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明日は満月

 ことこと。  鍋の中で煮えているのはシチュー。  寒い折。あたたかなシチューが恋しくなったのだ。  今夜そのまま食べて、明日、パスタを敷いた皿にシチューとチーズをかけて焼こうと思う。冬は特に美味しいご馳走だ。  ミルクと玉ねぎでベースを作って、じゃがいもやにんじんといったポピュラーな野菜を煮だしたスープと合わせて、調味料と少しのハーブを入れたらあとは煮込むのみ。  ことことと弱火でシチューを煮込みながら、ノアはおたまで中身をかき混ぜていた。  美味しいものを作っているのにどうも楽しみきれない。  それは昨夜のことがおおいに関係していた。  飛び出していってしまったコリン。  自我を失い、衝動的な行動をしてしまったことに、だろう。  ノアごめん、と何度も謝って。  あれからノアはしばらくぼうっとしていた。  コリンの豹変ぶりは衝撃であったし、押し倒され激しいキスをされたことも、そのあと彼が飛び出していってしまったことも、すぐには受け入れられなかった。  はっとしたのは、窓からつめたい風が入ってきていたからだ。  いけない。冬の折に、しかも夜に窓を開けっぱなしなど風邪をひいてしまう。  思ったノアはのろのろと動いて窓を閉めようとした。コリンがきちんと開けてくれたために今度は壊れてなどいなかった。  全開になった窓に手をかけて、ノアはちょっと上空を見てしまった。  そこには月がぽかんと浮かんでいた。  コリンがあれほど恐れ、苦手としていたものだ。  その昨夜の月。  コリンの黄色の瞳のように、強い光を放って輝いていた。  綺麗なのにどこか不気味でもあったそれを思い出してしまい、一夜明けてシチューを煮ながらノアはぞくりとしてしまった。  若干寝不足であった。  コリンが飛び出していってしまって、もう今夜は戻ってこないと思ったので、ソファの部屋にいる意味もなく寝室へ向かってベッドへ潜り込んだのだが、眠れるはずもないではないか。  ごろごろと寝返りばかりを打つうちに夜は明けていた。月も見えなくなっている。  このことでコリンが少しでも落ち着き、安心してくれていればいい、と思った。  シチューの煮えるやわらかな香りがする。  あたたかいシチュー。煮ているのには理由があった。  もしやコリンが来ないか、と思ったことで。  暴漢に襲われた事件のときも、自分が悪かったなんて言って、謝りに来たのだ。今回もそのようにやってくるかもしれない。  ノアはコリンを責める気などまるでなかった。  それは今日の午前中。  本の続きを、狼男の項目をすべて読んでしまったことからだ。  そこから理解した。  コリンがあのような様子になったのも、あのような行動をしたのも。  すべて自然なことだったのだ。  そしてその動機を考えるとしたらコリンは。  そこだけはどうにも信じきれなくて、ノアは困ってしまうのであったが。  自分を押し倒したりキスをしてきたりしたのは『そういう対象』、つまり繁殖をしたい相手だと思ってくれているからだろう。  もちろん男同士で繁殖などできるはずがない。  けれど惹かれることには男も女もないのだし、その気持ちの行きつく先は決まっている。  だからなにもおかしなことはない。そしてコリンがそういう行為を望んでくれているならば、自分は。  こんこん。  ノアがそこまで考えたとき、不意に玄関のドアが叩かれた。びくりとする。  人間のお客かもしれないが、ノアには予感があった。  コリンだろう、という。  ごくりと唾を飲む。  シチューを煮ていた火を落とした。寒い折なのでこのまま置いておいても傷んだりはしない。  玄関へ向かいドアを開けると、果たしてそこに居たのはコリンであった。  しかしここしばらく夜に訪ねてきたときよりも元気がない。耳も垂れてしまっているし、俯いているし、多分尻尾も落ちてしまっていることだろう。 「……よく来てくれた」  なんと言おうか迷って、ノアはそう言った。  今更、突き放すようなことも責めるようなことも言うつもりはなかった。  むしろ、来てくれてよかったと思う。  ノアの言葉にコリンは、ばっと顔を上げた。  不安げだった顔がすぐにくしゃくしゃに歪む。  ぽろっと涙さえ落ちるのが見えた。次の瞬間。 「ノア!」  コリンがまるで体当たりをするようにノアにしがみついてきて、あまりの力の強さにノアはうしろに倒れ込むところだった。  なんとか耐えてコリンを受け止めた。子供が縋るようにその体は震えている。 「ごめん……オレ、昨日……」 「謝るな」  ぎゅう、とノアの胸元を握りしめて震える声で謝ってきた。  ノアはその背を抱いて、やわらかく否定する。 「なんで? オレ……」  あんなことをされたのに、当の本人であるノアがそう言ったからか、コリンの声は不思議そうになった。  きっとノアがコリンを罵ったり、突き放したり、もう来るな、なんて言うかもしれない。なんて思っていたのだろう。  そしてそれはとても不安だったはずだ。 「お前は悪くないからだ」  今となってはノアのほうが落ち着いてしまっていた。コリンの背を撫でる。 「なんで……」  呆然と言われる。  理由を話しても良かった。  が、どうもそれはふさわしくない気がした。  だってコリンは本当に自分がどうしてあんなふうになったのかを理解していないのだ。  簡単なものなら文字は読めるようなので、本を見せれば理解するだろう。理性の範囲内ではあっても。  しかしそんな、教科書で教えるようにするよりも。  よって、ノアは言う。 「コリン。明日、うちに来い」  ばっとコリンが顔を上げた。  信じられない、という顔だった。  なにしろ明日は満月なのだ。  コリンは言った。  月が膨らむにつれておかしいのが強くなる、と。  その理屈で言うなら、満月である明日がピークだろう。  そしてコリンの体は示している。  もう狼男として、月に反応するほど体が成熟しているのだということを。 「オレ、きっとまたおかしくなる……」  また顔が歪んで不安げに言われたが、ノアはやはりやわらかく否定した。 「大丈夫だ。心配するようにはならないから」  コリンはなにか言いかけ、だが口を閉じた。  なんと言っていいかわからないという様子で。 「まぁともかく、せっかく来たんだ。飯でも食べていくか?」  ノアは話題をがらりと変えた。  コリンは戸惑ったろう。意外な展開すぎるはずだから。  それでも返事をしてくれた。  そっと、ノアの胸元から離れながら。 「いい……今日は帰るよ」  小さな声で、少し考えたいから、と言った。  コリンはそのまま背を向けた。森の方向へ向かって、たっと地面を蹴る。  ノアはその背中にもう一度言う。 「待ってるからな」  コリンの心にこれが本心であることが届けばいい、と思いながら。  いつものように飛びすさるように駆け、消えていったコリンの背中に言ったのだった。

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