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一章三話「無謀」

重たいタールのような液体を掻き分けながら、必死で何かを探す夢を見ることがある。毎回毎回、その「何か」は見つからないまま、失意にまみれてその汚濁へと身を沈める。救えなかった、守れなかった。その無力感が全身を覆う。あの綺麗な長い指先は、赤々とした瞳はもう見えない。見つからない。 「はっ」 やっと息が出来たような激しい呼吸をしながら目覚める朝は、いつも何故か泣いている。生まれて十六年間、久慈和仁(くじかずひと)はそうやって答えのない悪夢と生きていた。眠っていた筈なのに、余計に疲れた朝は冷たいコーヒーを流し込んで無理やり自身にエンジンをかける。 流しにグラスを置きながら、ぼんやりと昨晩の事を思い出していた。任務で駆けつけた現場には大した霊がいた訳でもなく、一人で充分だと慣れきった手順で結界を展開した。ふと、悪霊が固まる場所の傍にスクールバッグが落ちているのが見えた。中身が散らばり汚れている。ひとつの可能性を感じ、刀身の汚れを払うように軽く攻撃を飛ばすと、スっと引いた一部に肌色が見えた。人がいる、そうとなると対応が変わってくる。 手っ取り早く援護を呼ぼうとした手を止める。「被害者」と断定しづらかったことが和仁の判断を鈍らせていた。悪霊に取り憑かれている、ならば純粋な被害者と判断が出来るものの、その中心にいる人物は集られてこそいるが、意識を失いながらもそれに付け入られることも無く、自我を乗っ取られているわけでもない。無意識なのかもしれないが、何らかの術で自身に、または誰かがその人物に守りを働かせているとするならば、霊力の扱いを知っている本人か関係者の可能性がある。それが登録されている人間であれば良いが、任務の詳細では悪霊の発生が検知された報告からの要請だと伺っており、人がそこにいることすら共有されていなかった。修祓師か関係者であれば救援や通報という方法もあっただろうにそれがなされていない、というのはどうしても違和感があった。 和仁は性格上、規律は尊主するタイプである。が、自身も愚かではないため組織を盲信しているという訳でもなかった。渦中の人間を連れて帰り、事情を聞く、というのは変わらないが、もし救援を呼んだ際に相手が自身より上の立場にある人間が来てしまえば引渡し、またその人への干渉は出来なくなってしまう。どう扱われようがそれに口出し出来ない立場になる、というのは最初に関わってしまった人間として解せないのだ。そのため、信頼出来る人間以外の接触は和仁の個人的な判断により避けたかったのである。兄である明仁に連絡を取ろうにも結界を展開した後では支給品の通信機しか繋がらず、その回線なんてどこに聞かれているか分からないものを軽率に使うことも出来なかった。 じわじわと周りの雑魚を削り取りながら「持ってくれ」と祈るような気持ちだった。どこまでが悪霊で、どこからが人なのか分からないほどの濃度の強い霊と、中心近くにいるであろう食虫植物のように霊を呼ぶ甘い香りを放つ悪霊も上手く掴めない。チラチラと見え隠れする人の肉体は動く様子がないため、「乗っ取り」はまだ出来ていないのだろうが、時間の問題かもしれない、と焦りも出てくる。腕時計で時刻を確認すると実際の時間では一時間は過ぎているようだった。体感数分、悪霊に飲まれる可能性があるため結界内の時間を遅らせる術をかけたが、それは上手く作用しているようだった。 向き直って刀を構えたその時、結界に触れられる感覚がした。結界に侵入する、というのはある程度の技術がないと出来ないものの一つであり、明らかに和仁が張ったであろうそれに侵入する勇気のある人間は決して多くはなかった。そこに現れるであろう数人の候補をうかべながら、悪霊から視線を外さずにいると、入ってきたのは候補の誰にもそぐわない背格好をした青年だった。 「お前は誰だ」 不思議と不快感はなかった。顔はフードで隠れて見えなかったけれど、「救援を呼んでいない」という和仁の言葉に声を荒らげた彼の主張も理解していた。彼が来た方では1時間、もしかしたらそれ以上の時間が経過しているはずで、彼が言った救援として寄越された可能性も完全には否定できなかった。 和仁がその有象無象の中心に人が居ることを言いあぐねていると、青年はさっさと慣れた手つきで霊力を打ち込んでみせた。衝撃で悪霊の影が引いた箇所から直ぐに人を見つけ出したフードを被った来訪者は、その誰とも知らない人のために直ぐに安全圏を飛び出した。あまりに突然の出来事に、和仁は呆気にとられた。自分に振りかかろうとするものなど構わないみたいに、中の人間を自分よりも優先した彼に驚き、直ぐに自身もその攻撃を振り払うべく刀でそれを弾いた。 「守ってくれると思った」なんていう軽口に呆れが湧いて然るべきなのに、なぜだかその言葉で無茶苦茶なその男を許していた。どうしてだか、全てを受け入れてしまいたいような魅力をもった人だった。しかしその男はしれっと穢れを回収して逃げてしまった。 咄嗟に掴んだフードの中にいたのは赤い目をした男だった。夢に見た事がある。正確には、夢で見たかったと思っていたことがある。夢で探し続けていた瞳は、ちょうど彼のような色をしていた。その目が、今にも泣き出しそうな色を称えていて、和仁は思わず手を緩めてしまった。その隙にするりと抜けていった 「行かないで」 彼がとうに立ち去った交差点で、空っぽの夜道に呟いた。背負った少女の重みと、散らばった彼女の汚れた荷物。彼女を知っていたあの青年。夢の延長線上のようにすら思えた。 「もう少し、話せそうかな?」 シンクに水が流れ続ける音の中で、背後から和仁に呼びかけたのは双子の兄である久慈明仁(くじあきひと)だった。その言葉に頷くと、明仁は穏やかな笑みを称えたまま紅茶を二つのカップに注いだ。 まだ朝の空気が冷たい、六時にもならない時だった。

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