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オオカミ少年が大人になる日
空には月。
最大限に丸く膨らんで、煌々としていた。
窓を開けて、つめたい空の中に浮かぶそれをノアは妙に落ち着いた気持ちで見ていた。
自分がこんなに落ち着いてしまっていることを、ノアは少し申し訳なく思う。コリンは不安でいっぱいだろうに。
でも自分がその不安を拭ってあげることが出来るのならば。
彼を救ってあげられるのならば。
なんでもしてやりたいと思う。
申し訳なく思うというのに、ふ、と笑ってしまった。
自分がおかしくなる。
犬は嫌いだった。
そこからの連想でオオカミ少年も嫌いだった。恐れていた。
その自分が、いまや。なんという変化だろう。
けれどその変化は今では嫌なものではない。
むしろ嬉しいものであるといえた。
だって、とてもあたたかな気持ちなのだ。
誰かを想う気持ち。
抱くのは初めてではない。
が、状況は今までとはまるで違う。
向こうからも好意を向けられているという嬉しすぎる状況なのだ。
コリンが自覚しているのかは定かではないが。
しかしある程度は思うところがあるのだろうと感じさせられる。
それは一昨日の夜のキスからよりも、秋の日に森の奥へお出掛けをしたときの様子からより強く感じた。
キスという行為の意味。
そうしたいと思う理由。
まるでわかっていないはずはない。
そのあとになにがあるかをコリンが知っているかについて、ノアにはわからない領域であるというだけだ。
でもどちらでも良かった。
今は自分のほうが落ち着いてしまっているから。
たとえコリンが自我を失ってしまっても受け入れようと思っていた。
後悔などしない自信がある。
だって、それに衝動が絡んでいようとも、コリンの気持ちは確かにその中に在ってくれるのだから。
ノアが見つめる外の景色。
ふと、ちらりとなにかが動いた。
ノアは視線を空から地上へと向ける。
そこには見慣れた姿が見えた。ノアの作ってやったオレンジ色の上着を着て、森から出てきたコリンが。
「あがってこい」
ノアは当たり前のように声をかける。
それが落ち着いた声なのを知ったのだろう、コリンは少しためらったようだが動いた。
ただし玄関へ回るのではなく地面を蹴る。たっと小さな音がして、次の瞬間にはコリンが窓にしがみついていた。
ノアは体を引いてコリンが中に入れるようにする。
以前そうしていたように。コリンは窓を抜けて部屋の中へ入ってきた。
「……来た、けど。いいの……」
まだ戸惑って、ためらっているような声と様子。
「オレが来いと言ったんだろう」
それには「そうだけど」ともごもごとした返事が返ってきた。
ノアはコリンの入ってきた窓を閉めて鍵をかける。
しかしカーテンは引かなかった。
コリンがそれを見て、不安げな顔をする。その通りのことを言った。
「カーテン……閉めないの」
「要らないだろう」
「要るよ! だって、」
きっぱりと言ったノアにコリンは声を上げたけれど、制止するようにもう一度はっきりノアは言う。
「要らない。いいからこちらへ来い」
コリンの腕を掴んだ。
コリンの体がびくりと跳ねるのが伝わってくる。
それは単に触れられたから、ではなさそうだった。
「やっぱりおかしいよ、オレ、どうにかなりそう……」
既にコリンの息は軽く荒くなっていた。はぁ、と苦しそうな息が零れる。
ノアはそれを数秒見つめ、手を伸ばした。
コリンの体を抱き込む。
今度はよりはっきりと体が跳ねた。
「駄目だ、オレ……」
もがいて腕の中から脱しようとされたが、ノアは拘束する力を強くする。
力はコリンのほうがずっと強いのに、ノアの意思に気圧されてだろう。
コリンは逃げようとするのをやめてしまう。まだ受け入れきれないようだが。
「コリン。お前は大人になったんだ」
「……え?」
静かに言ったことには、戸惑った声が返ってきた。
「オレ、元々もう子供じゃないよ」
普段言うように言われたけれど、ノアは首を振る。
「そういう、体格やら思考やらじゃない。体が大人になったということだ」
コリンは余計わからなくなったようだった。
コリンにとっては体格=大人という認識であっただろうから。
その彼に言って聞かせる。
「狼男について調べたんだ。狼男は大人になると、月に反応するようになるんだとか」
説明のあとに、自分の思っていることも付け加える。
「だから、むしろ……喜ばしい、のかもしれない」
ノアの説明には息を呑まれた。それはコリンがずっと疑問を覚えていたところだったろうから。
「凶暴になるとか衝動的になるとか……そういうこともあるらしいが」
ちょっと言葉を切った。
流石に恥ずかしくなってしまったので。
よって、表現する言葉は濁った。
「お前のしたいと思ったこと。そういうことも望むようになるそうだ。月に誘われてな」
コリンは無言だった。
自分がなにをしたいと望んだのか。
わかっているだろうか。
「……駄目だよ」
たっぷり三分は無言だったろう。
コリンの返事はそれだった。ぎゅっとノアの肩口に顔を押し付ける。
駄目とは。
ノアは思ったが、すぐに続けられた。
「オレ、ノアに酷いことなんてしたくない。それじゃ、ノアを襲ったやつと同じになる」
それは『理解』だった。
「なんだ、あれがなんだったのかわかっていたのか」
ノアはむしろ安心した。まるでわからずにいられるほうが大変だと思っていた。
しかし『同じになる』なんて言ったのならば、あのときのコリンの様子はちょっと噛み合わない。
その疑問についてはすぐに答えを言われた。
「あのときは知らなかったよ。でも仲間に聞いたんだ。ヒトを襲うヒトがいたって話をしたら、それがなんなのかって」
また数秒、沈黙。
動いたのはノアだった。
「同じなんかじゃない」
コリンの背中に手を回す。今度は受け入れるものではなかった。
ノアからも身を寄せたのだから。
「オレの気持ちが違う。嫌だと思うか、そうでないか。どちらかだ」
端的だったがコリンには伝わったろう。
言うのは恥ずかしかったが多分コリンにははっきり言ったほうがいい、と思う。
顔を見ないように同じくらいの背丈のコリンの肩にもたれながら言った。
背丈は同じでもコリンの体のほうがよっぽどがっしりしていた。
多分初めて会ったときとは格段に成長している。
見ただけでもわかるくらいなのだ。
「一緒に出掛けたとき、キスをしたろう」
「……うん」
ひとつずつ。
進んでいく。
気持ちを合わせる言葉が。
「オレが嫌じゃなかったのくらいはわかるだろう?」
「……ノアは。……あのあともオレと過ごしてくれたから。そうだったらいいなって。思ってたけど」
ためらいためらい、迷っているようだが言われる。
ノアはそれをそのまま受け止めた。
「じゃあそう思っておいてくれ」
腕に力を込めた。ぎゅう、と、今度はノアが抱き着くような形になる。
「お前がしたいと思ってくれることなら嫌だなんて思わないんだ。だからおかしくなったっていい。狼男そのままになったっていい」
ごくりと、コリンが唾を飲んだのが伝わってきた。
ノアは少しだけ目を閉じた。
こう言っても後悔などしない。
むしろ言わないほうが後悔する。
恐れはあったが、口を開いた。
「お前が望んでくれるなら」
これが最後。
聞くなり、ばっと、コリンが動いた。ノアの体を引きはがす。
ノアの顔を覗き込む瞳は、もう月に魅せられた大人の狼男のものになっていた。それでも訊いてくる。
「オレ、狼男になってもいいの」
「元々そうだと言ったのはお前だろう」
ぐっとコリンの喉が鳴った。
数秒、ノアの目を見つめていたがその瞳にはだんだん力がこもっていく。
窓から差し込む月光に誘発されたように。
ノアの頬に手が触れた。
大きくてごつくなった、オオカミ少年……いや、もう大人の狼男になった手。
噛みつくようにくちづけられたが、今夜は戸惑いも恐ろしさも感じなかった。
それは何度もくちびるを押し付けられて、先夜と同じようにソファに沈んでからも同じだった。
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