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狼の棲み処

 空はとっくに真っ暗になっていた。  今夜は新月である。  照らすものもない暗闇の中。  唐突に大きな岩の砦が見えた。  一目でノアは悟った。  ここが狼男のコミュニティ。  コリンの棲み処。  ノアがそこへ踏み入った瞬間、ざわっと空気が揺れた。  『侵入者』と判断されたのだろう。  ノアは足をとめて、ごくっと唾を飲み込む。  からからになった喉をなんとか潤した。  歓迎などされるはずはないとわかっている。  それに恐ろしい。  コリンが暴漢を撃退するところを以前見ている。  それと同じ目に遭うかもしれないのだ。  それでも。 「……人間がなんの用だ」  砦の上に姿を見せたのは大柄な狼男だった。  壮年の、おそらくコミュニティのボス。狼の頭をしている。  コリンよりも『ケモノに近いタイプの』狼男だった。  耳は大きく欠けていて、何度も戦いをくぐってきたことを思わせるような恐ろしさすら感じさせる外見だ。 「オレは」  ノアが言った直後、狼男が眉を寄せた。  ケモノの頭なのではっきりとはわからないが、不審そうな顔をしただろう。 「お前、人間じゃないな? においが違う」  再び、ごくっと唾を飲んでいた。今度こそはっきり言う。 「オレは魔女だ。純粋な人間じゃない」  ノアのそれで、種族については了解されたらしい。  なにも反応は返ってこなかったが、しれっと言われる。 「その魔女がなんの用だ」  敵意全開の、吐き捨てるような口調の質問。  歓迎などされないことはわかりきっていたので、肝を冷やしながらもノアは口を開く。はっきり言ってのけた。 「コリンに会いに来た」  狼男は数秒黙った。  しかしノアは悟る。  コリンは確かにここのコミュニティに所属しているのだ。  『誰だそんなやつ』などという様子ではない。  そのうち、砦のあちこちから狼男や狼女が出てきた。  ノアと対峙しているのがボスらしいのでなにも言わない。  が、あからさまな敵意がびしびしと伝わってくる。  仔狼もいた。初めて会ったときのコリンよりも幼い子だ。その子を母親らしき狼人間が抱き寄せる。  空気はじわじわと嫌なものになっていく。  今、ボスが「あいつを噛み殺せ」なんて言おうものなら、ノアなどひと噛みで殺されてしまうだろう。背中を冷や汗が伝った。 「お前に会わせるやつなどいないな」  ボスは静かな声で言った。  が、ノアは声を振り絞って叫ぶ。 「いるんだろう! オレにはコリンに会う権利がある!」  権利、などと言い切ったノアは鼻で笑われた。 「は、魔女になんの権利があるっていうんだ」 「オレはコリンの恋人だ! 十分な権利だろう!」  ざわりと違う意味で空気が揺れた。  ボスが今度ははっきりと不快そうな顔になる。 「はぁ? 狼男に魔女の恋人なんているはずがあるか」  確かにその通りだ。  狼男からしても、ノア、つまり魔女からしてもありえない事態である。  それでもここで引くつもりもない。  もう一度、言いつのるつもりだった。  が、そのとき。 「ノア!? なんでここに」  砦ではなく、逆側の森の切れ間から顔を見せたのは、ノアがここまで探して歩いてきたコリンであった。  目を丸くして、驚愕の表情を浮かべている。  外に出ていたところだったが、やりとりを聞いてやってきたのだろう。  ノアは自分の声を聞き留めてくれたらであったらいい、と思ってしまったが。  そしてその気持ちは狼男たちからの殺意漂う空気の中、ノアに地面を蹴らせた。 「コリン!」  人間の足だ、本当ならば走り出した時点で周りの狼男たちに飛び掛かられて八つ裂きにでもされていたかもしれない。  しかしコリンがノアを見止め、名を呼んだからかとっさに動く者はいなかった。  その中をノアは飛ぶように走り、やっと見つけたコリンをしっかり腕に抱きしめた。  抱きしめた、とはいえ、もうすっかりコリンの体が大きくなってしまっているので、胸に抱きつくような形になったが。 「の、ノア、なん、で」  コリンの声は震えていた。  さよならを告げたのだ。  おまけにこんなところまでノアが来るなんて思わなかっただろう。 「お前に会いに来たんだ」  もうさよならなんて言わせるつもりはなかった。  たとえ拒絶されようと。  ノアは腕に力を込める。こんなふうに自分から抱き着くのは初めてだったが今せずにいつしようというのか。 「なんで、だって、ノア、は」  夢を見ているのか、という調子で話すコリンを一旦しっかり抱きしめ、そして顔を上げた。目が合う。  爛々とした瞳。  黄色の目。  月のように美しい瞳。  もう一度見られた、と胸が熱くなる。  そして強く思った。  この月にずっと照らされていたいと。 「あれは誤解なんだ。あの子は……サラは、オレの従兄妹だ」  いとこ、とコリンは呆然と繰り返した。  ノアを見つめるその瞳もまだ揺れている。  その瞳に言い聞かせるようにノアは説明していった。 「サラも一人立ち間近の魔女だ。だからオレの家を譲ることにした。あの子がこれからあの家で魔女をしてくれる。全部、話をつけてきた」  コリンが息を呑んだのが伝わってくる。  それだけで、ノアがどんなつもりで言ったのかはわかったろう。  ぎゅっとコリンのシャツの胸を掴んで、瞳をまっすぐに見て、ノアは最後の言葉を言う。 「だから、よそに行くんだろう。オレも連れて行ってくれ」  コリンは無言だった。  ノアばかりが、決めたことをひたすらぶつけたのだから当然ではあろうが。  気持ちの整理もなにもかも追いついてくるはずがない。  ただ、ノアを見つめたままなにも言えずにいる。 「おい、コリン。どういうことだ」  そんなコリンに砦から降りてきたボス狼男が言った。問い詰めるような硬い口調で。  それにはっとしたようにコリンは顔をあげてそちらを見る。  しかし、すぐにぎゅっと口を結んだ。 「コイツ、オレの恋人です」  コリンの手に力がこもる。  ノアの背をしっかりと抱いた。護るように。 「正気か、お前。伴侶がいるとは聞いたが、男で魔女なんて」  ボスが言う言葉に、コリンははっきり言ってのける。 「本気です。ノアは立派な魔女で、人間に優しくて、美味しいものもたくさん作ってくれて、それに」  ぐっとコリンの手が動いた。  ノアの腰に手を回して引き寄せる。 「オレにとって一番あったかいひとだ。だから」  顔を寄せられて、次にはくちびるが触れ合っていた。  ずいぶん久しぶりに触れた気がした。  ほんのりあたたかくて薄いコリンのくちびる。  ノアの張り詰めていた心がほわっとほどけた。  もうコリンの言葉や意識が向いている先は、ボスでも仲間の狼男たちでもなかった。 「ノア。オレと一緒に来て」  最後の言葉。  しっかりノアの目を見つめて言われた。  ほどけた心が今度は熱を持つ。  喜びに、安心に、嬉しさに。 「ああ。一緒に行こう」

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