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一章二話「非行」

曇天の不愉快さは、状況の異常性を表していた。藤原業(ふじわらごう)は自身が来たその場所が、学校からは徒歩で30分ほどしかかからない近場だというのに、桜が舞うあの青空とはすっかり違っている湿った重たい空気を肌で感じていた。歩道と車道の間に柵もない小さな交差点の手前で、ピリピリと微弱な違和感が業の指先に触れた。 (境界だ) 結界が展開され現実とのチャンネル違いのような世界に切り取られた形跡は、霊力を扱うものならば感じ取ることが出来た。負の感情から産まれる穢れというものは人、精霊、稀に動物などにも、霊を持つものはみな多少は持っているものだが、肉体という殻を持たない精霊は穢れからの影響を受けやすく、穢れが暴走状態に入った霊を「悪霊」と呼んでいた。そのため、悪霊は攻撃的なものが殆どであり、彼らには周りのものに対する配慮がないどころか、破壊し傷つけ、殺すまでもを目的としている場合すらあるため、市街地などといった「現実世界」といわれる世界で戦うには被害が大きすぎるのだ。そのため、結界を展開し、その領域ごと自身の霊界に引きずり込み戦闘をする、というのが修祓師のやり方だった。 綺麗に定規で引かれたように真っ直ぐ領域を切り取るのは、かつての彼、今は久慈和仁(くじかずひと)として生きる青年の特徴だった。大きな獲物は取り逃したけれど、幸いだったと、安堵のため息を被ったフードの中に漏らして周りをうろつく低級の悪霊達を害虫駆除のようにちまちまと押さえつけて捕まえた。負の感情は引き合い易く、転送されたとしてもその残滓で寄ってくるのだ。たいした事は出来ないものだが祓っとくに越したことはないと、ポケットから取り出したスポイトのようなものをそれぞれに刺すと、吸い出されたタールのようなドロリとした異物が溜まる。吸穢器(きゅうえき)と言われるそれは、霊の中にある穢れを吸い出す装置であり、霊と穢れが癒着していなければこれを刺すだけで穢れを吸い出してくれるものの、暴れる悪霊相手には壊されるのが関の山で、いちいち動きを封じて刺し、しばらく待つ、という原始的な方法は千年前から変わっていなかった。何事も便利すぎるのは良くない、と言っていたのは千年前にこれを開発し、現代では小型化に勤しんでいる業の保護者の言葉だった。閑話休題、低級程度でも数が居ればそこそこの量になるものだ、と3つほど溜まった中の一つのそれを持ち上げた業は、その中にあったものを吸出し、飲み込んだ。 「まっず」 オエ、と舌を出しながら、ふと切り取られた場所を振り返る。一時間にならないにしても、そこそこの時間が過ぎている。結界が解けていないため、和仁が負けている事もないが、それでも彼が戻れないというのは、まだ勝敗がついていないということであり、和仁がそこまで手こずっているのが業には気がかりであった。千年前ほどではないにせよ、噂通りであるとするならば彼は現代でも優秀な修祓師であるはずだ。業は意を決して結界に侵入する事を決めた。 「……はぁ。よしっ!」 深呼吸をして結界の境目に触れた。霊力を込めなければなにもない空間にすぎないが、霊力を纏い、接触するためにチャンネルを合わせれば、触れるのは簡単だった。そして、結界術の仕組みとは、展開した人物がいる方向への壁が強固となっている。つまり、業が侵入しようとしている結界は内側に術者である和仁が居るため、外にいる業が侵入するのは容易だった。彼に引き止められてしまえば出るのは厳しいが、不可能な訳ではない。業は伸ばした手が見えない壁に触れ、そして緩やかに自身を飲み込んでいくのを肌で感じていた。 入った瞬間、業を襲ったのはくどいほどの甘ったるい香りだった。それに吸い寄せられるように結界の中心へと悪霊が吸い寄せられていた。 「お前は誰だ」 酩酊状態で暴れる悪霊を、刀で制しながら業に目線を向けることも無く和仁は尋ねた。業は咄嗟に「救援だ」と返事をすると、和仁は「呼んでない」と切り捨てた。 「呼んでないだって?」 業は思わず声を荒らげた。約一時間、一人で戦い膠着状態にありながら救援すら呼んでいないという無鉄砲さに呆れていた。 「いくらお前が強いからと言っても状況が動かないならあまりにも……」 「おい!」 業の言葉に対して、微かに不貞腐れたように口をへの字に曲げた彼に苦言を呈し言葉を続けながら援護として霊力を矢のように放てば、和仁が咎めるような声を上げた。 業は反論する言葉を失った。当たった衝撃で悪霊のモヤが霧散した箇所から、人の腕が見えたからである。 「人がいたのかよ……!」 悪霊に集られている人に気づいた瞬間、無鉄砲に飛び出したのは業の方であった。業は少し見えた腕を引っ張ると、バサッと傍に斬撃の残像が見えた。 「……危ないだろう」 ぶっきらぼうに言いながらも、業を庇う彼に少しふざけたように「守ってくれると思った」と言って笑うと、和仁は無言で業が掴んでいた腕を引っ張り中にいた人物を引きずり出した。 「繭子(まゆこ)……」 人質がいないとなった途端、和仁は一太刀で有象無象共を戦闘不能にさせた。その雑音に飲まれて彼の耳にはその呟きは届いていないかに思われた。 「知り合いか?」 業がその少女をみた時に零れた呟きに和仁は眉をひそめて質問をした。酷く甘い香りは悪霊からではなくその少女から発せられていた。「千年前から知っています」なんて巫山戯た真実を話す訳にもいかず、黙り込むしか無かった。 「彼女は、僕が連れていこう」 そう言ってその少女を和仁は背負った。業は自身がうわ背のある彼女を連れていくには困難だと理解はしていたが、あまりにも軽々しく持ち上げる様に同じ男として面白くないという態度を隠しもせずにしれっと悪霊へ吸穢器を刺した。吸穢器が穢れを吸い出すのを一度見て確認した和仁は結界を解いた。 「じゃあ、俺は先に」 吸穢器に穢れが溜まるまでの無言、立ち去る様子のない和仁にやきもきしていたが、同行する訳にもいかずさっさと去ってしまう事にした。するとおもむろに「うちのと、形が違うな」と和仁が言った。思わず振り返るとその目は業の手元の吸穢器を見つめていた。 バレている、と気づいた瞬間に業はすぐさま駆け出した。首元がつっかえて、被っていたフードが取れたのだと分かった。目が合った。藍色の虹彩が真っ直ぐに業を射抜いて、まるでよく知り合ったあの日の彼の姿と重なった。それが苦しくて、悲しくて、振り払うように暴れたら思っていたより簡単にその手は離れた。 そこからはどうやって帰ったかハッキリと覚えていない。ただ、結界が引いていった外はいつの間にか日などとっくに暮れていた。 「月が」 千年前の彼の言葉が過ぎり、それを忘れたくて走った。あの日のように、月が降りそうな夜だった。

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