あ、ありがとう。少し喉が渇いたね」  おい、少しなのか。  ノアはちょっとコリンが恐ろしくなった。  恐れる意味ではないが。  なんと健脚なのかという部分についてである。  水筒の蓋にノアがお茶をついで飲むのを見て、そうして飲むのだと知ったのだろう。見よう見まね、という手つきでコリンもそうした。  蓋についだお茶はしっかりあたたかかった。  魔法瓶なのだ。  街で買ったもの。遠出をする際には重宝しているのであった。 「寒くない?」  お茶を飲んで、ほうっと息をついたノアにコリンが訊いてくれた。ノアはそのまま頷く。 「ああ。しっかりコートを着てきたからな」 「そっか。それあったかそうだものね」  真冬のものではないが、それなりに厚手の黒いコートは街で買ったものだ。  流石にこれほど厚手の布では自作できなかったので街で買った。  首元にはファーもついている。  去年買ったものだが、あたたかさも機能性も気に入っていた。 「よし、じゃあ行こうか」  少し休んでお茶も飲んで回復したのでノアは立ち上がる。  コリンは「もういいの?」と言って同じように立ち上がったが、あ、と言った。  なんだ、とノアが思うと同時に差し出されたのは、手。 「ほっとくとオレ、ずんずん先に行っちゃいそうだから。一緒の速さで歩けるように」  にこっと笑って言うその声にも、言葉にもなんの他意も無いとわかる。  が、ノアの心臓はひとつ跳ねた。  手を繋いで歩こうなど。  むしろ意識してほしかったとすら思った。 「あ、ああ……じゃあ……」  ためらったがノアはその手を取る。  触れて、おや、と思った。  なんだかコリンの手が大きくなっているような気がしたのだ。  初めてその手にわずかだが触れたとき。  確かコリンにキャンディをやった、まだ心許していなかったときのこと。  あのときからもう数ヵ月が経っている。  大人に近付いている、ということらしい。  成長が早いのは単に成長期だからか、それとも狼男だからなのか。  わからないが、また少し少年から青年へ移ろってきているのが伝わってくる。  そして握った手はあたたかかった。  ヒトのものとまるで変わらない。少し硬いくらい。  しかしそれも森の中で過ごしているから、という理由くらいのもの。 「ノアの手、あったかいね」  体温を確かめるように、ぎゅう、と握られてノアはくすぐったくなってしまう。  おまけにコリンが無邪気に笑うものだから。  そんな、子供が大人と手を繋ぐのではないというのに。  しかしコリンにとってはそのくらいの認識なのか。  思って、ちょっと寂しくなってしまってノアはその思考を振り払った。  駄目だ、妙なことを思ったり望んだりしては。  手を繋いだコリンは、言ったようにノアに合わせて歩いてくれた。  普段、風のように駆けていくコリンにはもどかしい速さだったかもしれないのに。  あまつさえ言った。「たまにはゆっくり歩くのも周りを楽しめていいねぇ」と。  確かに秋の折り、樹々は黄色や赤に色づいてとても美しかった。二人でそれを見上げながら歩いていく。  『お出掛け』なんて、こんなものかわいらしすぎる。  しかしそんなことが楽しくて、そして嬉しくてならなかった。  コリンもどうやらそう思ってくれているらしいことが、手からはっきり伝わってきた。  どのくらい歩いただろうか。不意に視界がひらけた。 「わ、……」  ノアは感嘆の声を出してしまった。  目的地に着いたのだ。  例の高台。街が見下ろせる高さを持ったところであった。  ヒトのくるところではないので柵もなにもない。  あまりはしっこにいけば転げ落ちてしまいそうなので気をつけねば、と思いつつもノアはそろそろと前へ進んだ。  たまに訪ねる街が見えた。こんな高くから見下ろしたことなどないので見入ってしまったノアに、コリンは自慢げに言う。 「綺麗でしょう。オレ、ここが好きなんだ」 「ああ。とても綺麗だ」  しばらく無言のまま二人で眼下を見ていた。  街の様子ははっきり見えた。  あそこは普段買い物をする雑貨屋。  あそこは気に入りのカフェ。  高い場所から見下ろして探してみるのはなんだか不思議な気もしたが、つい夢中になってしまった。  そのうち見るのもひと段落したので二人して地面に腰かけた。  落ち葉が積もっていて土に直接触れない場所へ。  もう一度水筒を出してお茶を飲む。 「もう少ししたら日が暮れるよ。夕日を見てから帰ろうよ」  遅くなると森の中を歩くには少し大変でしょう、とそのあと続けた。  狼男の性質として夜目がきくコリンとは違って、人間により近いノアは夜には弱い。暗い森を歩くのは大変危険なことだ。  しかし先程のようにコリンに手を引いてもらえば大丈夫だろうが。  言おうとしてやめた。  恥ずかしいではないか、こんなことは。  誤魔化すようにバスケットを探った。 「お茶には遅いし、夕飯には早いが。歩いてくたびれたろう」 「わ! サンドイッチだね? いいの?」 「うまくできたとは思うぞ」  ノアが取り出したのはサンドイッチだった。  コリンはそれを見て目を輝かせる。どれにしようかな、などと指先で迷っている。 「これはブルーベリージャム。これはチキン。これは玉子……」  種類も豊富にたくさん作ってきたのだ。  張り切って弁当のようなものまで作ってきてしまったのはちょっと恥ずかしかったが、チキンのサンドイッチを摘まんでいつものように「美味しいーっ!!」とコリンが言ってくれれば、そんな気持ちは吹っ飛んだ。 「そりゃあ良かった」  玉子のサンドイッチを自分でも摘まむ。  お茶とサンドイッチ、そして紅葉、見下ろせる街の風景。  なんて素晴らしい『お出掛け』なのだろう。しみじみ思った。  そしてそれを更に強く感じたのは、日が暮れようとしたときのことだった。  サンドイッチは綺麗になくなって、二人のおなかも満たされた。  そこへ見た、夕日に沈んでいく風景。  とてもうつくしかった。  オレンジ色に染まっていく様子。  少しずつオレンジが濃くなっていく。  ふと思った。  コリンに作ってやった上着もオレンジ色だ。茶色の髪に似合うと作ったものだったがまるで夕日のようではないか。  その上着をまとったコリンのほうを見て、ノアはどきりとした。  コリンの表情は無邪気なものではなく、落ち着いたものであったから。  このような表情はあまり見たことがない。  まるで大人のような表情をする、と思ってしまった。普段は子供にしか見えない表情や行動なのに。 「色がだんだん濃くなっていくの。オレ、これを見ているのがすごく好きなんだ」  言う声も落ち着いていた。ノアはその表情に見入ってしまう。 「オレンジが濃くなって、藍色になって、それで黒になる。今日は黒くなるまで見られないのが残念だけど」  自然の中に暮らす、オオカミらしいことをコリンは言う。  ノアよりもっと、自然のうつくしさや魅力を知っているという声だ。 「真っ暗になったら、今度は街の灯りと星が見えるよ。それもとっても綺麗なんだ」  ノアが見つめてきているのを知ったのか、コリンはこちらを見た。にこっと笑う。 「今度は星を見に行こうよ」 「ああ、……っ!?」  コリンの言ったことはごく普通のことであり、魅力的でもあったのでノアはそのまま頷いたのだが。  直後、固まった。  ふっとコリンが動いて、ノアに身を寄せてきたのだ。  一瞬のことだった。  体だけでなく顔が近づいて、くちびるになにかが触れた。  だが、ノアがそれがなんであるかを理解することはできなかった。ただ呆然としてしまう。  なにが起こったのか。  ぼうっとしたノアを見て、コリンはなんだか気まずそうな顔をする。 「……イヤだった?」  言われてノアは、はっとした。かぁっと顔が熱くなる。  くちびるが触れ合う意味。  一瞬で思い知ったので。 「や、……そうじゃ、……いや、でもなんでこんな」  しどろもどろになった。  一応、否定はしてそれは本心だったものの、それよりも動揺が強かった。  コリンはますます気まずそうな顔をして、ぽつんと言う。 「ん……なんか、ノアが綺麗だったから」  それしか言わなかった。  ぱっと離れて、「そろそろ帰ろうよ。森が真っ暗になっちゃう」と言った。まるっきりいつもの様子だった。  明るくて、無邪気なコリンの様子そのまま。  ノアは一瞬の夢でも見たかのような気持ちで「ああ……」と言うしかなかった。  そのあとまたコリンが手を取ってくれて、暗くなりつつある森の中を歩いてノアの家を目指した。  しかし二人ともなにも言わなかった。  ノアはなにを言ったものかわからなかったし、コリンも珍しく、そりゃあもう今までないくらいに黙りこくってしまっていた。  歩いている獣道はまるでどこまでも続いているような気がした。  おまけに暗闇が迫りつつある。  しかしノアはまるで恐ろしくなどなかった。  触れられて、握られて、引かれている手があたたかかったから。  手を引いてくれているひとがいるのに、恐ろしく思うことなどありはしない。  それでも道は終わり、ノアの家が見えてきた。日はすっかり暮れて真っ暗になりつつあった。 「着いたね。遅くまで付き合ってくれてありがとう」  ほっとしたようにコリンは言った。  あ、やっと話してくれた、と思ってノアは「こちらこそ」と言った。  まるでさっきのことなどなかったかのように、コリンは「じゃ、オレはそろそろ帰るね。今日は楽しかったよ! じゃ、おやすみ!」と、ぱっと身をひるがえしてしまう。  今までゆっくり歩いていたのはノアに合わせてくれていたのだ、と強く感じさせられるほど、駆けていく様子は力強く、また俊敏であった。  数秒で後ろ姿も見えなくなる。  ノアはしばらくその場に佇んでいた。  綺麗だった丘の上。  あたたかいお茶とサンドイッチ。  一緒に見た夕日。  そして、……触れ合ったくちびる。  遅すぎることだが、一気にノアの頬は燃えた。  あれは一体なんだったというのか。  コリンは「ノアが綺麗だったから」としか言わなかった。  が、キスなどしてきたのだ。なにかしら、ほかの理由があって然るべき。  もしかして、今まで遊びに来ていて「好き好き!」と言ってきたのも、なにもわかっていないわけではなかった、のだろうか?  ノアは思い至って、思わず口元を押さえてしまった。顔が熱い。  はっきり思い知った。  ほだされたどころではない。  無邪気で、明るくて、優しくて、そしてそれだけではなくて、もう大人の顔だってするコリン。  いつのまにかノアのほうも惹かれてしまっていたことに。

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