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二章一話「降界」
時は約千年前。国歴、承延 と呼ばれた時代に森原業在 は齢15になろうとしていた。桃を齧りながら足元を彷徨く兎の形をした精霊達に鼻をこすりつけた。風呂敷に包むと想像よりずっと少なくなってしまった荷物を肩から下げてヒラヒラと手を振ると、せっかく縛った髪が解ける感覚がした。
『本当に行ってしまうの?』
業在の手のひら程に小さい精霊が赤い組紐を持ちながら問いかけた。着いてくる?と聞くと周りを飛び回っていた精霊が三人ほどイヤイヤと拒否を黄色い声で訴えかけた。下は空気が汚いわ、いっぱい人間が居るもの、果物が年中なっていないのよ、なんて噂話をやいのやいの騒ぎ立て、「俺も人なんだけどな」なんて意地悪げに言うと「業在は別!」と頭にベッタリと張り付いてきた。一人一人つまみ上げてひっぺがしながら地上へ繋がる階段に向かうと、入口で白い着物を纏ったこの世のものとは思えない程美しい男性が汚れなど知らないように嫋やかに微笑んでいた。
「お別れは済んだかな」
潔 はそう業在に尋ねると、にっと子供らしい笑みを浮かべた彼は背の高い潔の懐に抱きついた。下まで送ろう、という潔のそばにピッタリと張り付いて階段を一段一段降りる。
「彗 は久しぶりだ」
「下も忙しいみたいだからね」
この世界には神が住む「天上」、天司官長である潔が管理し精霊も住む「天空」、人が生きる「地上」、そしてその下であり穢れと悪霊が彷徨う「地獄」が存在していた。この春から天空にある武陵桃源から、業在は地上にある天司官養成を主とする「大学寮」へ入寮が決まっていた。天空から地上へと繋がる霊峰と呼ばれる山の主である彗は地を収める精霊、「鬼」であり、潔の伴侶であった。彗の付き添いは霊峰までですよ、と潔に心配そうに言われながら、業在は軽い口調で「大丈夫」と言って踊るように階段を降りていく。
業はこの春からの新生活を楽しみにしていた。年端も行かない頃から武陵桃源で精霊と共に育ち、接する人間と言ったら潔と義兄といった家族だけであった。天空にいる精霊たちは地上で人と暮らしていくことが合わなかった者が多いため、「人間の友達が欲しいんだ」と精霊たちに語ると、嫌な顔をする者が殆どだった。
「業在」
ゆっくりと後ろを着いてきていた潔が彼を呼び止めた。
「何かあったら、家族に言うんですよ」
過保護だな、なんて思いながら、安心させるように潔に笑うと、潔も眉毛を八の字にしながら笑った。下の方から彗が呼びかける声がして、業は階段を駆け下りた。
「小僧、でかくなったな!」
精霊たちは彗を畏怖し、人も勝手に名を決めて悪鬼だと騒ぎ立てるらしいが、業在にとって彗は愉快な父親のようなものだった。
「今日から天司官候補生だからな!」
胸を張って言うと、まだ小柄な業の体を彗は笑いながら持ち上げた。歩ける!と腕の中で暴れようとビクともしない大男は「今に抱けなくなるんだ」と少し寂しそうに呟き、業は渋々その肩に担がれた。
「待って」
階段を降りきった潔が業在の元へ駆け寄った。そして、少し背伸びをするのを見て、肩車をされていた業在は頭を下げて、彗も膝を曲げた。
「加護を」
そう言って潔が業在の額に口付けると、潔はその頬に手を添えて、元気で、幸せに、と言葉を続けた。「今生の別れでもないんだから!」と笑う業在にそうだね、と言いながら、崩れていた彼の髪を器用に結いなおした。
「行ってきます」
業在は屈めていた背筋を伸ばし、それを察した彗が膝を伸ばして体勢をたて直しながら彼は潔の頭に手を伸ばして、戯れのように口付けた。一瞬、目を合わせて離れていくのを、業在は目を逸らして気まずい思いを飲み込んだ。
「天司官で、俺は人を助けたいんだ」
山を下る彗の肩の上で揺られながら、業在は語った。精霊は助けないの、とわざと揶揄うように言う彗にそういうことじゃない、と業在は頬を膨らませた。
「人は弱いでしょう?」
霊力を扱える人の方が少なく、精霊も視認できない人がほとんどで、目に見えることすらままならず、穢れを生み出してしまう。精霊たちにはそれを嫌う者もいたが、業在にはそれが哀れに思えた。
「弱い者の味方でいたいんだ」
虐げられたことがあった。毎日、ただ生きていて、助けを待つ思考すらなかった。お腹がすいて、空いて、「大丈夫だよ」と潔が手を差し伸べてはじめて、待っていたのはこれだったのだと理解した。恨んでいる訳では無い。ただどうしようも弱かったのだと思った、彼らも、自身も。精霊と親しく生きてきて、悪霊も知っている。嘆きを聞いていたこともある。悲しい、痛い、苦しい。精霊からも人からも敵にされて、どうして誰も抱きしめてあげないのだろう、と思った。「そのままだと、人に悪さをしてしまう」と言って義兄である御籠が連れて行ったその霊がどうなったかは業在は知らない。
きっと、悪霊だって人を害したかった訳ではない。穢れを生むことも、悪霊が生まれてしまうことも、業在はどうすることもできないけれど、せめて、人を守ることだけはしたかった。
「ほらよ、着いた」
人の足では半日程の時間がかかる山道を、主である彗は半刻程でおりて見せた。それを寂しく感じながら、彼の肩から降りると、彼は頭をぐしゃぐしゃと撫でながら「一人で行けるな?」と問いかけた。潔がせっかく結んでくれたのに、と文句の一つでも言おうとしたが、彗の目が見たことも無い色を称えていて、その哀愁に口を噤んだ。「街はしばらくぶりだろう」と言われたが、十年前には住んでいた街だ。心配いらないとの意味を込めて満面の笑みを浮かべてから、彼の首へ飛びつき、「またね」と告げた。小さく笑って「元気で」と彗は返した。
「御籠 に、たまには帰れって言ってくれ」
麓の木にもたれながら彗が言う言葉に、是を返して手を振った。期待と、不安と、寂しさを抱えて、街へ向けて走った。空気を読まない業在の腹が音を立てて、思わず大きな笑い声をあげた。
いい香りに導かれて歩みを進めると、気づけば街の中の喧騒に揉まれていた。天空の精霊とはまた違った、陽気でどこか俗的な精霊も至る所に潜んでいて、奇妙な街だ、とあたりを見渡した。
「あっ!ごめん!」
その余所見をした時に、背中が人とぶつかり、思わず謝罪を述べると、「街では周りに気を使って歩け」と気の強い返事が帰ってきた。目線を下げた所に、小柄だが気の強そうで作り物のような美少女が不機嫌を隠しもせずに睨んでいて、業は「お嬢様、機嫌をなおしてください」と、装飾がふんだんにあしらわれた少女の着物に花型の飴を差し込んだ。
「お嬢様だと……?」
その声は明らかに怒りに震えていて、その理由が分からない業在はどうしたものかと首を傾げた。その時、人混みをかき分けた業と同じぐらいの身長の少女が慌てたように叫んだ。
「坊っちゃま!喧嘩はなりません!」
「……坊っちゃま?」
業は思わず大きな赤い目を瞬かせる。そして腕を組んで横柄な態度のまま、目の前の綺麗な少年は業在に対して啖呵をきってみせた。
「どこぞの白髪のボケ老人かと思ったが、若いようだからハッキリ覚えとけ。俺は江州の名家蓮見の嫡男、蓮見貴麻呂 だ。」
フンっと鼻を鳴らし口上が決まったと言わんばかりに名乗りを完遂した少年に、業在は呆気にとられて目を丸くするばかりだった。
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