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二章四話「廉出」
畳の上で重たい瞼を持ち上げた業在 はぐっと背のびをして部屋の中を見渡した。武陵桃源では、いつも聞いていた精霊たちのお喋りはなく、シンと音がするような静寂の中で、まだ卯にもならない時間に衣桁から着物を取り出した。頭から被り、身支度を整える。その制服の着方は潔 から教えられていた。広がりやすい髪を雑に下の方で縛って浅沓を履いた。まだ冷たく日が顔を出す前の霊司院は静まり返って、皆が眠りの中にいるのを伝えていた。
業在は荷物の中から昨日の朝にとった桃を持ち上げ、其れが最後の一つであることを寂しく思いながら外へ繰り出した。まだ鳥の声もしない夜が去りゆく時間ではジャリジャリと控えめな業在の足音だけがしていた。
そんな薄暗い景色に、発光するように佇む姿があった。辻和明 、その人だと分かった。彼は業在の姿を捉えても意にも介さず目線を戻した。
「何を見てるんだ?」
昨日は頭に血が上って怒鳴りもしたが、寂れた宵闇の中で朝を待つ青年がどうしようもなく一人に思えて思わず声をかけた。彼はただ、「東を」と返事をした。東の空をひたすら眺めて待つものなど一つしかない。業在はそのそばに座り込むと、「制服が汚れる」とだけ声をかけられた。
「何で、皆にあんなことを言うんだ」
怒るでもなく、ただの質問を彼になげかると、彼は「間違っていると思ったから」と業在に返した。今は言う事ある?という業在の質問に、地面に座ることだけ、と淡々と返した。
「規範や礼儀に沿っていなければ言う。正しくないからだ。」
早起きは良い事だから、と続けた彼にふうん、とだけ相槌を打った。その後に会話が続くことはなくて、まだ虫の声が残る。不思議と、彼のそばは静寂すら心地よく思えて、業在は懐から小刀を取り出して桃を彼に切り分けた。
「ありがとう」
純粋な感謝の言葉だけで彼がやたら幼く見えて、業在は小さく笑った。だんだんと東の空が白んで、このただ穏やかな時間が終わりを告げていた。
「入寮拝に出るのか」
「うん」
指先を舐めながら業在が返すと、「髪を結おう」と和明が言った。驚きつつも、その意外さに笑みを浮かべてそれを受け入れて組紐を渡す。
「纏まっていないと無作法だ」
それが言い訳のように聞こえて、業在はクスクスと笑いながらそうだね、と返した。
「髪を結うのは難しい。君の頭なら尚のこと。」
癖があり毛量の多い業在の頭について彼は言った。だから、仕方なく私が縛る、という和明に「ありがとう」と告げると、「仕方なくだ」と繰り返した。
日が完全に登りきった頃、院内にも人気を感じ、業在は和明に目を向けると彼もじっと見つめていた。業在は何故か他の人にこの逢瀬を知られたくなかった為、「じゃあ」と別れを切り出した。入寮拝で、と言うと彼は「私は出ない」と言った。
「なんで?」
「もう入寮しているから」
「先輩?」
「いや、同じ下年次だ」
大学寮は下年次と上年次に別れており、入寮し試験を通れば上年次に上がることができる。試験参加資格が入寮から一年のため、卒業までは最短二年であるが、昇学と卒業の試験を通らず満期の九年を終えて辞めていく候補生もいる。そのため昇学試験を通らなかった和明は一年前に入寮をしていたが同期になるということだったが、その仕組みを理解していない業在は首を傾げながら「そっか」とだけ返した。「また今度」と言った業在への返事はなかった。
「髪、昨日と違う感じだね」
ぴっちりと高い位置に一つに括られた業在の髪を見て融 が高い声を出した。「結んで貰った」と誰がとは言わなかったが融は気にした様子もなく広間へと並んで足を進めた。雰囲気が変わったのは業在だけではなく、真っ白い制服を纏って髪を団子にしてシンプルな髪飾りを付けただけの貴麻呂 はその顔の愛らしさを一層際立たせながら方で風を切り廊下を進んでいた。
「貴麻呂も違う感じ」とニコニコ融が笑うと、昨日が普段と違ったんだ、と貴麻呂がツンとした態度でそっぽを向いた。
「普段は機能性の方を重視されるので制服も嫌がっていました」
市子 曰く狩衣風なそれすら動きづらいと文句を垂れていたらしいが、それを聞いて融が「明日からは着崩していいらしいよ」と嬉々として言っていた。普段は庶民の格好で活動していた、あれはいい、と話す貴麻呂に「昨日の格好は何で」と質問すると「威嚇」とだけ返ってきた。
並んで入り、空いている机の前に座る。市子だけは貴麻呂の後ろを選び、式典が始まるまでの時間を待っていた。広間は少しばかりザワついてはいるが、外ほどではなく、緊張感が漂っている。そばにいた融は扇で口元を隠しながら業在に話しかけてきていた。
「今日は筆頭も全員参加らしいよ」
「ふうん」
気の抜けた返事をしながら、昨日は会えなかった義兄に思いを巡らしていた。ちょうどその頃、入口の方からザワザワと色めきたつ声がして、八人の白い羽織をまとった人々が並んで入ってきて、そのまま候補生たちと向かい合うように並び、一段高くなっている床へと座った。
「揃いましたね」
篭っているようでありながら耳触りがよく響く声が凪の中になげられた花の波紋のように部屋中に広がった。義兄のその声を懐かしく思いながら業在は目を細め、少年少女たちは姿勢を正した。
「本日、天司官長である潔は欠席の為、天司官長代理であり畿内筆頭である私、藤御籠 が執り行わせていただきます。」
「天司官とは」と御籠の声で拝礼の祝詞が語られた。全員が立ち上がりその言葉に集中した。「礼」の号令に合わせて頭を下げ、御籠の指示で皆が座った。
「それでは端から」
御籠がそう言うと、一番端の大柄な男が一歩前へ出た。そしてその見た目に相応しい大声で「西海道筆頭、沖嶋源岳 だ!よろしく!」といい、笑った歯が黒い肌との対比で白く輝いていた。次に笑顔を貼り付けただけの浮世離れした青年が「南海道、内海晴道 」とだけ言って下がる。次に気品のある背の高い美丈夫が一歩前へでて「山陰道筆頭、宗方惣助 です、お見知り置きを」と述べた。目が笑っていないその表情に、業在は違和感を覚えて良い印象を持たなかった。彼が下がるタイミングで一歩前に出たのは彫りの深い快活な美形で、長い脚に厚い胸板、甘い顔を持ち明るい笑顔で「山陽道筆頭の郷中与一 だ!何かあれば気軽に話しかけてくれ!」と挨拶をし、少女たちが色めきたった。人気も頷けるような愛嬌のある美男子は御籠に咳払いをされてあわてて一歩下がった。「北陸道筆頭、相楽房子 だ」と派手な顔立ちをした美しい女性が名乗り、そのあと直ぐにそばにいた背が高く羽織の下に派手な着物を纏った男性が「東海道筆頭、桑江頼隆 よ、よろしく」と少し砕けて挨拶をした。その後には昨日出会った高貴な青年が「東山道筆頭の辻常明 です。よろしくお願い致します。」と穏やかに言った。
融は扇で隠しながら「本物だ」と呟き、周りも心なしか浮ついているようだった。市子も常明が贔屓だと貴麻呂が言っていたように、絵巻や何かで彼らは有名人らしく、業在だけがどこか置いてけぼりをくらったような心地だった。
「それでは一同、理 様に礼」
御籠の号令を経て入寮拝は締めくくられた。先に筆頭達が出ていくのを候補生らが見送る中、御籠は業在に視線をやり、顎で小さく合図をした。業在は小さく笑って、融に尋ねた。
「筆頭の部屋ってどこ?」
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