27 / 64
第27話
瑞原悦巳は疫病神だ。
まったくどうしてこんな目に。
それもこれもあれもすべて今隣に座っている間抜けづらが、つまりは悦巳が悪い。
「大丈夫っすか誠一さん。唇紫っすよ」
ベンチにて隣り合う悦巳が心配顔で誠一をつっつく。
いつもヘアバンドでまとめている髪は激しい抵抗の痕跡をとどめぐちゃぐちゃに逆立っている。背広も皺くちゃでひどい有様だ。一番上のボタンを紛失したせいでシャツの襟が半端に捲れ、鳥肌立つ首筋と鎖骨が覗く。
夜目にも映える赤い痣は誠一がつけたキスマーク。
「早く中入りましょ、風邪ひいちゃいますよ」
「俺に構わず一人で戻ればいいだろう」
「そういうわけにいきませんて、誠一さん連れ帰るのが俺の仕事っすから。中のほうが暖房利いててあったけーし服もすぐ乾きますよ、タダでドライクリーニングなんてお得っす」
「庶民的な発想だな。いいから構うなと言っている」
「~わけわかんねっすよ、そんなに風邪ひきてーんすか!?んなびしょぬれのなりでわがまま言わないでください、誠一さんが風邪で寝込んだら誰が世話すると思ってるんすか!」
うるさいやつだ。耳元できんきん喚くな。どうしてこうがさつで鈍感で無神経なんだ。
顔をしかめつつ、唾とばし食い下がる悦巳をそっけなくあしらう。
「お前の仕事はみはなの世話、俺の看病は契約書の項目に含まれてない。自分の面倒は自分で見る」
「よく言いますよ、メシひとつ作れない人が。そういうセリフは自分のパンツと靴下手洗いしてから言ってくださいっす。質問っすけど誠一さんタオルが入ってる場所わかります、タンスの引き出し上から何番目に下着が入ってるか言えます?」
「……」
「ほら知らねー。洗濯機の使い方だって知んないでしょ?誠一さんに任せといたら洗剤ぜんぶぶちこむに決まってる、そんで周りは泡だらけだ。洗剤と柔軟剤いっしょにいれなきゃタオルはふかふかになんないってご存知っすか?常識っすよ、これ」
悦巳は饒舌だ。誠一が一言えば十を返す。口数ではかなわないだろう。
黙り込んでしまった誠一を気遣わしげに見、付け足す。
「わかったらとっとと帰りましょ、みはなちゃん待ってますよ。アンディだって心配してるかもしれねえし」
だだっ広い会場に保護者の姿が見当たらず寂しがってないか、不安がってないか気を揉む。あるいは実の親以上にみはなの心情を案じ気にかけている。誠一を説得しつつも心は半分置き去りにしたみはなのもとへ飛んでいるのだろう、それが気に入らない。
悦巳が追いかけてきたのは予定外だった。
愛人と睦まじく語り合う現場を目撃し実父にシャンパンをひっかけ会場を後にした。
頭を冷やしてすぐ戻るつもりだった。
そこに呼びもしない悦巳がしゃしゃりでてタイミングを逸した。
顔を見た瞬間理性が沸騰した。
暴力衝動と破壊願望が直結し、サディスティックな性欲に突き動かされ押し倒した。
やつあたりだと自覚していた。構わなかった。どうせその為の存在なのだ。悦巳の存在価値と存在意義は誠一を悦ばすため、それに尽きる。愛人なんてご大層なもんじゃない、ストレス発散用の性奴隷、取り替えのきくおもちゃだ。契約に拘束された悦巳は服従を余儀なくされ、どんな無体な仕打ちを受けても泣く泣く耐え忍ぶはずだった。虐待し憂さを晴らす。悦巳の泣き顔と悲鳴が誠一を救う。歪んだ性癖を自覚すれども罪悪感は感じない自己中な思考回路の持ち主なのだ、誠一は。
自業自得だ。
報いを受けるべきだ。
泣いて謝っても許さず縁石に手をつかせ後ろから犯してやるつもりだった。
それがどうしてこんなことに。
「帰りましょう」
「帰らん」
「どうして」
「こんななりで帰ったら質問責めに遭う。恥をかかせるつもりか」
「パーティーの最中にお父さんにシャンパンぶっかけといていまさらっしょ」
「服が乾くまで帰らん」
「アンディに連絡して着替え持ってきてもらえば」
「…………」
「噴水ドボンしたときにケータイ壊しちゃったとか?」
「防水加工済みだ。ぬかりはない」
「だったら」
最後まで言わせる気か。わざとか。いらついた目で悦巳をうかがう。
悦巳は間抜けづらで言葉の続きを待つ。困惑と心配を足して割った表情。
自分を犯そうとした相手の体調を心配するなんて底抜けのお人よしだ。
俺が風邪をひこうが関係ないだろう。
悦巳ごときに心配されてしまう自分が許せない。
インクを垂れ流したような正面の虚空を睨みつつ、ぼそりと呟く。
「どうやって説明する」
「はあ?」
「真冬の、この時期に、全身びしょぬれになったわけをどう説明する?大の大人が噴水で水遊びしてたと言えばいいのか、家政夫ごときに足払いをくらって噴水に突っ込んだと真実を話すのか?」
「かっこ悪いからアンディに会いたくないんすか」
ずばりと図星をつく。
誠一はとてつもなくプライドが高い。仮に今の姿をアンディが見れば当然不審に思う。まさか悦巳を力づくで犯そうとして逆襲されたとは言えまい。
一呼吸おいて、ほとほとあきれ返った調子で吐き捨てる。
「―なんっすか、それ。もとはといえば誠一さんの自業自得っしょ、変な意地張らないでくださいよ!会場帰るのがいやだって駄々こねて手え焼かせてホントめんどくせえ人っすね、みはなちゃんのがずっと聞き分けも物分かりもいっすよ!」
「お前が避けなきゃこんなことにならなかった、お前が沈めばよかったんだ」
「逆恨みっすよ!てか勝手に転んで突っ込んだくせによっく言う、なんもかんも俺のせいにしないでください!バカ言ってねーでさっさと帰りましょ、寒くなってきたしほんと風邪ひいちゃいますよ、仕事いけなくなって困んの誠一さんでしょ」
「一人で帰ればいいだろう、俺はしばらくここにいる」
「パーティー終わるまで居座る気っすか?みはなちゃん一人きりにして?どんだけ自分勝手なんすか」
「お前がついてれば安心だ、あいつもお前に懐いてる、俺よりずっと好いてるじゃないか」
辟易する誠一をジト目で睨み、態度悪くそっぽを向く。
「かっこ悪」
「なんとでも言え」
「見栄っぱり。かっこつけ」
「ふん」
「大人コドモ。わがまま。強情っぱり」
「その程度か」
背中あわせにつき合う悪態はあてつけ全開でエスカレートしていく。
「言葉責めフェチ。ヘタレな俺様略してへタレ様。露出狂。変態性欲者」
「………」
「親バカ改めバカ親。自己中脳。ドS。強姦魔。勃起不全」
「違う」
「俺の耳元でねちねち言葉責めしながらさかってたんすか、変態」
「どうしてお前のような貧相で色気のない体に勃起しなきゃいけないんだ、そっちこそ俺にいじくられてまんざらでもない顔してたじゃないか、あげくに手に出して」
「誠一さんがねちっこく責めるからっす、しかもこんな外で信じらんねえ、真冬に青姦しかもバックからとか自殺行為っすよ!」
「いくらしつこくねちっこく責めたって本人にその気がなけりゃ勃つわけない。体は正直だったぞ」
「あーあーイヤだねこれだから自信過剰な俺様は。誠一さんてぜってー見掛け倒しっしょ?ベッドの中じゃ残念なひと。案外奥さんともそれで失敗したんじゃねっすか」
お互いの顔は見ず激しく言い争う。
悦巳は頬杖ついて反対側を向く。
誠一もまた腕を組んで逆を向く。その口元が皮肉げに歪む。
「お前こそ、本当に男は初めてなのか?初めてであんなぐでぐでになるものなのか。漫画喫茶に泊まる金がなくて売春した経験あるなら白状しろ、調査漏れの可能性もある。それとも……幼馴染の、大志だったか?デキてたのか」
「………んだと?」
頬杖を崩し振り向く悦巳の目が険悪に据わる。
誠一は不敵な笑みを刻んで続ける。
「大志大志、いい年した男が口癖のようにうるさい。熱をだしてうなされた時べそかきながら呼んでたじゃないか。深い仲なのか」
「嫉妬っすか」
悦巳がなにげなく放った一言に今度は誠一が凍りつく。
眉根が神経症的にひくつき険を孕んだ目がぎらつく。
「………調子にのるなよ悦巳。その思い上がりをこぶしで矯正するか」
「つーか俺の寝言までひとつずつチェックしてる誠一さんマジキモっす、どん引き。壁に仕込んだ盗聴器の内容録音して聞き返してるんすか。フツーに犯罪っすよそれ」
「生憎俺はとなりのお前と違って記憶力がいいからな、生の寝言もちゃんと覚えている。それ以前に詐欺師が説教の矛盾を知れ」
「パンツん中までぐしょぐしょで愚息が縮まってないか僭越ながら心配っす。そういや誠一さんて下着もブランド物なんすか?中身に自信ねえから下着で勝負しちゃう派?」
立て続けに挑発しつつ負けじと眼光で牽制し合う。
悦巳が顎を突き出す。
誠一が顎を引く。
睨み合う両者のあいだに張り詰めた緊迫感が頂点に達した瞬間―
「ぶはっ!」
とうとうこらえきれず吹きだす。
「はははははははっはははははははっははははっ、なんすっか、誠一さんマジウケるっす!『体は正直だったぞ』てまんまどっかの勘違い男のセリフこっぱずかしー、しかも俺と大志がデキてたとかどっからそんな発想わいてくるんすか片腹いてえ!」
頭のどこかが壊れたかと疑うほどのハイテンションで笑い転げしまいには涙まで流す悦巳に気勢をそがれ、急激に怒りが萎んでいく。
強張った指から力が抜ける。
夜空高く殷々と響く悦巳の笑い声を聞くや脱力し、急になにもかもが馬鹿らしくなる。
上り詰める途中で梯子を外された感じだ。
「俺と大志がデキてるって、うわは、ははっ、ダメだやっぱツボにハマってとまんねえ!そりゃたしかに施設じゃ二段ベッドの上と下使ってたし一緒に風呂にも入ったけどさー」
「うるさい。黙れ。さっきのは取り消す」
最前までの緊張が消し飛び弛緩した雰囲気が漂う。
深呼吸で狂騒的な笑いを終息させた悦巳がだらけきって足を投げ出し、人懐こく笑う。
「誠一さんでもむきになるんすね」
「…………」
「安心しました。いつも笑わねーしむっつりしてるしなに考えてっかわかんないから」
明るく語りかける声にだんまりをきめこむ。
寛いだ姿勢で掛けた悦巳がこちらをうかがう。
「………さっきの人にハンカチ貸してもらいましたよ」
「……さっきの人?」
「誠一さんのお父さんの、愛人」
一瞬言いよどむ。気遣いがうざったい。悦巳は柔和な声音で続ける。
「ぼーっと突っ立ってたらぶつかっちゃって、服にソースこぼして、したらハンカチで拭いてくれたんです」
「……………」
「いい人ぽかったっす」
「初対面でなにがわかる」
「だから第一印象で」
黙り込んでしまう。
悦巳もまた口をつぐみ誠一に寄り添う。
誠一の心の整理がつくまで、言葉を選び終えるまで、辛抱強く待つ。
凍てついた胸に在りし日の残像が去来する。
膝の上で手を組み、自己の内側に深く潜っていくような視線を虚空に放る。
「親父は勝手だ」
批判的な口調に自嘲が覗く。
自分もまた父親からその性格を濃く受け継いだ事を知っているのだろう。
「俺とは反りが合わない。性格が似てるせいか反発してしまう。俺が物心ついたころからあんな調子だった。ワンマンで無神経、思いやりがない。お袋が愛想を尽かしたのも道理だ。俺が子供の頃からずっと愛人宅に入り浸り、滅多に会うこともなかった。三ヶ月に一度義理で顔をあわせればいいほうか……」
追憶に耽る横顔に寂寥とした色が漂う。
誠一もまた悦巳と同じ、親に捨てられた子供だった。
「愛人がいることは知っていた。腹違いの妹の存在も……おせっかいな連中がご注進してくれた。こっちは頼んでもないのに」
疑心暗鬼渦巻く当時の状況を思い返し苦々しげに唾棄する。
誠一に取り入ろうと卑屈に媚びる連中が吹き込むさまざまな噂のなかには少なからず悪意や嫉妬が含まれていた。
「数ヶ月に一度会うだけの父親に情がわくはずもない。馬鹿な親父は数ヶ月に一度の対面だからと気合を入れて贈り物をもってくる。最新ゲームのハードにソフト、プラモデル……しかし肝心の反応はパッとしない。そのうち何ももってこなくなった。ますます足は遠のいた。おべっかひとつ使わない可愛げない息子に嫌気がさしたんだろう」
膝の上においた手を無意識に見つめる。
かつて掴み損ねた何かを呼び戻そうとするかのように。
「参観日には祖母が来た。三者面談にも。十代の終わりまで放っておかれた。愛人の子が男だったらそっちに跡を継がせたかったんだろうな。自分はろくに会いにきもしなかったくせに、大学を卒業する頃いきなり会社を継げと言い出した。社会経験のない息子をじきじきに鍛えてくださると。一方的な押しつけに反発して日本をとびだした」
「海外へ?」
「インターネットで培った人脈を頼りにむこうで事業をおこした。……結局帰って来たがな」
「……無理矢理継がされたんすか?」
「俺の意志だ」
自らの過去は過去として客観的に切り離し、淡々と語る。
「親父の会社が倒産の危機に瀕してると知ってな。助けてくれと泣きつかれ、妻子を連れて帰国した。妻は最後まで反対していた」
「奥さんてひょっとしてガイジン?」
「みはながハーフに見えるか?」
「……見えません」
「あっちの暮らしが長くて日本の生活様式に馴染めなかったのも理由のひとつだろうがな」
父親に頼りにされるくらいだから経営者としては優秀なのだろう。
あるいは実業家としての実績と手腕を買い、日本に呼び戻したのか。
そこまで考え、ひょっとしたらとひとつの可能性を思いつく。
誠一が暮らすマンションが海外にならって靴で上がれるようになっているのは、外国育ちの妻に配慮した結果ではないかと。
「印象深かったのは風呂にカーテンがなくて驚いてた事だな」
「風呂にカーテン?」
「むこうは大抵バスタブとシャワー、トイレがセットだからそれを区切る用途で使う」
「後からつけてやりゃよかったのに」
「なんでもかんでも叶えてやったらつけあがる。女のわがままは果てしないぞ」
前言撤回。やっぱり誠一は誠一だった。
結果的に倒産寸前の会社が持ち直したのは誠一の手柄だった。
「日本に帰って来たこと後悔してますか」
悦巳が息を吸う。
「日本に帰ってこなかったら奥さん出ていかなくてすんだかもって思っちゃったりしませんか」
吐く。
むこうで立ち上げた会社の経営も順調だったのに父親によって無理矢理呼び戻され跡を継がされた、いや、跡を継がされたといえば聞こえがいいが要は望まぬ後始末をおしつけられたのだ。
誠一は立派にそれをやりとげ社長の座を就任した。
祖父がおこし父が拡大した事業をその手腕と卓抜した才覚でもってますます発展させたが、代償として愛情と安らぎを求めた家庭は壊れ、一児をもうけた妻は去ってしまった。
想像で補完した部分もかなりあるが大筋は間違ってないだろう。
安直な結論を覚悟で言えば、誠一もまた親のエゴの犠牲者なのだ。
「そんな………」
そんなのって。
「あんまりじゃねっすか」
親の都合で振り回されて。
帰国と後継は誠一の意志だとしてもそこに至る経緯とそれからの展開に納得できない、子供時代は無関心に放置しておいて十数年もたってから成功した息子に頼るのか、許しを乞う前に助けを乞うのか、誠一に後始末をなげうって嫌な事ぜんぶ押しつけて自分は愛人と楽しくすごしてたのか。
誠一の人生は充の人生を補填するためにあてられたのか。
充が出した損失を補うために利用されたのか。
「誠一さんが大変なとき充さんは愛人といちゃついてたんすか、やなことぜんぶ息子におっかぶせて自分はウハウハっすか、しかもみはなちゃんの誕生パーティーにまでつれてきて……」
どこまで誠一の気持ちを踏みにじれば気がすむ?
充と愛人が楽しげに語らう光景を目の当たりにした誠一の怒りが今なら理解できる、もし悦巳が事情を知ってあの場にいたら殴りかかっていただろう。しかも今日はみはなの誕生日、充は孫娘の誕生パーティーに愛人とその娘を招待したのだ。
無神経極まれり。
子供の頃の誠一が瞼にちらつく。
実際会ったことはおろか写真すら見たことない子供の姿を鮮明に思い描く。
母に捨てられ父に見放され祖母の家に預けられた孤独な少年。
たまに会う父親には照れが邪魔して素直に甘えられない。
心理的にも距離的にも疎遠な親に無条件に懐けないのは相手が養育の義務を怠ったからで責められるべきは本来庇護される立場の子供じゃない。
それを可愛げないと疎まれ孤立し性格を歪めていく。
誤解は屈託を生む。
放任は放置の建前。
いくら華が愛情深く理想的な祖母でも親代わりにはなれない、どんなに救いたくて救おうとしたって両親にいらない子だと拒絶された暗闇を照らせない。
それじゃ誠一があんまり可哀想じゃないか。
同情を嫌う誠一に同情する。
両親を求めながら疎まれた絶望を知っているから、どうしようもなく、救いがたく共感してしまう。
「親父にとってはあっちが本物の家族だろう」
ふいに零れた呟き。
さっきまで悦巳をサディスティックにいたぶっていた男とはおもえぬほど冷静な、それでいて諦観しきった響きもつ声音。
衝動的に体が動く。
「家族に偽物も本物もありません」
こんな気弱な誠一は知らない。
誠一に卑下は似合わない。
さっきのようにいばりくさっていたほうがまだマシだ、まだしも『らしい』、全然『らしい』。
誠一の肩を掴んで振り向かせ、まっすぐに目を見据え、胸にこみ上げる感情に突き動かされるがまま独白する。
どうしてだろうさっきあんな酷いことされたのに放っておけない、似合わない弱音を吐くこの人を突き放せない、だけど俺になにが言える家族を知らない俺がなにを偉そうに説教できる、慰めも励ましもいらないと突っぱねるプライドの高い男に一体なにができるしてやれる?
『オレオレさんはやればできる子だから』
『なんでもひたむきに一生懸命やればきっともっとたくさんの人がオレオレさんを好きになってくれるわ』
天啓の如く華のアドバイスが脳裏に閃く。
『それでも伝わらなかったら………そうねえ、ハグしちゃえばいいのよ』
だからそうする。
そうした。
「な」
誠一を抱きしめる。
ベンチに座った姿勢から横にずれ腕をのばし不意をつく。
べちゃりと嫌な感触とともに冷え切った体を抱く。
腕が冷たい。全身が冷たい。
誠一に触れた面すべてが濡れて冷たい。
冷え切った体を腕で包み温め、腰を上げ正面にまわり、動揺のあまり抵抗も忘れ硬直する誠一の頭をことんと胸に凭せる。
「子育ての秘訣は吉牛っす」
「な、に?」
「よしよしぎゅーっす。そんで子供は元気に育つんです」
誠一が慌てる。シャツの胸元に熱く湿った吐息がこもる。
後頭部に手を回し、体温が移って誠一の肌がぬくもるのを待つ。
心臓が浅く鼓動を打つ。
頬が熱を持つ。
恥ずかしくて死ねるからどうか顔を見られませんようにと瞠目、祈る。
一方誠一はそれどころじゃない、どうにか悦巳を引き離そうともがいて声を荒げる。
「俺は子供じゃない!」
「でっけえ子供みたいなもんっしょ」
「人がきたらどうする!」
「あれっ、アンディが見張ってるから誰も来ないんじゃねっすか?それとも誠一さんはいつだれが通りかかるかわかんない場所でおっぱじめるような変態なんすか~」
いつもおちょくられてる仕返しとばかり意地悪くにやつきつつ、いやがる誠一を宥めてきつく抱きしめる。
口と顔では茶化しているが、心臓は今にも爆発しそうに高鳴ってドクドク血液を送り出す。
「~っ………!」
諦め悪く暴れていた誠一がふっと肩の力を抜き大人しくなる。
降参したのか、下手に騒いで誰かにばれるのを恐れたか。
腕の中に迎え入れた誠一をおそるおそるのぞきこむ。
悦巳の位置からは頭しか見えない。外気に晒された耳朶がほんのり赤い。
母親の前では途端に威勢を失うガキ大将のようだ。
「……離せ」
「お耳真っ赤っすよ~恥ずかしいんですか~」
「離せといってるたわけ!!」
まずい、悪ノリしすぎた。
檄して力一杯悦巳を突き飛ばす。
はずみで反対側の手がベンチの背後の生垣を掠り、人さし指に荊の棘が刺さる。
「!痛ッ、」
「誠一さん!?」
血が滲む手の甲をおさえ身を屈める。痛みに顔を顰める。
「どうしてお前は余計なことしかしない!」
「ちょ、今のは俺のせいじゃねっしょ誠一さんが勝手にやったんしょ!?」
くそ、くそ、疫病神め。
心の中で連続で悪態をつく、思いつく限り罵倒する。
鋭利な棘の刺さった指がじくじく痛みを訴える。
人さし指を押さえ呻く誠一の正面、人影が片膝つく。
「じっとして」
蔦の如きゆるやかさで誠一の手を絡めとり、人さし指を持ち上げ傷口にくちづける。滲む血を舐め指を吸う。
艶めく舌でもって棘を抜き、唾でもって丁寧に消毒する。
人けがない庭園にて、ベンチの前に傅いた青年は心もち顔を俯け、角度によって憂いを含む真剣な表情で献身的な奉仕を行う。
手を添え軽く指を咥える。
唾液を塗布し傷を癒す。
唇の火照りだけで氷を溶かそうとでもするかのように心を込めて接吻し、唾液と混ぜて血を薄めていく。
洗礼のように。
祝福のように。
ゲルダはとうとうカイをみつけました。
けれどもカイは身ゆるぎもせずにじっとしゃちほこばったなりつめたくなっていました。
そこでゲルダはあつい涙を流して泣きました。
それはカイのむねの上におちて、しんぞうのなかにまでしみこんで行きました。
そこにたまった氷をとかして、しんぞうの中の鏡のかけらをなくなしてしまいました。
ばらのはな さきてはちりぬ
おさな子エス やがてあおがん
爽やかな噴水の音が時を巻き戻しやがて耳に戻ってくる。
「お返しっす」
こないだの。
針で怪我した悦巳の指を吸ってやった事を思い出す。
はにかみと悪戯心とを織り交ぜた笑みは童顔によく似合う。
「汚い。やめろ。お前の口の中で繁殖した雑菌が入って壊死したらどうする」
「失礼な、毎日ちゃんと歯磨きとうがいしてますよ洗面所でみはなちゃんと並んで!」
笑う悦巳を突き放し、唾液で湿った人さし指を背広の裾で丹念に拭う。
悦巳が傷ついた顔で抗議するが知ったこっちゃない。
知ったこっちゃないのだ、本当に。
「その汚え口でイったのはどこの社長さんだっけかな」
「あげ足をとるな」
「どこ行くんすか」
「帰る。お前のくだらんしゃべりに付き合うより会場で晒し者になったほうがマシだ」
悦巳をその場に残し、蹴散らすような大股で歩き出す。
噴水を背にして歩み去ろうとしたその背を見詰め、背広のポケットに突っ込んだまま忘れていたものに気付く。
「!そうだ、これ」
小走りに駆けて追いつく。
まとわりつく悦巳を無視してホテルへ向かう誠一の正面にまわりこみ通せんぼ。
「ちょっと待ってください誠一さん」
「どけ。寒い。風邪をひかせる気か」
「~さっき人がさんざん中入ろうって言ったときは無視したくせになんて人だ……!」
―「みずはらさん!」―
軽やかな足音に続き、白いワンピースを翻した幼女が弾むように駆けて来る。
「みはなさん!なんで、」
庭園に突如として現れたみはなに驚く。
みはなの後ろから現れたのは見慣れた巨漢……アンディだ。
「お前の姿が見えず不安がってらした。みずはらさんが迷子になった、どうしてもさがすと言って聞かなくてな」
生垣が挟む通路を闇に紛れて歩いてきたアンディが、サングラスの奥の目を細めて悦巳にとびつくみはなを見守る。
「みずはらさんどこ行ってたんですか、お散歩ならみはなも誘ってください」
背広の裾にぶらさがり純粋な目で見上げてくるみはなに胸が痛む。
ないがしろにした謝罪をこめ、片膝ついてその頭をなでる。
「酔っ払ってちょっと外の空気吸いにきただけっす」
「でも言ってください、だまっていなくなっちゃだめです、マナー違反です」
「むずかしい言葉知ってますね~」
「怒ってるんですよみはなは」
背広の裾をぐいぐい引っ張って目を吊り上げる。残念ながら迫力はあまりない。
腹を立てた様子の反則的な愛らしさににやけそうになるのをこらえ、めっと叱るみはなに頭を下げる。
「俺が悪かったっす、ごめんなさい」
「わかればいいんです」
「ご馳走いっぱい食べました?おなかいっぱいっすか?」
「フルーツポンチがおいしかったです」
「そういや甘いシロップのかおりが……」
ふざけて鼻をひくつかせる。
鼻息がくすぐったいのか、抱きしめる悦巳から身を捩り離れみはなが笑う。
誠一は少し離れた場所でふたりのじゃれあいを眺めていたが、何も言わずアンディを従え、悦巳の横を素通りしてホテルへ向かう。
「誠一さん」
「…………」
無視。
「誠一さん」
「…………」
無視。
「背広忘れてますよ」
「――――!!ッ、」
激発。
振り返った誠一の前に悦巳。
背広のポケットから包装紙にリボンを掛けた何かを取り出し、両手をそろえてさしだす。
「はい」
にっこり微笑む悦巳に戸惑い、思わず受け取ってしまう。
誠一が確かに受け取ったのを確認後つきそうみはなを見下ろし、反対側のポケットから同じ包みを出して渡す。
「なんですか、これ」
「みずはらからの誕生日プレゼントっす」
誕生日プレゼント。
その単語を聞くやあどけない顔が歓喜に輝き、すべらかな頬が昇天するように紅潮する。
「開けていいですか」
「どうぞ」
浮き立つ心をおさえ精一杯お行儀よく聞くみはなにひとつ頷き、茶目っ気たっぷりに白い歯見せて向き直る。
「誠一さんもどうぞ?」
みはなが待ちきれない様子で包装紙を破いていく。
誠一は無造作な手つきで破りとる。
「ミッフィーです!」
無邪気な歓声を上げて贈り物を手にもつ。
ミッフィーの刺繍を施した子供サイズの赤い手袋。
大好きなミッフィーの付いた手袋を貰い、みはなが今日一番の笑顔を見せる。
スピーチの時でさえ浮かべなかったとびっきりの笑顔。
そして誠一へのプレゼントは………
「どういうつもりだ」
「親子でペアルックっすよ」
誠一の手にあるのは大人サイズの手袋。
こちらはみはなとは色違いのモスグリーンで同じくミッフィーの刺繍つき。
「なーんて、実は俺も」
背広の内ポケットに滑り込んだ手がどういう手品か、オレンジの手袋を嵌めて出てくる。
手袋を嵌めた手をひらつかせ頬を叩く悦巳に、さっそく真似して手袋をはめたみはなが興奮しきって叫ぶ。
「みずはらさんとおそろいですね、みんなみーんなミッフィーさんです!」
『みんな』
『みーんな』
「そっす、みんなみーんなおそろいっす」
『家族だから』
小さな両手をかざして叫ぶみはなをこの上なく優しい目で見つめ、鼻の頭をかく。
「おそろいのものがほしかったんです」
自分はそんなものひとつも持ってなかったから。
「誕生日プレゼントなんつってわがままも大概にしろってかんじっすよねーはは。そもそも誠一さんがくれた小遣いで買ったヤツだし」
冬枯れの庭園に立ち尽くし悦巳は寂しげに笑う。
手袋に託した家族への憧れとみはなを想う気持ち。
ばらばらになりかけた家族を繋ぎとめんとする切なる願いが毛糸一本一本に編みこまれているようで、捨てるに捨てられず処分に困る。
「……気に入らねっすか?色、違うのがよかったかな。緑似合うと思ったんだけど」
馬鹿な。
突っ返せばいいじゃないか、こんなもの。
こんな子供だましのプレゼント、どうせみはなの機嫌をとるためだけに選んだのだから。
なのに手が動かない。
手袋をもったまま固まる。
『誠ちゃん、来てごらん』
幻聴が響く。
荒涼とした闇に沈む冬枯れの庭園に極彩色の薔薇が咲き乱れ、ブリキの如雨露をもった老婆が祝祭的な豊穣の中振り返る。
『薔薇が咲いてるわ』
瞼の裏に咲いた幻影が現実の光景と被さり、穏やかに振り返る老婆の面影が悦巳とだぶる。
冬の庭園に薔薇は咲かない。
冬は長く、春の訪れはまだ遠い。
しかしそこにはパレットに絵の具を散らしたような色彩が生き生きと息づく。
跳ねるごと翻るワンピースの無垢なる白、冬空に届けとかざした手の燃える赤。
赤とオレンジの手袋がくるくる舞うごと赤とオレンジの薔薇が咲く。
祖母の花壇にあったのと生き写しの薔薇が時を超え甦った幻覚に魅せられ、郷愁誘う幻影を掴もうと魔法にかけられた心地で手を伸ばす。
伸ばした手の先で幻影は消滅し、そよいだ指が虚空をなで、仲良く手を繋いだみはなと悦巳が誠一を振り向く。
「帰りましょ、誠一さん」
繋ぎあう手の赤とオレンジ、誠一の記憶に咲き続ける薔薇の色。
いつもしあわせそうだった亡き祖母を彷彿とさせる屈託ない笑顔で小走りにやってくるや、放心した誠一の手を素早くとって握り締める。
悦巳を真ん中に三人で手を繋ぐ格好になる。
「…………馬鹿かお前は」
すぐさま振りほどかないのは手がかじかんでたから。
もし手が言う事を聞けば即座に引き剥がしていた、契約の範囲を逸脱した無礼な振る舞いを許すはずがなかった。
嘘じゃないのに言い訳してるような後ろめたさがつきまとうのは何故だ、悦巳も悦巳だ、ついさっき犯されかけたというのにどうして能天気にあっけらかんと笑っていられる、自分を犯そうとした男と手を繋ぐ、なれなれしいさんづけで呼ぶ?
俺はどうしてこの手をふりほどかないんだ?
「どこへ帰るんだ」
無意識の質問だった。
唇から零れ落ちた問いにみはなが不思議そうな顔をする。
行き先はわかりきってる。いつまでも戻らなければ騒ぎが大きくなる。しかしパーティー会場で待つ充と顔をあわせるのは……
誠一の逡巡を読み取り口を開きかけた悦巳を遮り、下方からきっぱりと返事が返る。
「おうちです」
そろってそちらを見る。
冬空の下、薄いワンピース一枚で冷えてきたのか白い息を吐き、悦巳の手をぎゅっと握ってみはなが言う。
「おうちに帰りましょう」
行き場をなくした迷子に道しるべを示すように、このぬくもりを手放したくないと謙虚に訴え、上目遣いに悦巳と誠一を見比べる。
繋いだ手から伝わるぬくもりが凍てついた心を溶かしていく。
微笑み誘うみはなの言動に悦巳がはにかみ、気付けば誠一の手からも力が抜けていた。
行く手に待ち受けるアンディが恭しく腰を折る。
「しかと承りました。誠心誠意、安全運転でおうちまでお送りしましょう」
ともだちにシェアしよう!