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少し不安な月の夜

 秋は月が綺麗だ。  空気が澄んでいるので夜空がとても良く見える。  その中に煌々と輝くお月様。  真ん丸だったり欠けていたり、もしくはほんの少ししか見えなかったり。見え方は様々。  ノアは月を見るのが好きだった。  子供の頃からそうだ。寝る前には寝室の窓から月を眺めるのが習慣である。雨や曇りでもない限り。  子供の頃は祖母に何度も月の話を聞いた。  月にはうさぎが住んでいて餅つきをしているのだとかいう童話の本もあって、それもお気に入りだったものだ。  ほかには「あそこの陰が女性の顔に見えるのだよ」「あそこはカニだと言われている」と月を指して、昔からの言い伝えを教えてくれたりした。  自然に馴染みの深い魔女。  満ち欠けから年月を。  空に在る場所から時間の経過を。  たくさんのことを教えてくれる月。  今夜はまだ時間が早いが、暗くなるのも早いので月の見える時間もだんだん早くなっている。  今夜は上弦の月。もう少しで満月だ。  満月になったら団子でも作ろうか、と思う。月見の季節は少し過ぎてしまったが月の美しさはいつだって変わらない。  夜、過ごすのは独りなので祖母が亡くなって以来、誰かと月見をすることは久しくないが昼間訪ねてくるお客なんかに団子を振舞うのもいいだろう。  「夜、これで月見でもしてくれ」と渡せば、そういうひとたちと一緒に見ている気持ちになれる。酒を好む者なら酒を楽しむお供にしてくれるだろうし。  白玉粉を買ってこなければな、と思う。  白玉粉と砂糖だけのシンプルな団子のほかに芋を入れた黄色い団子もいい。彩りが良くなる。  団子を作る算段をしていたときのことだった。  とんとん、と玄関が叩かれた。  おや、こんな時間に誰か。急患のお客だろうか。  たまにあることだ。「子供が急に熱を出して」と慌ててやってくることなど。  子供は急に体調を崩すもの。  そういうたぐいのことかもしれないとノアは玄関へ向かったのだが、そこに居たひとを見てどきりとした。  それはコリンだったのだから。  コリンはノアの家で過ごすようになってから、窓からやってくることがなくなった。  きちんと玄関から訪ねてくる。  それは関係が窓越しでなくなったことを示していた。今ではそれすら嬉しくなってしまう。  が、コリンがこんな遅くに訪ねてきたことは今までない。 「こんばんは……」  言う声にも力がない。常と違うのがすぐにわかった。 「こんばんは。なにかあったのか」  心配になったノアだったがコリンは言葉を濁す。 「なにかっていうか……入っていい?」 「ああ、もちろんだ。どうぞ」  コリンを普段過ごす部屋に招き入れる。  普段なら明るい顔をしておしゃべりがとまらないのに、今日は寡黙だ。  どうしたのか、と思いつつもノアは「お茶を淹れよう」と毎回コリンが訪ねてきたときそうするように言ったのだが服の裾をぎゅっと掴まれてしまった。  当たり前のようにノアはどきっとしてしまう。 「お茶はいいよ……ここに居て」  弱々しい声で言われれば放っておくことなどできないではないか。コリンの狼の耳も力なく垂れてしまっている。 「具合でも悪いのか?」  彼をソファに座らせる。体調でも崩したかの様子だ。 「ううん……風邪とかじゃないんだけど」  病気ではないようだ。  ちょっとだけ安心して、ノアはその隣に腰をおろした。  コリンはノアの服を掴んだまま。妙に心細げに見えた。 「オレ、前に『月が苦手』って言ったと思うんだけど」 「ああ、そうだったな」  言われて思い出した。  ノアが犬が苦手な理由を話したときに、『誰しも苦手なものくらいある』と、コリンは『月』と挙げていたのである。  あんな綺麗で、手も届かないものを苦手とするのを不思議に思ったのだ。 「なんかねぇ、ヘンな感じになるんだ」  ぽつぽつと話された。ぎゅう、と手に力が入った。 「月が膨らんでくと、だんだんそれが強くなる」  ノアはただそれを聞く。  今ばかりは魔女業のような気持ちだった。不安に陥っているひとの悩みを聞くのも仕事。 「月に関係があるのか? 体調だけじゃなくてか?」 「そうだと思う。目にするとそれが強くなるから」  聞いてみたがコリンは確信があるらしい。はっきりと言い切った。 「月、ねぇ……」  ちょっとだけ考えて、ノアはあることに思い至った。  ひとならざるもの。  多少の知識はある。 「狼男は月の夜に変身するという話を知っているか」  え、とコリンは顔を上げた。  初めて聞いた、という顔だった。 「知らない。それに、変身なんかしないよ」 「それはお前が子供だからじゃないか?」  ノアの言葉には不満げに眉がしかめられた。 「失礼な。オレ、もう子供じゃないし。それに周りの大人だってそんなふうになったりしないよ」 「……そうか……」  いや、子供だろ。  内心反論する。口には出さなかったが。  コリンは完全に子供でないにしろ、大人というには早すぎる。  最近はなんだか無邪気なだけの存在ではないと思うようになっていたけれど。  それでもノアはそう思っておきたかった。  目の前のコリンはまだ少年なのだと。  あのとき……『お出掛け』のとき見せた顔については深く考えたくなかった。なにかが変わってしまいそうな気がする。  いや、もう変わってしまっているのだが。  なにしろキスなどされたのだ。  しかし今はそういう話をしているときではない。  ノアは思考を現状へ戻した。 「じゃあそれはただの伝承ということだな」  なにしろ狼男が周りにいる環境で育ったコリンがそう言うのだ。  隠すにしたって限界がある。本当に変身などはしないのだろう。  例えば動物の狼になったり、狼の本性が強くなる凶暴な、といったら失礼だが、まぁそういう姿になったり。そういうことは。 「そうだと思うなぁ。でも、やっぱり周りの大人も落ち着きがなくなる感じは、する、かもしれない」 「ふむ……」  ノアはこれ以上なにも言えなかった。アドバイスも思いつかない。  狼男についての知識など聞きかじったくらいしかないのだ。基本的にノアの魔女業は人間に対するものである。 「ところで、そうならばどうして今夜はここに来たんだ?」  仕方がないので、話をそもそものところへ戻してみる。今度、狼男に関する本でも読んでおこうかと思いながら。  ヘンな感じになるのはともかくとして、それがどうしてノアのところへやってくるという状況になるのか。  単に魔女としての自分を頼ってきたとは考えにくかった。 「ん……別に……逢いたくなっただけ……」  はっきりとはしていなかった。  むしろ濁すような口調だった。  が、ノアの心を揺さぶるにはじゅうぶんすぎる理由。  嬉しいと思ってしまう。不安定なときに自分に逢いたいと思ってくれたのは。それはコリンが自分に対する好意を表してくれることになる。  しかしコリンがどのように自分の感情を捉えているかはよくわからなかった。  無邪気に懐いてくるだけかと思っていたのに、あのときのキスである。  大人に甘える子供であればそんなことはしないだろう。  せいぜい、親愛を示す頬へのキスどまりであるはず。  それにあのときのコリンは、『キス』という行為の意味を知らないという顔ではなかった。  あれ以来、なにもしてこないし話題にも出さなかったけれど。  よって、ノアとの関係はいまいち煮え切らなかったといえる。 「……そうか」  戸惑いながらもそう言っておく。  嬉しい、とかありがとう、とか言うべきだろうかと思いながら。 「その、泊まって、いってもいい……?」  まるで予想外ではなかったが、言われたことにはもう一度どきりとしてしまった。そうなってしかるべき流れであったが。  泊める。  自分にキスをしてきた相手を。  まさかどうこうなるわけじゃあるまいな。  一瞬、ノアの頭にそんな危惧が浮かんだ。  が、自分としてはまるきり嫌ではないのが困りものだ、とノアはむしろ自分に困ってしまう。  しかしこのような様子のコリンをそのまま帰すこともできない。心配なのだ。 「ベッドなんかは無いが、それで良ければ」  釘をさすように言った。  一緒に寝るつもりはない、と。  そしてありがたいことに、少なくとも現状としてはありがたいことに、コリンもどうやらそういうたぐいの思考はなかったようだ。 「かまわないよ。ここに置いてくれるだけでいいんだ」 「それなら居るといい」  それだけで話はついてしまって、ノアは「やっぱりお茶を淹れよう」と立ち上がる。今度はコリンも引き留めなかった。  キッチンでなにを淹れようか、と考えてノアはお茶ではなくミルクの瓶を手に取った。  不安定な様子のコリン。子供にするようなことだがホットミルクでも作ってやろうと思った。  夜はずいぶん冷えるようになっているし、心の安定にも役立つのだ、ホットミルクは。  ミルクパンで軽く温めて少しのはちみつを入れる。  沸ききらない頃に火を落としてマグカップにホットミルクを注いだ。  部屋に戻るついでに寝室からブランケットを取ってきた。今夜は眠らないのかもしれないが、一応と。 「お待たせ」  ノアが部屋に入ると、コリンが窓のそばにいた。  どうやらカーテンを引いていたようだ。それほど見たくないらしい。  本当になんなんだろうな。  ノアは自分の知識不足を悔やんだ。  が、今はどうにもできない。少しでも落ち着かせてやるしかないのだ。 「飲むといい。落ち着くぞ」  ノアが戻ってきたと知って、振り向いたコリンは明らかにほっとした顔をした。  自分を見て安堵してくれること。  ささやかだが嬉しいことだ。  ソファに戻ったコリンの横に座り、ノアは彼にマグカップを渡した。 「牛の乳?」  ふんふんとにおいを嗅いでコリンはひとくち飲んだ。 「ん……美味しい。なんか甘い。はちみつ?」 「そうだ」  流石、味覚も鋭い。ひとくち飲んだだけで、なにが入っているかわかったようだ。  こく、こく、と半分ほど飲んでしまいコリンは、ふぅっと息をつく。  まだあたたかいであろうマグカップを手で包んだ。  その様子を見ながらノアもひとくちホットミルクを飲む。  そろそろ月も真上……深夜になろうとしているだろう。  こんな時間にコリンとこんなふうに過ごしているなどなんだか不思議な感じがした。おまけにいつもとまるで違う空気なのだ。 「なんだろうな。前はこんなことなかったのに……なんか、年々強まってくるんだ」  不安げに言うコリン。  明らかな理由はわからずとも、それはコリンが大人に近付いていっているからだろう、という想像くらいはついた。大人の狼男が最終的にどういう状態になるのかはわからないが。 「まぁ、あまり考え込むな」  ノアはコリンを安心させるように笑ってみせた。  悶々と考え込んでもなにも変わらないことは多い。それより楽しい話でもしてやるか、と思ったのだが、不意に肩にこつりとなにかが当たった。  やわらかなそれは、コリンの狼の耳だった。  毛におおわれてふっさりとした耳。  頭を押し付けられたのだ、とわかってまた心臓がひとつ跳ねてしまう。  こんなに近付いたことなどそうそうない。  ただ肩に寄りかかられただけなのに鼓動がどくどくと速くなる。 「うん……独りでいるよりずっといいや」  ノアの肩に頭を預けて言われた言葉。  先程より僅かであるが安堵が滲んでいた。 「それは良かった」  ドキドキしてしまうところはあるが、コリンが安心できると言ってくれるのは嬉しい。  ノアはためらった。  が、勇気を出すことにする。  そばに置いていたブランケットを引き寄せて広げる。  コリンの体を覆うようにかけてやった。  コリンが目を丸くしたであろう気配が伝わってくる。 「これ、布団?」 「ブランケット。膝掛けだ」  膝掛け、と言って通じるだろうかと思って言いなおす。 「足をあたためるものだな。しかし肩にかけてもいい。あったかいだろう」 「……うん」  ふっと笑う気配がして、肩にかかる重みが強くなった。 「ブランケットっていうのもあったかいし、ノアもあったかい。気持ちいい」 「……そうか」  会話はそれで途切れた。  コリンは黙って目を閉じているようだし、ノアもなにか言おうとは思わなかった。  夜は普段、当たり前のように眠っているので眠気はある。  だがコリンを放って眠る気にはなれなかった。  心配なのもあるし、それに緊張もある。  別段襲われると思ったわけではないが、一応、恋に似たような気持ちはある相手。  好きだ付き合ってくれとか、そういうことを言いたいとは思わないけれど、傍に居ることや心揺らされることを嫌だと思わないどころか、自分を頼ってくれることを嬉しいと思う。  そのうちコリンは眠ったようだ。呼吸が穏やかで小さなものになる。  なんだ、やっぱりまだ子供だな。  ノアは、ふっと笑ってしまう。手を伸ばした。  コリンの肩に触れる。その肩は意外としっかりとしていて、そこだけは子供ではなかった。  体はほぼ大人。  だがきっと心が追い付ききっていない。  それが今夜の不安定さに繋がっているのだろう。  ノアはそう思った。数年前の自分もそういうところがなかったとはいえない、と思ってしまってなんだか懐かしくもなる。  コリンは大人になったらどうなるのだろう。  そこでちょっと不安を覚えた。  大人の狼男になったら。こうやって遊びに来てくれることもなくなるのだろうか。それは寂しいと思う。  けれど、今夜は。  肩をそっと抱いた。  これはまだ子供にするような手つきではあったのだけど、確かに愛しさが詰まっていた。

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