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第7話

 ***  梅雨が明け、夏休みが始まった。  そのとある日は春樹にとって、そして律にとっても特別な夜になる。  春樹と律と陸也はその夜、まだ群青色が薄い空の下、退屈そうに遠野家の前で座り込んでいた。  すると。 「ごめーん! 遅くなっちゃった!」  生田が盛大な息切れをしながら学校方面からの坂を走って降りてくる。 「遅いぞー。ニ十分遅れ」  春樹が自分の腕時計を見ながら声のトーンを低くして言う。  すると生田はさらに苦い顔をした。 「いや、その……みんなにひとつずつ好きなもの奢るよ……」  それを聞いて律はあわあわとしながら生田の背に手を置く。 「え、あの、冗談だよ!? 春樹の顔見て? 笑ってるから!」  春樹は顔をそらしているが確実に笑っていた。見ただけでわかる。肩まで震えているのだから。  そんな兄貴たちの方を見てから陸也はじとーっとした目を春樹に向けた。 「趣味悪いぞ、春にい」 「生田はほんと弄り甲斐があっていい」 「そういうとこだっつの」  その会話を聞いて生田は陸也を見つめる。 「あ、君が遠野くんの弟さん……だよね?」  それを聞いて玄関の前に座っていた陸也は立ち上がり、生田の前に立った。 「……遠野 陸也です。兄貴がいつも世話になってます」  その様子を見て生田は感嘆の言葉を漏らす。 「しっかりしてるなぁ」 「兄貴がこれなんで自然とそうなります」  その会話を聞いて今度は律が苦い顔をした。 「あの……それ僕の扱い酷くない……?」  すると突然春樹は海の図書室がある方とは真逆の住宅街の方に歩き出して、 「よーし祭りの屋台巡るぞー」 「だーから春にいはマイペース過ぎだっつの!」  その横で陸也が文句を言いながらついていく。そう、今日は花火大会がある夏祭りの日なのだ。  二人の様子を後ろで見ていた律は微笑ましく二人を見つめていた。そして隣にいる生田に言う。 「生田くん、さっき陸也、普通に挨拶したでしょ」 「ん? うん、そうだね」 「陸也が変わったのは春樹のお陰なんだ。前は僕のために色んな人を警戒してたんだけど、それがなくなったし前よりも笑うようになった。春樹はほんと、すごいよね」 「そうだったんだ……。学校ではのんびりしてるけど頭いいし、運動もできるし、水泳部では悔しいけどトップの速さなんだ。あの広野と対等に接してるし……」 「料理も上手い」  すばやく挟まれた律の言葉に生田は目を丸くした。 「えっ、料理もできるの!? えぇぇ……そんなになんでもできる人初めて見たよ! 一体何ができないんだろう……」  すると律は口元に人差し指を曲げてあて、くすりと笑う。 「陸也も同じこと言ってた。でもね、この前ついにわかったんだよ」 「え!? ……なになに?」  律はめずらしくニヤリと笑ってスマホの画面を見せると生田は盛大に吹き出した。  そこには鉛筆で描かれた何の物体かも想像がつかない、左向きで四本足の何かがいたのだ。  生田はツボに入ったらしく笑いをこらえることができない。  すると前を歩いていた春樹と陸也が振り返った。 「え、なに笑ってんの……?」  そう言いながら近づき、その間に春樹は律が生田に何を見せたのか感づいて恨みがましい目を向ける。 「りーつー……あの絵見せたんだろ」 「ごめん、つい面白くて……」 「もう、もう最高だよ西山くん! あ、あれ描いて『ダチョウ』!」 「ダチョウ……?」  首をかしげる春樹にこういう時でも手際がいい陸也はスマホのお絵かきアプリをすぐさま取り出して渡した。  春樹は真顔でサササッと手早くダチョウらしき何かを描くが、向かう先から聞こえてきた祭囃子に顔を上げてスマホを陸也に託し、走り出す。  そのスマホを渡された陸也と律と生田は同時に声を揃えて叫んだ。 「……これフラミンゴじゃん!」  *  祭囃子を聞きながら春樹は腕時計を見た。  大丈夫、まだ間に合う。  そして後ろの三人に声をかけた。 「はやく屋台巡るぞー。花火の時間に遅れるから急げー」  祭囃子があいまってか、心が少し躍っている気がする。  でもたまにはいいだろう。  都会にいるときはあまり味わえなかった空気感なのだから。  道のわきを浴衣を着た少女と男の子が綿あめを持って走っていく。  目線を上にあげれば射的をしている人や、いちご飴や果物を使った飴がまるで宝石のように綺麗に飾ってあった。  そして道の向こうからは町の衆が運んでくるお神輿(みこし)が。この出店が並ぶ通りの一番向こうには少し山を登った先に神社があり、そこからまっすぐ運ばれてきたのだろう。  春樹は自然と目を輝かせ、そのお神輿が過ぎるのを間近で見つめる。たくさんついているお神輿の鈴に自分の顔が映った。それに赤と白の縁起のよさそうな飾りと古いしめ縄のようなものがくっついている。 「こういうの、はじめて?」  ふと、いつの間にか自分の隣に立っていた律が春樹に聞く。  春樹は「んー……」と考えたあと、 「祭りに行ったことがないわけではないんだけど、人が多すぎて屋台のものは全然買えないし、お神輿もでかすぎてこんなに間近で見れることはなかったな」  そう話す春樹はとても楽しそうで、律もつられて笑った。 「都会のお祭りとこのお祭り、どっちが好き?」 「もちろんこっちだな」 「そっか」  律と春樹は盆提灯が飾られた灯りある道を過ぎゆくお神輿を見届ける。  そこにようやく陸也と生田も合流した。 「よし、屋台のものどんどん買うぞ。たこ焼きにお好み焼きに焼き鳥、たい焼きとか……」 「えっ西山くんそんなに買うの!?」 「春にい、俺……甘いの食べたい」  普段自分の欲しいものを口にしない陸也がそう言ったことに、律は驚く。  そしてそれを察した春樹は笑った。 「よし、じゃあクレープとかき氷追加な。俺が買ってやる」  そこに律が何か言おうとするが、春樹はそっと手を出して律の言葉を遮り、「やった!」と子どもらしく笑う陸也を微笑ましく見つめる。  すると生田は腕時計を見て「わっ」と声を出した。 「西山くん、時間ヤバいかも!」 「よーし、みんな散らばって色々買ってくるぞー」  その春樹の言葉を機に、一斉に散らばって屋台がある住宅街に繰り出す。  そして約三十分後。 「西山くん……もう無理だよ、脚が限界……」 「ほら、いつも通ってる道なんだから頑張れ」 「でも春にいの家、確か高校よりさらに上なんだろ……?」 「さすがに、きついね……」  大量の屋台で買った食べ物を手に、学校へ続く道をぜぇぜぇと息を吐きながら登る四人がいた。  そして約十五分後。 「着いたああああああああ!」  春樹の家の前まで来た四人は一斉に叫ぶ。 「あらあら、いらっしゃい、みんな」  叫ぶ声を聞いたのか、春樹の母が出てきてみんなを出迎えた。春樹は一応買っておいた屋台のお土産を母に手渡す。 「買ってきてくれたの? ありがとう。楽しんでね」 「おう」  そう話していると、陸也が春樹に声をかけた。 「春にい、もうすぐ花火始まるぞ!」 「今行く!」  そうして春樹はブルーシートを自宅の坂の上に敷いて、みんながその上に座る。さりげなく、春樹は律の隣に腰掛けた。律はそっと微笑み、春樹も他に気づかれないように微笑み返す。 「とりあえず、食うか」  その春樹の一言に、みんなで焼きそばやお好み焼きを頬張っていると。  ヒュルルルと音がして三発ほど小さい火の玉が上がる。花火大会開始の合図だ。 「始まった!」  陸也の嬉しそうな声に律も笑ってうなずく。  春樹の家の前の坂は花火大会を見るには最適な場所で、花火が海に反射するところまでもが見える。『特等席』と言っても過言ではなかった。 「海から見るのも迫力あっていいけど、遠くから全景見渡せるのもいいもんだね!」  そんな生田の言葉に、春樹は、 「あー、じゃあ来年は海からも見てみるか」  と何もよく考えずに発してからハッとする。  ……来年は、きっと自分たちはいない。  そのことに全員が感づくが、律は微笑みを取り繕う。 「いいじゃない、いつかまた集まって見れば」 「そ、そうだよね! 夏休みなら、僕こっちに帰省してるかもしれないし!」 「あ、このお好み焼きめっちゃ美味い」 「空気読めよ、春にい……」  春樹が空気を読まないのは、わざとだった。  そんな気まずいような、何とも言えない空気になってしまった四人の奥で花火がまた上がる。  *  花火大会が終盤に差し掛かった頃、春樹は皆にバレないように脱いだ上着の下で律と指を絡ませた。  突然のことに律は驚いた顔を見せるが、春樹の顔を見るなり、照れたように笑ってギュッと手を握り返す。  花火大会のフィナーレは黄金色。ひと際派手に黄金の花火がどんどん打ちあがった。 「おおー」  なんとなく歓声をあげてしまうほど、田舎の祭りにしては力が入っている。  連発して打ちあがった花火は金色の滝となってこの町の海に降り注ぎ、サラサラと火の粉に変わって消えていった。  そうして。  ――――パンパンパンッ  しん、と辺りが静寂に包まれた後、花火大会の閉幕を伝える小さな花火が上がった。名残惜しそうに春樹と律は互いの指をほどく。 「あーあ、終わっちゃった」  またひとつ、夏の終わりに近づいたことに陸也が残念そうにしていると。 「実はまだ終わってないんだな」  と、春樹はニヤリと笑ってみせる。  すると、「行くよ~!」と背後から生田の声がした後に小さな打ち上げ花火が西山家の前に打ちあがった。 「……!」  どうやらその打ち上げ花火はパラシュートが落ちてくるやつだったのか、パラシュートをキャッチした陸也は目を輝かせて春樹を見る。 「もうちょっと、遊んでいこう」  そうして見せてきたのは手持ち花火一式だった。  * 「わっ、陸也、危ないって!」  陸也は楽しそうに火のついた手持ち花火を振り回す。その度、宙には色のある光の残影が弧を描いた。  そのあどけない様子に春樹は笑みを浮かべて、自分の持つ手持ち花火を火種につける。  一方、律と生田はしゃがんで線香花火をほのぼのと楽しんでいた。 「遠野くんは手持ち花火より線香花火が好きなの?」  生田のそんな問いに律は苦笑する。そして線香花火のパチパチと瞬間的に放たれる火花を覗き込んだ。 「ふふ、そうかもしれないね。こうやってパチパチするのを見てると、なんだか昔の映写機を使った映画を見てるようで楽しいし」  すると、ぽとりと生田の線香花火の火の玉が地面に落ちる。 「あ、落ちちゃった。……遠野くんって他の人にはない独特なセンスを持ってるんだなぁ。線香花火ってすぐ終わっちゃうから悲しくない?」  そう生田が聞いていると律の火の玉も落ちた。律はその名残を見てから微笑んで生田を見る。 「確かに悲しいけど、僕にはお似合いだと思うんだ」  その言葉に生田は何と声をかけていいかわからず、数秒黙り込んだ。そして、助けを乞うような目で春樹の方を見る。春樹なら、こういう時なんと答えるだろう。  すると生田の視線に春樹は気づいて、なんとなく状況を察したのか手持ち花火を数本取り出してこちらに持ってきた。 「なーに楽しいことやってんの」 「春樹」 「何って、線香花火してただけだよ、西山くん」  二人の答えを聞いて「ふーん」と適当に返事をした春樹はバッと両手にいっぱいの手持ち花火を広げる。 「線香花火は花火の締めにやる方が(おもむき)あっていいんじゃない? ……ほら、どれがいい?」  いつも通りのんびりと、だけどほんの少し明るめな春樹の声が暗くなりがちだった律に光を与えた。その様子を見て、生田はさすがだと目を見張る。  本当に春樹は不思議な人間だった。  なんでも出来るが人から妬まれることがない。生田から見れば、今の所そう見える。  そして特にとても明るいお調子者のような性格でもないのに、こうして人を元気づけたり明るくさせることができるのだ。  春樹が来て始まった高校三年生の日々は、律だけでなく生田やその周りの人間もどういうわけか明るく毎日を送っている気がする。  あの広野でさえ、心を許しているのだからその器量はすさまじい。  生田がそんなことを思いながらぼーっとしていると、とある手持ち花火を春樹から握らされる。 「?」 「生田はこれがいいんじゃない。めちゃくちゃ火花がでるやつ。ヤケドに気をつけろよー」 「……ってちょっと! なんで危ないやつを僕に渡すの!?」  そのやりとりを見て、律は笑う。それを目の端で捉えて、良かったと生田は素直にそう思った。  * 「手持ち花火も、打ち上げ花火も、なんかあっという間だったな」  ぽつりと一言、残念そうに陸也はつぶやいた。 「そうだなー。でもそれもまた一興ってやつじゃないの?」  そう春樹はいつもの口調で答える。四人は西山家の玄関前の階段に、少し狭いが並んで座って線香花火をしていた。  ふと、思い出したように生田は切ない表情をする。 「あっという間か……僕の水泳部としての生活もあっという間だったなぁ」  その言葉を聞いて、春樹は少し押し黙った。  そう、夏休みに入る前に生田率いる三年生は水泳部を引退したのだ。大会に出ることもなく、ただ日常から一つ何かがスルッと抜け落ちるように終わった。  春樹にとってそれは律のもとに行ける良い機会であったものの、生田からしてみれば生きがいのようなものが抜け落ちたのかもしれない。 「生田はさ、将来何になりたい? まだ水泳でやっていけるかもしれないじゃん」  生田は春樹の言葉を聞いて、目線を空へと移した。夢を見せてくれる、虚空の闇とそこに散らばる星々。生田は目を輝かせているように見えた。 「僕は……そうだなぁ。親はできるだけ良い大学に入って、良い仕事に就けって言うけど……。ホントは、本当は……どんな形でもいい。市営のプールとかで働きたいって思ってる」  その言葉を聞いた春樹は目を伏せて笑う。 「いいじゃん。正直な話、親の言葉に囚われる必要はないと思う。『良い大学に入って、良い仕事に』ってよく聞くけど、そもそも具体的ではないしただの理想論だと思うから。親はきっと自分と同じ苦しい目に合わないように、とか考えて言ってるのかもしれないけど、たぶん……俺が思うに、どの道選んだって苦労や悩みは出てくる。それなら後悔はない方がいい。生田は生田の思う道に進めよ」  めずらしく少し饒舌(じょうぜつ)になった春樹を見て生田は素直に驚いているようだった。そして再び、今度は明確な意思を持った目で空を見つめる。 「そっか……。そうだよね。次の進路調査……思い切って変えてみようかな」  生田の宣言を聞いて律もそっと微笑んだ。 「そうだ、西山くんの将来の夢は教師だよね。じゃあ遠野くんは? ……あ、律くんの方ね」  律は突然話しかけられて驚いたのか、揺れた線香花火の火の玉が落ちる。そして「あ」と言いながら新しい線香花火に火をつけて穏やかに話し始めた。 「僕は……大学は行かないけど、本にまつわる仕事がしたいな」 「あ、なんかそれは分かるよ! 絶対似合ってると思うな」  すると、今まで黙っていた陸也が口を開く。 「なぁ……将来の夢って、ないとダメ?」  なんだか、不安そうな声だった。しかし春樹は首を横に振る。 「いや、別に今は無くていいと思う。俺たちの歳になっても将来が見えてない人なんてたくさんいるくらいなんだから」  その答えづらい質問に案外早く春樹が答えたことで、陸也は微笑む。 「へぇ……そういうもんか」  まるで足枷が外れたかのように表情が晴れやかになったのが見て取れた。  そして、最後の線香花火の火の玉がぽとりと落ちる。  * 「それじゃあ僕、そろそろ帰るよ! 西山くん、すごく楽しかった。呼んでくれてありがとね」 「じゃあ俺もそろそろ帰る。冷めちゃったけど、母さんに屋台のもの渡したいし。春にい……サンキュな」 「あ、それなら僕が送ってくね」  今日の一日で距離が縮まったのか、生田と陸也は仲良さそうに二人して手を振って春樹と律に別れを告げた。 「さて、と」  その姿を見送った後、春樹が立ち上がると律が少し体をこわばらせる。  春樹はその様子を見て微笑み、立ち上がるように手を差し出した。律はそっと手をとって立ち上がり、春樹を見つめる。 「そんなに緊張しなくていいよ。泊まってくだろ?」 「う、うん……。お邪魔します」 「どうぞ」  そうして律は西山家の中に導かれた。今日は、そう。春樹の家でのお泊り会の日だった。  *  西山家に入ると早速暖かな暖色の光が差し込む大きなリビングに入る。その二階建ての建物は吹き抜けで天井が高く、中央のダイニングテーブルには春樹の両親が座ってこちらを振り返った。 「お、いらっしゃい!」 「ゆっくりしていってね」  その柔らかな声音に律は震える唇で言葉を発する。 「こんばんは、遠野 律です。今日はお世話になります」  春樹はなんとなく律の心情を察してうつむいた。声が震えていたのはただの緊張だけではないだろう。ここに『家族の形』があったからだ。  ここには暴力をふるう母親も、子どもたちを置いて出ていった父親もいない。  あとは……そうだ、家に招かれることがなかったからかもしれない。 「俺の部屋は二階な。ついてきて」 「あ……うん」  律は今度は緊張した面持ちで二、三歩と歩み始めたが、とある一角を見た瞬間まるで綺麗なものを見つけた子どものように目を瞬かせた。  それは、ピアノと二台のチェロ。  春樹はいつだったかの律との会話を思い出しながら一言。 「ピアノ、弾いてく?」  するとハッと我に返った律はぶんぶんと首を横に振った。 「う、ううん! こんなに楽器があるなんてすごいなって思っただけだから!」  すると言葉を聞いた春樹の父は嬉しそうに何かを語りだしそうな雰囲気を醸し始めたため、 「よし、じゃあ二階行こうな」 「そうよ、ごゆっくりね」  ……すかさず春樹とその母は語り始めそうな父の長話をシャットアウトしたのだった。  *  柔らかな絨毯が敷かれた階段を上って左側に春樹の自室がある。  その中は物自体が少ない律の部屋とは違って、興味を惹かれるもので溢れていた。  例えば天体望遠鏡が窓辺に置かれていたり、天井からは木製の飛行機の模型が吊り下げられていたり。壁には英語で書かれた古い世界地図が貼られていたりもした。  そして、春樹の机の上には大学の赤本が開かれた状態で置かれている。  その時律の胸がズキンと痛んだ。  大学に進学しない自分と、明確な夢を持って大学を目指す春樹。  見たくもない、自分たちに迫ってくる別の未来。  ……またしても春樹が遠い存在のように思えてしまった。  すると、何気ない様子でパタンと春樹が開かれていた赤本を閉じる。 「……先のことなんて、今は考えなくていい」  そう言ってポンと軽く律の肩を叩き、今度はテレビをつけた。 「お」  すると明るかった自室の電気を春樹はのんびりとした動作で消す。 「? 突然どうし……」 『突然どうしたの』と言おうとした律はテレビを見て凍り付いた。  そのテレビ番組のタイトルが『背筋も凍る! 戦慄の恐怖映像ベスト50』だったから。 「ちょ……春樹、まさか暗い中でこれ見るの……」  表情が強張っている律の横で春樹は当然のように、 「うん。暗い中で見た方が面白そうじゃない? とりあえず、……はい、ここに座って」  そう言いながらポンポンと自分が座るベッドを優しく叩く。  律はその仕草に半分ドキッとしながらも、もう半分は恐怖でカチカチに体が固まり、ぎこちない様子で春樹の隣に座った。 「やっぱ夏と言えば怖い番組だよなー」  そう平気な声で言う春樹を見て、律はさらに距離をつめて座る。  その様子を見て春樹はようやく律の異変に気付いた。 「……え、もしかして怖いの苦手?」  すると律は目をギュッとつぶりながら何度もコクコクと首を縦に振る。 「あー、そっか……」  そして春樹がチャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばそうとした時。 「……ヒッ!」  急に画面に映し出された日本人形を見て、律が小さく悲鳴を上げて春樹に抱き着いた。  その様子に可愛さを見出してしまった春樹はリモコンに伸ばそうとしていた手を律の身体に回し、 「……大丈夫、俺がいるから」  と、悪戯っぽく怪しい笑みを浮かべる。  すると律は悔しそうに、それでいてはずかしそうな表情でキッと春樹を睨む。 「……これでトイレに行けなくなったら春樹のせいだから」 「いいよ、ついていってあげる」 「……!! やめてよ、はずかしい……!」  そんな軽口をたたき合って、二人は笑った。  *  結局心霊番組を見ている間、終始律は春樹の半そでにひっついて離れず、驚かされる場面になる度にビクビクと体を震わせていた。  その様子を見ながら春樹は「可愛いな」と思いつつ、安心させるようにしっかりと律の背中に手を回していたのだが。 「やっと終わったー……」  気が付けば番組は終わりにさしかかり、それと同時に律は春樹の腕の中から飛び出して部屋の電気をつける。その姿は図書室で見せるあの儚さなど微塵もない、滑稽な男子高校生の姿であった。  ……当の本人は、そんなことを考える余裕すらないようだが。  律はそこで大きくため息をつきながら壁によりかかり、 「寿命縮んだかも……」  そう言ってへなへなとしゃがみこんでいると、階下の方からハリのいい春樹の母の声が響く。 「春樹ー! 律くーん! お風呂沸いたから入りなさーい!」  その声を聞いて春樹は自室のドアを少し開けて 「ん、分かったー」  と返し、座り込む律に「先入ってきなよ。それとも俺もついてく?」と冗談めかして言うと、「……一人で入れるよ!」と可愛い反論が返ってきた。  そこですかさず春樹は屈んで律の唇を奪い、そっと微笑む。 「風呂上がりは何が飲みたい? インスタントでよければ色々あるけど……まぁ、俺の部屋を出てすぐのところに飲料水出るところあるし、電気ケトルも置いておくから好きに飲んで。冷蔵庫も小さめだけど二階にあるし、そこから勝手にジュース持って行ってもいいから」  春樹の優しい声音を聞いて、律は冷めていく唇の熱を指でたどりながら、「わ、わかった……」と顔を赤くして、あらかじめ春樹の部屋に運ばれてあった自分の荷物から風呂道具を取り出して階下へ降りていった。  *  春樹が声を失ったのはその数十分後。  部屋に律が戻ってきてから春樹が今度は風呂に入り、戻ってきたとき。  自室から話し声が聞こえてきた。  ドアを開ければまったりとした笑顔の律がローテーブルに温かいお茶を自分と、その対面にもう一つ置いて喋っている。 「え、そんなことがあったんですか? 僕も見たかったなぁ。――――あ、春樹おかえり」  律はまったりした笑顔のまま春樹に微笑み返した。春樹はそれとなく戸口に立って壁にもたれながら腕を組み、軽く脚を交差させるポーズで律の様子を見つめる。 「あ、もう行きますか? 階段のところは気をつけてくださいね」  そうして名残惜しそうな律が戸口に目をやり、しばらくしてから人差し指を曲げて口元にあて、上品に笑った。 「春樹のおばあさんっていい人だね。はじめて会った僕に春樹の昔の時の話、たくさんしてくれたよ」  そんな嬉しそうな律の声を聞いた春樹は「あー、そう」と言って、何気なく自室の扉を閉めて律の向かいに座り、若干ぬるくなっているお茶を飲み始める。すると律は驚いた顔をした。 「え、それおばあさんの分のお茶……」 「俺の昔話、ねぇ……。まぁ、俺が小さいときに亡くなったから当然か」 「ん?」  その瞬間、春樹は頭の中にこの言葉しか浮かばなかった。 『ド天然?』  *  しばらく、ローテーブルの前に座り込んで夏休みの宿題にとりかかっていたところ、コンコンと軽く春樹の自室のドアをノックする音が聞こえた。  その音に反応した春樹は急ぐことなくのんびりと戸口に向かってドアを開ける。そこには若干酒の匂いがする春樹の父が立っていた。 「……はい。どうしたの?」 「いやぁ、せっかくお客さんも来てることだし、母さんと演奏でもしたいなと思ってな。お前もどうだ?」  なんとなく父の様子からこの言葉が出るであろうことをわかっていたらしい春樹は、小さくため息をついて首を横に振った。 「俺はいいよ、やめとく。それに今勉強中だし、いくら防音の部屋だからといって演奏は……」  と言ったところで律を見ると、律は柔らかく笑う。 「僕は全然構わないよ。生の演奏を聞きながら宿題できる機会なんてそうそうないし」  そこで春樹は軽く頭を掻き、父の方へ向き直った。 「……わかった。演奏楽しんできて」 「おぉ、そうか! わかったぞ!」  そうして階下へ降りていく父の背中は、とても楽しそうだった。  その様子を見て春樹はげんなりとし、対して律は和やかに笑う。 「……ふふ。自由で面白いお父さんだね。春樹が似ているのもよくわかる」 「え……それ本気で言ってる……? どこが似てるの」 「自由なところ」 「俺、あそこまで自由じゃないと思ってたんだけど……」  そう言いながらドアを閉めようとする春樹に律は急いで手を伸ばした。 「待って、少しだけでも春樹のご両親の演奏、聞いていきたいな」 「そう? まぁいいけど」  春樹がそう言って半開きの戸口から再びローテーブルに戻って宿題を再開すると、さっそくピアノの旋律が流れ出す。そして前奏が終わると、するりと溶け込むように深いチェロの旋律が交わっていった。  律は充実した時間を送っていた。  春樹の両親が演奏する曲はどれも自分の好みであったり、昔演奏したものばかりだったからだ。  ふと思い出したのは数少ない、幸せだったはずの幼き頃の日々。それは走馬灯のように律の脳内をめぐっていった。  そしてまた一つの曲が終わり次の曲が始まった瞬間、律は思わず手を止める。 「これは……『亡き王女のためのパヴァーヌ』……!」  その様子を見た春樹は伏し目がちに微笑んで、「見に行く?」と聞くと、律はすぐさまうなずいて立ち上がった。  そして二人は二階の廊下から一階で行われている演奏を見つめる。 「すごいなぁ……。もしかして春樹も弾けるの?」 「んー、この曲は少しだけ。というかそんなに俺上手くないよ」 「そうなの? ……でも聞いてみたいな、春樹の弾くこの曲」  演奏に浸る律の横顔を数秒見つめた春樹は、ふ、と笑って両親の演奏へと向き直った。 「じゃあ、俺はチェロの練習するから律はピアノの練習な」 「え、僕も!?」 「俺だって律のピアノが聞きたいんだよ。それなら一緒に演奏した方が楽しいだろ?」 「ま、まぁ……そうだけど」  そうして、ここにひとつの約束が交わされた。

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