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第28話

 日常生活にゆるやかな変化が訪れつつある。  「みはなさん、お口のまわりにおひげがついてるっすよ」  「おひげですか。やぎさんですか」  「そっす、やぎさんっす。め~」  「めぇえぇえ~」  幼女と大人がヤギの鳴き真似をしあう。  悦巳がエプロンの裾でみはなの口についた牛乳の膜を拭き、みはなは顔を顰めつつも大人しく従い、ミッフィーのイラストつきマグカップを両手でつつんで終わるのを待つ。  喉自慢をしあう二人を冷めた目で眺め朝刊を開く。  ちょこんと行儀良く椅子に掛けたみはなの向かいが大黒柱の特等席かつ指定席。  悦巳は誠一の斜め右、みはなの隣に着席。  児玉家の朝は洋食だ。  こんがり焼いたトーストと目玉焼きにサラダ、牛乳。  時間がないときは手早くシリアルとバナナで済ませるが、誠一が加わってからは一応体裁を整えたものがでてくる。  朝食の席でも会話は弾まない。もとから無口なみはなはトーストを咀嚼し食事を片すのに専念し、誠一はむっつり黙り込み朝刊を広げ接触を断つ。ひとりおしゃべりなのは悦巳だ。顔を隠すようにして新聞を読む誠一と、ハムスターを彷彿とさせる愛らしいしぐさでトーストをかじるみはなに交互に話しかける。  「みずはらさん、お行儀悪いですよ」  「知らないんすかみはなさん、トーストと目玉焼きはこうして食べるのがんまいっすよ。ラピュタパンっていうんです」  「らぴゅたぱん?」  「天空の城ラピュタっすよ。知らないんですか」  「知りません」  「世代差っすね!平成生まれじゃ無理ねーか……そっか今の子はトトロもラピュタも知らねえのか、由々しき事態っすよこれは、そう思いません誠一さん!」  「食べながらしゃべるな、パンくずがとぶ」  食べながらしゃべるという下品なまねに新聞を畳み眉をひそめる。  「みはなが真似したらどうする」  誠一の注意に悦巳は高速で顎を動かし口の中のものを咀嚼、牛乳でながしこむ。  「トトロは知ってます、幼稚園で観ました。みはなもトトロをだっこしてお空を飛びたいです」  「トトロをだっこするにはちょーっと腕が足んねえかな?逆はありだけど」  トーストにのっけた目玉焼きを器用に啜り半熟の黄身を吸う悦巳を手本に、見よう見まねで自分もまた目玉焼きをトーストに移し、目一杯小さな口をあけてかぶりつく。  口に達する寸前に目玉焼きがぼとりと落ちる。  テーブルにへばりついた目玉焼きを前に顔がくしゃりと歪む。  「いわんこっちゃない……」  みはなに与える悪影響を慮り頭痛を覚える。  「小さい子は宮崎アニメとディズニー大好きってこれ常識っすよ、五歳までの宮崎アニメは情操教育っすよ!今度ビデオ借りてくっから一緒に観ましょうね~みはなさん、手に手をのっけて一緒にバルスって叫びましょ」  トーストに乗せた目玉焼きをはふはふ頬張り力説する悦巳に控えめに頷く。他愛もない約束を楽しみにしてるのだろう証拠に口元が緩む。  テーブルにはりついた目玉焼きをフォークですくってトーストに戻し、耳元で囁く。  「三秒ルールっす。お皿の外に落っことしても三秒以内なら食べてオッケーなんすよ」  「おべんきょうになりました」  慎重な手つきでトーストを持ち直し、パンくずをぽろぽろ零しつつ端から少しずつかじっていく。悦巳の食べ方をまね目玉焼きを少しずつ吸っていき、「おいしいです」と半熟の黄身がこびりついた顔でほくそえむ。  こんなに表情豊かな子供だったのか。  誠一が知るみはなは無口無表情でなにを考えてるかわからない扱いにくい子供だった。観察するようにひとを見つめる癖が苦手だった。率直に言ってしまえば、可愛げがない。子供が苦手な誠一は接し方に悩み、次第に娘を疎ましく思い、顔を合わせるのを避けるようになった。悦巳と一緒にいるみはなはよく笑う。声を上げて笑う回数は少ないが、おかしなことを言えばくすりと口元を綻ばせる。  そういえば随分長い間みはなの笑顔を見てなかった。  最後にみはなが笑ったのはいつだろう。  母親が家をでてからみはなは笑いも泣きもしなくなった。誠一はその事にさえ気付かなかった。  みはなに笑顔が戻った。  二人が三人に増えた。  たったそれだけで家の中が随分明るくなった。天井や壁の表情、リビングや台所の印象までも爽やかに一新された。  悦巳は騒々しい。  しばしばタイマーのセットを間違えトーストをこがし、そのトーストをとろうとしてやけどし、牛乳とトーストを一緒くたに食べながらもおしゃべりをやめず、口の中のものを見せて誠一を不快にさせる。  落ち着きのない子供みたいな性格で、みはなと相性が合うのは精神年齢がおなじだからだろうと邪推する。   悦巳が口うるさく諭すから一緒に朝食をとる方針に変更したが、それは譲歩でも妥協でも何でもない。  『他の誰よりあんたに、誠一さんに一番褒めてもらいたかった……!』  物心つくかつかないかの頃に親に捨てられ肉親の愛情に飢えて育った悦巳は「家族」に強い憧れを抱いている。  おそらくは無意識に誠一に父性を求め、理想の父親像を投影し、その承認を得る事によって不幸な生い立ちに因む孤独感や劣等感や喪失感を乗り越えようとしている。  要は施設時代の親友から誠一へと依存の対象が代わっただけで、悦巳自身の本質は変わってない。  いい子にしてたら親が迎えに来てくれる、だれかが頭をなでてくれるかもと期待して待ち続ける甘ったれのガキのまま、環境が培った受け身の習性は変わらない。  居場所が欲しいならくれてやる。  ただし期間限定、用が済み次第取り上げるのが前提の仮の居場所だ。  誠一自身、今のこの曖昧で宙ぶらりんな関係をなんと呼べばいいか戸惑っている。  一番近い言葉をさがすなら擬似家族だろうが、くだらない家族ごっこをいつまでも続けるつもりはない。  自覚症状が兆した時には既に手遅れ、計画は大幅に狂いだしていた。  使い捨ての手駒にするはずだった悦巳の言動がいつしか蔑ろにできぬ影響力をもつようになり、みはなとアンディはあっさり懐柔され、残る誠一までも感化され、家政夫がしつこくまとわりつくから仕方なくと自分に言い訳し、朝刊を広げてテーブルを囲むまで堕落した。  悦巳がこの家に着々と馴染みつつあるのが気に食わない。  一番気に食わないのはそれにだんだんと慣らされつつある自分自身だ。  いつしか悦巳がいるのがあたりまえだという認識が根づき、姿が見当たらないと物足りないなどと感じてしまうのではないか。ありえない。馬鹿馬鹿しさに腹が立つ。  むしゃくしゃして目玉焼きにフォークを突き刺す。  家事もさることながら料理の腕が上達したなとつい感心してしまい、悦巳ごときに感心した自分に鼻白む。  トーストをたいらげ紅茶を飲み干し、新聞を読み終えたのを機に席を立つ。  椅子に掛けた背広をひったくり、歩きながら袖を通す。悦巳が椅子を引きトーストをくわえあとを追う。    「朝くらいもうちょっとゆっくりしたっていいのに……」  「そんな暇はない。一日中家でごろごろしてる家政夫とちがって忙しいんだ」  「失礼っすね、ごろごろなんてしてませんよ!掃除機かけたり窓拭いたりトイレ掃除したり忙しいんす、ソファーにはコロコロかけなきゃいけねーし……なんか俺ってば抜け毛体質?っぽくていっぱい毛がおちてるんすよ、コロコロにくっついてんの見たら誠一さんもぎょっとしますよ。ハゲちまったらやだなあ、やっぱ何度も染め直して傷んでんのかな……」  頼みもしないのにトーストをくわえ玄関までついてきてどうでもいい話をする悦巳にいらつく。  「二枚目か」  「育ちざかりっすもん、一枚じゃ足んねっす。誠一さんも紅茶のお代わりあるっすよ」  「いらん。朝から紅茶をがぶ飲みしたら下が近くなるだろう、少しは考えて物を言え」  「俺に頻尿や糖尿の心配されるのイヤじゃねっすか?変なプライドばっか高いからなー」  ああいえばこういう。悦巳は弁が立つ。無視して靴を履く。鞄を抱えてノブに手を伸ばしたところで視線に気付く。  「なんだ」  煩わしげに振り向けばやけにそわそわ誠一をうかがう。  「今日寒くねっすか?」  「それがどうした」  「さっきテレビつけたら天気予報やってて。寒波が来襲して冷え込むそっすよ」  「会社に行くなと?」  「防寒の準備は万全っすか?」  「コートの前を全部とめれば支障はない」  言いかけて断念し遠慮がちに口ごもり、視線でなにかを伝えようと誠一の手と顔を交互に見る。  らしくもない逡巡の表情。  手袋か。  こないだやった手袋をしていけと、そういうことか。  みはなと悦巳は毎日例の手袋を幼稚園に嵌めていってるそうだが、誠一は未使用のまま寝室のチェストの一番上にしまいこんでいる。  どうやら悦巳はそれを気にしてるらしい。せっかくみんなおそろいの手袋を買ったのに誠一は頑として嵌めず、すっかり忘れ去ったふりをしている。贈り物をした本人の心情は理解できるが、あんな恥ずかしい手袋を会社にしていけるか。  不機嫌な誠一に不細工と紙一重のアヒル口が愛嬌あふれる笑顔でへつらい、下心もとい期待をこめた眼差しで手元をチラ見。とってこいの合図を待ちくたびれるまで待ち続ける飼い犬の姿にしっぽをふりたくる幻が重なる。  反射的に手を伸ばし、その頬をきつくつねって伸ばす。  「!?いひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、ひょ、いきなひなにっ」  「お前のにへらっとしたつらを見てたら無性につねりたくなった」  「ひでーっす、家庭内暴力反対っす!」  騒ぐ悦巳の頬をもう一回強く引っ張ってから解放し、鞄をとって背を向ける。  「いってくる」  「いってらっしゃい~……」  意気消沈した声で、それでも律儀に送り出す。  ノブを握り開け放つ寸前にちらりと振り返れば、おいてけぼりをくらった悦巳は頬をさすりつつしょんぼり玄関に立ち尽くしていた。  しおたれた顔。恨みがましい目つき。  嗜虐心が疼く。このバカで能天気な男をもっといじめてやりたくなる。  「いってらっしゃいのキスはどうした」  「はあ?」  ずっこけんばかりに仰け反れば肩がアンバランスに斜めってスウェットの襟ぐりが片方おっこちる。  頬から手をのけ誠一を凝視、口半開きの顔がみるみる朱に染まっていく。  「~~っ、それ言うならいってきますのキスっしょ、送り出す方がするのって変じゃないっすか!」  「ちっとも変じゃないぞ、新婚家庭では送り出す妻の方からするのが常識だ」  「男女平等の世の中に亭主関白の常識振り回さないでくださいっす」  「気に入らないならお前が旦那役でもいい。さあ、やれ」  「さあやれと顎をしゃくる若奥さんなんて裸エプロンだってご免こうむるっす」  「わがままを言うな」  「誠一さんと夫婦になった覚えないんスけど」  「命令してほしいか?騒ぐとみはなにばれるぞ、なにをしてるのか気になって覗きにくるかもな」  契約上けっして逆らえない悦巳をいじめるのは誠一の屈折した気晴らし。  意地悪な口調で示唆し、わざとらしくダイニングキッチンに通じるドアを振り仰げば、羞恥と葛藤が綯い交ぜになった表情で口をぱくぱくさせ、エプロンの裾をしきりに揉みしだいて屈辱を訴え、にやつきながら待つ誠一を反抗的に睨みつける。  「ほんっとイイ性格……」   「みはなを呼ぶか?」  ヘアバンドを取り払う。前髪がばらけ額を覆う。  「……目えつぶってください」  ぶすくれて呟く。  「いやだ」  「なんで」  「お前の恥ずかしがってる顔が見えんとつまらん」  悦巳に火がつく。  左手で背広の胸を掴み、背伸びするようにして唇を奪う。  「―!んんっ、」  勢い余って前歯がぶつかりあう。乾燥した唇が切れてひりつく。嫌な事はとっとと片付けてしまおうといわんばかりのやけっぱちの振る舞いで、雑念に囚われ身動きできなくなる前にと躊躇を蹴散らし振り払い唇に吸いつく。  悦巳の唇は甘かった。  トーストにぬりたくったいちごジャムの味だ。  顔なんてろくに見る暇もなかった。重ねた唇から移るジャムの味が口の中に広がって、舌を入れるのも入れられるのも怯えて唇を引き結び、凭れ掛かるようにして慣れないキスをする様が劣情を煽る。  腰に手を回し不均衡な体を支えてやる。  「―……んっ、―と、油断も隙もねえ!」  シャツをはだけ腰に這わせた手を即座にはたきおとし、唇を拭って飛びすさる。  「前歯をぶつけるのはキスとは言わん。次までに練習しておけ」  「誰とっすか!ねっすよ次は!」  切れた唇に滲む血を拭いつつ言う誠一に憤激、靴入れの上においた鞄をひったくって押しつける。  「とっとと会社でもどこでも行ってくださいっす、帰ってこなくていいっすよ!」   「キスだけで腰砕けになるとはな……朝でかける前のセックスを契約書の必須項目に追加するか?」  「誠一さんがそれでいいならいっすけど俺の腰立たなくなったら誰が掃除機かけるんすか?ちょっとはもの考えて言ってください」  そっぽを向いて毒づくが頬はまだほんのり赤い。  「……幼稚園の準備しなきゃいけねーからもどりますよ」  スリッパを鳴らし引き返す悦巳を見送り、今度こそノブを捻ってドアを開け放つ。黒背広に身を包み待つアンディが恭しく一礼する。  「車の用意ができました」  「すぐにいく」  ドアを閉める寸前、こんこんと小さな咳が聞こえた。  「大丈夫っすか、みはなさん」と慌てる悦巳の面影を目を閉じ払拭し、アンディと共にエレベーターに搭乗した。

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