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第29話
黒革の椅子は衝撃の吸収性に優れたデザインで体重をかけても殆ど軋まない。磨き抜かれた机にはデスクトップ型のパソコンが据え置かれそれを挟む形で下から上がってきた書類や資料が溜まっている。
趣味の良いインテリアでまとめられた社長室に謙虚なノックが響く。
「入れ」
「失礼します」
律儀に断り入室したのはアンディ。デスクの前まで歩いて誠一に報告する。
「例の調査の件についてご報告します。華さまに詐欺を働いたグループは既にウィクリーマンションを解約し転居した模様です」
「拠点を変えたのか。すばしこいやつらだ」
アンディが恭しく手渡す資料を繰りつまらなそうに言う。
誠一は執務と平行し祖母に詐欺を働いたグループの黒幕をあぶりだす調査を進めていた。
が、成果は芳しくない。
組織的に振り込め詐欺を行い数千万単位の金を巻き上げている前科が示すとおり敵は狡猾で、消息を掴ませないようウィークリーマンションを転々とし、転出の際は証拠隠滅及び口封じを徹底している。暴力団が背後についているのはまずもって間違いない。
アンディを筆頭に隠密行動・情報収集に優れた人材が調査会社と連携し都内のマンションを虱潰しに当たっているが、該当マンションは未だ発見ならず時間だけが虚しく過ぎていく。
「連中の手口は非常に狡猾です。一人暮らしの老人の身元を調べバイトを雇い、プリペイド携帯を支給して電話をかけさせる。市販の携帯とは違い、予め料金を前払いしておくプリペイド式ならしっぽを掴まれる危険性も最小限ですむ。手軽さ故に短期滞在の外国人などが多く所持しています。仕事の性質上、一ヶ月から三ヶ月単位でウィークリーマンションを移り代わっています。数ヶ月前まで居たマンションは判明したんですが、あと一歩のところで取り逃がしてしまいました」
責任を感じ俯く。
己の失態を悔やむアンディを冷静に眺め、資料をめくりつつひとりごちる。
「お前のせいじゃない。むしろ少ない情報でよくそこまで追い詰めた。……となると、手がかりは悦巳か」
結局はそこへ戻る。
過去に悦巳が属していた振り込め詐欺グループは大々的に活動を行っている。
警察に嗅ぎつけられ検挙される日も近いという予想だが、それで逮捕されるのは実行犯の末端構成員のみで、ブレインは地下に潜伏し落ち延びる可能性が高い。
「トカゲのしっぽ切りだな、まるで。中枢に飛び火しないよう切られても痛くない生贄をさしだすわけか」
「実際に電話をかけ口座に誘導したのは悦巳と似たような年頃のフリーターばかり。そのうち何人かと接触がとれましたが、いずれも固く口止めされている様子で……」
「多少手荒いまねをしてもいい。吐かせろ」
「暴力団が関わっているのは事実のようですね。怯え方が尋常じゃありませんでした。警察よりもむしろバレた際の制裁を恐れている」
「ヤクザがバックについているのは厄介だな」
「暴対法の締め付けが厳しくなってからこっち火の車ですからね……使い捨てのバイトを隠れ蓑にした振り込め詐欺は重要な資金源です」
「年寄りから吸い上げた金でヤクザの懐が潤うわけか。皮肉な仕組みだ」
机上に資料を放り椅子に深く凭れて瞼を揉む。アンディが気遣う。
「お疲れですか?」
「仕事のしすぎだ」
「今日はお早めに帰られたらいかがでしょうか」
「そうしたいのは山々だがな……」
連日の無理が精神に悪影響を与えている。やはり仕事と同時進行で調査を進めるのはつらい。実際に体を使って動くのは誠一ではなくアンディとその仲間たちだが、実入りの少ない報告が嵩めば精神的に消耗する。
徒労は思考を鈍らせる。
警察に任せておくのが無難だという消極的な考えを首を振って払拭、物思いに耽る誠一にアンディが遠慮がちに声をかける。
「先ほど充さまが来訪されました。社長に面会を希望してます」
「今は会いたくない。追い返せ」
苦渋が顔に出る。不機嫌な声音で命令すれば、主人の意向を事前に察知したアンディが淡々と答える。
「だろうと思いまして、社長は多忙を理由にお会いできないと僭越ながらお引き取り願いました」
「ふん。でかした」
「社長にはご恩がありますから」
恐縮するアンディを尊大に労う。
来訪の用件はわかってる。先日のパーティーの事だろう。
充と顔を合わせるのは気が進まない。もともと反りが合わない父子なのだ。確執とよぶには疎遠にすぎる関係だが、今更それをどうとも思わない。誠一にしたところで親の迎えを待つ子供というには年を食いすぎている。愛人の家に入り浸り息子の学校行事にもろくに参加しなかった父親にはもはや何の期待もないし未練もない。パーティーを途中で抜け出した事にもさして罪悪感は抱いてないが、招待客の前で恥をかかされた充は逆恨みしてるだろう。誠一自身、大人げなかったと少しは思う。充の自尊心や体面がいくら傷つこうが構いはしないが、あの場には誠一と面識や交流のある人間も多くいた。
父子間のトラブルを公けに暴露しては仕事に支障をきたす。
殆ど接触のない父親なのに、世間体に構うところはよく似てしまったと自嘲する。
『心が冷たい人ね』
『親に愛された事ないからひとを愛せないのよ』
「……血は争えないか」
身勝手をなじる妻の声が耳に響き、口元に苦い笑みが滲む。
感情を飼いならせるつもりだった。
怒りに流されやすい自分を抑えつける術を学んだつもりだった。
どうしてそれが肝心な場面で生かせないのだろう。
ため息で感傷を拭う。厳しく顔を引き締めアンディに指示を下す。
「次会うときまでに適当な言い訳を考えておく。悦巳についてもな」
デスクの前に立つアンディがサングラスの奥からじっとこちらをうかがう。誠一は怪訝な顔をする。
「どうした。俺の顔になにかついてるか」
「ここに……いえ、その」
「はっきり言え」
「いちごジャムがついてます」
アンディの指摘を受け下唇をなぞる。
赤いペーストをすくいとって舐めれば悦巳の唇の感触と共にジャムの味が広がる。
悦巳の唇の味。
「あいつめ……」
目玉焼きをのっけたトースト一枚じゃ飽き足らず、いちごジャムをたっぷり塗りたくった二枚目をくわえてついてきた悦巳を呪う。
おかげでとんだ恥をかいた。
誠一の唇にジャムがくっついたのを知りながら行かせたのか、キスをねだられた仕返しに知らんぷりで送りだしたのか?
いや、あいつにそんな悪知恵はないだろう。単純に気づかなかったのか。
親指についたジャムを舐めつつ意地悪くほくええむ。
「……また仕置きの口実が増えたな」
「は?」
「知ってたなら早く言え」
「すいません、タイミングを逃しました。あまりにその、社長らしからなかったので」
「盗聴器で聞いてただろう」
「だからです」
奥歯に物が挟まったような言い方に合点がいく。
朝のやりとりを盗聴してたらなおさら注意しにくいだろう、戦場経験が長く世間擦れしてないアンディは妙なところで純情なのだ。
盗聴した会話を反芻し照れているのだろう咳払いをひとつ、私情を挟まず言う。
「すっかり仲良しになられたご様子で」
「だれがいつ仲良くなった。あれはフリだ。作戦だ」
「作戦、ですか」
「瑞原悦巳は施設育ちで家族に飢えている、ちょっと優しくしてやればすぐしっぽをふってよってくる。馬鹿で単純で扱いやすい、手懐けるには美味い飯とあたたかい寝床さえあればいい」
「本当にそれだけでしょうか」
「それ以外になにがある?」
鉄面皮を保つアンディの推し量るような眼差しを鼻で笑う。
「情など移るものか。あいつときたら騒がしくてドジで馬鹿で俺の神経を逆撫ですることばかりする、ひとをいらつかせる天才だ。せっかく早く帰れてもあいつがいるとゆっくり休めない。今日は幼稚園でみはながどうした何があった、近所のスーパーでいちごが安く売ってたから買ってきた、幼稚園で知り合った主婦にスイートポテトの作り方を教えてもらっただの俺の興味のないくだらないことばかり嬉々としてしゃべりちらす。耳にタコができた。あいつが買い込んだトイレットペーパーのことなんてどうでもいいんだ、俺は。買い物の帰り道にみはなにも半分持ってもらっただのいちごを潰して砂糖とミルクをかけたのを作ってやったら喜んだだの、雇われ家政夫の分際ですっかり母親づらして」
「長いノロケですね」
「愚弄する気か」
「主観的な事実を申したまでです」
「主観が入ったら事実とは言わん」
忠実な秘書の造反が癇に障る。
無表情は相変わらずだが悦巳の話をすると纏う殺気が幾分か凪ぎ、サングラスの奥の目を細めて若い社長を微笑ましげに眺める雰囲気さえ漂う。
率直も過ぎれば慇懃無礼なアンディを叱責しようと口を開くも、同時に机上の電話が鳴り舌打ちして受話器を掴む。
「なんだ」
『その、社長のお宅の家政夫さんからお電話です。至急繋いでほしいとのことです』
「仕事中だ。切れ」
『お嬢さんの事だそうです』
「何の用だ』
『それが随分取り乱してらして、説明が要領を得なくて』
悦巳が電話をかけてくるとは珍しい。前はくだらない事で頻繁に電話をかけてきては手を煩わせたものだが、最近は誠一の仕事に配慮して、何かトラブルが起きたら自分で対処するか誠一が帰宅後相談するかに変わってきた。躾の成果と自負している。悦巳から電話がかかってきたら多忙を理由に切れと社員教育を徹底しているため、どうせ時間の無駄と本人も割り切ったのだ。
もしやみはなの身になにかあったのでは?
「わかった、つなげ」
内線を切り替え電話を取り次ぐ。
『すいません、仕事中に』
悦巳が出た。不安げな声。
「本当に迷惑だ。で、どうした」
開口一番謝罪する悦巳に話の先を促す。
悦巳が逡巡し、息せき切って話し出す。
『みはなちゃんが熱だしたって幼稚園から連絡あって、いま迎えにいってきたとこなんです。タオル冷やして寝かしつけたんすけどさがる気配なくって……なんも食べたくねえっていうし、ぐったりして様子ヘンなんです。熱もだいぶ高いみたいで医者とか連れてったほうがいいかなって、けど俺みはなちゃんの行きつけの医者とか知んねーしどうしたらいいか』
「落ち着け、順を追って話せ」
『はあはあ息すっげえ苦しそうで、汗とかいっぱいかいてシーツもぐっしょりで……ヘンな咳してっし喉も腫れてるみたいで、とりあえずパジャマに着替えさしたんすけど』
回線のむこうで途方に暮れているのだろう、情けない顔が瞼裏に浮かぶ。
悦巳が住みこみで働き始めてからみはなが風邪をひくのは初めてだ。
誠一が記憶してる限りみはなは大病を患った経験がない。
軽い風邪ならひいたことはあるが、その時も妻や部下に任せきりだった。
会社を早引けし付き添っても意味がない、診てもらうのはみはなであって自分じゃないという合理的な考えが常に念頭にあった。
付き添いなら他にいる、社長の自分が休むことはないのだと。
『誠一さん、俺どうしたら』
震えをおさこえむ声の後ろで小さく咳が響く。みはなだ。発熱と扁桃腺の腫れで苦しんでいる。
「今朝は元気だったじゃないか、普通に幼稚園に行ったんだろう」
『ちょっと咳してましたよ、そういえばいつもより顔赤かったし……けど大丈夫かなって、あの時俺が熱測ってれば、遅刻しちまいそうで慌てて』
「言い訳はいい、お前がやるべきことをしろ」
慰めの言葉ひとつかけず叱咤しつつ今朝の喜劇的な一幕を回想する。
悦巳とみはなが支度を整え家をでるのがぎりぎりになったのは誠一のせいだ、誠一が悦巳にキスをねだり引き止めたからだ、もっとよくみはなの様子に注意していれば不調に気づけたのに泣いたり笑ったり忙しく生き生きと表情を変えるこいつを構うのが楽しくてついつい時間を忘れた。
『誠一さん、俺、おれどうしよう?』
いつも馬鹿がつくほど明るくおしゃべりな家政夫が今にも泣きそうな声で問う。
「子供が風邪をひくのはよくあることだ、薬を飲ませて寝かせておけば治るだろう。それでも熱がひかなかったら行きつけの医者につれていけ、寝室のチェストの引き出しに保険証が入ってるから……おい、聞いてるか悦巳。返事をしろ」
『子供や年寄りは抵抗力弱えからすぐ風邪ひくって……俺、おれが騙したばあちゃんも、それで。風邪ひいてたの一人暮らしでだれも気づかなくって、肺炎おこしちまって、俺そんなの知らねえで、ばあちゃん肺炎おこしてたのに無理して電話でて』
「悦巳」
『そんな酷い風邪なんて知らなかったから……っ、知ってたら切ったのに。俺と話したいっていうから、話してた方が気が紛れるっていうから、俺の話たのしいって言ってくれて嬉しくてそれで』
「悦巳!」
アンディが提出した調査書の記述を思い出す。
過去に悦巳が騙した被害者の中に、風邪をこじらせ肺炎を併発し、長期入院を余儀なくされた七十代の老婆がいた。
おそらくはその事を思い出し、ただの風邪を深刻な方向に考えているのだ。
老婆の病状に気づかず放置して悪化させた罪悪感と、今度こそ正しい対処をしなければという義務感と。
「しっかりしろ、今のお前はうちの家政夫だろう!」
『早く帰ってきてくださいっす、誠一さん……』
「……できるだけ早く帰る。お前はみはなの看病をしていろ、病状が悪化したら近所の小児科に診せろ」
『でも』
「お前の判断に任せる」
『え』
「わからないか?……信頼してると言えば嘘になるが、少なくともみはなのお守りに関しては俺や部下より適任だと少しは信用してるんだ」
喉元を炙る焦燥感を深呼吸で宥め、一方的に方針を決定し受話器をはなす。
『……待ってるっす』
受話器をフックに掛けて通話終了、実直に控えるアンディに問う。
「今日のスケジュールは」
「午後二時にファーガス・マクファーソン氏と新宿ハイアットホテルで面談、七時から三島社長とフレンチレストランで食事」
「帰りは……早くても九時か」
押し迫った予定を切り上げ家にもどる?
できるか、そんなこと。娘と仕事を天秤にかけたら後者の重要性が上回る。
みはなには悦巳がついてる、急いで帰らなくても大丈夫だろう、みはなだってそのほうが安心だろう。
過保護で心配性の悦巳はただの風邪を大袈裟に言い立ててるのだ、支離滅裂な説明から推測するほかないがみはなのそれは典型的な風邪の初期症状で市販の薬を飲んで安静にしていればすぐ治る類のものだ、数週間前あるいは数ヶ月前から予定していた取引先との面談や食事を取り消すほど事態は逼迫してない。
会社と家族ではそれを構成する人の単位が違う。
一介の平社員ならともかく自分は経営者、多くの人間の進退を左右する責任伴う地位の人間なのだ。
プライベートへの干渉と同じ位仕事に私情を挟むのを嫌う誠一にとって、トップの人間の公私混同は規範に反す行為。
政財界にも顔が利く社交家である一方、浪費の激しい充を反面教師にした誠一は両者を厳密に区別している。
公と私を秤にかけて常に公を優先するのが誠一の流儀、部下や取引先の信任を受ける公的な立場は私的な事情や感情に勝る。
自分が駆けつけてどうにかなる問題なら善処するがそうじゃないのに大事な予定をキャンセルして帰宅するのは不条理だ、従って看病や診断に付き添う必要はないだろう、もともと家の事はすべて悦巳に委ねているのだから己の権限を行使できる範囲で勝手にすればいい。
不測の事態が発生した時の保険として保護者代理の家政夫を雇ったのに早引けしろと迫られては本末転倒だ。
立ち聞きで異状を察したアンディが懸念の表情で慎み深く問う。
「お帰りにならなくてよろしいので?」
「事実を誇張して吹聴するのは詐欺師の常套手段だ。あいつは言うことなすこと大袈裟なんだ、いちいち真面目に取り合ってたらつけあがる」
「ですがみはなさまがお風邪を召したと」
「大したことじゃない、悦巳が役に立たなくてもお前の代わりに配備した部下が適切な対処をする」
常に命令する立場の誠一はお願いされるのに慣れてない。
よって、あると仮定した親心に付け込む悦巳の懇願に反発を抱く。
アイツは理想の父親たれと俺に強要してるのか?
理想の父親像を誠一に投影し、虚構に添った振る舞いを期待してるのか?
口約束を守る義理も義務もない、悦巳のお願いを聞いてやる筋合いなどない、そもそも子供の面倒を見させるために雇った家政夫が会社にまで電話をかけてきて仕事を放りだし帰って来いと意見するなど言語道断、立場を弁えない振る舞いだ。
耳の奥で響く苦しげな咳、いつも気丈な悦巳が零した弱音。
誠一が早く帰ってくると信じみはなの看病にいそしむ家政夫の姿が瞼にちらつき、書類の判押しに集中できない。
「三島社長との食事は日をかえても問題ないでしょう」
「馬鹿な、もう予約してるんだぞ。来春共同開催する展示会についても話し合うのに」
「みはなさまのお体のほうが大事です。先方もわかってくださいます」
「子供が風邪をひいたから帰りたいなんて馬鹿げたこと言えるか、俺は社長だぞ!」
苛立ち紛れに机上の書類を薙ぎ払う。
「短気で怒りっぽいのは相変わらずね」
ハスキーな声が書類舞う部屋にふきこむ。
いつのまにそこにいたのか。
いつからそこにいたのか。
おもむろに開け放たれたドアの向こう、社長室前の廊下に二十代後半の垢抜けた女性が立つ。
凛々しい美貌をナチュラルな化粧で引き立て、活動的なパンツスーツを着込んだ女は、乱れ舞う書類のむこうの誠一を見据え、唇に笑みを刻む。
開け放たれたドアの前に立ち、真っ直ぐ挑むようにこちらを見据える女の名前は……
「………美香」
「話したいことがあるの」
数年ぶりの再会となる元夫に、みはなを産んだ女は微笑みかけた。
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