26 / 34

第26話

 「なんで………」  絶句。  「なんできちゃうんですか!!」  罵声を受け流し、おどけて肩をすくめる小金井。  顔にははにかむような笑み。  「ご挨拶だなあ。東ちゃんが電話くれたんじゃん、会いたいって」  「会いたいなんて一言も言ってないです、どうしてあんたはそう自分の都合いい方いい方ばっか解釈するんですか、プラス思考にうんざりです!!」  たとえ事実だろうが否定する、本音をひた隠す、だって今認めたらこれまでぼくが必死に守ってきたもの保ってきたものが均衡とれず崩壊する。  がらがらに嗄れた聞き取り辛い声で、喉を痛めつけるようにして叫ぶ。  なんでやってきた小金井、ほうっといてくれと一心に念じた、それは虚勢で強がりで本当は来てほしかった。ぼくのせいか?身の程知らずにまた会いたいと思ってしまった、助けてほしいと縋って祈ってしまった、だから来たのかここに?  小金井は笑う。  あんまりにもいつもどおりで、胸の痛くなるような笑顔。  たまらなくなる。  激情の水位が急上昇、抑えた声で言う。  「ぼくにあんなことしといてよくぬけぬけ顔出せましたね、神経おかしいんじゃないか、あんた……次顔だしたら警察突き出すって言ったのに」  あんなこと。フラッシュバック。  風呂場にたちこめる濛気、手を付かされたタイルのぬれた感触、後ろ向きに突っ込まれ揺さぶられ激痛に泣き叫んだ。  「二度と会いたくなかった、顔も見たくない、あんたのせいで風邪ひいて寝込んだ、まだ熱がある、あんだけ言ったのにどうして来るんだよ、ぬけぬけ現れるんだよ、もういいよ帰れよ、帰れよ!!」  帰ってください家族のところへ  まだ間に合う、手遅れにならないうちに、あなたを必要としてる人たちのところへ帰ってください  「彼女いるくせに、家あるくせに、どうしてぼくなんか構うんだよ?一度出てったくせにどうして戻ってくんですか、今日からあんたのこと出戻りヒモって呼びます、決定です、この出戻りヒモ!いやなら帰ってください、逃げてください、八王子にあんたの居場所なんかないんだから勘違いしないでください!!ーっ、もうぼくとは何の関係もないんだから、たかが一ヶ月居候させただけの関係でしかも解消済みだ、最悪の別れ方をした、こっちは小金井さんいなくなってせいせいしてるんです、部屋も快適に広くなったし一日中ぶっ続けでゲームしても文句言われないし食事で中断されなくてすむしエロゲに熱中できるし」  小金井がいなくなってよかった、ああほんとよかったせいせいする、何もかも晴れて元通りぼくはまたオタクライフ満喫できる、ぼくにはザクがキュアレモネードがモリガンがリリスがいる、二次元という最強の味方がついてる、ひとりぼっちでも寂しくない、小金井なんかいらない、のしつけてララに送り返す。  「なん、で……」  送り返したつもりだったのに。  なんで、こんな最悪のタイミングでもどってくるんだ。  「電話……声、聞いて……ゲ、ゲンメツしたでしょう……かっこ悪……恥ずかしい……男の人にしごかれて、息上擦らせて、喘いで……」  小金井に聞かせたくなかった。  携帯ごしに痴態を聞かせた羞恥に顔が染まり、小金井をまともに見れず、唇を噛む。  「会いたくなかった……消えちまえ」  力なく憎まれ口を叩く。  小金井が少し肩をすくめ、冗談ぽく頬をかく。  「だって、きちゃったもん」  「おしゃべりはそこまでだ。ブツは持ってきたか」  森は必要最低限の言葉しか口にしない。寡黙さは自信と実力の表れか。  鉄面皮は相変わらずで、小金井と向き合えば異様な存在感がいっそう際立つ。  底冷えするような凄みを利かせた目つきと、太いバリトンで問う森に相対し、小金井はポケットは後ろ手に隠し持ったなにかを突き出す。  ハンドバック。  「この中だ」  正面まで来たチンピラが無造作に手を伸ばすのを見計らい、ひょいとハンドバックを引っ込め、不敵に交換条件を提示。  「東ちゃんが先だ」  「取引できる立場か、リュウ。まわりを見てものを言え」  森が言う。  チンピラたちが布陣を敷き、じりじり摺り足で距離を狭めてくる。  面白半分にぼくをいたぶっていた時とは一変、緊張を孕んだ殺気が漂う。  「倉庫に来た時点で敗けを認めたんだよ、お前は。多勢に無勢って日本語、知ってんだろ」  「こがねいさん……」  むなしく名前を呼ぶ。  5メートルを隔て対峙する森から床に這うぼくへと視線を転じ、小金井がちらりと微笑む。  優しい笑顔。  自分の不利をけっして悟らせまいとする気遣いが滲んで、いっそ痛々しい。  再び森につきつけた視線は、剃刀の鋭さを帯びていた。  「………指一本さわんなって言ったよな」  「…………」  「約束、破ったのか」  「した覚えがない」  「あんたはそういう人じゃないとおもってた。ヤクザって義理堅いんじゃなかった?」  「仁義を大切にしてたらいまどきヤクザなんて商売できんさ」  さんざん殴られ蹴られボロ屑同然と化したぼくを、痛みを堪えるような表情で見詰める小金井。  そんな顔、しないでほしい。  「……まあ、こいつの件に関しちゃ俺が目をはなした隙に若い連中がはしゃぎすぎたようだが」  森が付け足し、背広のあわせを探って煙草をとりだす。  すかさず右隣の子分が手で囲いライターをさしだし着火、その音で反射的に身が竦む。  「ひっ」  鷹揚に紫煙をくゆらしつつ、酷薄な目で一瞥くれる森。  ザクを懐に抱き身を丸め震える。  穂先に点るオレンジ色の火、鼻先に漂う紫煙、手のひらがじくじく痛みだす。  森が片手に煙草を摘み、悠揚迫らぬ物腰でぼくのほうへ歩いてくる。  底冷えする眼光でチンピラを追い払い、ぼくの手首を軽く蹴り、手のひらを上に向かせる。  「!!」  小金井が驚愕に目を剥く。  手のひらに一点穿たれた黒こげの穴。生々しい拷問の痕跡。  肉眼で確かめるのを恐れ、目を背け続けていた火傷の傷口が外気に晒され、小さく悲鳴を上げる。  「………てめえら………」  軽薄な笑みを払拭し憤怒の形相へ豹変、闘気を漲らせる小金井。  ぼくが何をされたか悟ったのだろう。  「いじめるといい声で鳴くんだ、こいつ」  「お前にも聞かせてやりたかったぜ、こいつの悲鳴と歌声。さっきまで大声でアニソン唄わせてたんだ」  チンピラの一人が野卑に唇の端をめくり、もう一人が調子に乗ってぼくの尻を蹴る。  手首に体重がかかる。  「!!痛ッあああああああっ、」  森がぼくの手首を踏み、煙草の先をトントンと叩き、手のひらの上にわざと灰を落とす。  熱い灰が丸い火傷の上にまぶされ、痛みに仰け反る。  「ブツが先だ」  「……………」  「お友達の手に穴が開くとこ見たいか?マスかくとき不便だが、お前が手伝ってやるってんならそれもいい。まずズボンを下ろすとこからな」  うっそり韜晦を含む声色。  物騒な台詞とは裏腹に、退屈げな顔は変わらない。  裏社会を生き抜いた年季を感じさせる物腰は、チンピラが束になってもかなわぬ貫禄を備え、小金井を圧倒する。  「……………わかった」  諦念の吐息。  小金井がハンドバックを小脇に挟みゆっくり歩き出す。  「やめ………あうっ」  ぎりっと靴裏をねじこまれる。  一瞬、小金井の目に激情の嵐が荒れ狂う。  小金井と森が向き合う。ハンドバックを手渡す。  ハンドバックのチャックを開け、手を突っ込み、白い粉末入りパックをとりだす。  あれがクスリ……覚せい剤か。  「ちゃんとあるな。拳銃も」  「ああ」  小金井が頷く。  納得してないのかしてないのか読み辛い無表情のまま、子分にハンドバックを手渡し詳細な検分を任せる。  森と向き合い、真剣な面持ちで口を開く。  「東を返してくれ。……そいつは関係ないんだ」  関係ない。  その言葉が、胸に突き刺さる。  小金井はぼくの方を見ず、挑むようなまなざしで森を見据え、淡々と言う。  「あんたたちは誤解してる。俺とこいつはなんでもない、ただ一ヶ月一緒に暮らしただけの関係だ。あんた達から逃げる最中……山手線ぐるぐる回ってる時、見付かりそうになって、あわてて葉原で降りて、そこで偶然知り合った。カモがザクしょって歩いてきたって思った。ほら、見るからにいじめられっ子タイプでしょ?免許証巻き上げて強引に押しかけて、次の行き先決まるまで、時間稼ぎに利用したんだ」  「……女は虱潰しにあたった。だが誰も行方を知らなかった」  「酷いことしなかったよな?」  「女をいたぶる趣味はない」  緊迫した駆け引き。森は深々と紫煙を一服する。  「……フェミニストだな、お前。自分を匿った女に迷惑かかるの恐れて、誰んとこにも長居せず逃げまくって。おかげで手こずった。長くて二・三日で出てく、行き先も告げず。女のほうも不思議と悪く言わない、どうかするとかばう始末だ」  「人徳だね」  「ヒモのか?」  森が煙草の灰を叩いて落とし、目にかすかな疑問の色を浮かべる。  「どうして今回は一ヶ月も長居した?とっとと出てけばよかったんだ」  「………色々都合があるんだ」  「特別居心地よかったのか?」  「いいだろ、もう………そいつは放してやれ。ご覧のとおり、俺とはまったくもって関係ないんだからさ。オタクとヒモがつりあうわけねーよ」  小金井がふざけて両手を広げる。  森が片頬を歪める。  「これから自分がどんな目にあうかわかってんのか」  「半殺しですめばいいけどね。……希望は持たないでおく」  「小金井さん!!」   我慢できず叫ぶ。  小金井は振り向かない。  「……正直、逃げ回んの疲れた。煮るなり焼くなり好きにして」  「いいのか?」  「俺が馬鹿だったんだ。組を敵に回してボロ儲けなんて上手くいくはずねーのに夢見て……はは、笑っちゃうね。馬鹿な夢見たせいで破滅に一直線、耕二もざまあみろって地獄で笑ってる」  耕二。  小金井の友達。施設から一緒だった悪友。  「もういいよ。……いいんだ」  「小金井さん!!」  どうしたんだ、こんな消極的な小金井らしくない、ぼくの知ってる小金井じゃない、ぼくが知ってる小金井はいつも大胆不敵で、前向きで、後ろ向きなぼくを明るく励まして、間違ってもこんなふうに従容とうなだれたりしない。  「一ヶ月、生きた心地がしなかった。俺さ、びびりだから。向いてなかったんだ。わかってなかったんだよ、自分で……自分がとんだ腰抜けだってこと。その場のノリでクスリと銃持ち逃げしたまではよかったけど、後の事、ぜんぜん考えてなかった。たまたま金に困ってて……あれ売ったら遊ぶ金できるかなって、軽く考えて……」  小金井はナンパに笑う。さすがに表情は力ないが、見た感じ、ヤクザに取り囲まれリンチにかけられようとしている悲愴感危機感とは無縁だ。  その笑い方が喧嘩を売ってると映ったか、チンピラどもが気色ばみ、間合いを詰める。  いよいよリンチが始まる。  ぼくが受けた暴行が子供だましに思えるほど容赦ない私刑が  「小金井さん!!」  「気持ち悪いから話しかけんなよ、オタク」  小金井が振り向きもせず言う、突き放す。羽交い絞めにされたぼくの視線の先、突っ立つ小金井とチンピラが接触するー……  「なんだこりゃ、小麦粉じゃねえか!!」  一同、そっちを凝視。  森から渡されたバッグを掴み、袋を破いて粉をひとなめした子分が、みるみる憤怒の形相へと変わる。  「リュウ、てめえ……どこまで馬鹿にすりゃ気がすむんだ……?」  「へたな小細工が組に通用するとおもったか」  「本物の粉はどこか吐け」  子分が腹立ちまぎれに力いっぱい袋を床に叩きつけ、濛々と粉塵が舞い立つ。  「ばれちゃった。あんた達単純そうだからイケるかなって」  続きをさえぎり鉄拳がとぶ。  顔面にパンチが炸裂、小金井が勢いよく吹っ飛ぶ。  「あ、ああっ」  尻餅ついた小金井をチンピラたちが取り囲み殴る蹴るの暴行を開始、一人がみぞおちに蹴りを叩き込む、腹を庇って仰け反る小金井をすかさず蹴りが襲う、一人が前髪を毟り顔を上げ往復ビンタをくれる、今度は胸に蹴りが炸裂、苦しげに咳き込む小金井によってたかって拳を振るう。  「げほっ!!」  一方的な暴力、サディスティックな熱狂、愉悦。倉庫内の空気が熱膨張したような錯覚。小金井が仰け反る、咳き込む、喘ぐ、呻く、突っ伏す、そこへ容赦なく降り注ぐ靴裏。蹴る、蹴りまくる、相手が無抵抗なのをいいことに有利な多勢を嵩にきて圧倒的な優位を振りかざしたった一人を嬲りものにする。  思い出す、かつて教室で行われた事。  クラスメイトの哄笑がチンピラヤクザのヒステリックな笑いに被さって三半規管に渦巻く。  「気絶すんのは早いぜ、起きろよ」  チンピラが前髪を引っ掴み無理矢理顔をあげさせ、唾とばし怒号を放つ。  「前から気に入らなかったんだよお前は、要領よくて上に可愛がられてるくせに組抜けてるとか言い出してさ、ちょっとばかし女にモテるからっていい気になってんじゃねえぞ!!」  「どのみちおしまいだよ、耕二の二の舞だ、残念だったな、逃げ切れるとでもおもったのかよ!?」  「痛ッあぐ、あがっ、がほっ」  前髪を持って乱暴に揺さぶる、何本か毛髪が抜ける、鎖骨に蹴りが炸裂し全身を痙攣させるようにして呻く、肋骨が軋む、体重かけた靴裏でごりっと腕を踏みにじられ声にならない声で絶叫波長が空気を攪拌、鬱血した瞼が倍も腫れあがって片目を塞ぐ、唇の端が切れ血が滲む、鼻血がたれる。  首元のドックプレートが引きちぎられ宙に舞う、床に落ちる、ぼくの足元に落ちたそれを森が踏む。  「いいざまだなリュウ、どうした、抵抗してみろよ、喧嘩強いんだろ!?」  「んだよびびってんのかよだらしねえ、オタクに感化されて腰が抜けちまったかあ!?」  「一ヶ月一緒に暮らしたせいでへタレが感染したんだろ、一発ぐらい返してみろよ、やられっぱなしでいいのかよ!」  背中からダンボールの山に激突、騒音をかなで埃を舞い上げ崩壊するダンボールに埋もれる小金井、しかし倒れこむのを許さずチンピラが胸ぐらを掴みひきずりおこす。  「ははっ、色男が台無しだなリュウちゃ~ん」  「お前の持ち逃げであいた穴どうやって埋めんだよ」  「女ならソープに沈めっけど野郎は使えねえな、いっそハードゲイビデオにでも出演して体で稼ぐ?」  「いいね名案、そこの眼鏡と絡ませて高値で売るか!?」  巻き舌の恫喝、あからさまな揶揄、嘲笑、罵倒。  相手の尊厳を踏みにじり貶め苦痛を与える。暴力の熱狂に酔ったチンピラたちが異常なテンションで小金井を嬲る、小金井はどんどんボロボロになっていく、胸ぐらを掴まれ投げ飛ばされる、脱力した腕が宙を薙ぐ、錐揉み転がりダンボールの壁に激突、再び生き埋めに。  「やめ、やめてください、し、死んじゃう……」  足が竦む。  舌が縮む。  駆け寄りたいのに動けずその場に硬直、震える声で制す、懇願する。  小金井が死ぬ、このままだったら確実に死ぬ、嬲り殺されてしまう。  助けなきゃ、どうにかしなきゃ、どうにかできるのはぼくだけだ、他の連中は笑って見てるか自業自得と醒めた目で傍観してるだけ小金井が瀕死の状態でも指一本動かす気はないと態度で宣言する、助けなきゃ、でもどうやって、携帯は森にとられたまま通報できない、そもそもここがどこかわからないんじゃ助けが呼べない、だれか、だれかー……  ゲームだったら漫画だったら主人公が助けにきてくれる、仲間で力をあわせてピンチを打破する予定調和な展開、だけどぼくはひとり、小金井もひとり、まわりは敵ばかりでどうしようもない。  無力で非力なひきこもりニートオタク八王子東、お前になにができる、よかれと手を出したら裏目に出るんじゃないか、これまでもそうだったようにー……  身の程を知れ  「ッ、」  知るんだ  『まったくお前はダメなヤツだ』『気持ち悪いんだよおたく』『こっち見んな』『やだーあの人きもーい』『おたく?』うるさい『両手に紙袋さげてる』『アキバ系?』『はたちすぎて漫画アニメ卒業できないなんて情けない』『私の育て方が悪かったの?』『ごめんね東くん』うるさいうるさい『就職もしないで』『みっともないから外にでるな』『一生ひきこもってろ』うるさいうるさいうるさい!!  腫れふさがった目で小金井がこっちを見る、思い詰めた光、早く逃げろと急かす  「来い」  ぐいと手を引かれ、けっつまずく。  森がぼくの腕を掴み、大股に倉庫内を突っ切って、シャッターをなかば下ろした出口のほうへ引きずっていく。  「森さん、そいつは」  「俺が送っていく」  「ただで帰しちまっていいんですか?口封じは……」  「怠りない」  不審顔の子分に背を向けずんずん歩く。  踏ん張りをきかせ抗うも無駄、腕力と体格が違いすぎる。  シャッターをくぐり外に出る、倉庫の外はアスファルトを張った駐車場でいかにもヤクザが好みそうな黒塗りの車が三台とまっている。  倉庫の中から響く鈍い殴打音、くぐもった悲鳴、ぼくが森と揉みあってる間も小金井は暴行を受けている。  「いやだ、はなして、小金井さんが」  「聞き分けねえな、あんたも」  「見殺しにできないです、し、死んじゃう、もういいじゃないですか許してあげてください、クスリ持ち逃げしただけで怒ることないです、ひ、ひと殺したわけじゃない、だれかに怪我させたわけじゃない、だから……」  衝撃。  車のボンネットに押さえ込まれ、後ろ手に腕をねじ上げられる。    「かはっ……」  「眠たいこと言うなよ、坊主。平和な日常に戻りたいだろ?」  平和な日常。  小金井と出会う前の。  「ヤクザに踏み込まれることのない、拉致られて焼きいれられることない平和な日常が恋しいだろ。いいか、胸に手えあてて思い返せ。お前をトラブルに巻き込んだ張本人はだれだ?八王子の片隅のボロアパートで平穏に暮らしてたお前の日常をぶち壊した張本人は?」  小金井リュウ。  疫病神。  「忘れちまえよ、この一ヶ月のことすべて。あんたははなから関係ない、これは俺たちの問題だ、本来内輪で処理すべき案件に素人巻き込んじまったのは俺らの手落ちだ。だからまあ、命だけは見逃してやる。ギブアンドテイクさ」  小金井のことを忘れれば、切り捨てれば、自由になれる。  小金井との思い出を水に流して全部なかったことにすれば命だけは助かる、またもとの平穏な日常に戻れる。  アパートに帰りたい。  部屋ではガンプラやフィギュアが待ってる、撮り溜めたアニメも観なきゃ、パソコンにエロゲいれなおさなきゃ、やることいっぱいだ、忙しい、そうさ小金井なんかに構ってられない、二次元がぼくを呼んでる、フィクションこそぼくが生きるべき世界、煩わしいだけの現実なんかくそくらえ  麻薬のような言葉に頭が酔う。  耳に注ぎ込まれた言葉が意志を縛り、ボンネットに押さえ込まれた体勢から、絶望に身をゆだねる。  ぼくは悪くない。  やるだけのことはやった。  痛いのも苦しいのももうこりごりだ、小金井は疫病神だ、そもそも小金井と出会わなければこんな目にあわずにすんだ、ザクを壊されずにすんだ、元凶は小金井だ。  血流に乗じ、毒のように体に回りゆく苦い諦念。  保身を選んで何が悪い、だれだって自分が一番可愛い、命は惜しい。  ぼくだってー……  『東くん』  須藤さんだって  自分が助かるために他人を見殺しにするのは正しいことだろう?  「……………」  欺瞞が良心に打ち克つ。  「……わかりました。うちに帰してください」  「それでいい」  森が満足げに頷き、後部座席のドアを開ける。  のろのろ後部シートに乗り込む。  バタンとドアが閉じる。森が運転席に乗り込み、キーを回し、エンジンをふかす。  これでいい。  やりきれない感情をもてあまし、膝の上で固くこぶしを握りこむ。  ぼくになにができる?  倉庫内に単身取って返して小金井を救い出せとでも?  むり、不可能、多勢に無勢。それに小金井は自業自得じゃないか、友達を裏切って組を抜けた、その友達の死体からクスリと銃をかっぱらって逃げた、無関係なぼくをトラブルに巻き込んだ、あんなヤツ同情に値しない、助ける価値ない。  手のひらに爪がくいこみ新鮮な痛みをもたらす。  あんまり強く握りこんだせいで手のひらの火傷が疼く。  「今日のことは悪い夢だとおもって忘れろ。言っとくが、警察に駆け込んだりしたら……」  はっと顔を上げる。  車の前部、ミラーの横にキーホルダーがぶらさがっている。  ピンキーストリートのキーホルダー。   「あんたが無事ですむ保証がな」  「まりろんちゃんですか?」  瞬間、森が初めて表情らしい表情を垣間見せる。  ものすごい勢いでこっちを振り返った横顔に広がる紛れもない動揺の波紋、驚愕の表情。  愕然と目を剥いた森に確信を強め、前シートの背もたれを掴んで身を乗り出す。  「まりろんちゃんチャットで言ってました、ピンキーストリートにはまってるって。あなたがまりろんちゃんなら……そうか、性別偽ってたんだ、腐女子の演技でチャットのみんなだましてたんだ」  「いきなりわけわからないことを、」  「まりろん。もりあらし。本名いじくったのか」  МARIRОN  МОRIRAN  ぼくと同じく本名をいじくったハンドルネーム、単純なアナグラミング。  「だったら筋が通る、今まで小金井さんの居場所突き止められなかったのに急に動いたのはチャットでぼくが口滑らしたから、まりろんちゃんの態度は不自然だった、ぼくと同居してるヒモが自分が捜してる人間と同一人物だと気付いたんだ」  まりろんちゃんの正体はヤクザだった。  動揺を露にする森に勢いを得て饒舌に詰め寄る、背広を掴まんばかりの剣幕で糾弾する。  「まりろんちゃんですよね?とぼけないでください、お芝居が見事でだまされたけど間違いない、ピンキーストリートのキーホルダー以外にも根拠はある!!」  「その根拠ってのは何」  殺気立つ車内に流れる場違いに軽快なアニメソング。  ドラゴンボール、無印のテーマ。  「………ぴちぴちの平成生まれとか大嘘じゃないか」  性別の時点で大嘘だけど。  絶妙な間合いで流れ出した着メロに観念したか、背広に手を突っ込んで電源を切った森が、ばつ悪げに呟く。  「……会うのは初めてだな、いーちゃん」   「ヤクザだったんですか……待って、じゃあ腐女子とかいうのも大嘘で、え、腐男子?タートル仙人さんやハルイチさんは知って……」  「知らない」  「騙してたんですか!!?どうりでおかしいとおもった平成生まれ自称するわりにドラゴンボール詳しいし知識古いし、えっ、でもなんで、まりろんちゃんがヤクザで男の人で嘘で嘘吐いて何の意味が」  衝撃の事実が発覚し頭が混乱、森の背広を掴んだまま顔に疑問符を浮かべれば、最前までの無表情にわずかに不機嫌な渋みを加え、森が言う。  「……出来心だ。一度別人になりきったら楽しくて、癖になった」  「そんな理由……」  「あんたはわからんだろうがヤクザって商売は面倒な制約が多い。娑婆で羽目はずそうにも行き先は限られる。考えてもみろ、すね傷もちが漫画喫茶やゲーセンにいけるか?浮きまくりだろう」  微妙に声色も変わる。おそらくこれが森の素顔だろう。  運転席のシートにもたれかかるや、遠くを見るようような目をフロントガラスのむこうの闇に投げ、煙草を口に運ぶ。  「その点ネットは自由だ、だれも現実の俺を知らん。性別を騙ったのは……ちょっとした悪ふざけだ。ああも簡単に鵜呑みにするとはな。いまさら実は男でしたとは言えん。必死で勉強したさ、嘘を塗り固めるために」  森が言う勉強とは、すなわちBL関連の知識増強の事で。  「………まあ、色々読んでくうちに深入りしちまったわけだ。察してくれ」   「むりです」  すごい省略。  森は無言で煙草を吸う。哀愁の翳り漂う横顔を呆然と見詰め頭を働かせる。  「ひょっとして……ぼくを庇って……?」  「………」  思い出す。  突如アパートに踏み込んできた森、ガサ入れを子分に指示しむりやりいちごを突っ込みぼくを辱めた、だけどそれは子分の手前致し方ない行為で、後々ぼくを逃がすために必要なフラグだった?  現に森は倉庫からぼくを連れ出した、今も逃がそうとしてくれてる。  「……小金井のことは忘れろ。あんたは関係ない」  「まりろ……森さん!」  「右手の治療費は出す。部屋の修繕費も。それでちゃらにしてくれ」  「あんた、ぼくのズボンおろしてしごかせたの忘れたんですか!?」  「仕事と私情は分ける主義だ。小金井をおびき出すにはあんたのやらしい声聞かせるのが一番だと踏んだ。チャットの報告聞いた感じ、深い仲だってのは十分伝わってきたからな」  「深い仲なんかじゃありま、いやあるけど!」  「盛大にのろけてたもんな」  車に備えつきの灰皿で煙草を揉み消し、バックシートのぼくを睨む。  「腰抜け。意気地なし。へたれ。びびり。社会のゴミ」  いきなり暴言をぶつけられ、シートを片手で掴んだまま息を呑む。  「あんたがチャットで自分をさしてのたまった言葉だ。想像してた通りの人間だよ、いーちゃん。部屋の中のオモチャ、ガンプラ、フィギュア、漫画、ゲーム……ぜんぶ親の金で買ったんだろ?」  「……………ッ………」  「腰抜け。意気地なし。へたれ。びびり。社会のゴミ。……わかってるじゃないか」  八王子東は普通以下の人間だ。  今すぐ死んだほうがいい人間だ。  皺のよった背広を手でなでつけ、蔑みきったまなざしでぼくを眺め、森が事実を指摘する。  「ひきこもりの出る幕はない。あんたは暗い部屋でしこしこチャットやってんのがお似合いだ」  違う  「小金井が死のうがどうなろうが関係ねえ」  違う  「巻き込まれて怪我すんのはいやだろ?自分が一番可愛いだろ?チャットで長い付き合いだからわかる、いーちゃんは弱虫泣き虫の臆病者だ、卑屈根性にこりかたまったヤツだ。あいつがどうなろうが関係ない、なあそうだろいーちゃん、あんた度々言ってたじゃないか、現実なんてくそだ、フィクション万歳、アニメ漫画最高、自分にはナマ友達も彼女もいらない、ネットがあればいい、一生部屋から出なくたってー……うん?」  唄う  「なに唄ってんだ?」  口ずさむ  貧乏揺すりにあわせ、子供の頃、兄さんと一緒に唄ったテーマソングを  今度は自分の意志で  前髪に目を隠し、俯き加減に口をぱくつかせる。  「………そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ 胸の傷がいたんでも……」  「おい」  「今を生きる ことで 熱い こころ 燃える だから 君は いくんだ ほほえんで」  「いーちゃん?」  目を瞑る。   胸が燃える。  瞼の裏で真実と出会う。  なんのために生まれてなにをして生きるのかこたえられないなんてそんなのは  ―「いやだ!!!!!! 」―    目を見開くと同時に前シートにかけた手を撓め飛び出す、不意打ちに仰天した森がドアに激突、素早くボタンを操作してロックを解除、ドアが開き森がそのまま背中から地面に落下する。  運転席にすべりこみキーを深くさす、ハンドルを掴みアクセルを踏む、おもいっきり。  凄まじい振動、抵抗。  全体重をかけアクセル板を踏み込めば車が猛然と加速し急発進、正面からシャッターに突っ込む。   轟音、衝撃、半端に開いたシャッターが紙切れのようにへこみひしゃげ弾けとぶ。  車のライトで暗闇をなぎ払う、煌々と照らす、表からさした強烈な光に目を炙られチンピラたちが殺気だった怒声を交わす。  「いっけええええええええええええええ!!」  再びアクセルを踏む。ぎゅるぎゅるタイヤが回りコンクリ床を削る、森が転落した運転席ドアは開いたまま走行に合わせ揺れる、そのドアが呆然としたチンピラをひっかけ転ばせる、運転席をのっとったぼくに気付き向かってくるチンピラがボンネットに乗り上げ放物線を描いて後方へおちる。  初めての轢き逃げ。  「小金井さん乗って!」  「ひがしちゃん?」  ペーパードライバー甘く見るな、免許とってから初めてハンドル触るけど大丈夫いける度胸頼みだ、アクセルを踏んで加速に次ぐ加速で驀進、ダンボールの山に正面から突っ込んでなだれを起こす、その中をかいくぐって一気に現場へ向かう。  小金井は?いた、倉庫の床にのびている、呆然と目を丸くした顔がライトの光に浮上し安堵で泣きたくなる、小金井の後ろに立ったチンピラが手に持ったナイフを振り下ろすー……  「ぼくの友達に手を出すな!!」  我知らず叫び片手間にロック解除、行儀悪く足をのばし助手席のドアを蹴り開けハンドルを半転、荒れ狂う遠心力に耐える。  ハンドルに突っ伏し遠心力にもってかれそうな体を押さえる、前輪を軸に正確に百八十度回転した尻が今まさに鉄パイプをふりかぶったチンピラを弾く。  「小金井さん、早く!」  「すっげえ東ちゃん、正義の味方だ」  血にまみれ腫れあがった顔に弱々しい笑みを浮かべる小金井。ライトの直射をくらったか、ぼくを仰ぐ目は何故だかひどく眩げで……  一発の銃声が轟く。  「え?」    全身から血の気が引く。  ドアを開け放った助手席に乗り込む小金井。いや、事実に即し表現するなら倒れこんだというべきか。  スローモーションのような一瞬。  フロントガラスのむこう、ダンボールの直撃をくらって今ようやく這い上がったチンピラが銃を構えている。  小金井の左肩から血が噴き出す、ぐらり前によろめく、ハンドルから放した片手でその体を支える、かき抱く。  頬に飛び散るなまぬるい液体、それは小金井の血。肩を撃たれた小金井の顔色は蒼白で、服に大量の血が滲み出し、どんどん範囲が広がっていく。  「こが、こがねいさ、うわ、血、いっぱい、やだ、びょういん」  「くるま……出して、東ちゃん」  冗談みたいに震えるぼくの手を握り、そっとハンドルへと導く。  「最後にいきたいところがあるんだ」  小金井は、そう言って笑った。

ともだちにシェアしよう!