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第2話 うわさ

 あれから八年がたった。  ラウルのリードを引いて散歩から戻ると、教会の入り口に金色の頭が見えた。 「アラン、おはようございます」  駆け寄ると、品のある笑顔で迎えてくれる。 「おはよう、ユリウス。ラウルのペースで走らされませんでしたか?」 「少し。でも最近、方向や帰ろうという言葉には反応してくれるようになったよ」 「ほう、ラウルも成長しましたね。以前はリードを持っているだけで、ほとんどラウルに散歩させられてたのにね」 「ブラッシングやお風呂に入れたり、ごはんを毎食欠かさず出して世話して八年だからね。そろそろ報われても良い頃だと思う。犯人を殺した罪で餓死させられそうになったのをアランが助けた恩を感じていたとしても、いい加減僕にも懐いてほしいよ」  ハァ、とため息をついて見せると、アランがクスクスと笑う。 「恩人か。警察の動物虐待を傍観してられなかっただけなんですけどね。さ、そろそろ朝食にしましょう。始業時間に遅れてしまいます」  共に教会の食堂に座り、パンとチーズ、庭で採れた野菜のスープを並べて、指を組み合わせる。 「お祈りをしましょう、ユリウス。私たちがこうやって食事を摂れるのも、主が身代わりとなったからなのですよ」  流暢なアランの祈りが聞こえてくる。目を閉じ指を組んで祈りを唱えるアランに朝陽が差して、神々しい彫塑のようだ。  彼は主キリストのことを心から崇拝し、厳しい日課をこなして主と共に生きている。 「じゃあ、行ってきます」 「行ってらっしゃい。ユリウスのできがよくて、私は鼻が高いです」  アランに拾われてから二年後に学校に通い始めたけれど、簡単な計算や本を読むようなところだ。  だけど、なかにはじっとしているだけでも苦痛に感じる子供もいるらしく、僕は優等生と呼ばれている。特に楽しくもないけれど、アランが喜んでくれるならと思ってなんでも一所懸命やっている。 「はぁ……。着いちゃった」  教室に足を踏み入れるなり、ため息が出た。これで半日、アランと会えない。僕に語りかけてくれる心地いい低音や、僕が具合が悪くなると、ときどき額にあててくれる手は僕だけのものじゃなくなる。  黒板の文字を写すあいだの時間だって、アランを見ていたい。一緒に話をして、あの優雅な笑みを僕に見せてほしい。  そう思いながら席につくと、机の中に手紙が入っていた。 『大事なお話があります。昼休みに校舎の裏で待ってます。――ケイト・エール』  大人しくって、話したこともないような女の子からだ。 「なんの話? 僕、宿題やってきてないから休み時間にやりたいんだけど」 「あ、あのねユリウス君。小学部の頃から気になってたの。私と付き合って!」 「付き合う……? 恋人になるってこと?」  くしゃくしゃの茶色の髪をしたケイトがコクコクと頷く。今まで話したこともないのに、交際を申し込むなんてどうかしてる。 「ごめん、今は勉強を頑張りたいんだ。僕、早く神父様みたいになりたいから」 「アラン神父様のこと? あの綺麗な人と同じ教会に住んでいるものね。で、でも私、神父様の噂を知ってるのよ。今日、一緒に帰ってくれたら話してあげてもいいけど」  交換条件か。アランが困るような噂なんて叩き潰してやろうと、僕はパッとしない女の子の話を聞きながら家路についた。 「ふふ、まさか本当に一緒に帰ってくれるなんて思わなかったわ。ユリウス君は神父様を尊敬してるのね」 「アランは高貴な生まれなのに、信者の貴賤を問わず皆に優しくし接している。あの美しい容貌だって、僕の知る限り一度も鼻にかけたことがない。珍しいひとだよ」 「村の人だって、皆同じことを言うわ。でも、あの方が神父という職業を選んだのにはわけがあるのよ」 「わけって? もう教会の屋根が見えてきた。もったいぶらずに教えてよ」 「神父様は幼い頃、継母にお父様の代わりをさせられていたんだって。夫婦のように同じ寝台で寝た彼らには子供ができてしまった。不義の子供の誕生は祝われないから、継母は堕胎した。それを悔やんで、神父を志したそうよ」  絵に描いたようなゴシップに吐き気がする。清廉潔白なアランに不義の子供? 冗談にもほどがある。  怒っているのを悟られないようにケイトに向かって笑顔で問う。 「その話、だれから聞いたの?」 「お母さんからよ。でも、村の奥さんたちは皆知ってるって言ってたわ」 「そう。ありがとう」  それだけ言うのがやっとだった。それ以上口を開けていたら、きっと罵りの言葉しか出なかっただろう。  大股で草をなぎ払いながら教会へと向かった。顔が熱いのは、僕自身が怒っているからだ。 「くそっ、くそ……!」  根性の悪い女どもの暇つぶしに利用されただけなのに。馬鹿馬鹿しいと思いながらも腹が立ってしょうがなかった。    ***  教会に裏口から入ると、だれもいなかった。 「お祈りの時間だったかな……」  祈りには静寂と集中が必要だ。アランの邪魔をしないように足音を忍ばせて廊下を通り、自分の部屋に行こうとすると、聖堂に人影が見えた。  アランだ。膝を折り指を重ねて組んで祭壇に向かっている。  ステンドグラスの光が幾重にも重なって、アランの輪郭が輝く。僕の愛するひとは、崇高な輝きを放っている。  その姿が見えたとき、僕の中にあったムカムカした感情が皆消えていった。声をかけようかと思ったけれど、あまりの集中に気が引けて、しばらく見守っていると視線で気付かれた。 「ユリウス、おかえりなさい」 「あ。た、ただいま……。ずいぶん長いこと祈ってたから、邪魔しちゃダメだと思ったんだけど、気付かれちゃったね」 「ユリウスの気配くらい分かりますよ。それに、いつもと違うことも。……なにかありました?」  そっと近づいて、僕の髪を撫でる。たったそれだけで僕の涙腺は緩んでしまった。 「うっ……。え、えっ」 「だれかにひどいことを言われたんですね……」  喋りたいけれど言葉にならなくて、しゃくり上げるだけの僕の背中を、アランがポンポンと優しく叩く。 「ユリウスは勉強も運動もできるから、羨ましがられてるだけなんですよ。妬みなんて気にしないほうがいい」  違う。自分のことなら、ここまで感情が揺さぶられない。  大好きなアランが貶められたから、言った奴を全員呪いたくなっただけだ。なのに、アランは勘違いしたまま続ける。 「ユリウスは私の自慢の家族です。もっと自身を持って……どうしました?」 「ち、違う。自分のことじゃない。好きな人をひどく言われたからっ……」  かぶりを振って途切れ途切れに伝える。アランの名前を出さなかったのは、彼を傷付けたくなかったからだ。  アランが形のいい眉を上げた。 「好きな人ですか。ユリウス、大きくなったのですね」  僕を見つめる目には、寂しそうな青が浮かんでいた。そう思っていると、ギュッと抱きしめられた。 「アラン、苦しいよ」 「そのひとを大事にしなさい、ユリウス。いずれ教会から旅立つ日が来るでしょう。その日まで、あなたを守らせてください」  アランにとっては、僕はいつまでたっても守られるべき孤児なのだ。幼い頃に裸で拾われたみなしごでしかない。もう十四歳になっているのに。  その思いで一杯になって、気付けば腕の中で叫んでいた。 「……僕が、僕がアランを守りたい! 変な噂を聞いたんだ。アランに子供がいたって……デマなのに、村じゅうに広まってるって聞いて、それで」 「それで涙を流してくれたのですか? 私のために?」  パチパチと瞼を瞬かせた美しい男が、表情を柔らかいものに変え、抱きしめる力を強くした。 「ユリウスは優しくて良い子ですね。ありがとう、噂を鵜呑みにしなくて」  きつく抱きすくめられ、一瞬息が止まる。  毎日ラウルと散歩しているけれど、それ以上に教会の掃除や庭仕事で鍛えられた肉体に敵うわけもない。アランは立派な大人の男性なのだ。 「噂は嘘だったの?」 「ええ。神父見習いをはじめたころ、堕胎した女性の懺悔を聞いたのです。父親が分からなくて堕ろすしかなかったご自分を責めてらしてね。赤ちゃんに詫びる姿が痛々しくて。……私でよければ、その子の父親になりますと言ったんですよ。もちろん名前だけですけれど」 「そんなお人好しなことしたの!?」  噂と細部は違うけれど、アランの申し出は他人の一線を越えている。そんなことをしたら、その女性が勘違いするじゃないか。 「人助けですよ。赤ちゃんが埋葬されたお墓に、その女性と私の子供だと刻んでもらいました。そうすると、ずっと泣いていた彼女の顔が明るくなったんです。ああ、私はひとりの悩める方を救えたのかもしれない、と思ったんです」 「でも……、そのせいでひどい噂が広まって……」 「私は神に仕える者です。俗世に身を置いていますが、精神は神と共にあります。噂なんて気になりませんよ。……ユリウスには心配かけてしまいましたね。でも」  言いとどまったので、アランの相貌を覗う。すると、笑顔を無理矢理表情筋で押しとどめようと努力しているような不自然な顔をしていた。 「好きな人と言ってくれて、ありがとうございます。……嬉しかった」

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