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第9話

気づけばぴよぴよと雀の囀りがきこえる。 いつの間に帰ったのかは知らないが、今現在宇佐美が目を覚ました此処は自分家であるし、ボロく薄い壁からはいつも鳴り止まぬ隣の部屋のアラームが聞こえてくる。 頭は痛いし、腰は勿論、体が痛いし、喉も痛いし、また傷増えている。 「うぇ〜……」 かすかすの声と、鼻の詰まりと、胃の不快感に立ち上がり便所に倒れ込んだ。 「……げろげろ〜……」 冗談言う余裕あるんやな、と自嘲気味に笑うけどそれはそうと頭が痛くてかなわない。 あいたたたぁ、なんてそのままずるずると壁伝いに力が抜け目を瞑れば眠れそう……と思ってた時、今度はピンポーンとチャイム音が聞こえてきた。 あー……絶対真宏や……飯作りに来たんやな律儀な奴やでほんま…… こんなボロアパートに、しかも友達と呼べる相手も居ない宇佐美にとってアポ無しで突撃してくるのは真宏しか居なかった。 しかも真宏は勝手に入って勝手に作って勝手に帰って行くので宇佐美がチャイムに反応しようがしまいが無関係。 その割に自分が部屋で寝ていると、呼吸している事だけ確認して物音立てず帰って行くので、図々しいのかなんなのかよく分からない。 今俺ん事見っけたらまたキャーキャー騒いであーだこーだ言うて説教やろなぁ…… それはちょぉと頭痛いから嫌やな……しずかに、寝てたい…… そう思うも、再びピンポーンと申し訳程度にチャイムが鳴り、遠慮なくガチャリとドアの開く音がする。 「……ったく本当不用心な部屋だよな」 ぼそりと文句を言う声が聞こえて思わずクスリと笑った。 せやろ? 不用心やねん。 此処にはお前みたいな物好きしかこぉへんしなぁ。 一々鍵開けんのもめんどいし〜失くすし忘れるしな。 「あれ? 靴ある……先輩? いますー?」 おるおる〜めっちゃここにおる〜ほんでまた倒れてんで〜 て頭で返事しとるけど、体が動かれへん。 「おーいせんぱーい! ……また倒れてるとかじゃないでしょうねぇ……どうしようも無いんだからまったく」 倒れとる倒れとる。 絶賛気ぃ失いそうや真宏〜…… 真宏のスタスタ歩く音が聞こえてくるけど、その音も段々意識が遠のくのと比例して聞こえにくくなる。 意識が飛ぶほんの数秒前、真宏の「ヒッ!?」という裏返った悲鳴に、一瞬意識が浮上してゆっくり瞼を開けた。 「……ぉー…………まひ……ぃ〜……」 へらりと笑うと、真宏は微妙な顔をして宇佐美を見下ろした。 「……今度はどうしたんですか、真っ青な顔して……」 宇佐美が意識ある事に安心した真宏は、あまり騒がずにしゃがんで目線を合わせた。 「……んー……わからん……」 わからんわけあるかい。分かりまくりじゃボケ。 あんのクソジジイ、いい歳して朝までズコバコやりやがって。 ……と、心の中で悪態はつくが口には出ない。 ぼんやり真宏を見上げてへらり、と笑う。 「はいはいそうですか、分かりませんか。じゃあ仕方が無いですね。起きれる?」 真宏に少し腕を掴まれて動かされると、途端に吐き気が込み上げてきて慌てて口を押え「……ッう゛」と唸った。 「え、なに吐く?」 焦った真宏は宇佐美をゆっくり支え、顔を覗き込む。 宇佐美は声を出さずに、こくこくと頷くと真宏は「ちょっと動かしますよ」と言って無理矢理宇佐美を便器へと動かした。 よいせ、と動かす真宏は力強くて、俺が元気やったら、ヒューッかっこえーなぁ、なんて言うてたな。 「ほら、吐けますか?」 大きく力を込めて背中をさすられ、それが刺激になり体がビクッと震えた。 瞬間、ピシャピシャと胃から食道を逆流して全て便器内へと流れ落ちていく。 「ぅ゛ぇ゛……ッ」 落ちていく……だなんて言っても、宇佐美の胃には胃液とアイツの精液しかない。 真宏は何も言わないまま宇佐美の背を強く何度もさすって、宇佐美が「もうええわ、さんきゅ」て言ったら「そうですか」て言って水を持ってきた。 「これ飲んでトイレ流して、このタオルで拭いて、動けるようになったら横になってくださいね向こうのマットレスで。流石にアンタは運べないんで」 淡々と指示してくる真宏に少し不思議に思って、聞いた。 「今日は騒がないんやな、いつもみたいにあーだこーだーって」 水をくぴくぴ飲んで見上げると、真宏は鬼か閻魔様かて言いたなるくらいの顔と声で「……は?」と言った。 背景に、ゴゴゴ、と効果音が浮かんでそうなくらいに怒気を放った真宏はヤンキー座りで宇佐美の前に再びしゃがみ思い切り顔を歪める。 「アンタが吐いたの、食いもんじゃねぇーでしょ。何吐いたかなんて見りゃ分かんですよ。随分楽しそうだったみたいじゃないですか、ええ? こんなんなるまでズッコンバッコンですか、良いですねぇお相手が沢山居て。それとも昨日の方が本命の方ですか」 ……ああ、バレとったんか。本命やあらへんわあんなクソジジイ。 「まあまあすまんかったな、嫌なもん見せてしもて」 ドゥドゥと沈めようとすると、真宏はグッと黙って「はぁ……」とため息を吐いた。 「…………ホント、……馬鹿ですね」 「……え?」 それはどういう意味で? 馬鹿みたいに盛りすぎってか? それとも……、 「暫くは、胃に優しい物にしましょうね」 「…………うん?」 真宏はさっきまでの怒気を消し、眉を下げつつも柔らかく微笑んで宇佐美の頬を摘んで言った。 なんとなく、その表情で察する。 多分真宏は、自分をもっと大事にしろみたいなお綺麗な事を叫びたかったのだろう。真宏の性格からしてきっと。 けれど宇佐美が、干渉すんなって言ったから、……きっと言えないのだ。 真宏は立ち上がりパタパタとキッチンへ行ったけれど、……宇佐美前から立ち上がったほんの一瞬だけ……こちらに顔を向けずに顔を歪めていた。 「……ふは……真宏の泣き顔はよぉ見とる気ぃするわ」 再び水を煽り、よっこらせ、と呟いてふらり立ち上がってマットレスに怠い体を沈めた。 昨日の人は、……本命の人では無いのだろうか。 トントントン、と野菜を刻みながら真宏はぐるぐると考える。 また今日も宇佐美は倒れていた。 てっきり今日は、昨日の事もあって機嫌いい宇佐美が居るかも、とか思っていたのに真逆でめちゃくちゃ体調悪そうな宇佐美だった。 ……まあいつもの事っちゃいつもの事だけどさ。 けれど今日の宇佐美はいつもと違って、自己管理を疎かにしたせいの体調不良とかではなく、……多分、違うだろうってすぐに分かった。 ついさっきまでヤッてました感バリバリで、吐かせたら嘔吐物は胃液と多分精液のようなものだった。 でなければ、あの液体の説明がつかない。 苦しそうに嘔吐く宇佐美のシャツから覗く白い腕には赤い紐状の鬱血痕が見えた。 ……あの痕は何? 宇佐美、あの人の事好きなんじゃないの? 大切にされてたんじゃないの? 宇佐美も、彼を好きなんじゃないの? それとも、あの人もまたセフレの一人なの? 何の為にセックスするの? これは宇佐美の趣味? 合意の上? 気持ちいいの? 楽しいの? 嬉しいの? 宇佐美は、苦しくないの? あんなに、冷や汗かいて真っ青な顔で嘔吐してるくせに、体も震えてるくせに、平気な顔して笑うんだよね。 お前は、いつもそうだよ。 俺には言ってくんない。 俺は部外者だもんね、俺に心は開けないよね。 ……分かってるよ、……分かってるけどさ、悔しいだろ。 俺の好きな奴が、目の前で苦しんでんのにさ、俺は何も出来ないの、……悔しいじゃんかよ。 ムカつく、ムカつく、ムカつく。 それだけ体調悪くなるってことは、宇佐美が抱かれてたってこと? 立てなくなるほどに? それは同意なの? 本当に? 首の赤紫の痕は? しめられたの? ……もうお前が分かんないよ この大バカ野郎。 玉ねぎを切っていたからなのか、心が苦しいからなのか……いつの間にか涙が溢れて止まらなかった。ぼろぼろずびずび泣きつつも、手際よく料理をしていたらいつの間にか涙も鼻水も止まっていたし、玉ねぎも切り終えていたので恐らく玉ねぎのせいだなと思う事にして作り終えた料理をタッパーに詰める。 冷蔵庫に入れる時にチラリと宇佐美を見ると、目を腕で覆って横になっていたので、声を掛けてみた。 「先輩、起きてる?」 「んー……?」 眠そうだけど返事が返ってきたので、「白湯飲む? それとも蜂蜜入りのホットミルクがいい?」と訊くと、「お湯〜」って言うので白湯を作る事にした。 お湯って。 二人分ついで持って行くと、怠そうに体を起こした。 「さんきゅー」 「いーえ」 ふぅふぅしつつ飲む宇佐美をぼんやり見つめつつ、適当に口を開いた。 「なんか、白湯ってさ。お湯って呼ぶと不味そうに聞こえますよね」 「今それ言うー?」 「ふへへ」 じとーって見られたので笑うと、宇佐美は真面目な顔で「まあ確かにな」なんて言っていた。 「あとねぇ先輩」 「んー?」 ずずー、と啜って、あちちっと舌を出してる宇佐美を笑って見つめる。 「俺も、先輩には正直に正面からいってもいい?」 「……んぇ?」 なんの事か分からないのか、宇佐美はキョトンと首を傾げて真宏を見てくる。 「俺も、好きな人には正直に真正面からいく事にしたんです。だからもう嫌われるかもだとか思って遠慮するの止める。そうやってビビって縮こまるの、俺らしくないってさっき玉ねぎ切ってて思った」 「なんで玉ねぎ」 ぶはっ、と吹き出す宇佐美に真宏も笑う。 「おかしいでしょ? 俺もムード無いなぁって自分に思ってた」 手だって玉ねぎ切ったせいで匂いが残っちゃってるし、部屋ん中だって料理した匂いが残ってて宇佐美も事後で臭いし。 自分らの間にムードが一欠片も無くてさ、おまけに真宏の好きな人は知らない奴に犯されたっぽいし。 ホントもう散々だ。 散々だよ、ほんと。 遠慮してるとすぐこうだ。 だからもう二度と、取られたくない。 「けどそーいうの嫌や言うたやん。俺に嫌われんで?」 宇佐美は真宏を試すように見据えてくる。 それは脅しなのだろうか。 きっと前までの真宏なら、ビビって嫌だって思って何も言えなくて、言う通りにしますとか馬鹿みたいなこと言っていたのだろう。 あんな啖呵切ったくせに、縮こまって何も出来ない自分だって相当な馬鹿だった。 「まあ嫌われたくはないけどさ。嫌われないように振舞ったところでどうせ好きになって貰えないなら、俺らしく居て嫌われた方がいいなって思ったんですよ」 「……へぇ、男前やな」 気にしてないような口振りで言う宇佐美をじっと見つめた。 「俺、もう宇佐美を誰にも取られたくないので」 じっと見つめると、一瞬宇佐美の呼吸が止まった気がした。 宇佐美は、僅かに瞳を揺らして真宏から目を逸らした。 「……」 何も、声が返ってこない。 ……やっぱり、地雷だったか─…… 「なら、守ってくれんの? 俺の事」 「え?」 思わぬ返答に驚きキョトンとすると、クイッと顎を掴まれ覗き込まれる。 「俺を、守ってよ騎士さん」 透き通る碧翠色の瞳。 その瞳に偽りの気持ちは無い気がして、目を逸らせなかった。 ごくり、と唾を飲み込み、その妖艶な宇佐美の表情が美しくて吸い込まれそうだ。 「なぁんてな! 嘘に決まっとるやろ〜ドキドキしたあ?」 ぱっと手を離され、宇佐美はすぐに距離を取る。 宇佐美お得意の話を逸らす作戦だな。もう慣れた。 そのまま追いかけないでいれば宇佐美はいつものらりくらりと真宏から離れていく。 そうされる前に宇佐美の腕をグッと掴み、引き寄せた。 宇佐美は「わ、」と声を出し、真宏の胸にぽすんっと倒れ込んだ。 「ちょ、なに? 真宏」 離れようとする宇佐美をぐっと抱き込める。 「生憎俺は騎士みたいな大層なもんじゃないけど、アナタが望むなら絶対に駆けつけるし1番に大事にするし、一番に愛するよ」 腕の中で暴れていた宇佐美は、ピタリと動きを止め静かになった。 我ながらクサイ事を言ったな。 でもこれが本音だ。 隠す事はもうしない。 あの人に教わったんだ。 ……まお先輩みたいにカッコよく人を愛したい。 そして今、真宏のシャツを弱々しく握って顔を隠した宇佐美の行動も、また本音なんだと、信じたい。 「……真宏なぁ、そやって人に期待させんの止めてくれへん? 俺みたいな人間、すーぐ漬け込むで」 顔をあげないまま宇佐美はふざけたように言う。 何言ってんだ、顔もあげられないぐらい弱ってるくせして。 「お好きにどうぞ。俺だって好きにするんです、先輩も好きにすればいい」 「……そないな事言うて……襲われても知らんで」 「先輩。今先輩が虚勢張っても、何にも意味無いですよ。カッコ悪いから止めれば?」 ゆっくり宇佐美の赤い髪を撫でれば、宇佐美はまた黙った。 「……真宏、……ほんまになぁ……俺、……お前だけは好きになれへんねん……せやからなぁ……」 「だから、何ですか?」 「…………せやから……、……」 嫌いになってくれ、ぐらい前みたいに言えばいいのに、言えないこの人は自分よりも弱虫だ。 弱虫だから、何かに怯えているからいつも、人から距離取って好かれると怖くなって逃げるんだろう。 何に怯えてるのか知らないけど、逃がす気は無い。 「……あー!! やめやめ!! こーいう空気嫌やねん!! 俺くさいなぁ!! 風呂入るわ!」 ガバリと体を起こした宇佐美に、真宏は「あ、そうだ」と思いつく。 「俺も一緒に入っていいですか?」 「へ、なんで?」 至極当たり前な質問を向ける宇佐美に、真顔で見つめ返す。 「? 好きだから?」 「……ぁ、ああん?」 混乱した宇佐美が訳の分からないメンチの切り方してくるので、真宏も笑って「なに?」と返した。 すると何故か宇佐美は呆れたようにため息を吐き、「まあええわ。ショック受けても知らんで」なんてよく分からないことを言うので、「わーい」と喜んで着いていった。 洗濯機の中に二人で脱いだ服をぽいぽい投げ込み、宇佐美の体をチラッと見ると、目を丸くした。 傷、傷、傷、傷、……傷ばかり。 健康な肌を数える方が早いのではないか。 転んだ、なんかじゃ言い訳にもならない傷の痕。 「せんぱ……」 「だから言うたやろ。一緒に入んのやめる?」 話しかけようとしたら遮られ、呆れたように見下ろされる。 傷だらけの体引っさげて、宇佐美は真宏の返答なんて聞かずに風呂場へ行き、入ってくんなとでも言いたげにピシャリと扉を閉めた。 はあ!? 「ちょっと! 俺まだ何も言ってないけど!?」 怒鳴りながら入ると、驚いた顔をした宇佐美がシャワーを浴びていた。 しかも水!! 「みず!?」 慌てて駆け寄って止めると、ひやひやしてぶるっと震えた。 「おっ前馬鹿か!! いくら夏だっつっても水は無いだろ!! お湯だお湯!! お前がさっき飲んだお湯ぐらい熱くしろ馬鹿!!」 一人でぎゃあぎゃあ騒ぎながら勝手にお湯を出してぶっかけてやると、宇佐美の肩がぷるぷる震えていた。 「え? 何? どしたの?」 俯きながら震えているから、宇佐美がどんな顔して震えてるのか分からなくて焦ると、次第に震えが大きくなり勢いよく顔を上げて、思い切り笑っていた。 「え?」 「……んふ、……あっはっはっはっはっ!!」 いきなりゲラゲラ笑うもんだから普通にびっくりしたし、何より、宇佐美の笑顔を初めて見たかもしれない。 こんなに豪快に笑うのなんて、はじてみた。 「……あーもう真宏は、ほんっまおもろいなぁ」 「面白い? 俺が? そんな事初めて言われましたよ」 どっちかと言うと、くそ真面目だとか、つまんねぇやつだとか、冗談通じねぇやつって言われてた。 「いーや、お前はおもろい! 俺が保証したる!」 「先輩に保証されてんなら、きっと面白い奴ですね俺は」 「あ〜馬鹿にしたやろ今ぁ〜」 頬を膨らませぶーぶー言う先輩をバス椅子に座らせ、後ろに立つと宇佐美は「なに?」って振り返って見上げてくる。 「頭洗ってあげるから目瞑っててください」 「え!? マジ!?」 うぇーい、と喜んでニコニコで目を瞑る宇佐美。 シャンプーを手に取り泡立たせ彼の頭皮をマッサージしつつ泡立たせていく。 その間にこっそり宇佐美の体を前は鏡越しに後ろは目線を落として少しだけ、見た。 宇佐美の体は昨日の奴につけられたらしい新しい怪我よりも、もっと前から、……シミや痕になっていてお世辞にも綺麗とは言えなかった。 ……しかも多分、見えない部分に根性焼きの痕もあるし、殴られたところがそのまま痣になって……きっとろくに手当をしなかった……されなかったのかは分からないが、……残ってしまっている。 今はもう痛くないのだろうけど、昔の傷でさえ今も痛みを伴っているように見える。 当時どれほど痛かったのだろう。 いつ、……幾つの時に、誰に、どんな状況でつけられたのか真宏には知る由もない。 それは今宇佐美が高校生なのに、上京して一人暮らしをしている理由に関係があるのか、……宇佐美の上京後の生活は涼雅が助けてたって聞いた。 ……聞けば、分かるのかな。 聞いて、良いのだろうか。 でも、そうしないと宇佐美の事何も知れないよな。 今日家帰ったら聞こう…… そう決めて洗う手に力を込めると、「あ゛〜真宏洗うんうまいなぁ〜」なんて呑気に言ってくる。 「そりゃどーも」 杏の髪とかよく洗わされてたしな、涼雅も真宏の手が好きなのか強請ってくるから洗ったりするし、割と慣れている。 「そういえば先輩、もう付き纏われたりしてないんですか?」 今更思い出したように聞くと、宇佐美は一瞬なんの事だか分かっていなかったが「ああ」と言った。 「学校の昼寝のやつー? アレなぁ、よぉわからん。居るよーな気もするし居らん気もする」 「なんじゃそりゃ」 「まああの昼寝のやつは、寝れなすぎて真宏に賭けてみただけ」 「え? どういう事?」 泡を洗い流しつつきくと、ぷるぷると犬みたいに頭を振った宇佐美が顔を手でちょっと拭いて鏡の中で真宏に目を合わせる。 「俺、よぉ眠られへんくてあの時期けっこーギリギリで藁にもすがる思いでええ抱き枕居らへんかなぁ〜って思っとった所に、真宏という優良物件がおってな」 「ほう」 「まあ色々真面目くんの良心が揺らぐ口実つけたら、嫌々でも枕やってくれへんかなぁ思っとったら案の定、な?」 ニヤッと笑われて、見透かされた気がしてちょっとムッとした。 ふんっ、と顔を逸らしてボディーソープを大量に手に取り泡々にして宇佐美の体に塗りたくる。 「え? 体も洗ってくれんの?」 「見事に良心につけこまれたいたいけで真面目な青年が、貴方の予想通り好意まで持ってしまったんでね。下心ありありで全身くまなく洗ってやるよ、このヤリチン」 「キャー乱暴はあかんよぉ〜」 下手な芝居にイライラしたので顔面も声をかけずに洗ってやった。 ギャッ、と変な声を出していた。 お風呂から出てほかほかしつつ、今日は宇佐美の服を借りて、帰ることにした。 「じゃあ、ご飯は全部温めて食べてくださいね。あと、腐ってるかもって思ったら絶対食わないでくださいね、それから、」 「はいはい分かりましたよ、マミー」 「誰がマミーだ」 ひらひら、と面倒くさそうに手を振る宇佐美に「あと、」と声をかけると宇佐美は「まだ何かぁ?」と至極面倒くさそうに顔を歪める。 真宏は、自分の顔が少し熱くなるのを感じつつ続けた。 「……こんな服なんて借りたら、……返す口実にまたここに来るけど、……いいんですか」 真宏のセリフにキョトンとした宇佐美は、へにゃっと笑った。 「なぁに今更ちょっと弱気になってんねん。ええやん。そんなんなくてもどーせ来んねやろ」 「……まあ来ますけど」 「風呂まで入った仲なんやし、これまで通り来たったらええわ。俺は変わらへんけどな」 「へへ、じゃあ明日また来る! ケーキ買ってくるから一緒に食べよ!」 嬉しかったので笑って言うと、宇佐美は「明日かい」って笑ってた。 「ええよ、ほな家に居たるわ」 優しく笑ってくれたので、もっと嬉しくなって頬が緩んだ。 「気ぃつけてなぁ〜」 「はい! 先輩も、お大事に。おやすみなさい、またね」 「おー」 またな、とは返してくれなかったけど手を振ってくれたのでそれだけで一歩前進したかな、と嬉しかった。 嬉しくて、何度も振り返りながら歩くと宇佐美は困ったように笑いつつもずっと玄関の外に居てくれていた。 流石にアパートが見えなくなると振り返っても宇佐美が居なくて、寂しかった。 自分に素直になると、感情も爆発してしまうな。 寂しい気持ちが溢れてくる。 でも明日、先輩家に居てくれるって言ってたな! この間杏に教えてもらった駅前のケーキ屋さん寄って、宇佐美の家に行こう! 楽しいな、恋は、とっても。 久々に気分が浮いて、真宏はスキップしそうになった。 でも出来なくて転んだ。 膝が痛い、まあいい。 スキップ出来なくても、明日になれば宇佐美と会えるから。 明日も会って、またねって意地でも言ってやるんだ。 いつか、宇佐美から「またな」って言って貰えるように。 翌朝、とってもいい気分で目を覚ませた気がした。 ぐいーっと伸びをして時間を見たら午前九時。 「俺にしては早起きじゃん」 どれだけ楽しみにしてんだ自分、ってちょっと恥ずかしくなりながらも、手早く身支度を済ませて一階に降りて既に起きていた杏や涼雅に挨拶をする。 「おはよぉ」 「おー、おはよ! あれ? 真宏今日も出かけるのか?」 「うん、宇佐美んとこ行ってくる」 「えー、いいなぁ〜あたしも宇佐美さんにあいたぁい。たまには連れてきてよ」 「そうだな、今夜連れて来いよ」 そういえば、涼雅も杏も宇佐美の事好きだったなと思い出す。 「うん聞いてみる。てかさ、涼兄、ちょっと聞きたいことあるんだけど……」 「うん?」 「宇佐美が一人暮らししてる理由って何?」 昨日浮かれてて忘れてたんだよな、聞くの。 そう問うと、涼雅はぴたっと動きを止め難しい顔をして下を見つめていた。 「……あ、いやその、アレだったら全然話さなくて大丈夫だから」 そんな顔されるとは思わずちょっと驚き、慌ててそう言うと涼雅は「すまん」とだけ言った。 「……俺からは話せないし、壱哉も話せるかは分かんないな。……まあけど、もしアイツが自分から話したらきいてやって。俺も全部知ってるわけじゃないし」 辛そうに笑う涼雅がそんな事を言うので、俺も杏も何も言えずにただ兄の背中を見つめた。 全部を知らない兄が、あんなに辛そうな顔をするのだ、……多分、本当に何かのっぴきならない訳が……あるんだろう。 ……ああ、早く宇佐美に会いたいな。 こんなに早く会いに行ったら迷惑だから、もう少し時間潰すけど家には居られないな。 会いたくてたまらない。 「ごめん、涼兄。朝ごはんは後で食べるからとっといて! 俺もう出るね」 「りょーかい。じゃあ壱哉連れて18時には家に来いよ。用意しとくから」 「まだ来るか分かんないって。でも言ってはみるよ、行ってきます」 「いってらっしゃーい」 「いってら〜」 二人の声背に、玄関を出た。 まだ宇佐美に会えないのに自然と歩く足が早くなる。 今ケーキ買っても暑くてきっとダメになっちゃうから、カフェで時間潰そうかな。 駅前のカフェに入り、カランコロンという音に出迎えられて店員に席を案内され、アイスティーを頼んだ。 何ケーキ買おうかなぁ〜 宇佐美、何ケーキが好きなんだろう? フルーツタルト? 無難にショートケーキ? チョコケーキ? 何となく、甘すぎない方が好きかなぁ? あ、でも宇佐美食べんの好きじゃないしなぁ…… けど昨日待ってるって言ってくれたし、まいっか!! お小遣いギリギリだけど、全部好きかなぁ? 携帯で近くのケーキ屋のサイトを漁りつつアイスティーをストローで啜っていると、「あの、」と聞き慣れない声に話しかけられた。 「はい?」 顔を上げると、そこには見覚えのないメガネ姿の男の子が立っていた。 年齢は自分と同じくらいで前髪が長くて顔があまりよく分からない。 「…………席、ご一緒してもいいですか」 ボソボソと小さい声で言われ、真宏はよく分からず首を傾げる。 「? ここの席が良ければお譲りしますよ」 ここは窓側だし、景色もいいし開放感もあるからここがお気に入りなのかもしれないな、そう思って立ち上がるとガシッと凄い力で腕を掴まれ驚く。 「いえ。アナタに、話があるんです」 「え?」 メガネの奥から鋭い二つの瞳が真宏を睨み上げている。 ……え、なになに? だれ? 知り合い? えっだれ? ごめん俺関わりない人覚えるのすげー苦手なんだ…… どうしよう、思い出せない…… 困惑しながらも、とりあえず話があると言われたのでもう一度席に着くことにした。 「……」 「……」 ……えっ、……えー…… 話あるとか言っといて、なんも喋んないのかよ〜……。 「……あの、なにか飲みます? ここのアイスティー美味しいですよ。あ、甘い物が好みならミルクティーも美味しいですけど……」 「……僕は牛乳アレルギーです」 「……左様ですか」 「……」 「……」 うっあ〜〜〜!! いやだ!! この空気!! えっ!? マジで何!? 誰!? 心で混乱しつつ、もうハッキリ聞いてしまおうと口を開いたその時、「あの、」と再び同じ切り出しで話しかけてきた。 「はい」 やっと来た、と言わんばかりに返事をすれば男の子はビクリと肩を震わせて少しモジモジする。 「なんですか?」 痺れを切らして言えば、男の子はぐっと溜めたあとまた、「あの、」と言う。 あのあの、ばっかで進まないな。 日が暮れてしまう。 「……あの、貴方は宇佐美くんのなんですか」 「ん?」 やっと喋ったと思ったら意味のわからない質問が飛んでくる。 「何、とは」 「……だから、恋人なのかって聞いてるんですよ」 男の子は時折恨めしそうに親指の爪を齧りつつ聞いてくる。 「恋人では無いですけど」 そんなに噛んだら痛くない? そろそろ血が出そうだ。 「じゃあなんで学校の時は宇佐美くんと一緒にご飯食べたり寝てたり、夏休みに入ったら宇佐美くんの家に勝手に入ったり入り浸ったり一緒に風呂入ったりしてるんですか」 矢継ぎ早に色々言われ、ビックリする。 いやさっきまでボソボソ喋りだったやん自分。 なんなん? いきなりぺらぺら…… いかんいかん、驚きのあまり宇佐美みたいに大阪弁に……。 「……あれ? てか、なんで俺が宇佐美の家に行ったり宇佐美と風呂に入ったこと知ってるんですか?」 部屋にはもちろん、真宏らしか居ないわけであるし、そもそも何故自分が出入りしてんのも知っているのだろうか。 「……貴方、もしかして宇佐美をストーカーしてた人?」 こういうの俺の良くないところだよな、と自分でも思うよ思いますよええ。 もう少しうまい聞き方無かったかなってそりゃあ、思いましたさ。 聞かれた男の子は、バァンッとテーブルをぶっ叩いて椅子を倒して立ち上がり、精一杯怒鳴った。 「僕はストーカーなんかじゃない!! 宇佐美くんの事が好きなだけだ!! お前よりも前からずっと!!」 「ちょ、分かったから座って……」 「なのになんで後から入ってきた年下のお前が選ばれてずっとそばに居た僕が選ばれないんだ!! おかしいじゃないか!! ずっと僕は宇佐美くんを見守ってきたのに!!」 ……うわこの人ちょっと妄想癖あるのかな……。 あるのかなっていうか多分あるんだろうな…… もしくは、宇佐美がヤリ捨てした人達の中の一人的な…… 「僕の事は、一回抱いたらポイ捨てされたのにキミは何度も抱かれているんだね……」 あ〜〜〜ヤリ捨てされた方の一人か〜〜〜あんのクソバカヤリチン野郎!! 「あーいや、俺は抱かれてるんじゃなくて俺も宇佐美に片思いしてる人間なので……」 「はあ? 一緒に風呂入っといてそんなわけないだろ」 「いやそれがそんなわけあるんですよ。俺はそういうの好きな人としかしたくないので、宇佐美が抱いてくれるなら万々歳なんですけどね」 男の子は何故かどんどん顔を真っ赤にしてキーッと叫び出しそうだった。 「わーわー落ち着けって! 何なんだよもう!」 彼を宥めるのと同時に伝票を持ち、お会計を素早く済ませて店内の人間に訝しげに見られつつ彼を無理矢理外に連れ出してとりあえず人気のない所に行こうと公園に連れ出した。 「離せ!! 僕に触るな!!」 バシンっと錯乱状態の男に叩き落とされる。 「ムカつくんだよお前!! ちょっと顔がいいからって澄ましやがってよぉいつもいつも!! 恋人でもない人間が宇佐美くんの家に行けるわけないし、そういうの宇佐美くんは許さない人間なんだ!! だから宇佐美くんに嫌われないように僕は、ずっと、……っ、外で……っ」 ひぐ、ぐす、とボロボロ泣き出す彼はしゃがみこんでしまった。 ……いやぁ、情緒不安定過ぎるだろう……。 とりあえず一緒にしゃがみこんでみると、男の子はくわっと真宏を睨み上げドンッと体を押した。 地面に倒れ込み尻もちをつく真宏の上に、男の子が馬乗りになる。 「ふざけんなふざけんなふざけんな!! お前なんか消えろ!! 消えちまえ!!」 その叫び声と彼が腕を振り上げたのを視界に捉えた直後、ざくり、と腕の皮膚を、筋肉を、突き破る感覚がした。何が起こったのか分からなかった。 つーっ、と液体が腕を伝い地面に黒いシミを点々とつくる。 けどそれは水のようにすぐに土に吸い込まれない。 赤黒く、残っている。 それを認識した途端、鋭い痛みが左腕に走り目をやれば果物ナイフが自分の腕に見事に刺さっていた。 「……ッい゛……で……ッ」 あまりの痛さに呻くと、男の子は青い顔で「僕じゃ、……ぼくじゃない……、おまえがわるい、……おまえのせいだ……」とうわ言のように言っている。 やばいやばい腕が痛い、なにこれ、ナイフ抜いていいの? 抜いたら死ぬ? 腕じゃ死なない? いや待って血止まんないじゃん、え、俺今から宇佐美に会いに行くのに……死ぬの? 会えないまま? 無理無理無理─……って、……いいわけあるかボケ!! へっぴり腰で逃げようとする男の首根っこを掴み、ダンッと地面に押付けた。 「ッお前、こんなもん持ち歩いてんなら刺したぐらいでビビってんじゃねぇよ!! 持ち歩くなら覚悟ぐらい持て馬鹿野郎!! あと俺はな!! もうとっくに宇佐美に何度も何度も振られてんだよ!! それでも俺がアイツを勝手に好きだから、好き好き言いまくってるだけ!! アイツにはとっくに呆れられてんだよ!! そんな事情も知らねぇで好き勝手言ってくんじゃねぇクソ野郎!! この腕どーすんだ!! くそ痛てぇじゃねぇか!! ばーか!! ばーか!!」 言ってるうちに悲しくなって、いつの間にか驚き真宏を見上げる男の子頬にぽたぽたと涙が零れていた。 そのままずるり、と力が抜け腕の痛みに体が震えてくる。 男の子の肩口に顔を押し付け、必死に叫ばないように耐える。 どうしよう、どうしよう、本当にどうしよう、痛い、しんどい、痛すぎて吐きそう、気持ち悪い、宇佐美に会いたい、助けて…… 助けてって、俺が駆けつけるって、……またねって、言ったのにな…… 「……ぅ、……ふ、……ッ」 グッ、と奥歯を噛み締めて起き上がり刺さってるナイフを握った 刃が揺れて痛い。グッと力を込め、思い切り引き抜く。 「う゛ぅ゛……ッ」 下唇を噛み締めたが、激痛で噛み切ってしまった。 唇からも血が垂れるし、引き抜いたせいで一層血が出てる気がする。 「……俺、……死にたくないんですけど……」 ぼそりと、呟くと、目の前の男も呆然と真宏を見て「……僕も、……殺したく、ないです……」なんて弱々しく言うから、お前のせいでこうなってんだよボケ、という言葉は飲み込んで、「……じゃあちょっとマジで、助けてくれません?」って真面目にお願いしてみた。 男の子は青い顔で震えて真面目に頷き普通に救急車呼んでた。 まあ、そうなるわな、なんて思いつつ真宏は震える男の子に倒れ込み意識を失った。 じんわり汗ばむ中、蝉の声がうるさかったのを覚えている。

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