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月と衝動

「こんばんは」 「……また泊まりに来たのか?」  夜も更けた頃。  コリンが訪ねてきた。  ノアの言葉にコリンは「迷惑?」とちょっと気が引ける、という様子で言った。 「いや、そうじゃないが」  本当に迷惑ではない。なにも起こるわけでもないのだし。  ただ自分が少し落ち着けなくなってしまうだけだ。  でも別にいいだろう。今夜は本を読むつもりだったのだ。コリンが静かにしてくれさえすれば、別に問題はない。 「特にお構いできないが、それで良ければ入るといい」  ノアが受け入れる言葉を口にして、玄関を開けるとコリンはほっとしたような顔をした。  以前と同じようにソファに座ってブランケットをかぶる。 「これ、あったかくて好き」  勝手にかぶって言う様子は無邪気だった。まるで子供の反応。  かわいらしい、とノアは思ってしまう。 「それにノアのにおいがして安心するんだよね」  そのあと言われたことにはどきりとしてしまったが。  嗅覚の鋭いコリンだ。ひとの体臭を嗅ぎ分けることも簡単なのだろう。  それを気に入ってくれたなら良かったけれど、どうにも恥ずかしい。狼男からすればたいしたことではないのかもしれないが。 「オレはちょっと読みたい本があるんだが。そっちの灯りをつけておいてもいいか?」  ソファの近くへ持ってきていた小さなサイドテーブル。  ランプを乗せていた。部屋が暗くても、これがあれば文字は読める。 「かまわないよ」  コリンはそのまま受け入れてくれて、あの夜と同じようにノアの肩にぽすっともたれた。  本を開きながらノアはそちらを見る。  コリンは一体どういうつもりなのだろうか。  単に大人に甘えたいだけだろうか。  不安でひとと居たいだけだろうか。  それともなにか別の。  まだわからない。  近付かれた体からうっすら伝わる体温は心地よかった。胸は騒いでしまうが。 「あと二日もすれば満月になるよね」  ぽつりとコリンが言った。  今夜もカーテンを引いていた。  今夜はノアが引いたのだ。きっとコリンが気にしてしまうと思って。  カーテンを引いて暗い部屋。  ランプだけがまぁるいひかりを放っている。  本当なら外で煌々と月が光っていて明るいのだろうが。  この部屋はランプの灯りだけ。  人間により近いノアには少し心細くなる環境である。 「なんか怖いんだ。ざわざわする」  不意にコリンがノアの服をぎゅっと握った。肩にもっと体を押し付けてくる。  そこでノアは、あれ、と思った。  なんだか触れたコリンの体が熱いような気がして。  熱でもあるのか?  心配になった。 「ざわざわする、っていうのは落ち着かないってことか?」  しかし心の不安定さからくるものかもしれない。ノアは単に質問で返した。  コリンも「そう」と端的に肯定する。 「オレ、まさか本物の狼になっちゃわないかなとか思ったりするんだ」  ぎゅう、と額まで押し付けられる。  コリンが、本心からそれを恐れているのが伝わってきた。  またミルクでも淹れてやろうかと思ったが、多分必要なのは温かい飲み物ではなくノアがここに居ることと、そのぬくもりなのだろう。  コリンのことは心配だが頼ってもらえるのは嬉しい。  以前の夜と同じように、ノアはコリンの肩に腕を回した。逆側の肩をぽんぽんと叩く。 「大丈夫だ。そんな話は聞かないから」 「そう、だよね」  それだけやりとりしてコリンは目を閉じたようだ。  眠るのだろうと思ってノアは口を閉ざす。  本を開いて目を落とした。  ほかの種族も気にはなったがまずは狼男の項目を開いた。  『普段は比較的人間に近い存在』ではじまっている。  『見た目が狼寄りか人間寄りかは個体差がある。狼の耳や尾がついているだけであったり頭部がまるまる狼であったりする』  ふんふん、つまりコリンは人間に近い見た目ということだな。  ノアは本を読み進めた。  そこで、ある一文に目を留める。 『狼男の一番の特徴。それは月に反応して狼の本能が強くなることである』  狼の本能?  月に反応するという一文に目を奪われた。  それはまさに、今の、というか最近のコリンの様子ではないか。  しかしそのあとは更に衝撃的だった。  『攻撃的になり、衝動的になり、稀ではあるが、いわゆる変身と呼ばれるように見た目がより狼に近くなる者もある。そして繁殖のできる年齢である狼男は、月によって発情を誘われることがあり……』  そこまで読んだノアが息を呑んだ、そのとき。  眠っていたはずのコリンが身じろいだ。  なんだ、起きたのか。  思ったのは一瞬。  コリンの口から出たのは苦しそうな声だった。 「う……、は、ぁ……っ」  先程されたように、ぎゅう、と服を握られたのでノアは声をかける。 「どうした、具合でも」  しかし言えたのはそこまでだった。  コリンがゆっくり顔を上げる。  その顔を見てノアはびくりとしてしまった。  濃い黄色の瞳。  まるで月のように爛々としていたのだから。  食われる。  そんなことはあるはずがないのに、頭によぎった。 「ノア」  呼ばれた声は普段とはまるで違うものだった。  低い声。  普段はまだ子供らしい高い声をしているのに、一オクターブは低いだろう。  コリンの眼と声の変化にノアが固まっているうちにコリンが体を起こした。  そして次の瞬間。  ノアの視界がひっくり返った。  ぐるんと天井を一周したかのような錯覚を覚えた。  背中がどさりとなにかに叩きつけられる。  それはやわらかいものであった。ソファだろう。  思い至って、なにが起こったのかと目を開けてノアは再び固まってしまう。  食われる。  もう一度胸に迫ったために。  爛々とした目でノアを見つめるコリン。狼男そのものといった様子だった。  ノアをソファに押し倒して、乗りかかって。呼吸も荒い。  まさか、これは、あの本に書いてあったとおりの。  ノアが思えたのはそこまでだった。  ぐっとコリンが体を近付けてくる。くちびるに噛みつくようにくちづけられた。  ノアの目が丸くなり、体が固まる。  コリンにキスをされるのは二度目だ。  が、あのときとはまるで違っていた。  ノアを食べてしまうかのような激しさと様子だったのだから。  目を閉じたりなどということは到底思いつかなかった。  ノアはただ固まっているしかない。  そうしている間にもコリンはノアのくちびるを舐め、くびすじへと移動した。ちゅっちゅっと食いついてくる。  まさか噛まれるのでは。  ぞくっとして、ノアは思わず声をあげてしまった。 「コリン!」  名前を呼ばれたコリンが、びくっと反応する。  顔を上げた。  その眼はまだ爛々としていたが、すぅっとそれが引く。  なにがあったのかわからない。  呆然とした、といえるほどに表情が抜ける。 「……コリン」  ノアが呼ぶ声はかすれた。  しかしそれに自我を取り戻したように、コリンはまたびくりと震えた。ばっと動いてノアの上から退く。  真逆のほうへ向き、おまけにソファに突っ伏してしまう。  落っこちていたブランケットを乱暴に掴んで頭にかぶせた。 「ごめん! ごめん! なんで、こんな……」  ブランケットの中から聴こえる声は震えていた。  自分の行動が信じられない、と。  戸惑いがたっぷり含まれた声。  それでもコリンは謝ってくる。自分の行動が信じられないと思いつつも、悪いことをしたとは思うのだろう。 「なんだよこれ! オレ、おかしい……」 「……コリン」  自身の上から退かれたのでノアはちょっとほっとして体を起こした。  ためらったものの手を伸ばす。  コリンの肩であろう部分にブランケットの上から触れた。  コリンがあまりに苦しそうだったのだ。  しかしそれはコリンにとって落ち着くものではなかったらしい。  またびくりと震え身が固まるのが伝わってくる。 「これはきっと、おかしくなんてないんだ。きっと、これは」  ノアのほうが少し落ち着いていたので、先程読んだ本の内容を思い出すことができた。  月の晩と、狼男の関係について。  それを話そうとしたのだが、今のコリンには冷静に聞けることではなかったようだ。  ばっとブランケットを跳ねのけて、ノアを見ずに立ち上がった。 「……っノア、ごめん! ほんとにごめん!!」  立ち上がるだけでない。  一瞬で飛びすさり、窓へ向かった。  乱暴にカーテンを引き開け、窓ももどかしそうに開けて、外へ飛び出す。  たしっと音がして、たたっと駆けていく音がした。  すぐに聞こえなくなる。風のように駆け去ってしまったらしい。  一人部屋に残されて、ノアはぼうっとしていた。  コリンが窓から出ていくなんてどのくらい久しぶりかわからなかった。  ノアはコリンが飛び出していってしまったこと以外にも、窓からなんてという点にも呆然としてしまう。  一連の出来事が理解できなかった。  きっと、本のとおりなのだと思うが今の状況を冷静に分析できる状況であるはずもなく。  ふぅっと、窓から冬の冷たい風が入ってきた。  ノアが床に落とした本。  そのページを何枚か、ぱらぱらとめくっていった。

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