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第6話
***
「もー! いやだいやだいやだー!」
雨の日、放課後の教室では生田が机に突っ伏しながらどうしようもない理由で駄々をこねていた。
その後ろで春樹は全く声をかけることもなく、いつも通りのんびりと教科書やノートを鞄に入れている。
そして生田は悲愴な面持ちでガバッと顔を上げて叫んだ。
「なんで梅雨なんて来るの!? これじゃあプールで泳げないじゃないかぁぁぁ!」
……そう、これはテレビで梅雨入りが発表された翌日のこと。
だが春樹は生田に申し訳ないと思いつつ、この季節を密やかに喜んでいた。
元々季節の折々を楽しめる人間であるというのももちろんあるが、別の真っ当な理由がある。
雨の日は、律に会えるのだ。
*
物静かな廊下からまるで秘め事の逢瀬の場となる雨の図書室へ。
ドアを開ければ「親友」となるはずだった愛しき者がいる。
今日の律はめずらしく、ミュージックプレイヤーで何か音楽を聴きながらしとしとと降る雨を静かに眺めていた。
ふと、律が春樹の気配に気づいて片方のイヤホンを外すと、すかさず春樹がその片方のイヤホンをつける。
「何聴いてたの」
そう言いながら聞こえてくる音楽に耳を集中させた。……聞いたことのある柔らかなピアノの旋律だった。
律は急に縮まった春樹との距離に少し顔を赤らめながら伏し目がちに答える。
「……サティのジムノペディ。昔少しの間だけどピアノを習っていたことがあるんだ。その時に弾いてた曲を何曲かミュージックプレイヤーに入れてる」
「へぇ……」
まるで光の射す古い部屋で男がじっくりと思考にふけるような曲だと春樹は感じた。そして彼の出す何らかの答えは、きっと悲しい選択。最後の音色でそう感じた。
「不思議な曲だよな。明るく終わるのかと思ったら最後はなんか悲しい感じ」
春樹がイヤホンをはずしてそう言うと、律はいつも通り人差し指を曲げて口元にあて、上品に笑う。
「そうだね、でもきっとこれが彼の出した答えだから」
その言葉に春樹は微かに目を見開いた。自分のイメージがまるで伝わったかのようで。いや、作曲者のことかもしれないけれど。
「……この曲がお気に入り?」
「うん、僕は好きだよ。あ……でも一番好きなのはこれかな。ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。残念ながら伴奏しか弾けないけどね」
「そうなんだ」
そう言って春樹は図書室の一角に向かう。すっかり埃をかぶっていて気づかなかったが、そこにあったのは少し大きめなCDコンポだった。
「んーと、クラシック……ピアノ……これかな」
春樹はそう言いながら慣れたように一つのCDケースを見つける。
その様子を見て律は微妙な笑みを浮かべた。
「春樹……なんでここに長くいる僕よりこの図書室のことわかってるの……」
春樹は目線をCDケースの裏面に目を通しながらなんでもないように答える。
「たまたまだよ、たまたま。……あ、『ピアノコレクション』ってCDに、『亡き王女のためのパヴァーヌ』は無かったけど、『ジムノペディ』が入ってる。流しとくか」
そうして雨の図書室に悩まし気な旋律がゆったりと流れだした。
律はミュージックプレイヤーを鞄にしまい、本を取りに席を立つ。流れる旋律と雨の音は心地よく混ざり合い、心にしみた。やがて自然と微笑を浮かべる。
「律」
ふと後ろから春樹の声が聞こえ、律が「なに?」と言いながら振り向くと。
「……ん」
図書室の棚の側面に体を預けるようにトンと胸を押された律に、春樹が斜め上から覆いかぶさって口づける。唇が触れ合うだけのわずかなキスだった。
パタンと音がして律が手にしていた本が床に落ち、自然とその空いた両手は春樹の首元に回される。
そしてもう一度口づけを。
そんな二人の関係を知るのは優しい雨と校庭に植えられた紫陽花のみ。
*
「あの……私、ずっと先輩のこと好きでした……」
それは緑が強く薫る雨の日のこと。
いつものように図書室のカウンターに座る律の元に下の学年の女子が一人、勇気をふるって言葉を紡いでいた。
たまたま席をはずして本棚の影に居た春樹は、いつになく険しい顔で腕を組み、じっとその会話を聞いている。
図書室での律はいつも春樹に見せている顔は見せない。
あの初めて会った日のような儚い雰囲気を醸し出すのだ。そして伏し目がちだった目は真っすぐにその女子をとらえる。
「……ごめんね。僕には大切な人がいるんだ」
すると泣きそうになった女子は必死で食い下がった。
「……もしかして、一時期噂になってたあの西山先輩……ですか」
律は困ったように微笑を浮かべたまま何も言わない。
すると彼女はそれが答えなのだと悟り、言葉を畳みかけた。
「そんなの、報われないじゃないですか。だって……だって男同士ですよ!? 周りからどんな目で見られるかなんて予想できるじゃないですか! 話に聞いただけですけど、また広野先輩に何されるか……」
そのとき。
「はい、ストップ」
本を持ちながらいつの間にか近くに来ていた春樹が女子の言葉を遮る。
「……ッ西山先輩……」
「盗み聞きする気はなかったんだけど、ごめんね。ところで君、律に告白しに来たんじゃないの? それとも男同士の恋愛に口出したかっただけ?」
「お、男同士の恋愛なんて……気持ち悪がられるだけですよ……」
少し後ずさる女子に、春樹は毅然とした態度で答えた。
「そうかもね。君の言ってることはあながち間違いじゃない。……でも、悪いけどこっちも本気なんだ。俺は絶対に律を幸せにするよ」
そう言いながら、会話を聞いてた律を立ち上がらせる。そして春樹はその腰に手を回して密着した。
「は、春樹……!?」
目を見開く律と、スッと目を細めた春樹。その二つの唇がギリギリまで近づいたところで春樹は笑って女子に見せつけた。
「この続き、見る?」
その瞬間、女子の顔は真っ赤に染まり、何も言えずに走って図書室を出ていった。
バタンとひと際強い音を残してドアが閉まったのを見届けた春樹は、パッと律を解放して図書室のドアへと向かう。
その背中に律はさすがに強気な表情をした。
「ちょっと……さすがにあそこまでする必要なかったんじゃないの」
すると春樹は図書室の鍵を内側から閉めて、振り向く。
それは、律が凍り付くほどの冷たい表情。
「……!」
いつもの春樹と、違う。
律は動けなくなった。正直に言えば、怖かった。
その間に春樹は次々と図書室のカーテンを閉めていき、雨さえも二人の姿が見れないよう目隠しをする。
外の雨の音だけがむなしく響いていた。律の凍り付いた心臓の音もぽたぽたと落ちる雨のしずくに呼応した。
そんな灰色の空間に春樹は律の手を引いて、本棚と本棚の間の床にやや乱暴に押し倒す。
「ちょっ……春樹、痛い! 何するの……」
すると春樹は律の襟元を引っ掴んで持ち上げ、乱暴で荒々しく口づけをした。
しばらくして息苦しさでようやく離れた唇から逃れた律は口元を片手でおさえながら肩で大きく息をする。
「もしかして春樹……さっきの子に嫉妬したの……?」
「……」
「ねぇ、そうなの? でも僕はちゃんと答えたよ、大切な人がいるって!」
すると春樹は険しい表情のまま視線をそらす。
「……わかってる」
「じゃあなんでそんなに必死なの!? なんで怒ってるの!? 僕の言葉が……信じられないの……?」
「……あの子の言ってることが、本当だったから」
「え……? わ!!」
突如、春樹の手が律の静止を振り切ってそのワイシャツのボタンにせまり、開いていく。律は必死に抵抗した。……涙を、浮かべながら。
「やだっ……やだ、春樹、なんで!?」
そのまま春樹は何も答えず露わになった律の首筋や胸元にキスを落としていく。――止められなかった。
*
その数十分後。
一部だけ開かれたカーテンと、片膝を立てて床に座ってうつむく春樹。
そして……その横ではワイシャツをはだけさせられたまま、首や胸元に多くの鬱血の跡を咲かせた律が力なく寝そべっていた。
春樹はポツリと口を開く。
「……悪かった」
「…………」
律は目線だけを春樹に向けた。
「『男同士の恋愛は、気持ち悪がられる』」
そのフレーズを言って春樹は窓の外を見上げる。
「その通りなんだよな。俺は、律のこと『親友』だとか勝手に言って近づいておきながら、それ以上に踏み込んだ。……律に何かあったら、俺が悪い」
そう言って立ち上がろうとする春樹の腕を律がそっと無言で引き留めた。
「なんで引き留めんの? ひどいことしたのに」
「……いかないで」
律の弱々しくなってしまった言葉に春樹は自分に嘲笑を向けながら言葉を吐き捨てる。
「律。俺はお前を傷つけ……」
「……僕のこと、幸せにしてくれるんでしょ……?」
「……!」
律は少し痛そうに上半身を起こし、春樹を後ろからわずかに残された力で抱きしめた。
「それなら、責任取って傍にいて……。僕は春樹のものなんだから」
……降り続く雨の音が、苦しかった。
***
とある晴れた金曜日の下校時間。久々の綺麗な夕暮れ空が帰宅し始める水泳部員たちの上に広がっていた。
「やっと泳げた……けど、このじめじめする熱さが気持ち悪いよ……」
生田はワイシャツの胸元をぱたぱたと力なく扇ぎ、げっそりとしながら校門に向かっている。
その横で、春樹はその熱さに苦しそうな表情は見せてはいなかったものの、別の件で眉間にしわをよせていた。
……そう、あの雨の図書室で律を押し倒した日のこと。
あの時、力なく座る律の服を春樹が着させている間、律はうつむいたままだった。だが、最後のボタンを閉め終わった後にそっと甘えるように春樹に身を寄せて。
下校時間が近づくまで、互いにそのまま動かないで雨の音を聞いていた。
そのまま学校を出るまで言葉を交わさず、帰路で別れるときに「また、明日ね」と律は春樹に声をかける。
「……あぁ」
春樹はその目を見れなかった。
一般的に祝福される、律と異性のカップルになれるあの女子に嫉妬して。律が自分のものだという確証が欲しくて無理やり唇を奪い、身体に跡を残した。
……最低だ、最低すぎる。
そしてそれから一週間、気まずさで春樹は律を避けるようになってしまった。
でも、このままじゃいけない。
そう決意して、春樹はLINEを律に送った。
*
一方、律はその日、放課後の図書委員の仕事を後輩に任せて家のベッドで眠っていた。
スマホを握りしめ、「春樹……、春樹……」と何度も名前をつぶやきながら。
これが病的だと思われても構わない。だって自分はそれほどに春樹に心酔してしまっているのだから。
ふと、胸元を少し覗いて消えかかっている春樹につけられた跡を見て微笑んだ。
この跡こそ、自分が春樹のものである証のように感じたからだ。
……壊れている。自分は、壊れてしまった。
でもそれでいい。
この一週間、春樹に避けられていたのは本当に苦しかった。広野にいじめられた時の苦しみよりもはるかにきつかった。
あぁ、乱暴にされてもいい。だからもう一度、僕に振り向いて。
その時、スマホの通知が鳴った。
*
「春樹っ……」
それはその日の午後十時のこと。
学校の締め切った門の前で待ち合わせをして、律はようやく春樹に出会えた。
「……よう」
そう一言だけ言った春樹はいつもののんびりさを醸し出しながらも言葉の端に緊張感が見て取れる。
そして、なんだかいつもより大きめなリュックを背負っていた。
「えっと……今日は何するの?」
「……仲直り」
「……え?」
「とりあえずここ、飛び越えて」
そう言って春樹はまた、あの春の夜のように校門を軽く飛び越える。
「えっ、ちょっ……また!?」
律は「仲直り」という単語に胸を躍らせながらも、慌ててなんとか校門を越えた。
「だ、大丈夫かな……この前だって見回りの人来たし……」
そう言って怯えながら春樹の服の裾を握りながら辺りを見回す律。
しかし春樹は表情を変えないまま親指をグッと立てて、
「大丈夫、見回りの人がここ出てったの見てたから」
「見張ってたの!?」
「……ん。木の上であんパンと牛乳飲みながら」
「すごい……刑事の定番だね」
そう言いつつ、自然と春樹と話せていることに律は幸せを感じていた。
……と思っていると、なんだか春樹は誰も人が来なさそうな、まるでけもの道のような所に足を進めていく。
「ちょ、ちょっと……え、どこ行くの?」
「まぁ、来てみればわかるって」
そう言いながらどんどんと暗がりへ進んでいく春樹。
でも怖いはずなのに律は不思議とワクワクしていた。春樹はいつも、僕を綺麗なところに連れて行ってくれる。そんな気がしたから。
そう言ってたどり着いたのは、学校のプールサイドの金網。
まさか。
律がそう思うと、春樹は微笑んでうなずいた。
「そこの木に足かけると上りやすいよ。怪我しないように注意して」
「うん……、……!」
言われた通り近くの低い木の枝に足をかけてプールサイドの金網を越えたとき、そこには高く上った月を照らしたプールに出る。たまに風に揺れてキラキラと輝く水辺はとても綺麗だった。
春樹も後から金網を越えてプールサイドの脇に荷物を置いた。
「律、スマホとか濡れるものはこっちにおいといて」
「あ、うん」
「どう? 夜のプールも悪くないでしょ」
「うん、こんなに綺麗だなんて、思わなかった……」
そうして二人はプールサイドに並んで立つ。すると春樹は律の肩を持って向き合うようにした。
「春樹?」
「よーく息吸って」
「?」
「よーく吐いて」
「……? うん」
「もう一回よーく息吸って」
そう言われるがままに息を吸ったとき。
「……んっ!?」
突然唇を奪われ、春樹とともに体が傾いて。
――――バシャン!
口づけを交わしながら、月が浮かぶプールに堕ちていった。
水中で律が春樹の体を強く抱きしめれば、春樹もまた律を強く掻き抱く。
そうして息が持たない頃にプールの底に足がついて、二人とも立ち上がった。
「ちょ、ちょっと……! びっくりしたよ、突然、その……キスしてプールに落ちるんだもん!」
すると春樹は無邪気に笑った。
「サプライズ成功。……わ!」
にやりと笑った直後、水しぶきが春樹にかかる。律が向けたものだった。
これは負けてられない。
春樹も律に水をかけて、律に応戦する。
二人とも濡れた制服が肌に突っ張っても気にせず、光を反射させたきらきらとした水を宙に散らし続けた。
*
「……あのさ」
「なに?」
二人はプールのレーンロープにつかまって浮いている。
春樹は真面目な顔つきだった。
「この間は、ほんとに悪かった。ここ一週間避けてたのも、悪かった」
「……うん」
ほんの少し律の胸がちくりと痛むが、それでも嬉しいことに変わりはなかった。
「俺、正直こんなに焦ったり戸惑ったりすること今までなかったから、自分の感情をどうしていいかわからなかったんだ。律があの子と付き合えば、将来的に幸せになれる確率は高い。でも俺と一緒にいれば、その未来は約束されない。むしろ悪い運命が待ってるかもしれない。でも俺は律と一緒にいたくて、幸せにしたくて……」
そこまで言って春樹の言葉が詰まる。他に何をどう言えばいいか、本人が困っているようだった。
律はその様子を見て、優しく抱きしめる。
「……ありがとう、春樹。でも、僕あの時も言ったじゃない。『責任取って傍にいて』って……。僕は春樹の傍を離れるつもりはないよ」
そうして二人は再び、どちらからともなくキスを交わした。
「ねぇ、これが『仲直り』なんでしょ? もう少しで夏休みだけど、また図書室に来てくれる?」
「あぁ……。わかった」
春樹のうなずきに、律は月光に照らされて綺麗に笑った。
***
夏休み前の、最後の一日。
すっかり仲が戻った二人は図書室にいた。
律はいつものように本を読み、春樹はその隣で疲れがでているのかぐったりと机に突っ伏している。
「なぁ」
「なに?」
「律ってよくその本読んでるよな。面白い?」
「僕は好きだよ?」
「なんてやつ?」
「萩原朔太郎の『月に吠える』」
「……犬か何かの話?」
春樹の言葉に律は笑った。
「それは読んでからのお楽しみ。今度気になったら読んでみて」
「おー」
そう言いながら、春樹は目をつぶる。
そんな春樹の様子を見て、律は幸せそうに笑った。そして春樹が寝ている間にささやかな独り言を言う。
「……春樹が来てから、色んなものが綺麗に見えるようになったよ。すごく大切な思い出ばかり。ありがとね」
そのとき、図書室の扉が開いて図書室担当の教師が顔を出す。
「お、遠野。いつも図書室任せて悪いな」
「いえ」
「今日職員会議あるから、いつもよりちょっと早く図書室閉めてくれるか」
「はい、わかりました」
にこりと笑顔を返した律を見て教師もひとつうなずき、その場を後にする。
しかし。
扉が閉まる、そのわずかな間に。
……律と、偶然通りかかった広野の目があった。
律はハッとして自分の隣で寝ている春樹を見る。
春樹と一緒にいるのを、見られた……!?
律は、恐怖で一瞬固まる。
たった数秒目があっただけだ。だけど……自分たちの関係を、なんだか知られた気がする。
律は震える手で本の表紙を撫でた。
「春樹……卒業するときに僕の大好きな本に栞を挟んでおくよ。覚えてたら……見てね」
春樹には届かない言葉。でもそれでいい。そうじゃないと、ダメなんだ。
律の視線は未だ閉められたドアに向けられている。
春樹はそれをそっと目を開けて見つめていた。
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