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伴侶と仕事と選択と
コリンの質問の意味がわかったのは、数週間あとのことだった。
初めて出会ったのと同じ、初夏の頃。
穏やかな日差しも窓から吹き込む風も心地いい。
良い天気であることも手伝って、窓は全開になっていた。
「ただいま」
ノアの家に訪ねてくるコリンの挨拶は、もうそんなものになっていた。
「こんにちは」ではない。
もう「こんにちは」では、他人行儀すぎるような関係になっていたのだ。
そしてそれが示すところ。
ノアは実のところそれに関しては疎すぎたと言える。
ただコリンが傍に居てくれるだけで、家に来て一緒に過ごしてくれるだけで、愛を交わすだけで。
そんなことで満足してしまうくらいに。
そもそも気付かなかった、一番大切なことがある。
それはコリンにとって重要なこと。
彼が普段どこに住んでいて、なにをしているのか。
未だにそれすら知らなかった。
が、それも気にすることがなかったほどだ。
目の前のことが幸せすぎて。
ただ、『現在』しかなかったといえる。
しかし今日「ただいま」と訪ねてきたコリンの顔は硬かった。
「おかえり。今夜は泊まっていくのか?」
普段訊くように尋ねたのだが、コリンは「んー」と言葉を濁した。
なんだか妙に顔が硬い、とノアは思う。
なにか悩み事だろうか。
ノアの思ったそれは呑気すぎたのだが。
「とりあえずお茶でも淹れよう。なにがいい」
それは受け入れられて、「紅茶」と端的に言われる。
よってノアはそのまま紅茶を淹れたのだが、普段過ごす部屋のテーブルにマグカップを置いてもコリンは「ありがとう」と言っただけで手をつけなかった。
ソファに座って、その上で手をぎゅっと握っている。
「なにかあるのか?」
ノアは流石に不審を覚えた。
自分でマグカップを持ち上げて、ストレートの紅茶をひとくち飲む。
紅茶のマグカップをテーブルに戻したとき。
コリンが、ばっとノアを見た。
「ノア」
その眼は硬い。
ノアは少々気圧されてしまう。
強い決意がその眼にはあったから。
「な、なんだ?」
たじろぎつつもそう訊き返すしかなかったのだが、コリンの手が動いた。
ノアの手を掴む。そのまま包み込んだ。
「な、なんだ……」
同じ返しをしてしまった。
コリンはノアをじっと見つめてくる。
今は満月でもなんでもないので爛々とはしていない。ただ硬かった。
「オレ、もう大人になる」
「あ、ああ……? 前からそうじゃないのか?」
心身共に大人になったことは知っていた。
ノアを抱くことができるように、体が大人になっただけではない。
あのときよりもはるかに、心も立派に大人のそれになったこと。
もう知っている。
けれど改めてそう言われる意味はよくわからなかった。
「あのね、大人の狼男はこのままコミュニティにはいられないんだ」
「……え?」
それは初めて聞く話だった。
コリンはひとつずつ説明してくれる。
「大人になったオスの狼男は、生まれ育ったコミュニティを出ないといけないんだ。それが一人立ちするってことだから」
「それで、育った場所を出て別の土地へ行くことになる。オレはもうすぐここの縄張りにはいられなくなるんだ」
噛んで含めるように言われた。
おそらく自分に言い聞かせている意味もあるのだろう。
コリンのその言葉、様子、そして言われている事実。
すべて、ノアを驚愕させるにはじゅうぶんなことだった。
そこからコリンが言いたいこと、望んでくれていることがわからないはずがなくて。
包んだノアの手をぎゅっと握って、コリンはそのとおりのことを言った。
「だからノアにも来てほしい。オレと結婚して別の土地へきてほしい。一緒に暮らそう」
喜ぶ前に、ぽかんとしてしまった。
結婚?
確かにコリンは言った。
初めて結ばれた、あの夜に。
『オレの伴侶になってほしい』と。
そのことを真剣に考えなかったではない。
本気でコリンと一緒になってもいいからこそ受け入れた。
そして今日まで一緒に過ごしてきた。
が、具体的なことについてはまだノアはなにひとつ考えていなかったのだ。
自分もコリンもまだ若いと思っていたこともある。
しかし自分のことはともかく、コリンは『大人になる』ということはひとつのハードルだったのだ。
それはもちろん今話してくれたような狼男のおきてのとおり。
嫌でも向き合わないことで、そうしないといけない時期なのだ。
それでもノアにとっては唐突すぎることに変わりはなかった。
こんな、プロポーズのようなこと。
『プロポーズ』であること自体はなんら問題がない。
心からコリンを想っているし、自分を本当の意味で伴侶にしたいと思ってくれることは嬉しすぎる。
だが、そのあとに続いたこと。
『別の土地へきてほしい』
ここを離れるのだ。
幼い頃から暮らしていたこの家を出ることになる。
おまけにどこへ行くともまだ決まっていないのかもしれない。
それはノアとしてはリスクが高すぎることで。
魔女業という仕事にこだわりもある。
近くの街のひとたちの力にずっとなってきたのだ。
自分が居なくなれば皆、困ってしまうだろう。
そのくらい自分の仕事に自信を持っていた。
だから即答などできるはずもないではないか。
今の環境を捨てようなどと。
「……イヤ?」
ノアが黙ってしまったのを見て、コリンの語調は弱まった。
それはそうだろう。このような反応をされれば拒絶と思われても仕方がない。
だからノアは言った。
正直な気持ちを、自分の現状を。
「嫌なはずないだろう。お前の気持ちは嬉しい。だが……」
コリンがごくりと唾を飲んだ。
無条件でOKをくれるわけではない。
そう思い知らされたのだろう。
しかしノアとて、現状を捨てられるほど軽いことではないのであって。
「ここを出ていくんだろう。オレは魔女の仕事がある。それをどうしたものか……」
最後は濁った。
だって、すぐに決められやしないのだ。
捨てるのか、捨てないのか、もしくは別の道がなにかあるのか。
まだわかりやしない。もっとよく考えなければ。
「そう……だよね……」
コリンの手の力が弱くなった。
しょぼんとした、という顔と声になる。
その様子はノアの心を痛めた。
傷つけてしまった。良い返事ができなかったことで。
コリンの気持ちに沿いたいのはやまやま。
しかしすぐには。
「誤解しないでくれ。お前の気持ちは本当に嬉しいんだ。でも仕事のことを考えると……」
「……それなら嬉しいな。じゃ、考えてくれる……?」
それには即答できる。
「ああ、もちろんだ」
即答したものの、付け加えてしまったが。
「すぐには無理かもしれないが……ちゃんと考えてみるから」
「……うん。ありがとう」
コリンはそう言ってくれたが、手放しで嬉しい、という様子ではなかった。
当たり前であろう。
二つ返事でOKが欲しかったであろうから。
「今日は帰るね」
なんとなくそう言われるとは思っていたが、そのとおりのことを言われた。
ノアもそれを引き留められない。
だって、これ以上一緒にいても現状ではなにも進展しないのだ。
だから「ああ」と受け入れるしかなかった。
「また明日とかに来るね」
コリンはそう言って帰ってしまった。
今日は駆けるのではない。
歩いて、だった。
大人になって落ち着きが生まれただけではない。
コリンのほうもなにかしら考えたいのかもしれない、とその後ろ姿はノアに思わされた。
その後ろ姿が見えなくなるまで見守って、ノアは家の中へ戻った。
部屋のテーブルには、ふたつのマグカップが残っていた。
コリンは結局紅茶をひとくちも飲まずに帰ってしまった。
こんなことは滅多にあるものではない。いつも「ノアの淹れてくれるお茶はなんでも美味しいね」と喜んでくれるのだから。
でも今日ばかりはお茶どころではなかったのだろう。
溜息をついて、片付けてしまおうとノアはマグカップをふたつ両手に持った。
そして重さから思った。
たっぷり入っているコリンのマグカップ。
半分ほどになってしまっている、自分のマグカップ。
まるで自分とコリンの気持ちの量を想像させられた。
しかしノアは首を振った。
ちがう。気持ちの量は違ったりしていない。
ただ、抱えているものが違うだけだ。
ここを出ていかなければいけないコリンの事情。
簡単にはこの土地を出ていくことのできない自分。
それはどちらが悪いわけでもない。
流しにマグカップを持っていって軽く洗う。
洗いながらどうにも気持ちは晴れなかった。
将来という意味。
コリンのほうがずっと、きちんと考えてくれていたのだと思い知らされた。
今さえ幸せならいい、なんて無意識でも思っていた自分が酷い馬鹿のような気がして嫌になる。
一応、人間的な年齢換算をすれば自分のほうが年上であるのに。
いつのまにかコリンに追い越されたような気すらした。
洗ったマグカップを伏せておいて、ノアは部屋へ戻った。
今は独りのソファ。なんだかがらんとして感じた。
この場所を捨てるのか。
それともコリンという存在を失ってしまうのか。
今、どちらかを選ばなくてはいけないことが、妙にすかすかして感じるソファは示していた。
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