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第10話
真宏は何時頃来るんだろうか、と扇風機の風に吹かれながらぼんやり思った昼少し前。
今日はどんな話を土産にしてくるんだろうか、と腹をかきながら目を閉じる。
帰り道も何度も何度も振り返って嬉しそうに手振る後輩。
見えなくなるまでずっと、こちらをニコニコ振り返っていた。
真宏は何か吹っ切れたのか、いきなり全身で「好き」を表すようになった。
だから不意打ちで、当たり前のように息するみたいに「好き」と言われると、吃驚するし下心ない"好き"には慣れてない宇佐美は些か反応に困るのだ。
真宏みたいな裏表のない人間から好きと言われると、本当の事なんだって嫌でも思う。
言われる度に体が擽ったくてたまらない気持ちになった。
けど宇佐美は真宏を好きにはならない。
答えることは出来ない狡い人間だけれど、好きって言ってくる真宏は可愛いいとは思う。
さて、真宏が来る前にひとっぷろ浴びるかぁ〜
畳でゴロゴロしていたが、のそりと体を起こす。
時間は昼過ぎやしそろそろ来るやろー、なんて思いつつ腹をかきながら風呂場に行こうとしたその時、ダンダンダンッと玄関を勢いよく叩かれ、肩が揺れた。
「えっなになに〜?取り立て〜?」
いやいや。
借金だけはしとらん。
闇金なんて以ての外やし、そもそもこんなちんけなボロアパートに来んのは真宏くらいやから、真宏か?
でもなんでこんなバンバン叩いてんの?うるさ。
不思議に思いながら玄関に歩みを進めると、バァンッと扉が開き真っ青な顔をしたミヤビ.......真宏の兄貴の涼雅がそこに居た。
なんで居るのか、と考える間もなく、宇佐美は頬を引っぱたかれて何が何だか分からないまま、自分より少し背の低い涼雅を見下ろした
「真宏が刺された」
涼雅はハァハァと肩で息をして宇佐美を睨み上げる。
よく見たら後ろには宇佐美のバイト先のオーナーである[[rb:天哉 > たかや]]も居た。
「お前が、過去にヤリ捨てした奴のひとりに真宏が刺されたんだよ」
恨めしそうに見上げられ、宇佐美は思い切り目を開いた。
「……え?」
突然の展開に脳の処理が追いつかない。
俺がヤリ捨てした人間……?
そんなんぎょーさんおるわ。数え切れへん。
男も居るし女も居る。
そん中の一人に真宏が刺された?
真宏は?生きてんの?死んでんの?
「っお前は、そういう事すんのはあれ程止めろと言っておいただろうが!!まだそうやって誤魔化しながら生きてんのか!!」
「涼雅、とりあえず今はソイツも連れて病院に……」
天也の制止を振り切り、宇佐美の胸倉を掴んでくる。
……流石元ヤン、威圧感と腕力がごついわ。
「テメェのやり方全部下手くそなんだよ!!過去の事は俺も口出せねぇけどな、うちのが巻き込まれたとなっちゃ話は別だ!!広く浅く食いてぇんならそれに見合う人間だけ食え!!ああやって弄ばれ慣れてねぇような人間に手ェ出すな!!真宏も然りだ!!」
壁に押し付けられ、ガンッと後頭部を打つ。
「なぁ壱哉よ。俺はテメェの話をちっとばかし知ってるよなぁ。誰にも言ってねぇよ。テメェの昔話は他人に聞かせられるもんじゃねぇしな、お前自身全く折り合いつけられてねぇんだろ、親父さんの事も、"義父"の事も」
「……」
「無理に真宏を見てやれだとか真宏を刺した奴と責任もって付き合えだとかそんなくだらねぇ事は言わねぇよ。ただな、お前の今の生き方は"死にたいんです、でも死にたくないんです、助けて欲しいんです、でも、助けて欲しくないんです"って、ただワガママ言って誰彼構わず縋ってるようにしか見えねぇんだわ」
「……」
涼雅の台詞に宇佐美の喉が詰まる。
「……俺がキレてんのは、真宏の事も、刺すまで追い詰められたあの男の子と同じような扱い、してんじゃねぇだろうなって事だよ。そうするつもりなら今後一切、アイツとは会わせねぇ。寂しいなら寂しいって口に出して言え。中途半端に手出してんじゃねぇよ」
涼雅の言う事は最もだ。正論だ。
「おい涼雅」
「してないッスよ、真宏には」
天也が涼雅を止めるより先に、宇佐美が口を開いた。
「真宏を中途半端には出来ないッスよ。綺麗すぎて、見てて、しんどいんすわ」
へらり、と言うと涼雅はじっと宇佐美を見つめた後、ゆっくり手を離した。
「……真宏は綺麗だよ。すっげー綺麗で純粋で真っ直ぐなやつなんだよ、アイツは。だから人の裏切りだとかそういうの許せないし、人一倍傷つくんだよ」
「…………」
「だけどな、アイツはこの俺の弟だ。お前の人生全部ひっくるめても、それから目を逸らすような人間じゃねぇってことだけは覚えとけよ。アイツは強い、下手したら俺よりもな」
涼雅は拳を握り過ぎて、震えていた。
何よりも昔から、家族が大事で家族優先で、家族……弟と妹を支えてきた兄貴だから、本当は自分をもっと殴りたいんだろう、今後もう自分に真宏を会わせたくないんだろう、と宇佐美は思った。
……そんなに思われてる家族が、昔から羨ましいと思ってた。
綺麗な思い出ん中に、家族が在るのは幸せなんだろう。
自然と顔が歪んでいたのか、ミヤビさんはトンっと宇佐美の心臓の位置に軽く拳を当てた。
「……今までお前の周りに群がってきた薄っぺらい人間共と俺の弟を一緒にするな。アイツは世界一の男前だぞ」
……確かに、真宏は俺なんかよりもすげー男前やったな。
「さ、もういいだろ二人とも。良いから弟クンとこ戻ろうぜ」
天也の台詞に、涼雅は頷き「行くぞ」と宇佐美を促してきた。
自分が行っていいのか迷ったけど、涼雅が「真宏がお前を呼べって言ってんだよ」と言うので、これ以上涼雅を怒らすのも怖いしで着いてくことにした。
それに、真宏ん事も少し……いや、頭痛するくらいにはかなり心配やしな。
天也さんの車で揺られ片道三十分くらいにある総合病院に着き、三人駆け足で病室に着いた。
「真宏!!生きてるか!?」
いの一番に涼雅が入り、「もーうるさいよ涼兄」と言う真宏の声が聞こえた。
「さっきも同じセリフ言ってたじゃない」
たしか真宏の妹の杏ちゃん……も、涼雅を見て呆れつつ笑ってる。
「あー!宇佐美さんじゃん!久しぶりー!」
宇佐美に気づいた杏が嬉しそうにぴょこぴょこ笑うので宇佐美も「ああ、うん、おひさ」と笑った。
ふとベッドに目をやれば、病院着を来た真宏と目が合う。
真宏は照れくさそうにへらり、と笑いひらひら怪我してない方の手を振ってきた。
「真宏、……お前、怪我……」
しまった、なんて声をかければええのかさっぱり考えてへんやん俺。
ぐるぐる頭ん中、ああでもないこぉでもあらへんし、どないしよぉなんて久々にパニクってるとクスクスと笑い声が聞こえた。
「なぁに珍しく吃ってるんですか?俺てっきり、アホやなぁくらい言うかと思ったのに」
なんなん、刺された自分が一番元気そうやんけ……。
無駄に心配して損した気分にもなったけど、でも、元気そうで安心したわ。
「ってか、涼兄もしかして宇佐美の事殴ったの!?もみじついちゃってるよ!?」
宇佐美の頬を見てびっくりした真宏が涼雅に怒る。
「だってコイツの下半身ふしだらなせいで真宏が巻き込まれたって知って、もう……ぶっ殺そうかと……」
「もー馬鹿だなぁ。確かにコイツが下半身ふしだらなせいで刺されたけど、俺を助けてくれたのも刺した本人だし、もう凄い反省してるからとりあえずいいよ」
下半身ふしだら……正論やけどな……二回も言われるとな……ううむ……
「反省してる?なんで?.......っていうかあのまま救急隊員に通報してもらえば良かったんだ。傷害事件だぞこれは。被害届出すべきだと思うし、その子の親にも言うべきだろ。壱哉も、被害届出せるんだぞ」
「え?俺が?なんで?」
涼雅は宇佐美の方を見て顔を顰めた。
自分は刺されていないし、なんの被害も受けていないのになぜ、と首を傾げると、真宏が言いづらそう口を開いた。
「まあ宇佐美が出したいなら宇佐美として出せばいいと思うけど……。ほら、宇佐美前に学校でなんか付き纏われてる的な事言ってたじゃないですか。お昼休みの件のやつ。それその人らしくてさ。部屋の中も覗いてたみたいだし。あと、俺のローファーズタボロ事件とかさ」
「あーあったなぁ。確かに、覗かれとる気はしとったわ」
「あれが全部彼だったらしくて」
真宏が目線をやった先に地べたに土下座して小さく震えてる男が目に入った。
「……んー……?誰やお前……」
「だからお前のそういう下半身ふしだらなとこ!!本当流石に直しなさい」
涼雅に頭を小突かれて、その衝撃のお陰か宇佐美はぽこんっと男の事を思い出した。
「あー!お前アレやん!俺に抱いてぇ言うて迫ってきてしゃあないから抱いたるわっつって、いざ抱こうと押し倒したら緊張のあまりそんままあっかい顔して気絶してしもて、しゃあないから保健室連れてったあん時の子やん」
「へ!?」
男は宇佐美の言葉にあん時みたくあっかい顔して顔を上げて目を丸くして俺を見た。
「つまりノーセックスやねん、お前。俺もあん時勃たれへんかったしな、ちょーどえーわー思っとった。あと、震源地か思うくらいめっちゃ震えとってな、流石にあそこまで緊張されっと、抱く気も失せるっちゅーか、わろてまうわな。ベッド小刻みに揺れてんねんで?ウケる」
当時の事を思い出してペラペラ喋ると、男はボロボロ泣き出した。
「えっなんで泣くん?」
純粋に驚き真宏を見ると、真宏はじとっとした目で宇佐美を見る。
「アンタねぇ、……俺も被害者だけど彼も立派な被害者ですよ今」
「はあ!?なんで!?そんときの話しただけやん!」
「宇佐美さん。人って顔が良くてもデリカシーなきゃ真のモテる人間にはなれないのよ」
「で、でりかしー!?あるやん!!」
「やっぱシめるか真宏」
涼雅が再び迫ってきて、慌てて真宏の背に隠れる。
宇佐美の方がデカいもんで全く隠れなかったけど。
「もー……何やってんだか」
呆れた真宏のため息に、宇佐美も「ほんまにな」と呟いた。
「……じゃあ、全部僕の、勘違い……だったんですね……」
弱々しい声で紡がれたセリフに、宇佐美はしっかりと頷いた。
「せやな、俺はお前を抱いてへんしな」
「……俺、……じゃあ俺……ただ、……彼を刺しただけの……にんげん……うッ……ごめ、ごめんなさ……ッ、ひぐっ……うぅ〜っ」
男は何故か一層泣き出し、床と一緒になるんか、て思うくらいグズグズに倒れ込んだ。
見かねた真宏がゆっくりベッドを降りて男の背中に手を置く。
「まあほら、誰にでも間違いはありますし、俺は大事にはしませんし、やり直しましょう、これからでも。今度は危ない方向から愛すのはやめて、一緒に正面からいきましょうよ」
「……ま゛、ま゛ひ゛ろ゛く゛ん゛」
びっちゃびちゃの汚ったない顔をあげて真宏の事を見上げる男。
「……や゛さ゛っ、やさし゛い゛ね……っ、まひ、ろくん、……すきに、なりそ、だよ……」
弱々しく笑う男に真宏はにっこり笑い返す。
相変わらずお人好しやなぁ、なんて思ってると真宏はにっこり笑ったまま彼から手を離して見下ろした。
「ま、俺を刺したことは許さないし元気になったんならとりあえず俺が満足するまで土下座しててくださいね、すげー痛かったんで。あと俺は宇佐美の事が好きなので貴方の気持ちには答えられません」
「う゛ッう゛ぇ゛え゛え゛え゛!!こ゛め゛ん゛な゛さ゛い゛ぃ゛い゛ぃ゛い゛!!!!!!!!!!」
久しぶりに人を不憫やと思ったし、多分真宏以外の俺を含めた周りも思っとったやろうな。
「(なんかめっちゃかわいそ……)」
真宏はやっぱり、ミヤビさんの弟やな。
真宏の点滴が終わり、泣き崩れて立てなくなった男を、天也が送っていくことになり、涼雅と杏は気をつかって真宏と宇佐美を二人きりにしてくれた。
なんだかんだ真宏が宇佐美の事好きなのは薄々涼雅達にバレていたらしく、ニヤニヤしながら「やり捨てられたら首絞めたれ。俺も絞める」と涼雅に言われて、宇佐美が真っ青になって真宏の後ろに隠れていた。
……兄貴よ、どんだけ宇佐美に八つ当たりしたんだよ、かわいそーに……
と少しだけ思ったけど、そもそもこいつが下半身ふしだらなせいで自分がこんな事になってるので今は慰めなくてもいいか、と思い直し着替えて二人、病院を出た。
並んで歩いて、いつもみたいに真宏が他愛ないことをペラペラ話していると、不意に宇佐美が「なあ」と言ってきた。
「はい?」
気づけば宇佐美は真宏の隣には居なく、病院近くの公園の前に立ち止まっていた。
「また公園ですか」
「嫌?」
「嫌じゃないけども」
「ちょい寄ってこ」
まさか遊具で遊ぶのか、俺腕怪我してますが……なんて思ったけれど宇佐美は自販機でお茶を二人分買ってベンチに座ったので真宏もその横に座った。
「ほれ、やるわ見舞い」
「一三○円の見舞いねぇ」
「要らん?要らんなら花の餌やわ」
「水は餌って言わなくない?言うのかな?」
「そこ?」
二人で言い合ってクスクス笑う。
宇佐美から受け取ったお茶は、暑さのせいで水滴がぽたぽた落ちていく。
ぐいっと一口飲むと、乾いた喉にじわじわ染み込む。
やっぱ点滴だけじゃ乾きは満たせないよなぁ〜
「なあ真宏」
宇佐美のセリフに、「はい」と返事をした。
宇佐美はお茶のペットボトルを握ったまんま、ぼんやり空間を見つめている。
そんな横顔に見惚れて、宇佐美の次の言葉を待った。
「俺な、結構マジで、ほんまに心配した」
「……………………え?」
え?いまなんて?心配?宇佐美が?何を?
「真宏が刺されたって聞いてな、あーあ、俺またかぁって思った」
……また?
聞いてもいいのか迷っていると、宇佐美はふわりと優しい顔で俺を見た。
「俺のな、初恋の人、亡くなってんねん。
……俺が、殺したよーなもん」
ミンミンミンと鳴くのは、ミンミンゼミだったか。
名前のまんまで安直だ、と思っていた。
うるさくて、煩わしい夏の風物詩。
でも今は、そんな蝉の声が聞こえない。
そういえば、マオに告白された時も周りの音がきこえなくなっていた。
だから嫌に、ハッキリ聞こえてしまうんだ。
「……まあ俺が直接殺したわけとちゃうんやけどな。アイツからのSOSに気づけへんかったのは、殺したも同然やん。……アイツは周りに殺されたようなもんやしな」
「……」
「なに?珍しいやん、真宏が何も突っ込んでこぉへんの」
宇佐美がチャラけたように言うので、見つめ返す。
「真面目に、話したいことなんでしょ。返事しなくてもきいてるよちゃんと」
そう返すと、宇佐美は笑顔を消して、顔に一切の表情を浮かべぬまま、またぼーっと宙を見だして静かにゆっくり淡々と口を開いた。
落ち着いて冷静に、トーンを変えることのないまま少しハスキーな声で伝えてくれた宇佐美の昔話は、真宏が生きてきた世界では到底考えられないことだった。
……聞き終えた俺の両目からは、とめどなく涙が溢れていた。
宇佐美は、父、母、姉、自分の四人家族だった。
けど血の繋がった実の親父は飲んだくれのアル中で誰彼構わず手を上げるような腐った人間で、それが祟ってか宇佐美が幼稚園の時に宇佐美を殴った勢いでぽっくり死んだ。
脳の血管がぷっつり逝ったらしい。
その後すぐに母親が新しい男を連れてきてコイツもコイツでどうしようもない人間で、母親はつくづく見る目がないな、と宇佐美は子供ながらに呆れた。
義父は超大手IT企業の副社長、まあ母親は専業主婦、姉貴は俺の三つ年上。
傍から見れば、再婚して裕福を手に入れた幸せもんに見えたいただろうし、家族全員が顔だけは良かったから周りからは憧れの家庭に見えてたらしい。
でも家ん中は結局めちゃくちゃで、義父も仕事のストレスを全て俺らに暴力、暴言でぶつけ、俺らは毎日狂ったように暴力と罵声を浴びせ続けられた。
ただ見える所は絶対に触らないように、人目から見えないとこばっかり殴ってきた。
宇佐美は物心つくまでずっとそれは当たり前の事だと思ってた。
なんかもうこんなんやろな、どこの家もとか。
けど、小学生になり段々分かってきた宇佐美は家がおかしい、普通じゃない事に気づいた。
殴られるたびに、母は俺と姉を抱き締めながら「ごめんな、ごめんな」と泣いて謝った。
必ず傷が残らんように手当てをしてくれとった。
今思えばこの手当は、宇佐美らのためやなくて自分らの薄っぺらい紙みてぇーな「カオ」のためやったんやろな、と宇佐美は笑った。
それらのせいか分からないけど宇佐美は、人との関わり方が分からなくて小学校に友達がいなかった。
家にも学校にも居場所がない宇佐美の、唯一の心の拠り所は姉だったと言う。
姉が居たから生きてこれたも同然だった。
同じ境遇でも、姉は宇佐美に「絶対大丈夫。あたしがはよデカなったら壱哉連れて遠いとこ行こな」とよく話していたそう。
宇佐美はそれを信じて、それが出来ても出来なくても姉の事を自分も助けて生きていこうと思っていた。
そんなある日、学校からいつも通り家に帰ってリビングを覗くと、義父と母親と姉貴が珍しく座って話してた。
宇佐美はそこに静かに入り、「……ただいま」と小さく声を掛ける。
すると、義父は宇佐美をチラリと見て妖しく笑って母親に言った。
「コイツ置いていくんだったらこの件、承諾しようか」
「……な……」
母親と姉貴の絶句した顔と、義父の楽しそうな顔に宇佐美は何が何だか分からないままただ家族を見上げるしか出来なかったと言う。
暫く俯いて黙り込んだ母親は、疲れた顔をしてぽそりと口を開いた。
「……分かりました」
「ちょっと母さん?!」
母親の言葉に姉貴は「何言うてんの!」と驚いている。
宇佐美も何が何だか分からないし、ただ、あー腹減ったなぁなんてぼーっと見上げてた。
すると母さんは凄い形相で頭を抱えて叫び出した。
「もう嫌やねんこんな生活!!毎日毎日、あたしはあたしで精一杯……!!アンタと居ったら気がおかしなんの!!もぉはよこの場から消えたいねん!!!」
穏やかで優しかった母親からは想像も出来ない凄い形相で、泣きながらそう叫んだ。
その様子に母親を抱き締めていた姉も涙を流していた。
「でもせやからって……、壱哉を……」
姉は宇佐美を見ながら悲しそうな顔をする。
姉は昔から優しい人やったな。
姉のその言葉に、スッと光の無い目をした母親が言う。
「……その子をあげたら、ラクになれんねやろ……ならいくらでもやるわ……」
ぽそりと静かに紡がれた言葉の意味を、宇佐美は理解してしまった。
……ああ、俺捨てられたんやなって。
その後のやり取りはよく覚えていないらしい。
宇佐美は母親に捨てられた事に、頭が真っ白やったし、姉が母親を責めることも出来ないまま宇佐美を見つめて泣き続けるしかなかった理由も、今では分かると言う。
逆に覚えてるのは、あん時の義父の気色悪い楽しそうな顔。
そして母親は姉を連れ自分だけを置いて、捨てていった。
宇佐美は義父と二人で新しい生活を始めることになった。
けどそれはこれまでよりも地獄で、小学生時代宇佐美は半袖も半パンも履けた事なんかなかったらしい。
腕まくりも出来ないもんだから、それを先生に誤魔化すのに必死だった。
まあバレとったやろうけどな、と宇佐美はお茶を飲みながら笑う。
友達は相変わらず出来ないまま、宇佐美は義父にストレスの捌け口にされながら中学へと上がった。
こん時に初めて男に抱かれたなぁ、そういや。
俺のハジメテは中学の古文のセンセーやったわ。男のな。
金くれるー言うから暇つぶしにセンセーに抱かれるようになったらいつの間にか、義父からも性対象にされとった。
俺はもぉそん時は人と関わんのが嫌いで、誰も信用できんかった。
相変わらず独りで、義父の目を盗んで宇佐美はよく夜中、辺りを徘徊してたらしい。
それは中二になっても変わらず、家から離れた公園でブランコに座りながら、ぼーっと夜空を眺めんのが日課になった頃、宇佐美はある一人の男と出会った。
「……今、暇なの?」
唐突に、そんな声が聞こえてくる。
気づけば一人の男が、目の前に立って宇佐美の顔を覗いてた。
月明かりに照らされたその男の顔は、少し女顔で貧弱そうな奴。
宇佐美はその男を睨みつける。
「やだなぁ、俺キミに喧嘩売りたいわけじゃないよ」
困ったように笑ったソイツは宇佐美の隣の空いとるブランコに勝手に腰掛けた。
「キミ、ここ最近いつもいるよね」
勝手に話し掛けてくる男を宇佐美は無視する。
コイツと話したいとは思わへんし、かと言って家に帰る気もない。
「なんで?って聞いてもいい?」
……それはもうイコール聞いてるやろが。
宇佐美は内心イライラしながらこのヘラヘラした優男を睨みつける。
「じゃあ俺が一方的に話すよ」
優男はそんな事を言って、ブランコを緩く漕ぎ始めた。
「俺は、ハル。
この公園、俺もお気に入りだから来たくなっちゃうの」
……急にそんな話されてもキョーミないわ。
宇佐美は無視を決め込み地面を見つめる。
「キミの名前は?」
そういえば、コイツ大阪弁つこてへんな。
自然すぎて気づかれへんかったけど、他所者なんかな。
そんな事を考える。
「ねえ、キミの名前は?
折角ここにいるんだからお話しようよ」
ハル、と名乗ったその男は口を尖らせながらぶーぶー文句を言う。
宇佐美は「はァ……」と溜息を吐いて、渋々口を開く。
「……お前に名乗る必要無いやろ」
「俺は名乗ったじゃん」
「勝手に言うただけやろ。俺は聞いとらん」
ムッと返してくるこの男に宇佐美は「ガキか」と心で突っ込んだ。
よく見れば、こいつが着とるのは制服でしかもこの近くの高校の制服やった。
「ねえキミのその制服、この近くの中学でしょ?
じゃあ家近いんだね」
そんな事まで言うてくるコイツに、宇佐美はイライラが溜まっていく。
「……関係無い」
低い声でそう返すとハルは「ふふ」と笑う。
「毎晩ここで暇してるんだったら、毎晩ここで俺とお話しようよ」
その言葉に宇佐美は「はぁ?」と呆れる。
どこまでフリーダムやねんこの男。
「だってぼーっと見てるだけじゃつまんないじゃない」
決めつけられたように言われ、宇佐美はイラッとする。
「別に毎晩同じ空なわけとちゃうやんけ。邪魔すんなや」
そう返すとハルは目を開いて言った。
「……キミ、いいねそれ」
「は?」
何が?と聞く前にハルはブランコから立ち上がり、綺麗な笑顔で宇佐美に笑いかけた。
「ねえ、歌うたえる?」
「……うた?」
宇佐美は質問の意図が分からず首を傾げる。
「そ!キミのその声も言葉も気に入った!」
声を気に入ったなんて言われたんは初めてだった。
宇佐美に笑いかけてくれた人間も母親と姉以外で初めてだった。
だから、てわけじゃないけど何となくこの男と普通に会話をしてた。
「ねえ、俺の歌うたってみない?」
俺の歌……?
「俺ね、曲作ってるの。そういう人になりたくて」
ハルはギターを弾く真似をしてニコッと笑う。
随分綺麗に笑う男だった。
「だから、明日またここに来てね。じゃあね」
「え、おい!」
ハルはそう一方的に言って去ってった。
風のような男やったわ、と宇佐美は言う。
短い時間だけど、宇佐美は何となくハルの顔が頭から離れなくなった。
初めて、人と普通に話したかもしれん。
これが宇佐美とハルさんの出逢い。
それから翌日の夜本当にハルはギターを持ってきて歌詞の紙を宇佐美に見してきた。
ハルが見本で歌っとったけど、綺麗な声の割に音程はハチャメチャで、世に言う音痴やった。
「ね、だから俺じゃイメージ湧かないの! 壱哉手伝って〜」
ハルは強請るように宇佐美に言ってくる。
俺、歌ったことあらへんし。
俺も音痴やったらどないすんねん。
けど宇佐美は自然と「しゃあないな」なんて笑ってた。
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