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第4話

 *  律が自室で春樹を待っていると、部屋のドアを軽くノックする音が聞こえる。 「あ、はい。どうぞ」  すると風呂上がりの春樹が二つのドライヤーを持って入ってきた。 「ドライヤー……?」 「あー、めちゃくちゃ濡れてそうだな」  なんのことかと春樹の視線の先を目で追うと、自分の足元に置かれたスクールバッグのことだったらしい。  ……そうだ、すっかり忘れていた。  学校で春樹に背中の傷を見られたこと。  他の人たちの笑顔に囲まれている春樹を見てしまったこと。  そして自分はそんな春樹に「釣り合わない」と思って落ち込んだこと。  そのことばかりが頭を埋め尽くし、傘を持っていることを忘れて土砂降りの中帰ってきたこと。  さっきまでのぼろぼろの自分を、開けっぱなしたスクールバッグから覗く教科書が必死に伝えていた。  ……なんだ、僕。春樹のことしか頭にないじゃないか。  春樹は小さな声で「お邪魔します」と言って律の部屋に入ってきて、片方のドライヤーを渡す。 「えっと……」  そう言いながら壁にあるコンセントを繋げる春樹につられるまま、ドライヤーをつけた。  春樹は律の正面の床に座って、その鞄から教科書を取り出す。そして慎重に表紙をめくってドライヤーで乾かし始めた。あぁ、そういうことかと律は自分が持つドライヤーの意味に気づく。  やがて春樹は口を開いた。 「こういうさ」 「ん?」 「こういう……例えば自分の教科書とかさ。自分の持ち物がびしょびしょになったり、ぼろぼろになったりしてるのを見ると、割と心が傷つくよな」  そう言った春樹の言葉を聞いて、さっきまでの自分は確かにこの教科書を見てはさらに気分が落ち込んで泣いていたのを思い出す。 「ほら、手が動いてないぞー。律もやれよ」 「あ、うん。ごめん」 「これから一ページずつこれやるんだから気合入れていくぞ」 「い、一ページずつ!? いいよ、そんな頑張ってくれなくて……」 「何言ってんだ。これはさっきまでの律かもしれないんだぞ。たまには自分を労われよ」  なんか哲学的なことを交えてきたなと律は思ったが、春樹がこうして自分を心配してくれているのは嬉しかった。  なんだろう。春樹が僕の前に現れてから、ずっと僕は春樹のことで一喜一憂しているなと律は苦笑いをする。  一喜一憂だけじゃない。すっかり脆くなった。  どんなに広野からイジメを受けても何も感じなくなっていたのに、今は広野と春樹が笑っているところを見ただけで心が崩れそうになるし、広野を殺したいほど憎く思うようになってしまった。  たった一日で、これなんだ。  これから卒業するまでこんな日々が続いたら、僕はどうなってしまうのだろう。 「はい、次のページ。このペースなら『朝までコース』か。まだまだ夜は長いぞー」 「うん……、そうだね」 「なに、どうした?」 「え?」  春樹の言葉の意味がわからずにいると、春樹に腕を引かれて立ち上がるように促される。  そうしてわけもわからず立ち上がった律の目元をするりと春樹の親指が撫でていった。 「また泣いてる」  そう告げられ、また抱きしめられる。  あぁ、これは、ヤバい。  律はぎゅっと春樹にすがるように抱きしめ返す。  涙や、赤くなった顔を隠すのに精一杯だ。  ――……これからこんな日々が続いていくとして。  卒業した後、僕はどうなってしまうのだろう。  僕と春樹はきっと別々の道を歩む。  その時、僕は春樹がいない場所でちゃんと生きていけるのだろうか。  ふと、春樹が少し体を離す。  物足りなさに律が顔を上げると、心配そうな表情の春樹がこちらを見つめていた。 「……大丈夫か? もしかして放課後何かあったのか?」 「え……?」  春樹は言いづらそうに頭を掻いている。 「いや、今日の体育とか色々あったから」  あぁ、広野のことか。  そう感づいた律は作り笑いを浮かべた。 「ううん、広野とは放課後何もなかったよ。それより体育の時、ほんと春樹はかっこよかったな。あの広野と連携してる人なんて見たことなかったしね。それに広野にボール当てられた時も……」  その瞬間。 「んっ……!?」  突然のことで、何が起きているのか律は一瞬わからなかった。  目のピントが合わないほど近づいた春樹の顔と、唇で感じるその体温、両肩を掴んでくる力強い手。  まるで、時が止まったかのようだった。  数秒そのまま二人は動かず、唇が離れたときに初めて律は今のがキスだったことに気づく。 「え……っと、え?」  律が自分の唇をそっと人差し指でなぞった。  手が震える。恐れや怖さでは、ない。  心臓が、頭の中が、死んでしまうのではないかというほどすごく脈動していた。  なんだろう、だめだ。春樹を正面から見れない。でも、どんな顔をしているのか気になる。  律は羽織っている長袖の服の袖で口元を隠しながら、そっと春樹を見つめた。  すると、意外なことに基本たいして何にも動じない春樹が、驚いた顔をして固まっている。  そして律に見つめられたのに気づいたのか、春樹は目線を斜め下へと落とした。 「……悪かった。律の口から他の男の名前聞きたくなかったっていうか……いや、いくら律でも他のやつの名前くらい出すよな……。……俺、どうかしてるみたいだ。一発、陸也に殴ってきてもらう」  そう言って踵を返して部屋を出ていこうとする春樹を見て、律は衝動的に手を伸ばしていた。 「あ……待って、春樹!」  その必死さに春樹が目を見開く。 「律……。嫌じゃ、ないの?」  ストレートに聞いてくるその問いかけに、律は目を合わせられないままうなずいた。  そのまま春樹の腕を引っ張ってベッドに腰掛けさせ、隣に律が座って。  何も言えずにそっと甘えるように頭を春樹の肩に預けた。  ……これだけで、自分の想いが春樹に伝わればいいのに。  そんな叶わない願いを律は抱いていた。  ――よく、『初恋は実らない』と聞く。  誰が最初に言ったのかはわからない。  そしてもしそれが神様のいたずらのせいであるならば。  ……神様、どうか僕たちのことを見つけないで。  *  ……春樹はまだ動揺していた。  律の頭が自分の肩にあって、さらりとした髪が首元に微かに当たっている。  いや、そんなことよりも自分はとんでもないことをしたんじゃないだろうか。  なんで『親友』にキスなんてした?  ……それは律の口から広野の名前が出るのが嫌だったからだ。  でもだからって、止め方なんて他にもたくさんあっただろう……! 「……春樹?」  律の言葉にハッとした春樹はその顔を見つめる。  その表情は不安げで、でも少しの期待のようなものも含まれているのがわずかに赤くなっている顔からわかった。  そして春樹は直感的に勘づく。  律から他の男の名前を聞きたくなかったのは確かだ。でもそれだけでなく、――――誰かに律を奪われるのが心の底から許せなかった。  それは覚えてはいけない独占欲。  律から感じる自分への柔らかな愛情と、自分の中に秘められていた獰猛な感情に未だ戸惑う自分。  このまま本能に流されてはいけないとわかっている。  わかっているんだ。  それなのに。 「……律」  春樹は自分の腕に絡まれていた律の腕を優しくほどき、そっとベッドに押し倒す。 「はる、き……」  律の声が震え、連動するように胸元に添えた手も小刻みに震えだした。  春樹はその手をしっかりと握り返し、律の上へと体を乗り出す。  律の手の震えが止まったのを感じた春樹の片手はそのまま律の顔の輪郭をなぞり、首元にするりと落ちて。 「んっ……」  聞いたことのない律の甘い声と、恍惚としたその表情に春樹は深みへと溺れていく。  その時。 「兄貴と春にい、まだ起きてるかー?」  部屋の向こうから何も知らない陸也の声が聞こえた瞬間、二人は脳の奥が凍ったように一度ピタリと動きを止めて。  すぐさま春樹は体を起こし、律は乱れかけた服を急いで直しながらベッドに座り直した。 「お、起きてるよ! どうしたの?」  律の声が少し裏返る。  あぁ、どうか陸也に気づかれませんように。  そう思ってか、律は無意識に服の胸元を握りしめていた。  ドアの向こうからは声のトーンを変えない陸也が言葉を返す。 「いや、どうってこともないけど。俺そろそろ寝るから。おやすみ」 「う、うん! おやすみ!」  律の言葉を聞いて春樹はフッと笑いながら、 「おやすみー」  とドアの向こうへと同じく言葉を返した。  しばらく二人は黙って耳をすましていると、パタンと隣の部屋のドアが閉まる音が聞こえる。  ……と、同時に二人はため息をついた。 「焦ったー」  春樹はいつもの調子に戻ってそう一言を発すると、律はさっきよりも赤くなった顔で春樹を悔しそうに睨んだ。 「ちょっと……なんでさっき笑ったの」  その言葉を聞いて、春樹は思い出し笑いをする。 「律が、嘘ついて平然としたフリするのが下手だから」 「なっ……!」  春樹の言葉に律は目を見開いて反論しようとするがその言葉が出てこなかったようで、口をはくはくと動かした。  ……その様子も、可愛い。  春樹は律の表情を見て先ほどの緊張感も戸惑いも薄れ、ベッドから立ち上がる。 「よし。教科書乾かすの、一気にやってくか」  そう言って再び床に腰を下ろした。  律は春樹の一連の動きを目で追いつつ、何か言いかけたが言葉を飲み込んで作り笑いを浮かべる。 「そ、そうだね……」  ……こんなこと、言えるわけがない。 『さっきの続き、しないの?』だなんて。  *  いつの間にか雨は止み、綺麗な満月が海を照らしていた。 「あー、やっと終わった!」  途中から半ば適当になり始めていたが、なんとか律の持ち物の大半は乾かすことができた。  春樹はふやけたようになった教科書をつまみながら、「アイロンでやった方が綺麗にのびたかな」と言い出すため、「いいよ、これで十分」と律は笑う。  二人して隣の部屋の陸也を起こさないようにとくすくす笑い、律は部屋の電気を消した。  角部屋である律の部屋は窓が二つ付いており、カーテンを開けっぱなしにしているからか月明かりが部屋の中を照らして物を見ることにまったく不自由することがなかった。  その窓から、今まで特に気にしていなかった海のさざ波の音が優しく聞こえる。  ふと春樹が真面目な口調になった。 「律」 「なに?」  律は特に何を考えることもなく春樹の言葉を待っていると、春樹は言いづらそうな表情で頭を掻く。 「あのさ……律にとって俺って、安心できる存在?」  律はその問いにキョトンとして、不思議そうに思いつつ笑いながら敷布団を出そうと押し入れの方に向かう。 「もちろんだよ。突然どうし……」  そこまで言葉が発せられたとき、優しくドンと押し入れの扉を押さえるように背後から春樹の腕が伸びた。  ドクッ……と律の中で再び心臓が跳ねる。  背後にいた春樹は後ろから律を抱きしめた。  春樹の呼吸が左耳あたりの髪にあたる。 「その……さ、……一緒に寝ませんか」  その言葉を聞くなり、律は後ろを振り向くことができなくなった。  こんな赤く火照った顔なんて見せられない。  そもそも、どんな顔をして春樹を見ればいい……?  その答えが出てこなくて、でも春樹の問いには答えたくて、律はそのままの状態で緊張しているようにうなずいた。  しかしうなずいたものの律のなかでは様々な憶測が飛び交う。 『一緒に寝る』ってどういう意味?  もしかしてさっきの続きみたいになって、ゆくゆくは……?  律は、我ながらひどい妄想だと思い、ぶんぶんと首を横に振って妄想を退けた。  その様子を見ていた春樹は「あぁ、いや。本当に寝るだけだから」と本人としては安心させる言葉を紡いだつもりだが、律はそれを聞いて「それってだからどういう意味……!?」と言葉に出さずともさらに混乱する。  春樹はそんな律の心中を察して微笑ましく笑い。 「だーいじょぶだから。律を抱きしめるだけ。他は何もしない」  そう言って律の手を引いてベッドへと向かった。  律は手を引かれながら月光を受けて逆光になっている春樹をまぶしそうに見つめる。  ……でも思うのは、(よこしま)なこと。  どうして()()()を、してくれないの……?  *  まるで自分のもののように春樹は律のベッドの掛け布団をめくりあげ、その中に入り込んでから律の手をそっと引いて律も布団に引き入れる。  律はドキドキとしながら狭いシングルベッドの中で春樹の横に寝転がると、春樹に抱きしめられた。  だいぶ前に春樹は律を抱きしめながら「フィットする」と言っていたがその通りで、まるでパズルのピースが埋まるように……そして元から互いがひとつのものであるかのように重なりあう。  そのことに律は安心感を覚え、キュッと春樹を抱きしめた。  春樹も心地よく呼吸をし、「海の音が心地いいな。律にも癒されるし……」とそこまで言って、何も言わなくなった。  律も、「春樹、ありがとう」と呟いて幸せな気持ちのまま眠りに入る。  ……午前三時。  二人分の寝息と月明かりが部屋を満たしていた。  そして短くなってしまった夜が、明けていく。  *  早朝。  この家の誰よりも早く起きたのは意外にも春樹だった。  自分の隣を見ると、綺麗な寝顔の律がいる。 「やっぱり美形だよな……」  律をまじまじと見つめてそうつぶやくと、 「ん……」  と言いながら律が幸せそうな表情をして寝返りを打った。 「やば……」  春樹は微かに発せられた律の声を官能的に……いや、端的に言えばエロく受け取ってしまう。  すると連鎖的に昨日のキスまで思い起こされて、改めて自分の行動と思考に頭を押さえた。  ……どうしようもできない、男子高校生の(さが)である。  でもまぁ、いつまで考えていてもしょうがない。 「……陸也、起きてるかな」  春樹は律を起こさないようにベッドから立ち上がり、ソッと掛布団をかけ直してやる。そして見収めるように律の表情を見て微笑んだ。  次に自分の持ってきた鞄に丁寧に入れてきた制服に着替えて部屋を出ていく。  リビングにでも行けば陸也がいるだろうか。  律の部屋を出てすぐにある階段を降りてリビングに向かう。……が、まだ誰もいなかった。 「俺が一番乗り、ねぇ……」  春樹は「うーん」と思考を巡らせた結果。 「朝食でも勝手に作るか」  なにせ、春樹は自由人である。多少の常識があるとはいえこういう所があり、人の家の冷蔵庫を勝手に開けて再び思考を巡らせる。 「これとこれとこれがあるから……これが作れるか」  なにやら自分にしか分からない言葉をぶつぶつと呟き、朝食作りに取り掛かった。  そして一番最初に作ったのは……律と陸也の母の分だった。  春樹は覚悟を決めて朝食をトレイに乗せ、閉まり切った和室の部屋の前まで向かう。  寝てたら困るかと思って小さく横開き式の扉を二回叩いた。 「おはようございます。この前もお邪魔していた西山春樹です」  次の言葉を話そうとすると、扉の内側から物音がする。  そして、この家の兄弟を恐れさせるあの声がした。 「……また、あなたなの?」  しかし、不機嫌な要素は声に含まれていない。どちらかと言えば呆れに近いだろう。  春樹は会話ができたことにホッとして、頭を掻きながら話を続ける。 「まぁ……はい。度々すみません」  すると部屋の中から声が近づいてくる。 「……用件はなに?」 「朝食を作りました。口に合うかはわかりませんが、温かいうちに食べてもらいたくて」  その春樹の言葉のあと、突然扉が開いた。 「この突然来る感じが怖いんだよなー……」と春樹は真っ先に思ったが、もちろん口にはしない。  彼女はひどく憔悴しているような表情だったが、近くで見ると化粧をしていなくても美しい顔立ちをしていることが間近で見てわかった。 「……あなたが作ったの?」 「はい。一口だけでも、食べてみてください」  そうして箸を渡すと、煮物をそっとした手つきで食べる。 「どうですか?」 「……おいしい」 「それならこの食事、どうぞ食べてください」  春樹はそう言って食事が乗ったトレイを彼女に手渡した。  彼女はやはりリビングで食事をすることはなく、自分の部屋へと戻って扉を閉め始めるが、 「……ありがとう」  微かに聞こえた、声。  リビングに残された春樹を前向きにさせてくれる、朝の光が静かに部屋を包んでいた。  * 「春樹っ!」  春樹が自分や律、陸也の分の食事を作っていると律が慌てた様子でリビングに駆け込んできた。制服を着ているものの、ネクタイがしめられていないし、ボタンもきっちり留められてない。  おそらく春樹と母が偶然会うかもしれないという一体どうなるかわからない事態を想像して、ここに駆け込んできたと思われる。 「えっと……朝ごはん、作ってくれてるの……?」 「ん、ごめん。冷蔵庫の中身、勝手に拝借した」 「それはいいんだけど、その……」 「あぁ、律の母さんの分も作って渡しといた。これとは別メニュー」 「へっ!?」  想定外の出来事に驚愕する律に、春樹はフライパンで炒め物をしながらのんびりと笑った。 「……大丈夫。律からしたら怖いかもしれないけど、同じ人間なことに変わりはないから」  その言葉を聞いて律は若干取り乱していた自分が可笑しく思えて、微笑む。  ……そうだった。春樹は、すごい人なんだ。  すっかりそのことを忘れていた。 「そっか、ありがとう。料理、僕も何か」 『手伝うよ』  と律が言いかけた瞬間。 「……ッ」  包丁を扱っていた春樹が息を詰めた。  指を切ったらしく、鮮やかな血がわずかに春樹の左手の人差し指をじんわりと染めていく。  春樹はのんびりと自分の手を見て、「あー、切っちゃったか」と言っていると、その瞬間。 「あ……、はぁっ……は……!」  律のおかしな呼吸音が聞こえた。  見れば、律が首から胸元までを押さえて、目を見開きながら苦しそうに呼吸をしている。  その時春樹は一瞬で理解した。  いつも陸也が料理を作って、その洗い物さえしない律。  少しキッチンから遠いダイニングテーブルからそんな陸也を優しく見守っている律。  そしてそういった自分諸々が『情けない』と泣きそうな声で言った律。  その理由は『包丁』だ。  そしてすべての元凶は……母親にナイフでつけられた、背中の傷。  春樹は軽く自分の指の血を吸い、律のもとへ向かう。 「あー、よしよし。大丈夫。大丈夫だから」  そう言いながら律を近くのソファまで背中を押して誘導し、律を座らせてからその頭を包み込むように優しく抱きしめた。 「ごめんな、嫌なこと思い出させて。でももう大丈夫だから。な?」  律はその言葉を聞きながら春樹の胸の中で呼吸を整えていく。やがて、きつくすがりつくように掴んでいた春樹の制服の裾から指をゆっくりほどいていった。  その感触と静かになった呼吸音に、「もう大丈夫かな」と体を離そうとすると律は「行かないで」と言いたげに春樹の片腕を少し強めに引く。 「わっ」  春樹は律とともにソファの上に倒れこんだ。  すると横向きに寝転がった律の目の前に再び血のにじむ春樹の指がたまたま置かれ、春樹が「ヤバい」と思った瞬間。  律は春樹の左手を両手で包み込み、少し震えた赤い舌をちろりと出して春樹の傷口を一度舐め、春樹を誘惑するような流し目で見つめつつ……まるでキスでもするかのように指先の傷口の血を「ちゅ」と吸い取った。 「……!」  春樹はその様子に息をのむ。  まるで今ほどかれたようなネクタイ、乱れた制服のシャツ、きちんとしめられていないボタンの所から見える白い素肌、鎖骨、首筋。  そして何より自分の指先を舐めてキスするその動き、律の中の上品さとそこから覗き見える『欲』の姿。  なんだか律が春樹の所有物であるかのようにさえ錯覚する。  ……いや、所有したい。  春樹は律の誘惑に負け、指で律のあごをくいっと持ち上げて、上から逃げないように覆いかぶさってキスを落とした。  *  キスの味は、少し血の味がした。  春樹は煽情(せんじょう)的な律の動きや姿に取り込まれようとしている。  もはやそこに『親友』という肩書きはなかった。  ただひたすら、自分の中からあふれ出る本能的な欲に流されそうになっている。そしてそれは固く閉じていたはずの春樹の口から漏れ出した。 「……律を、俺のものにしたい」  自分が何を言っているのか、わからない。  しかし気だるげに体を起こし、シャツから覗いていた肩口をどこか色気のある仕草で隠した律は妖艶に笑って春樹を見つめた。 「いいよ。春樹が僕を見つめていてくれるなら」  その目を見て春樹は思う。  ――――あぁ、溺れていく。  * 「やべぇ、寝過ごした!」  そう言いながら陸也がさっきの律以上の慌てようでリビングに入ってきた。  しかしキッチンに立つ春樹とダイニングテーブルに腰を下ろす律はその様子を見て面白そうに笑う。  律は、二人の様子を見てポカンとする陸也に声をかけた。 「大丈夫だよ、陸也。春樹が朝ごはん作っててくれたんだ」 「は?」  陸也の目が春樹を捕らえ、そしてその左手の指元に貼られた絆創膏を見て、さらにその脇に置かれた包丁を見て、また春樹の指元に目が戻る。  途端に急いで春樹に駆け寄り、律に聞こえないほどの小声で指の絆創膏について問おうと口を開いた。 「え、おい……」  しかし春樹は真顔のままグッと親指を立てる。 「大丈夫。なんとかなった」 「『なんとかなった』って、兄貴はその傷見たんだろ……!?」 「うん。でも大丈夫、落ち着かせたから」 「まじかよ……」  陸也はそれとなく律を見れば、律は動揺していた気配も見せず、静かにリビングの大きな窓から見える朝の海を見つめていた。  そこで陸也はハッとして春樹に向き直る。 「そうだ、母さん……! 俺、母さんの分の朝食作らないと……!」  しかし春樹は慌てる素振りもなくウィンナーを焼きながら、 「それも大丈夫。このメニューとは違うちょっと手の込んだ別メニューを渡しといたから」 「へっ!?」  ……律とまったく変わらない驚き方をする陸也を微笑ましく思いながら笑った。 「陸也はさー」 「なんだよ」 「しょうがないこととは言え、毎日気を遣いすぎてるんだと思う。律のことと、母さんのこと。自分のことでさえ悩む時期なのにさ」 「……」 「だから」  黙り込む陸也を春樹はまっすぐに見つめる。 「俺がいるときは、休んでていいよ。律のことも母さんのことも、たぶんなんとかできる。なんなら陸也のことで相談も乗る。……もっと俺を頼れよ」 「……!」  いつもより真面目でたくましく、頼り甲斐のある春樹の言葉に陸也は希望が差したように瞳を揺らし、目を見開いて聞いていた。  その様子を見てから春樹は再び手元のフライパンの方を見て朝食づくりを進め、のんびりと付け加える。 「まぁ、親しくなって間もない他人なんだけどなー」  陸也はいつもの口調に戻った春樹を数秒ぼーっと眺めた後、我に返ったのか少し目線をそらして「……ありがと」と嬉しさをにじませながら呟いたのだった。  * 「……うん、すごくおいしい!」  朝食を食べ始めてすぐ、そんな律の言葉に春樹は「いやいや」と首を横に振る。 「これ、ただ焼いたり切ったりしただけだから。俺らの分は手抜きしてるし、どうせなら腕によりをかけた料理で言ってほしい」  春樹の言葉に律はまったりといつものように優しく笑った。 「きっとそれも美味しいよね」  陸也は「ぐぬぬ……」とポトフのスープを飲みながら悔しそうに口を開く。 「俺よりも品数が多い……! くそ……」 「こら。そんなことで張り合わなくていいんだよ? 陸也の作ったご飯も美味しいんだし、僕は感謝してるよ」  律がなだめるが、陸也は未だ悔しそうにしていた。 「おい、料理も作れて勉強もできて……春にいは一体なにが出来ないんだよ! ってか、母さんにどうやって朝食渡したんだよ、一体何作ったんだよ!」  その言葉に春樹は平然とした顔のまま一瞬固まり、 「……質問が支離滅裂」 「答えろー!!」  悔しそうな陸也の叫びがむなしく轟く。

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