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夜空に隠れた月の色

 夜になってもノアの家は真っ暗だった。  家の主のノアがなにも動けずにいたために。  夕食など作る気がしなかった。  仕事もする気にならなかった。  真っ暗な部屋の中、ソファに座ってぼうっとしてしまう。  膝に乗せた自分の手を見つめたまま。  ただ、コリンのあの険しい顔だけが頭の中にあった。  あんな顔見たくなかった。  あんな顔させたくなかった。  そう思うのに、原因はすべて自分なのだ。 『なんだよ、ちゃんとオンナの恋人がいるんじゃん』  誤解されて当然だった。  サラという従兄妹がいることを話していなかったのだから。  身内については祖母のことしか話していなかった。  従兄妹家族についての話題は機会がなかっただけだが、その『機会がなかった』ということが裏目に出てしまった。  サラは年頃の女の子。  よく見ればノアと顔立ちが似ていることがわかるだろうが、一見してそんなことに気付けるはずもないだろう。  おまけにあのような様子で抱きとめたところなど見てしまえば。  『浮気』『別の相手』なんて思考が生まれて当たり前ではないか。  そこからのコリンの思考も当たり前のものだった。 『だからオレがついてきてくれっていうのを渋ったんだな』  渋ったつもりなんてないとノアは言いたい。  けれどコリンの気持ちとしては、誘ったときに「ああ、一緒に行く」と即答してほしかったに決まっている。  その願望が『渋った』という言葉になったのだと思う。  コリンがノアに事情があって即答できなかったということをわかっていても、心はまた別問題だから。  それがとっさにそういう言葉になったはずだ。  きっとコリンは不安だったのだろう。  ノアに女性の恋人ができるかもしれないということも。  そして理由が仕事だろうとほかのことだろうと、自分の誘いを断るのではないかということも。  それをわかってやれなかった自分が嫌でならない。  大切な恋人なのに不安にして、おまけに誤解させて傷つけた。  謝らなければ。  すべて誤解なのだと言わなければ。  ちゃんとわかってもらいたい。  自分が好きなのはコリンで、彼についていきたい気持ちはちゃんとあるのだと。  ぼんやりと思ったがそこで思考は行き詰ってしまう。  ノアだって知らないことはたくさんありすぎるのだ。  コリンがどこに住んでいるのかだって知らない。  狼男の生活だって聞きかじっただけで、実状も知らない。  どんな仲間がいるのかも同じく聞いただけ。  そんな状態だからこそ『すべてを投げうって、ついていくと即答する』なんてことは出来なかったのかもしれない。  なんなんだろうな、オレたち。  ノアはふっと笑ってしまった。  自嘲の笑いだった。  想い合っているつもりだった。  恋人として大切にしあっているつもりだった。  けれど気持ちだけのことだったのかもしれない。  実状がまるで伴っていなかったのだ。  ただ、好きだという気持ちで一緒に過ごしていただけで。  おままごとか。  そんな自虐すら頭に浮かんだ。  それならこんな、サラという女性がちょっと絡んだだけでトラブルになってしまっても当たり前だろう。  コリンのためにも、このまま終わってしまったほうがいいのかもしれない、とノアは自分の手を見つめながら思った。  狼男のコリンには、ちゃんと『オンナの恋人』がいたほうがいいのではないか。  狼男として、子孫を残せるほうが良いのではないか。  それはほんのりとノアが不安に思っていたことでもあった。  自分は構いやしない。  子供ができなくたって、魔女の仕事を継ぐ者がいなくたって。  血筋というならサラたち従兄妹家族もいるのだし、自分は自分の代で終えてしまって構わないと思っている。  でもコリンは違う。  魔女よりも更に、ケモノに近い存在。  月によって発情を誘われるほどに本能が強い種族だ。  だから自然のままに、オスメスで結ばれて子孫を残すほうが。  ……いや。  ノアはそこで軽く首を振った。  そんなことはただの自分の思考の押し付けでしかないのだ。  そんな狼男の習性だのなんだの、決めるのはコリン本人。  そして彼は言ってくれた。  『子供は要らない』と。  『ノアがそばにいてくれればいい』と。  それがすべての答えではないか。  ノアはふと窓のほうを見た。  カーテンが閉まっていた。  初夏の折り、開けていても閉めていても良い窓。寒くもなければ暑すぎもしない。  ノアは立ち上がり、窓へ近付いた。  カーテンを引き、窓を開ける。  藍色の空には月があった。  ただしずいぶん小さくなったものが。  十日ほど前が満月であった。  恋人関係になってからずっとそうしていたように、その頃コリンとたくさん抱き合った。  今は月が欠けていく時期なので、コリンは落ち着いている状態のはずだ。  あのときはとっても幸せだったのに。  触れ合うことも、想いを告げ合うことも。  それが今はない。  体どころか心までが遠く離れてしまっていて。  それもあってか小さな月は頼りなく見えた。  しかし確かにそこに在る。  コリンの瞳と同じ、輝く黄色はそこに。  このままでは消えてしまうのではないか。  新月に近付く月のように、儚く。  ふっと感じたことに、ざわっとノアの胸が騒いだ。  月は新月の日を迎えても、また夜空に出現して大きくふっくら膨らんでいく。  だがノアの傍にいる『月』は。  大切な『月』であるコリンは。  このままでは夜空に隠れたまま、もう二度と会えないかもしれないのだ。 『こんにちはっ』  にこっと無邪気に笑って窓から顔を出していたコリンを思い出す。  初めて会った、あのとき。  コリンは現在より子供だった。  まだまだはっきりとオオカミ少年だったのだ。  少年だったコリンと初めて出会ったのはこの窓だった。  色々あって大きく修理はしたものの、確かにこの窓。  今はノア独りで月を眺めている窓。  ノアとコリンを繋ぐものだった窓枠を、ノアはぎゅうと握った。  知らないなら、知ればいい。  窓の感触と月の光に導かれたように、腹の中にすとんと落ちてきた。  それは『ノアが好きだから』とこの窓からずっと訪ねてきてくれていた、少年の日のコリンが教えてくれたようなものである。  会いたいひとがいるなら、こちらから行けばいい。  知りたいことがあるなら、訊けばいい。探せばいい。  今ならまだ、空からコリンの黄色を示すような月が見守っていてくれる。  ノアは窓から離れた。鍵をかけて、カーテンも閉める。  行かなくては。  ただしコリンのもとではない。  もうひとつ、薄々考えていた場所へ。  夜を徹して歩くつもりだった。  ノアは魔法瓶にお茶をたっぷり入れてパンを幾つか袋に入れて、そして魔女の黒いローブを肩からかけてフードもかぶった。  一夜歩けば辿り着ける。  朝まで待てば街から馬車でいける場所。  だが今は朝までなんて、待っていられなかった。

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