30 / 64
第30話
『大学は順調?友達はできたかい?……よかった。ふふ、娘の頃を思い出すねえ。信じやしないだろうけどばあちゃんにもあんたとおなじ若い頃があったんだ、じいちゃんとは見合い結婚だったけどその前に恋のひとつやふたつ……げほっ、けほ』
『大丈夫ばあちゃん?変な咳してっけど』
『年寄り扱いしないどくれ、まだまだ現役だ。なんでもないんだよこんなのは、ちっとばかし寒い日が続いたからね……ちゃんちゃんこ着てあったかくしてりゃあ大事ない、すぐ治る。それより大学の話さ、ばあちゃんに聞かせとくれ。学校じゃどんな勉強やってんだい?父さん母さんとはどんなかんじだい?困ってることはないかい?困ったことがあったら遠慮なくばあちゃん頼ってくれ、使い道のない年金ばっか溜まっちゃってねえ、こうして電話をかけてくれる唯一の孫に小遣いやりたいのさ………げほっ、げほげほげほがっ、げほ』
『さっきより酷くなってるじゃん、もう俺切るよ、喉に悪いしさ。布団敷いて寝てなよ』
『切らんどくれ』
『でも』
『お前と話してるほうが気が紛れる、この年になると散歩もつらい、一日中家ん中にこもりっきりでおしゃべりが気晴らしなんじゃ。ワシの気晴らしを奪わんどくれ。なあ、ばあちゃん思いの猛は電話を切ったりしないだろう。もう少しだけ、あと一時間、いや三十分でいいんじゃ』
『……あと三十分だけなら……お医者さんに診てもらうって約束だかんな』
『がほがほがほっ、げ、ぅがほっ』
『ばあちゃん?ばあちゃん?どうしたのさ、ばあ』
回想がふっつり途切れる。
眠気が漂う鈍重な動作で顔を上げる。頬が痒い。シーツの折り目に顔を押しつけてたせいでくっきり跡が残ってる。
看病疲れで途切れ途切れうたた寝してるあいだに昔の夢を見た。
鼓膜にこびりつく嗄れた咳を消したくて猫手で耳をこする。
夢の中の悦巳は現役の詐欺師だった。渡されたリストに載った年寄りに毎日のように電話攻勢を仕掛け事故に巻き込まれた孫を装い口座へと誘導した。口座への入金を確認すればそれで仕事終了、ターゲットとの縁はきっぱり切れるはずだった。
最大の失態は騙す相手に深入りしてしまった事だ。
詐欺を仕掛けるのに最低限必要な情報さえ入手すればそれで事足りたのに、もっともっとと話をせがみ、電話を切ろうとするたび次はいつかけてくると問う年寄りたちにほだされなし崩し的に長話につきあうにつれ、個々の人格もつ彼らを財布として看做せなくなった。
華との出会いがきっかけで振り込め詐欺から足を洗っても過去はずっと追いかけてくる。
自分が人を騙し不幸にした事実は永遠に消去も上塗りもできない。かといって、警察に自首し罪を償う勇気もない。懲役刑に処され刑務所暮らしをするのはもちろんいやだが、それよりはむしろ元仲間の制裁が怖い。
こほこほと咳の音で我に返る。慌てて布団の中に手を入れる。
「大丈夫っすか、みはなさん」
しっとり汗ばむ手をきゅっと握って元気づける。
「みずはらさん……くるしいです……お喉いたいですー……」
切れ切れに訴え、高熱で潤んだ目で縋るように悦巳を仰ぐ。
自己嫌悪が胸を抉る。
どうしてもっと早く気づかなかった、幼稚園を休ませなかった?激しく自分を責めてうつむく。幼稚園から連絡が来て初めてみはなの不調を知った、電話を受けるやいなや掃除機を放り出しスウェットの上下にエプロンを括りつけた姿でとるものとりあえず幼稚園に駆けつけた、エプロンはためかせ徒歩十五分の距離を全力疾走で八分弱いに短縮して急行した悦巳の目にとびこんできたのは心配顔の保育士に手を引かれ待つみはなの姿。
様子がおかしいのは一目で分かった、顔は腫れぼったく目はとろんと潤み喉にひっかかるような咳をしていた。朝の段階で兆候を察して休ませていればここまで悪化しなかっただろう。保育士の話によればみはなはいつもどおりお遊戯をこなし絵を描いていたという。お絵かきの時間のあとは庭で追いかけっこをしていたが、一緒に遊んでいた康太がみはなの様子がおかしいと保育士の前に引っ張ってきて報告したのだ。
『どうしちゃったの、顔真っ赤だけど病気なのか』
『心配いらねっす、ただの風邪っす。一日か二日休むかもしれねーけど家で大人しく寝てたら治るから……元気になったらまた遊んであげてくださいっす』
みはなの体調を心配し、下駄箱のところで待ち伏せていた康太にとってつけたような笑顔で答える。
ぎくしゃく笑う悦巳とこもった咳をするみはなに何を思ったか、「ちょっと待ってて」と言い置き、ガラス戸を開け放って教室へともどる。好奇心からおもちゃや椅子が散らかった教室の奥を覗き込めば、園児に各一個ずつ割り当てられたロッカーへと走り、お道具箱のふたをぱかりと開けて中をしっちゃかめっちゃかかきまわす。
『これやる!じゃない、貸す!』
息せき切って駆けもどった康太に手渡されたのは全体が黄金色に輝くカード。
『これ……だって康太くんのっしょ?』
『貸すだけ!お守り!もってると元気になる!』
どういう理屈なのか、子供特有のひたむきさで主張する。
こないだ悦巳が貰ったカードをも凌ぐレア中のレアらしいのは最強の等級を示す黄金色と、表面に印刷されたフェニックスの神々しさで察しがつく。
『言っとくけど貸すだけだから……折り曲げたり汚したりしたら怒るぞ。ちゃんと返してくんなきゃやだかんな』
スモックの裾をぎゅっと掴んで下唇を突き出す。
あまのじゃくでへそまがりな康太なりの見舞いと励まし。
『………あんがとっす』
おしつけられたカードを丁寧な手つきでポケットにしまう。
『絶対返すから』
ふくれっつらでそっぽを向きつつ、ちらちらとみはなの様子をうかがう。悦巳と対話しながらも心はみはなの事で占められているらしい。悦巳と手をつなぎ遠ざかっていくみはなの姿を下駄箱のすのこの上で見送り、うってかわって気弱げに呟く。
『……またな』
「ほら、康太くんのお守りっす。これがあるから大丈夫っす、ゴールデンフェニックスが炎の吐息で風邪の菌をやっつけちゃうっす」
ベッドに寝かしつけたみはなに寄り添い、ポケットから引っ張り出したカードを枕の下にもぐらせる。
好きな人の夢を見たければ写真を枕の下に敷くといい。悦巳が小学校の頃に女子のあいだで流行った他愛ないおまじないだ。そんな効力も不確かなまじないに縋りたくなるほど精神的に追い込まれている。みはなの体調はどんどん悪化していく。さっきからずっと咳をしっぱなしだ。ごちゃついた冷蔵庫の中をひっかきまわし、お子様用咳止めシロップを一匙飲ませた。もちろん用量は守った。
傾けた匙から注ぐ甘いいちご味の薬を言われるがまま飲み干したものの、依然熱がさがる気配はない。
「お喉あついです……いがいがします……」
熱に浮かされぐずつく。扁桃腺の腫れが引かない。ぬるくなったタオルをこまめに取り替えつつ、つきっきりで経過を見守る。時計の秒針が動く音が神経を削る。
床に座りこみベッドに肘をつく。そばには砕いた氷を入れたボウル。
人の看病なんてしたことない。
ましてや子供の看病なんて。
子供が熱を出したときにどういう対処をしたらいいかなんて知識にない、どの科に診せればいいかもわからない。
小児科だろうとは思う。それとも内科?耳鼻咽喉科?小児科って何歳までオーケーなんだっけ、診てくれるのは乳幼児のみで幼稚園に通ってる子は対象外ってオチはないか、それじゃあせっかく行っても無駄足だ。悦巳自身殆ど病気を患ったことがない人間だ、こないだの風邪が生まれて初めての病気らしい病気だった。
医者と接した経験なんて小中高の学期初めの健康診断を除いて皆無、従って他人が病気になったらどこに連れていけばいいかもわからない、施設を出てから共に暮らした大志もまた殺しても死なないタイプのしぶとい生命力の持ち主でふたりして医者を遠ざけてきたのだ。
「近所の小児科つれてけって言ったって、場所とか名前とか教えてくんなきゃどうしようもねえじゃんか……」
言葉足らずの誠一を恨む。誠一はどうも自己完結しがちだ、人に命令するのは慣れていても根気のいる説明や話し合いには不向きなタイプだ。
受話器を置く寸前に自らの失態に気付いたが後の祭り、フックをがちゃがちゃやっても既に回線は切れていた。
あれから何度も掛け直しているが、応対にでた受付嬢は「社長は現在外出しています。お帰りの時刻は当方ではわかりかねます」の一点張りで埒が明かない。
しつこく食い下がってそこを何とかと懇願しても冷たく突き放され、「自分の娘の一大事にケータイも繋がんねえってどういうことだよ!」と怒鳴りつけ電話を叩き切った。
「………女にやつあたりして、大人げねえ」
自己嫌悪の泥沼が胸に広がる。
受付嬢を怒鳴ったって始まらない、無理言って責めたって事態は改善されないと理解していても、誠一の現在地も掴めぬ状況に加速度的に焦燥が募り行く。誰を頼ればいい?医者につれてくべきか?誠一の判断を仰いだ方がいいのか?
こんな時アンディがいてくれたら。
代わりに派遣された部下に手伝いを請うか?
決心し、腰を上げる。
にゅっと伸びた手が上着の裾を掴む。
「………どこいくんですか、みずはらさん……」
「みはなさん」
「いかないでください」
「ちょっとでるだけ、すぐ帰るから。わがまま言わないで待っててくださいっす」
「いやです」
「みはなさ~ん……」
「いっちゃやです―………」
立ち去る気配を素振りで察し、啜り上げるような涙声で引き止める。
こんな状態のみはなを一人放っておけない、自分がいない間に容態が急変したらどうする、行かないでと請う手を振り払って立ち去れるほど薄情じゃない。心を鬼にして振り払うべきか、ちょっとの間だけ我慢しろと噛み含めるべきかと迷い、結局座り込んでしまう。
「大丈夫、みずはらはどこにも行かねっす」
捨てられるつらさを知ってるから。
「ほんとうですか」
「まじす、まじっす。ずっとここにいるっす」
もう帰ってこないかもしれないという不安に苛まれつつひとり迎えを待つ心細さを知っているから。
今ここで行ってしまったら両親だけじゃなく悦巳にも見捨てられたとみはなは絶望する。
頭の中で優先順位をつける。
このあと医者に電話し予約をとりつけ部下に留守を頼んで戸締まりし、熱で朦朧としたみはなにしっかり厚着させお気に入りのミッフィー手袋も嵌めて……
「……いつ帰ってくるんだよ……」
他人ができることには限界がある、どんなに頑張ったってできないことがある。
父親が、家族がそばにいなきゃだめだ。
風邪をひいて苦しいときの一番の薬は額をなでる母親のあたたかい手、「大丈夫」の一言、真心こもった慰めの言葉。不在の母親の代わりに父親がすべき事を赤の他人の悦巳がすべて請け負っている。
「……っくしょう……」
口惜しさに唇を噛む。
どうして誠一は帰ってこない、娘が苦しんでる時にそばにいてやらない、仕事なんか放り出してすぐ帰ってくるのが父親の役目なのにそうしない。みはなの手を両手で握り返し、よくなりますようにと願をかけ、額に錐揉み押し当てる。
華より前に詐欺にかけた老婆がいた。
体調が悪いのを隠し悦巳とのおしゃべりを楽しんだ後日、肺炎になって病院に搬送されたと知った。伴侶を亡くして以来ずっと一人暮らしで近所付き合いもなく、体調を気にかけてくれる者など身近にだれもいなかった。
兆候はあったのに。
変な咳をしてると思ったのに。
「………いつかとおなじじゃねえか……」
いつまでもやまない咳と耳にこびりつく苦しげな息遣い。
違うのはただひとつ、悦巳は今ここにいるということ。
まだ手遅れではないということ。
みはなの呼吸が比較的落ち着いたのを確認後、それまで握り締めていた手を布団にもどして腰を上げ、チェストの引き出しをかき回し保険証をさがす。
呑気に帰りを待ってる場合じゃないと吹っ切れ、いつまでたっても帰ってこない父親の代わりにみはなを医者に診せる決断をくだす。
今度こそ手遅れになる前に。
後悔しないように。
「~っ、せめて何段目か言っとけよ……!」
一番上の引き出しにコルクの裏張りの写真立てが伏せられている。
一瞬それが何か理解できず裏返す。
今より少し若い誠一が、いた。
「………誠一さん……と、みはなちゃんか」
親指で誠一の顔をつつき、下にずらして赤ん坊に添える。
「隣は………」
栗色がかった髪をシニョンに結った若い女性が、赤ん坊を抱いて笑ってる。
かっきりと弧を描く細い眉、意志の強そうな切れ長の双眸、人形のように整った秀麗な面差しに既視感を抱く。
完璧に化粧を施した容貌は、幼いながらも目鼻立ちが秀でお人形みたいと褒めそやされるみはなに似ている。
「みはなちゃんの母親……」
今より若い誠一と妻がごく自然に寄り添う。
美男美女お似合いの夫婦だ。
誠一はがらにもなく緊張してるのかやや強張った顔つきで、妻は自分のしあわせを世界中にアピールするように朗らかに笑い、まだ赤ん坊のみはなは誠一のネクタイを口にもってって涎まみれにしている。
「奥さんすっげえ美人じゃん……はは、別れちゃってもったいねえ」
微笑みのイメージが冷蔵庫の中身に結びつく。
最新型多機能冷蔵庫の中に詰まった豊富な香辛料、産地直送の高級食材、前妻が家庭のそこかしこに残した数々の痕跡。
「美人で料理上手でビーフストロガノフやパエリヤとかカタカナ横文字の洒落たもんばっか作ってくれる奥さんなんて最高じゃん、何が不満なんだよ一体、なんで別れたんだよ、仲良く写真に写ってるくせして……」
お手上げだ。割り込む隙が見つからない。
お前の居場所はここじゃないと思い知らされ絶望で足元がぐらつく。
どうしてショック受けてるんだ。
誠一が引き出しの一番上に大事に写真をしまっておいた事実に、まるで隠すようにとっておいた事実に、ホテルの中庭で悦巳に抱きしめられた時に垣間見せた照れを妻の隣であたりまえに見せてる事実に?
「……んだよ………」
俺は奥さんの代わりか。
「こんなカオできるんじゃんか」
居心地悪そうな、照れたような、はにかむような。
家族がいるしあわせに慣れないせいで上手く喜べず戸惑う顔。
俺の存在意義ってなんだ?
俺がここにいる意味ってなんだったんだ?
あんたに認めてほしくて褒めてもらいたくて家事炊事洗濯尽くして尽くしてだけど報われずくさって、あんたには奥さんが大事な人がいて今でもその人を忘れられず後生大事に諦め悪く未練たらしく家族写真を持ち続けてる『愛想を尽かしてでてった』よく言う、よく言うよ、未練たらたらのくせに『あんな女どうなろうが知らん』愛想を尽かしたのはあくまで妻であって裏を返せば愛想が尽きたと明言してない誠一は消えた妻を愛してて
愛してる?
じゃあ、俺は?
俺ってなんなの、誠一さん。
写真立てを放り込んで引き出しを閉める。
布団の端を掴んで今まさに起き上がろうとしたみはながびくりとする。
「…………氷枕作ってきます」
口を開き、何か言いかけたみはなに背を向けて逃げ出す。
ドアを開け放ち閉めてまたドアを開けて台所へすべりこみ、冷蔵庫の下段を開け、製氷皿の氷をざくざく攪拌する。
「氷枕……そうだ、肝心の枕がなくちゃ。どこだっけ、どっかにしまってあるはず」
スコップですくった氷を一旦ボウルに移し、背中側のシンクに運んで蛇口を
「!!―うあっ、ちょ」
スリッパの底面がつるりと滑る。
両手が塞がっていたせいで受け身もとれず転倒、ひっくり返ったボウルから氷がぶち撒かれて床一面に散乱する。
しこたまぶつけた肘と額がずきずき疼く。
生理的な涙で霞む目を瞬き、無理して笑う。
「………あはは……ばかやってんのー………」
擦り剥いた肘より胸が痛い。
喪失感と失望できりきりする。
ぽつねんと四つん這い、勝手にたれてくる洟水を袖で拭い、床一面にぶち撒けた氷をのろのろかかき集める。
みはなちゃんが待ってる。
早く戻んねえと。
きつくつむる瞼の裏に焼きついた一枚の写真。
みはなの一大事に写真が暗喩するもので比重が占められつつある頭を呪い、痙攣する喉から嗚咽じみた笑いを零す。
泣き崩れる寸前に保つ虚勢に似ていびつに笑う。
「……あんたさあ、反則。ずるいよ」
思い上がってたのは俺か。
俺が悪いのか。
ひょっとしたら家族になれるかもなんて夢を見て、縋って
たかが写真だ。たまたま捨て忘れたのだろう。
いや違う、嘘をつくな、気休めはやめろ。
誠一と暮らしていた相手の痕跡がそこかしこに生々しく残ってる、扉や引き出しを開けるたび知らない人に出会う、冷蔵庫の中にもクローゼットの中にも戸棚の奥にもその人は居る、写真の一枚や二枚あったって何もおかしくない、彼女が誠一と暮らした歳月は悦巳が誠一やみはなと暮らした時間よりずっとずっと長いのだ、むかし撮った写真が残ってたっておかしくないだろう、チェストの引き出しの一番上いつでも取り出せる場所にしまってあったのだって
扉が開く。
荒々しい靴音とともに廊下をのし歩いてきた人物が台所のドアを開け放ち、惨状に目を剥く。
「帰るのが遅れた腹いせに氷をぶちまけたのか?」
「……すっげえ遅かったっすね」
振り向きはせず、氷拾いを続行する。おかえりなさいは省く。
「……いま、夜の七時すぎっすよ。昼間電話したのに……早く帰ってくるって言いましたよね、たしか」
「……確約はしてない」
振り向かない。振り向けない。振り向くのが怖い。
どす黒く膨れ上がった怒りが理性を蚕食し、紡ぐ声音は低く抑揚を欠く。
「自分の子供より仕事が大事なんすか。そっちを優先するんすか」
「みはなはどうしてる」
「ベッドで寝てるっす。咳こんこんとまらなくて、苦しそうで……ちょっと落ち着いたけど」
「医者には診せなかったのか」
「どこの医者行けばいいんすか。場所は?病院の名前は?聞く暇与えず電話切ったのだれっすか」
せっかく誠一が帰宅したのに、待ち侘びた喜びはどこかへ消し飛んでしまった。
「一方的にあれしろこれしろ命令して、こっちだって色々聞いときたいことあったのに聞く暇くんなくて、みはなちゃんのこともっと真剣に心配したっていいのに落ち着け悦巳落ち着けって馬鹿の一つ覚えみたいにくりかえすばっかで」
「悦巳」
「今の時間までどこで何してたんすか」
早く帰ってきてくれと頼んだのに。
今日だけでいいから父親らしくしてくれと頼んだのに。
「最初の電話から何時間経つと思ってるんすか。もう夜っすよ、外真っ暗っすよ。せめて夕方に帰ってくるのがフツウっしょ」
「……仕事だ。お前に説明する義理はない」
またか。
またそれか。
もういい加減うんざりだ。
捌け口をふさがれた怒りと不満が急激に内圧を高めていく。
「女っすか」
「は?」
「みはなちゃんほったらかして女といちゃついてたんすか。香水の匂いぷんぷんさせてご帰還っすか」
誠一が台所に足を踏み入れた時から漂っていた香水の匂いに顔が歪む。
香水などつけない誠一の体が匂うのは残り香を移されたから。
誠一が浮気するはずないと今は擁護できない、悦巳で性欲を処理する男が女遊びをしないと言い切れるかよそに相手を作らないと断言できるか、妻に去られた寂しさを癒すならむしろ女の方が適任じゃないか?
どうしたんだ。
まるで嫉妬だ。
息が吸えず苦しくなる。
「浮気してたんすか。誠一さん、冷たいっすもんね。どうなってもよかったんすか。仕事終わっても女といちゃついてるほうが楽しかったんでしょ、そんで帰ってこなかった、違いますか」
「馬鹿を言え」
「じゃあなんでこっちくるんすか」
背後から怪訝な気配が伝う。悦巳は淡々と言う。
「帰って真っ先に覗く場所ちがうっしょ。台所じゃなく寝室覗くべきっしょ」
「うるさい音がしたからお前がこっちにいると思って」
振り返りざま手にしたスコップをぶん投げる。
「うんざりなんだよ!!」
足元に激突し大量の氷をばら撒くスコップに面食らう誠一、その胸ぐらを掴む。
「こんなとこでぼけっと突っ立ってんじゃねえよ、父親だろあんたどうして真っ先に娘の体心配しねえんだよ、俺が悪い?悪くねえよ、悪いのはあんただ、今朝だってあんたがキスしろとかくだんねえことで引き止めっからみはなちゃんの様子ヘンなの気付かなかった、なあなんで帰ってこなかったんだよみはなちゃんが大変だって昼間電話で話したろ、あれマジだったのに―……っ、俺がばあちゃんだました嘘つきだから信じてくんなかったのかよ!!」
爛々とぎらつく目で睨みつける。
「女といたのかよ?キャバクラで接待?いいご身分だよな社長さんは、ワンコみてえに帰り待ってた俺ってばすげー馬鹿、みはなちゃん熱が38度まで上がったんだ、汗びっしょりで二回もパジャマ取り替えたんだ、あんたその間どこで何してたか言えよ、俺の目え見てちゃんと言えよ!!」
誠一は違うと思った、悦巳を捨てた親とは違うちゃんと娘を愛してるとそう信じたかった、父親の自覚があるようでないようなこの男でも一人娘が熱にうなされ苦しんでる時に遊び歩いたりはしないだろうと信じた結果がこれだ、このザマだ、誠一は悦巳の信頼に失望を返し期待には裏切りでこたえみはなへの愛情などこれっぽっちもないと証明した。
噛みつくような剣幕で極端に顔を近づけ糾弾する。
「これまで帰りが遅れたのだってホントに仕事かわかりゃしねえ、大企業の社長さんともなりゃ接待づけの毎日だもんな、仕事を口実に夜遊びし放題で羨ましいぜ」
背広の前襟を掴みにじり寄り、荒れ狂う激情に任せ一方的に責め立てる。
「子供が心配じゃないのかよ!」
「……心配じゃないとは言ってない」
「じゃあどうして帰ってこなかったんだ!」
「都合がつかなかった。それに……信用していた」
「誠一さんの信用は逃げの言い訳にしか聞こえねっす!」
「働いてないやつに経営者の苦労がわかってたまるか、今日会ったうちの一人ははるばるこの日のためにスウェーデンから来日したんだ、娘が風邪をひいたから一日限りの滞在で飛行機に乗って帰れというのか!」
「俺だって働いてるっす、誰が家のこと全部やってると思ってるんすか、自分じゃ下着一枚洗わねえくせに!」
「詐欺でラクして稼ぐのは働いてるとは言わん!」
頭を殴りつけられたような衝撃が襲う。
誠一の本音を知り、泣いてるとも笑ってるとも怒ってるともつかぬ表情で問い返す。
「そんなふうに思ってたんすか……」
激しく口論しつつ互いをなじりつづけた二人のあいだに沈黙が訪れる。
「……どこ行ってたんすか?言えないようなとこっすか。尻の軽い女の子膝に乗せていちゃいちゃパラダイスなハーレムに特別出張」
「妻と会っていた」
虚をつかれ耳を疑う。
たった今誠一が放ったセリフをよくよく噛み砕き反芻し、浸透を待ってたどたどしく問う。
「………奥さん?誠一さん、の」
「ああ」
「だって消息わからねえって、別れたはずじゃ」
「昨日日本に戻ってきたそうだ」
「外国行ってたんすか……」
「フランスにな。バリスタをめざし本場で修業していたそうだ」
『おかあさんはスターになったんです』
『妻は星になった』
「バリスタ、スター、星……だじゃれかよ!」
種明かしに脊髄反射で突っ込む。
まだ幼いみはなが母の行方を尋ね「バリスタになった」という父親の言葉を独自に解釈したのが勘違いの発端。詳しい説明と詮索を疎んじた誠一もまたそれに便乗し、悦巳の大いなる勘違いをあえて否定せず放置した。
妻に言及した際の誠一らしからぬ感傷的で婉曲な表現はブラフだったのか。
揉みくちゃにされた背広の皺を伸ばしがてら誠一がため息をつく。
「バリスタ修行がひと段落ついて一時帰国だ。むかしから熱狂的なコーヒー党で俺とは相性が合わなかった」
「まさか離婚の原因て……」
「もちろん違う」
「奥さんと会ってたから帰りが遅くなったんすか」
「ああ」
喉が異様に渇く。
写真の女性がにわかに輪郭を鮮明に濃くし、生身の存在として瞼の裏に像を結ぶ。
「何を話してたんすか」
静かに問う。空気がはりつめる。
あとじさった拍子に踏みつけた氷が砕け散る。
「こんな時間まで長引く話って何すか」
誠一と睨み合う。激しい感情を込めた視線が削り合う。
いつもの覇気が失せどこか虚脱したように立ち尽くし、悦巳の凝視に倦んで横を向く。
「みはなを返してくれと言われた」
全身の血が凍りつく。
現実感が希薄になり眩暈が遅い視軸が歪曲し、正面に立ち尽くす誠一まで果てしなく開いた距離を感じる。
「……オッケーしたんじゃないっすよね……」
足がふらつく。膝が片方おちる。今にも折れそうな気力を振り絞って辛うじて自重を支える。
「保留にした。今日中には決められん」
保留?
今日中?
何を言ってるんだこの男は。
えっちゃんの愛称をかなぐり捨て、すさみきった顔つきで向き合う男を睨む。
「……返すとか返さねえとか、みはなちゃんは物じゃないっしょ」
「夫婦の問題に口をだすな」
「うわ、すっげーテンプレ台詞。びびったあ、ここまで巻き込んどいて今さら口出しすんなで他人のふりっすか」
「他人だろう」
そうだ、他人だ。けれど誠一よりよっぽどみはなの事を考えている、みはなのこれからを心配している、子供をやるやらない返す返さないと物の譲渡のように語り合う身勝手な両親の何倍もみはなを思っている。
しかめつらに不快感とも徒労感ともつかぬ倦怠を漂わせ、手の行き先を決めかねて腕を組み、誠一は続ける。
「よくよく考えたが、やっぱり子供と一緒に暮らしたいそうだ。勝手な事を言ってるとはわかってる、けれど何年か離れて暮らして自分がいかにみはなを大事に思ってるか気付いた、知己の援助を得てバリスタとして再出発する目処が就いたからみはなを引き取る、経済的には不自由させないと約束」
「誠一さんは?」
切り込むように鋭く問う。
「みはなちゃんが、娘が奥さんに引き取られて外国行っちゃってもいいんすか。一緒に暮らせなくなっても構わないんすか。二度と会えねーかもしんねーのに」
伏せた双眸が複雑な感情に翳る。
挑む意志を秘めた凝視に舌打ち、内心の葛藤や苦悩を透視されるのを防ぐようにきつく腕を抱く。
「俺の子じゃない。美香……妻とどこかの男の子だ」
漸く不自然な態度に合点がいく。
みはなが妻と浮気相手の間にできた子なら育児に関心が薄いのも納得いく。
納得がいくのは事実の上っ面をなぞっただけだから。
「ホントなんすか、遺伝子鑑定とかしたんですか」
「必要あるか?家をでる前にはっきり断言したんだ、みはなは俺の子じゃない、血は繋がってないと。当時二股をかけてた相手の子だと」
「奥さんの言葉を鵜呑みにしたんすか」
慎重に確認をとる。
誠一が露骨に不信感を顔に出す。
「子供ができたから渋々籍を入れた、財産めあてと考えれば辻褄が合う。日本にもどって親父の会社を継ぐかどうか揉めてた時期だ」
「わかんねっすよそんなの、医学的に確かめたわけじゃないんでしょ、証拠なんかどこにもねっすよ!!」
みはなが誠一の子供じゃないという疑惑を躍起になって否定する、医学的な根拠はない、真実だと積極的に支持するに足る根拠が見付からない代わりに嘘だと否定する根拠もない、しかし悦巳は信じない、血の繋がりがないならどうして
「誠一さんとみはなちゃんそっくりっすよ、癖だって親子一緒っすよ、なんか気に入らねえことあると無言でぶすっとしてこっち睨む、テーブルの椅子引く時は必ず右手から、トーストの食べかすは手のひらですくって皿にもどす、ほらそっくりっしょ、親子っしょ!」
「こじつけじゃないか。第一、顔が似てない」
「目つきとかすっげえ似てるって、いつもぶすっとして不機嫌で可愛げなくて口ほどにものを言う」
我を忘れしがみつく悦巳を邪険に突き飛ばし、氷が散らかった床にしたかか尻餅つくのを見下し、うっそりと―……悦巳が一方的に取り乱し喚き散らす茶番に退屈しきって口を開く。
「欲しくて作った子供じゃない」
『おとうさん、おかあさん』
「引き取りたいというならくれてやる」
『どこいっちゃったの』
勝手に体が動く。
床を蹴り加速のち跳躍、意味不明の奇声を発し全力で腕を振り抜き体重を乗せた拳を放つ。
体を斜めにして受け流すと同時に巧妙に足をひっかけ、半ば溶けかけた氷の上につんのめった悦巳の上着の後ろを掴んで投げ飛ばす。
―「てめえそれでも親か、くそったれ、くたばっちまえ!!」―
―「文句があるなら出てけ!!」―
勢い良く腕を振り抜き、財布から毟り取った札束を盛大にばら撒く。
視界を覆う紙幣にけつまずく悦巳の腕を鬱血するほど掴み、開け放ったドアから冷え切った廊下へ投げ出し、口ぱくつかせる顔を追加の札束で張り飛ばす。
「契約解消だ。どこへなりとも行ってしまえ」
「は?」
「俺に噛みつく家政夫はいらんと言ってる。退職金を持って出てけ」
ぶたれた頬がじんじん疼く。
札束の物理的な重みじゃなく、突如としてつきつけられた解雇宣告の重みで。
「みはながいなくなればどのみちお払い箱だ。それだけあれば一ヶ月は保つだろう」
「誠一さ、」
「さんづけするな、不愉快だ。赤の他人がでかい顔して俺の生活をうるさくかきまわすんじゃない、目障りだ。いつから俺に説教できるほど偉くなった?勘違いするなよ家政夫の分際で、俺の祖母を騙したのは誰だ、多くの年寄りを騙して不幸にしたヤツがマンションに匿われ安穏と暮らせたのは誰のおかげだ、自分がいかに贅沢に平穏に暮らせてたかわかりもしないで口だけは達者に文句を言う、こっちこそうんざりだ」
震える手を握りこみ、開き、床につく。
指が切れそうな紙幣をのろのろとかき集め、数えもせずポケットに突っ込む。
「金が尽きたら売春しろ。下手なフェラチオでも使い道はある。素人っぽいほど喜ぶ奇特な客もいるしな」
顔を上げる勇気が湧かない。
感情が麻痺して何も感じない。
哀しみとか怒りとか幻滅とか喪失感とか、ぽっかり空いた穴に吸い込まれて何も感じなくなってしまった。
どこで選択を間違えた?どこで失敗した?
自分なりに一生懸命やってきたのにどうしてこうなる、間違ったことは言ってない、俺は間違ってない、おべっか使うのも嘘をつくのもいやだから本音を叫んだ、本当のことを言った。
俺はもう詐欺師じゃないから、この人にだけは嘘をつきたくないから本音をぶつけたのに
寝室の扉に隔てられみはなの咳が遠く聞こえる。
這い蹲る床の冷たさが骨身に染みていく。
室内の明かりを背に影絵の如く仁王立つ誠一の足元に突っ伏し、かすれきった声を絞る。
「……お世話になりました」
折り曲げた指の狭間でぐしゃりと紙幣が潰れる。
他に何が言える。悦巳はクビにされた。意志は固く決定は覆らない。間違った事はしてない、だから見苦しく食い下がりも追いすがりもしない、廊下で見苦しく騒ぎ立て同情を引いたりは絶対しない、熱と咳に苦しむみはなに異状を悟らせるようなまねは絶対に。
残り一枚の紙幣を無造作に突っ込み、監視する誠一とはけっして目を合わせず、暗闇が押し包む廊下を突っ切って踵の潰れたスニーカーに足をもぐらせる。
踵を突いて靴を履き、深呼吸して喉のつかえをとり、言葉を放つ。
「……今日は夕メシ作る暇なくって、昨日の残りの煮物が冷蔵庫に入ってるから、レンジでチンして食ってください。みはなちゃんも食欲ねえって言ってたから……おじや作ろうか迷ったけど汁気のあるくだもののがいいかなって」
誠一は返事をくれない。
ただ黙って悦巳の言伝を聞いている。
聞き流している。
「……誠一さんでもりんごの皮くらい剥けるっしょ?うさぎさんにしろなんて無茶言わねえから、みはなちゃんが喉乾いた、おなか減ったって言いだしたら……ミッフィー絵皿に盛って……その、もってってやってほしいかな、なんて。お願いしちゃいますね」
エプロンの紐を解きながらおどけてつけたす。
最後まで言い終えた満足感は沈黙に飲まれて消え、間違っても顔を見られないよう玄関の扉に凝視を注ぐ。
「じゃ」
暗い玄関でエプロンを取り払う。
「さよなら」
贈り物のエプロンを突っ返し、拉致された日と同じ灰色のスウェット姿で家を出て行く。
悦巳が投げたエプロンはひらひらと緩やかに虚空を滑り、電気の消えた玄関と廊下にドアが閉じる音が響き、残響が消える頃になって誠一の足元まで運ばれてくる。
ドアが閉まる余波に吹かれて廊下を滑ってきたエプロンを拾い上げ、じっと見つめる。
「………」
ヘアバンドの似合う陽気な青年の体温と匂いが乗り移ったエプロンを握り締め、無表情に呟く。
「……りんごの皮など剥けるわけがないだろう。馬鹿」
ともだちにシェアしよう!