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第5話

 *  にぎやかで楽しかった遠野家での生活が終わり、春樹と律は学校へ続く長い坂を上っていた。 「さすがに寝不足かも……」  若干げっそりしている春樹の隣を歩きながら律は申し訳なさそうに笑う。 「色々とありがとね、春樹。楽しかったし、……嬉しかった」 「……おう」  すると「おーい!」と聞きなれた声が後ろから聞こえた。  二人は振り返る。 「あれ」 「生田くんだ」  少し後方から嬉しそうに手を振って生田が坂を駆けあがってきた。 「おはよう、生田くん」 「おはよー……」 「おはよう、遠野くんに西山くん! ……って、西山くんなんかやけに荷物多くない?」 「あー、律の所に泊まってたから。要するに、朝帰り」  そう言いながら眠そうな目を擦りつつとぼとぼと歩く春樹と、「ん?」となって足を止めた律と生田。  そして数秒後。 「あっ……朝帰りぃぃーーー!?」  大音量で叫ぶ生田と、 「ち、ちがっ……いや、違わないんだけど、違うっていうか、一緒に寝ただけっていうか……あ、えっと、んーとそうでもなくて」  それを抑えようとして、 「『一緒に寝た』!?」  かえって墓穴を掘って生田に問い詰められる律。  騒がしくなった後方を春樹は苦い表情で振り返る。 「あー……ちょっといい? もう学校近くなもんだから色んなヤツらから変な噂たてられてんだけど……」 「春樹のせいでしょ!」 「一緒に寝たってどういうこと!?」  ……今日もまた、楽しい一日になりそうである。  *** 「隣のクラスの遠野と西山、一緒に寝たんだってよ」  そんな噂で持ち切りのクラスの中、春樹は未だ眠そうに次の授業の予習をしている。  いくら周りがその噂で爆笑していても、その声は届いていないようだ。  そこにクラスの男子数人が春樹のもとへ集まった。 「え、西山さぁ本当に遠野と寝たの?」  男子たちの顔は好奇心と欲しい答えを乞う期待の笑みでにんまりとしている。  春樹はその方を見向きもせず、眠そうに目頭を押さえながら面倒そうに「んー、そうそう」と答えた。 「ははははっ! マジかよー!」  期待通りの答えが春樹本人から返ってきたことで男子たちのテンションは一層高くなる。  目の前の席の生田はその様子を困り顔で見て、こそこそっと春樹に告げた。 「さっきは騒いでごめんね。だけど適当に答えすぎだよ……」 「んー……」 「西山くん、起きて~……」  生田の困りながら脱力した声が細々と紡がれる。  そんな時。 「ちょ、ちょっと春樹……!」  春樹はその声だけを確実に聞き取り、目をきちんと開いた。 「お、噂をすれば!」 「例のやつがやってきたぞー!」  おだてる男子たちを相手にせず、春樹はクラスの入口で慌てた様子の律のもとへ向かう。  そうしてその肩に手を回しながら教室を後にすると、一層騒がしい歓声が上がった。 「お幸せに~!」  ……そんな声が、聞こえた気がする。  *  廊下に出た二人は教室を離れてすぐに向き合った。 「ちょっと春樹、あの噂にいったいどんな説明してるの……!?」  そんな律は恥ずかしさで顔を真っ赤にしていて、春樹は慌てることも悪びれた様子もなく単純に「こういう律も可愛いな」と一人で感心していた。 「そういう律は、どんな説明してるの?」 「僕は……その、『同じ部屋で寝ただけだよ』って……」 「あー、なるほど」 「で、春樹は一体なんて話してるの……!? 確かに口滑っちゃったのは僕のせいだけど、僕のクラスでは別の説まで出てきて大変なんだから!」 「“別の説”ねぇ……」  そう言いながらあくびをする春樹に律は何か言いたげな表情をしながらさらに詰め寄ると、春樹は眠気の混じった余裕ある笑みを見せる。 「それって、『遠野と西山が一緒のベッドで寝た』とか『二人はデキてる』とか?」  その言葉を聞いて律の顔がより真っ赤に染まった。図星だ。 「……そうだけど」 「俺は『付き合ってる』とは言ってないよ。ただ周りが『一緒に寝たのか?』って聞くから、同意してるだけ」  その言葉に律はため息をつきながらガックリと肩を落とす。 「それが問題なんだよ……」  その様子を見た春樹は宙を見て「んー……」と何か考えた後、まっすぐに律を見据えた。 「でもさ」 「?」 「確かに最初は俺もその噂に迷惑してたんだけど、途中からそれでもいいかなって思って」 「どういうこと……?」  まったく意味がわからず首をかしげるそんな律の耳元に、春樹は口を寄せて低く囁く。 「律は俺のもの、だから」 「!!」  その瞬間、律は耳元に触れる春樹の吐息と言葉の意味の両方でビクッと少し飛び上がり、これ以上ないほどに顔を赤くして片耳を押さえた。  春樹はその様子を見て怪しく微笑み、言葉を続ける。 「これで律に悪い虫がつかなくて済むだろ」  律が思うに、春樹は普段のんびりしているけれど眠気が混じった途端に色気を放つ男らしい。現に律は言葉の意味にも、そして春樹のその気だるげな笑みにも見惚れて心臓が早鐘を打ち始めた。  その時廊下を一人のお調子者な男子が走ってきて、 「よっ、おしどり夫婦!」  と声をかけるものだから春樹が律を軽く引き寄せて、いつものフラットな口調で答えた。 「そうだよ。夫婦の会話の邪魔しないでもらえる?」  その言葉に「!?」と律が目と鼻の先にある春樹の顔を見上げる。  するとお調子者の男子は嬉しそうに、 「くーっ、熱いねぇ! お幸せにー!」と走ってトイレへと消えた。  それを見て、ふ、と笑った春樹は再び律に微笑みかける。 「ね?」  律はその顔を見て何も言わずに照れながら顔をそらした。  春樹の言葉はもっともで、律にとってみても同じだ。この噂のお陰で春樹にも悪い虫がつかない。すっかり人気者になった春樹の周りには、当たり前のようにその存在を気になり始めている女子の影が存在している。でもこの噂が自然と消えるまでは春樹に近づく子はいない……かもしれないのだ。  律がそんなことを考えていると春樹は首をかしげる。 「ところでさ」 「なに?」 「『夫婦』って言われたけど……どっちが妻だろう」 「そこはどうでもいいから!」  さすがの律も、ツッコまずにはいられなかったようだ。  *  春樹と律の噂は根強く語り継がれ、昼食の時間になってもそれは続いていた。 「こんなに続かなくてもいいのになー」と春樹は遠野家から持ってきた麦茶を水筒で飲んでいたが、その噂を鬱陶しく聞く人物がもう一人。  ……広野だ。  広野は機嫌が悪そうに舌打ちをひとつして立ち上がり、窓側にある自分の席から春樹の席の方へ向かって。 「おい」  かけられた声に春樹が振り返る。同時に春樹の方を見ていた生田は「ひっ」と呼吸を止めた。 「広野。どうした?」  やはり春樹はいつもの口調。  さすがに広野は春樹の反応に慣れたのか威嚇が効かないことには触れず、廊下へと歩きながら言葉を続けた。 「……もう昼休みだろ。バスケやるから外にお前も来い」  そしてそのまま教室を出ていく。  春樹はその方をぼーっと見つめてぽつりと言った。 「あー……俺に拒否権はないの?」  すると広野が遠くに行ったのを見計らって生田が机に身を乗り出してくる。 「なに呑気なこと言ってんの! あれはきっとガラの悪いやつらを集めて待ち構えてるに違いないよ、ボコボコにされちゃう!」 「いや、だってバスケだって言ってたし……」 「もうちょっと危機感持とうよ、西山くん~」  そのまま()()()と芯が曲がったように生田は春樹の机に倒れこむが、春樹は広野が去った廊下の方を見ていた。 「俺には、広野が嘘ついてるようには見えなかったんだけどな」  *  春樹が校舎の外にあるらしいバスケットコートを探していると、校舎の渡り廊下の下の空間にひとつのバスケットゴールが置かれている場所を見つけた。  よく見るとバスケットボールを持った広野が一人、校舎に背を預けて座っている。 「おまたせ」 「来たか。お前もビビッて来ないかと思ってた」  そう吐き捨てるように言って苦笑する広野を見て、春樹はなんとなく広野が今まで仲良くしたいヤツをバスケに誘っても実際来てくれる人間がいなかったのではと察した。  もしかしたら広野は孤独を抱えているのかもしれない。  そう思った春樹は広野の隣に座った。 「ちゃんと来たよ。広野が嘘ついてるように見えなかったから」 「そーかよ」  広野はどこか嬉しそうだ。  そして数分、お互い何も言わずそよそよと草花が揺れる音と風を感じていた。 「お前さ」  切り出したのは広野だ。 「なに?」 「遠野との噂、どこまでほんとなんだよ」 「あー、あれねー……」  ふと、春樹の中に律の顔が浮かんだ。きっと広野に本当のことを告げるのはよくないだろう。  だから。  春樹は広野が片手でもてあそんでいたボールを持って立ち上がる。 「俺から一点取ったら教えてやる。それでどう?」  すると、一瞬目を見開いて口をポカンと開けた広野は闘志を徐々にその目に宿らせ、にやりと好戦的に笑った。 「面白いじゃねーか。いいぜ」  そのまま二人は勢いよく踏み込んだ足音を境にドリブルをしながらボールを奪い合う。まるで子どもに返ったようだった。否、まだ大人にもなりきれていないのだが。  春樹と広野は接戦で、二人の汗を日差しが輝かせる。  そして。 「ッしゃあ!!」  しばらくの攻防の後、そんな雄叫びをあげたのは広野だった。  トントントン……とゴールを抜けた後の力なく跳ねるボールの音が残る。  春樹はふぅ、と一息吐いて頭を軽く掻いた。 「あーあ、俺の負け」  そのまま二人は元に座ってた場所に戻る。 「で、なんだ。あの噂は本当か?」  春樹はまるで呼吸でもするかのように自然体で嘘をついた。 「別に面白くもなんともない話だよ。律の家に行って泊まっただけ」  すると広野はどういうわけか険しい顔つきになる。 「……それだけか」 「うん。なに、なんかあった?」 「あそこには、あのババアがいるだろ」  ……反射的に、律の母のことだとわかった。 「あぁ、律の母さんね」 「本当に何もなかったのか」 「なかったけど」  互いに何かを探り合うような会話を淡々と続ける。  だが、そこでタイミングが悪いのか学校のチャイムが鳴った。 「あ、チャイムだ。広野、教室戻ろう」  春樹が立ち上がると、広野は軽く手を横に一度振る。 「……いい。サボる」 「あぁ、そう」  そうして二人はばらばらの方向へ足を踏み出した。  春樹は教室の方へ向かおうと校舎の角を曲がると誰かにぶつかる。 「わっ」 「あ」  そこには、カメラと自在ぼうきを両手に持って構えた生田がいた。 「生田。……何してるの?」  率直に春樹が思った疑問を口にすると、生田は少し震えながらぎゅっと自在ぼうきを握りしめる。 「ぼ、僕は部長なんだから、部員に何かあったら困ると思って……!」  そうか、助けに来てくれたのか。  そう思った春樹は軽く笑って生田の背を押した。 「大丈夫だよ、何もなかった。……ありがとう、部長」 「ううん。何もなかったならいいんだ、僕は」  そして自分たちの後についてこない広野の存在に気づいた生田はふと足を止める。  その時、広野のとある一言を聞いた。  *  サボると言ってその場に残った広野はしばらく黙って突っ立っていたが、何かの拍子に校舎の壁を思いっきり蹴り上げた。  そんな広野の表情は悔しさとも怒りともつかない表情で。 「くそ……なんで遠野なんかと一緒にいるんだ」  一人、むなしく言葉が宙に消える。  *** 「それはまさしく三角関係ね」  そう女子に言い切られたのは掃除の時間。  ショートヘアーの女子は教壇の上で仁王立ちをしている。そしてその横で、「三次元は取り扱い注意なんだからやめなよ~!」といかにも漫画が好きそうなおさげで眼鏡をした女子が止めにかかっていた。  生田がその様子を苦笑いしている横で春樹はモップの柄に体重を預けながら「ほう」と興味深げにうなずく。その様子を見たおさげの女子は「えっ!?」と困惑と期待が入り混じった反応を見せた。 「ちょっとその説、詳しく俺に聞かせて」  そう言いながら春樹はモップを生田に預けて教壇の上にあがった。ショートヘアーの女子はうんうんとうなずいて得意げにチョークを使って黒板に関係図を描く。  そしてあっという間に春樹らしい似顔絵と、同じように律、広野が描かれた。 「……上手いな」 「ありがと。じゃ、説明始めるわよ」 「うん」  そしてその関係図に矢印が足されていく。 「まず、西山は遠野と仲がすごく良い」 「そうだな」 「けど……生田、西山が広野とバスケやったのはこの前の体育?」 「えっ! ……あ、うん。そうだね、息ピッタリだった」 「……ということは、西山と広野はここで友人のような関係ということになる。遠野ほどではなくてもね」 「あー、そうなるか」  そこでショートヘアーの女子は人差し指を立てて真面目な顔つきになった。 「でも次が問題なのよ。……遠野も広野も、あんたが来るまで孤独だった」  その言葉を聞いた瞬間、春樹は昼休みの広野の姿を思い出す。この女子は洞察力が高いのかもしれない。 「だから私ね、思うのよ。遠野も広野も、あんたが欲しいんじゃないかって」 「広野も?」 「そうよ。だって生田がさっきあんたに言ってたじゃない。『なんで遠野なんかと一緒にいるんだ』って言ってたって。それはあんたに一目置いてるからよ」  そこで関係図にピンクのチョークで律から春樹に、そして広野からも春樹へと矢印が引かれる。 「ついでに言うと、遠野と広野はお互いのことを良く思ってない。ここの関係はギクシャクしている」  女子は今度は青いチョークでギザギザの矢印を律と広野の間に引いた。 「ね? これは三角関係になるでしょ。さっきも似たこと言ったけど、結局は遠野と広野があんたを取り合おうとしてるってことね」 「なるほど。……写真撮っておこう」  そう言ってすかさず春樹がスマホでその関係図を撮るものだから、生田とおさげの女子は「あ、撮るんだ」と声をそろえる。  関係図を見ながら腕を組んだショートヘアーの女子は、広野と律の似顔絵を交互に見た。 「これは……いつかよくないことが起こるかもね……」 「というと?」  その問いに、女子は凛とした目で春樹を見据える。 「――修羅場よ」  *  春樹は先ほどの女子の言葉を思い出しながら、律を思い浮かべていた。  ……律に会いたい。  雨が降ればいい。  そうすれば部活は無くなって、律の待つ図書室に行ける。  その時。  ポツリと雨が窓を叩く音。  春樹は目を少し見開いて自分がよりかかっていた窓辺から背を離して振り返れば、いつの間にか現れた大きな灰色の雲たちが青空を押しのけていた。  そこにバタバタと生田が教室に駆け込んでくる。 「おまたせ、西山くん! 部活行こっか!」  しかし春樹は首を横に振った。 「残念だったな、部長」 「え?」  キョトンとする生田に春樹は少し微笑みながら窓の外を軽く指さす。 「雨、降ってきた」  *  ――――パタン。  律は図書室の扉が閉まる音で目線を本から上へとあげた。  そこには朝見たようにいつもより多くの荷物を持った春樹がいる。  律は背後を振り返るといつの間にか外は曇り空で覆われていた。同時に、春樹の部活が無くなったことを察する。  そして顔を正面に戻しながら微笑み、 「もう、今日はあの噂で本当に大変だっ……」 『た』と言おうとしながら春樹を見たとき。  ……それは、刹那の瞬間。  顔に手を添えられ、まるで風が過ぎたかのように唇を奪われる。  二人の顔が離れていくとき、春樹はなぜか少し切なげな表情で、 「……会いたかった」  と一言。  でもそのたった一言で、律の頭の中の言葉はすべて霧がかかったかのように消失する。  律は口元を手首で覆い、ただただ顔を赤らめたのだった。  ***  その日の夜、下校時間が迫った雨上がりの図書室で春樹は口を開く。 「律、今夜の九時頃って空いてる? あと二時間くらいだけど」  その言葉に律は目を丸くして首をかしげた。 「え? うん、空いてるけど……何かあったかな」  すると春樹は含みのあるように笑って、 「……いけないこと、しよっか」  その言葉に律は何を想像しただろう。本日何度目かの赤面した顔を見せたのだった。  *  そして、約束の九時頃。 「ちょ……、ちょっと待って、『いけないこと』ってこういうこと!? ……うわっ」  律は春樹に促されるままに、閉じられた校門をなんとかよじのぼっているところだった。  春樹は難なく軽々と校門を飛び越えたが、律はそうはいかない。校門の端にある草が生い茂った坂を使ってどうにか夜の学校の敷地内に忍び込む。 「ちょっと……僕こんなことしたことないんだけど……」  そんなことを言いながら先に歩き始めるリュックを背負った春樹の後を追いかけた。そして不安そうに辺りをキョロキョロと見る律に春樹は自信満々で、 「大丈夫。俺もしたことない」  と、全然当てにならない言葉をかける。  律はそれを聞いてため息をつく。 「本当に大丈夫なの……?」 「なんとかなるんじゃないかな。昼間も雨は少ししか降らなかったから足跡も残らない。いざって時は謝ればいいし」 「それって『なんとかなる』に入らないじゃん……」  そんな二人は校舎の裏へ向かっていた。  最初は目的も分からず不安ばかりを口にする律だったが、夜の学校を堂々と歩く春樹の背中は不思議と律を本当になんとかなるのではないかと思わせてくれる。  そして校舎の角を曲がったその時、――――……一陣の風が()いで春樹を包むように桜の花びらが舞った。 「……!」  律は目を見開く。  そこにはすっかり存在さえ忘れていた古い大きな桜の木が一本、月明かりに照らされて綺麗に咲き誇っていた。  足を止めた律は茫然と桜の木を見上げる。 「春樹、もしかして……」 「そう、これを二人で見たかった」  そしてリュックの中をがさごそと手で探し、クーラーバッグからキンキンと冷えた缶ジュースを二つ取り出して春樹は笑う。それを見て律もつられるように笑った。  *  夜桜の下、二人はお菓子の袋をひとつ広げてジュースを飲みながらとりとめのない話をしていた。  ふと桜を見上げた春樹は静かに、切なげに笑う。 「昼間さ、律をここに誘おうって決めたときに思ったことなんだけど」 「うん」 「この桜が散って、そして次に花が咲く時には俺らはもう一緒にいないんだって思ってさ」 「……」  それは、律の恐れていた未来だった。  考えたくもなかった。  聞きたくも、なかった。  それは確実に訪れる別れの時。 「……いやだよ、そんなこと考えたくもない」  律は突然こみあげてきた涙を押し込めて、桜から目をそらす。  でも春樹は大人びた表情をしながら話を続けた。 「うん、俺もいやだ。でも、だからこそこの桜を一緒に見れた今この時を大切に過ごそうって思えた」 「……!」  春樹のその言葉に律が口を開きかけた、その時。  ――――ざく、ざく。  規則的に砂を踏みしめる音と、不規則に揺れるライトの光が見えた。 「!!」 「あー……やっば、見回りだ」 「『あー……』じゃないでしょ! どうするの!?」  小声だが焦りながら言葉をまくしたてる律に、お菓子の袋を素早く片付けた春樹は律の手を引いて桜の木の片隅にあった廃材置き場へ向かう。  そしてそこにあったシートがかけられた一角に身を潜めた。 「ついでにこれ被って」  そうしてリュックから取り出されたブルーシートを二人で被る。  そんな用意周到な春樹だが、隣で律は小声で不安そうに、 「ほんとに大丈夫、これ!?」  と言うと、春樹は安心させるように律を抱きしめてさらに体を寄せた。 「シー……」  人差し指を立てた春樹の顔が近い。律はそんな春樹とこの状況に早鐘を打っていた。  しかし、それも最初だけ。  足音が近づいてくるたび、『音を立ててはいけない』と思えば思うほど笑いがこみあげてくる。  二人して小刻みに震えながら笑いをこらえていると、ライトの光が廃材置き場を照らした。  ブルーシート越しに見える光に律がビクッと反応したその時。 「……!?」  春樹は自然な動きで律の唇を奪った。  そのまま、耳の奥でどこか遠く響く現実感の無くなった足音を聞いている。それよりも、自分の中の心臓の音の方がうるさかった。  しばらくして足音が聞こえなくなった頃。 「……んっ」  ようやく春樹の唇が離れる。そのままそっと春樹はブルーシートから顔を出して辺りを見回し、やがてシートを取り払った。 「あー、楽しかった」  そんなことを呑気に言ってる横で律は顔を赤くさせながら怒る。 「ちょっと! なんであのタイミングでキスなんてしてきたの!? ビックリしたよ!」 「いや、あのままだと律が笑いだすと思って、口を塞いでみた」 「はぁ!?」  そこまで言って数秒後、二人して笑いだした。 「もう……、心臓がおかしくなるかと思った!」 「そうだな。笑っちゃいけないって思うほど笑いが……くくっ」  しばらく笑った後、廃材置き場から離れて桜の木の下に戻る。 「ありがとう、春樹。楽しかった。今日の日を、忘れないよ」  そうして振り返った律は儚げな笑みを見せた。  ……なぜだろう。  春樹は律の色んな表情を思い出していた。  泣いてたり、笑ったり、おっちょこちょいだったり。すごく人間らしい律を見ていたはずなのに、ふとその姿が消えてしまいそうなほど儚く見える時がある。  それを綺麗だと最初は思っていた。いや、今も思っている。でも……ひどく不安にもなった。  春樹はもう一度桜の舞う中で律を強く抱きしめる。消えないでと、ありもしないような願いを込めて。 「? ……どうしたの、春樹」 「律……もう一度、キスしていい?」  その言葉を聞いて律は照れたようにうなずく。  ……そうして桜色の中、二人はもう一度キスを交わした。  *  その数日後、強い風とともに桜の花びらはあっけなく散ってしまった。  巡り到来する次の季節は、梅雨。

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