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第8話
「問題、シャーロック・ホームズの本名をのべよ」
「ウィリアム・シャーロック・スコット・ホームズ。初歩的な事だよワトソン君」
引き戸を開けた正面のパイプ椅子にふんぞり返り、腕組みで威圧する後輩が顎を落とす。
「先輩に挑戦など十年早い。ミステリ知識で俺にかなうと思ってんのか?ちゃんちゃらおかしいね、緋色の研究から出直してこい」
「先輩じゃなく眼鏡の人に言ったんですよ!」
あり?勘違い?
椅子に大股開きで腰掛けた聡史が情けない顔で非難する。
聡史が宣戦布告した相手は俺じゃなく俺の隣の眼鏡こと麻生譲。
引き戸をがらぴしゃ開け放つなりマニアックな質問ぶつけられた本人はといえば、雑然とした資料室を退屈そうに見回している。
いつから椅子を温め待ち構えていたのか、膝に手をつき、不覚にも先手をとられた屈辱の戦慄き激しくこっちを睨む聡史にたじろぐ。
顔が怖いからちびりそうな迫力。
おどろおどろ怨念醸す聡史を無視、立てつけの悪い戸を蹴る。
「むさ苦しい上に狭苦しいとこだけど、遠慮なくお入りなされ」
室内へと顎をしゃくる。促された麻生が足を踏み入れる。
上履きが桟をこえた瞬間、聡史が露骨に顔を顰める。
戸を叩き付けた振動が伝わり壁際に積み上げたダンボールが崩壊、大量の埃が充満。
聡史と一緒に咳き込む。
麻生はマイペースに歩みを進める。
戸を閉めた振動で床になだれた資料を踏み跨ぎ、壁のぐるりを囲むステンレスの棚に目を走らせる。
ミステリー同好会の部室は旧校舎三階、資料室。
旧校舎の中でも一番端っこの僻地をあてがわれている事からも地位と知名度はおしてしかるべし。花形運動部が整備された校庭で青春の汗を散らす頃、俺と後輩は埃っぽい資料室で額突き合わせ熱弁の唾を散らしているのだ。
「どうだ、感想は。いいだろ静かで」
「埃くさい。換気ぐらいしろよ」
そればっかりは仕方ない。
資料室には過去が堆積してる。不要の烙印を押された資料が集められ、もしもの時のためにとダンボール数個分保管されている。ステンレスの棚にもファイルがぎっしり詰まっている。
壁際には机があり、パイプ椅子が二脚向き合ってる。
二脚?
『おい聡史、椅子もう一個用意しとけって言ったろ。放課後新入部員に連れてくっから、花飾りとクラッカーで景気よく準備しとけってメールしたよな』
拗ねた後輩の肩を掴み振り向かせ、耳打ち。
麻生はさして興味もない様子でファイルの背表紙を眺めている。
とりつくしまもない横顔をちらちら盗み見つつご機嫌ななめな後輩に説教たれる。
歓迎の準備は整えていた。ばっちり連絡を回していた。
俺の計画では引き戸を開けた途端クラッカーが炸裂花吹雪が舞って、「ミス研にようこそ!」の横断幕がひらひらして、聡史がにこやかに手を叩きながらこっちにくるはずだった。
なのに何もない。
戸を開けたらそこはただの資料室で断じて歓迎会場じゃなかった。
見慣れた資料室のど真ん中に椅子を構えてふんぞり返っていた後輩は、よりにもよってミス研の存亡を左右する今日この日に限って、先輩兼部長のお達しをさっぱり無視してくれた。いつもは素直で従順な後輩の予期せぬ反抗にすっかり調子が狂う。
聡史がぶうたれて言う。
『メールから一時間もたってないのに飾り付けなんてできません、部員一名じゃ人海戦術使えないし』
『部長兼部員の俺を含めて二名だ』
『横断幕とか花飾りとか意味不明です。第一突然新しい人連れてくるなんて言われても……』
『さんざん言って聞かせたじゃんか、このまま人こねーと伝統あるミス研廃部だって。部員二名じゃさすがにかっこつかねーし、最低三人は欲しい』
『聞きました、聞きましたよ。でも心の準備が』
『学校も予算切りで大変なんだよ。部員もいない、活動もろくにしてない文化部に余分な金出せるかって、足きりに出てさ。我らがミス研に白羽の矢が立ったわけ。わかってるよな、そのへんの世知辛い事情は』
昨今どこもそうだが、御手洗高も深刻な財泉難に陥ってるらしい。
実績ある花形運動部ならともかく、ミス研なんていう実績あげようもない同好の士の集まりに金を出し渋る気持ちはよくわかる。学校側からすりゃミステリ研は物好きの暇人の集まり、ひとが殺し殺される血なまぐさい小説に興奮する根暗オタクの巣窟。健全な学校運営のためにもはやく消滅してほしいだろう。
そうはいくか。
『最低あと一人来なきゃ今年で廃部だって、顧問にも言われたろ。学校も必死なんだ、少ないとこから切ってく作戦だ。ミス研は俺含めて二人、文科系体育会系ひっくるめてダントツのピコだ。首の皮一枚で繋がってんだよ俺たちは、手段を選んじゃられないだろ』
そこで言葉を切り、背後の棚と向き合う麻生を意味深にうかがう。
『狙ったえものは逃さない、一度喰らい付いたらはなさない。資料室に足を踏み入れたが命取り、ぜってー入部届けにサインさす』
学ランの懐からくしゃくしゃの紙を取り出す。
ここに来る前にもらってきた入部届けの用紙だ。
聡史があきれる。
『聡史、お前にはぜひとも暴利で悪名高い消費者金融の中の人っぽい気合で、多少強引な手を使ってでもヤツにサインさせてほしい』
『暴力担当恐喝要員みたく言わないでくださいよ』
俺の目線を追い麻生のしれっとした横顔を噛み付くように睨み、口元をひん曲げる。
『第一あの人、ミス研にふさわしい人材なんすか?あんな初歩的な質問にも答えられなかったくせに……ホームズの本名も知らないような素人にミス研入ってほしくないっす。ここは選ばれしミステリマニアだけが入室と入部を許される聖域なんすよ?』
『勝手にハードル上げんなよ、部長の俺的には来るもの拒まず大歓迎だ』
何むきになってんだこいつ。椅子にどっかり掛けた聡史はいつもにこやかな後輩らしくもなく敵意を燃やしてる。
麻生はステンレスの戸棚から一冊のファイルをとりだし、ぱらぱらめくる。
………会話がない。せっかく麻生に来てもらったのに、これじゃいかん。
「麻生さ、ミステリよく読むの?」
「別に」
「海外?国産?俺はどっちも。エラリィ・クイーンとかいいよな。ホームズまでいくと古典だけど、やっぱキャラ立ってていいよな。何回読んでも飽きねーし、今でも受けるのよくわかる。ワトソンとの掛け合いがいいんだよな、ユーモアあって。知ってるか?面白い逸話がある」
俯き加減にファイルをめくる麻生に並び立ち、砕けた雰囲気で饒舌にしゃべくる。
右手人さし指で銃をまね、壁に向かって撃つ。
「ホームズがヤク中だったのは有名だけど、事件がなくて退屈すると拳銃で壁に発砲して弾痕でビクトリア女王のイニシャルを書いたってのは、あんまり知られてないんだよな。迷惑だよなーハドソン夫人に見付かったらたたき出されるっての」
「異議あり、ヤク中はイメージ悪いっす、モルヒネ中毒に訂正を要求します!」
椅子に後ろ向きに馬乗りになった聡史が興奮に顔を赤くして抗議するのを適当にあしらい、最高の笑顔で麻生に向き直る。
「な、いいだろホームズ。堅物だけど憎めねーし。シリーズ後半は国際謀略ものの色が濃くなるけどやっぱ初期のが好きだな、ホームズの魅力が一番出てたと思うんだよね。おすすめはボヘミアの醜聞、赤毛連盟も意外なオチで好きだけどホームズ無念力及ばずなオレンジの種五つの苦い結末もなかなか乙な味があって、げほがほっ!?」
麻生がファイルの埃を払う。もろにそれを吸い込んでむせる。
「管理がなってない」
どうでもよさげに呟きつつファイルを棚の配列に戻したかとおもいきや、咳き込む俺をおいて勝手に行っちまう。
……マイペースすぎる。行動が読めない。待て、俺ひとりくっちゃべってうざかったのか?
空気読めよ俺。せっかく部室まで連れてきたカモ、じゃない、部員候補を引かせてどうする。
自分に突っ込みいれつつ麻生の背中を追う。
麻生は床を占拠するダンボール箱を迂回し、奥に陣取る机に近付く。
「この学校にミス研あったなんて知らなかった」
機嫌を損ねたか危ぶんだが、声の温度が変わらなくてほっとする。相変わらず零度。
ようやく反応が返ってきたのが嬉しくて、いそいそと隣によりながら机に投げ出されていた部誌を手に取る。
「知らなくてもむりないよ、地味~な部活だから。部員も俺とこいつふたりっきりだし」
不機嫌な聡史に顎をしゃくる。もっと愛想よくしろよ。心の中で毒づき目つきで叱るも、聡史の馬鹿は新参者への反感も露に仏頂面を貫く。
椅子の背凭れに肘枕で顎を沈め、夜逃げをもくろむ負債者のアパートに張り込む借金取りよろしく剣呑な態度をとり続ける後輩から、小姑っぽい神経質さで机の縁をこする麻生に話しかける。
「なんていうか、お見合いってかんじ?」
「!先輩、そんな大胆発言を!?」
苦笑で軽口叩けば、椅子を盛大に鳴らし聡史がずっこける。
……オーバーリアクションが不審。
「存在自体知らないヤツ結構いるよ、活動も目立たねーし。放課後集まって読んだ本の感想熱くテキトーにだべるだけ。な、ラクだろ?ミステリ好きの極楽だよ、ここは。そりゃまちょーっとは埃っぽいし狭苦しいし散らかってっけど、旧校舎の端の端だから先生もめったに見回りこねーし、スナックとか飲み物持ち込んで宴会気分……」
「よくこんな環境で飲み食いできるな。神経を疑う」
「なっ……さっきから黙って聞いてりゃ失礼っす!」
指についた埃を吹き払う。
麻生の態度にいきりたつ聡を両手を上げ下げまあまあとなだめ、話題をふる。
「そういやこないだ貸した本どうだった?」
途端、上機嫌になる。
「すっごく面白かったっす。さすが先輩、すすめる本にはずれない!」
「いいだろ学生アリス。俺も大好きでさー、ミス研の面々がいいよな個性的で。あれは一作目だけど、次から紅一点の美少女が増えるんだ。前から読んでもありままりあ、下から読んでもありままりあ」
「スリリングですっごいはらはらどきどきしました、クローズドサークル物の隠れた名作っすね。噴火に巻き込まれ孤立した状況下、疑心暗鬼に陥る人間関係の描写が秀逸で……自分は織田先輩が」
「やっぱ?おまえなら絶対信長先輩にはまるとおもったんだよなー、キャラ被ってっし。俺は江神さんかな、かっこいいよな余裕あって。月光ゲームはあの青臭さがたまんないんだ、まさに青春!てかんじ。パニック物としてもよく出来てる。アリスの恋は甘酸っぺーし、事件の結末は切なくて胸がキュンとして……」
「シリーズって事は続くんすよね?全部クローズドサークル物?」
「そーそ、どれも嵐の山荘形式。英都大の面々が旅行先で事件に巻き込まれんの。いちおしは三作目双頭の悪魔、京極なみのボリュームで読み応え満点。これはちょっと変則的でさ、ミス研が二組に分かれてそれぞれ別の事件に巻き込まれんの、同時進行で」
「へえ、おもしろそうっすね。実は裏で繋がってたり?」
「それ言っちゃネタバレだろ。でもいい勘………」
まずい。
夢中になって本談義に興じてしまった。
手振りまじえ熱弁ふるう俺の後ろで、暇をもてあました麻生が携帯をいじりはじめている。
「いや、ごめん、えーと、いきなりこんな話してもわかんないよな。悪い悪い、推理小説の話になると妄想スタンピードでさ……なんか食う?飲む?コーラと烏龍茶ならあるけど……あ、昨日からおきっぱなしでぬるまってら」
「いらない」
携帯から顔も上げず答える。俺は視界に入ってさえいない。
机に腹ばいになって烏龍茶のペットボトルをとるも、途中で脱力。
液晶を見詰める麻生の顔をさぐる。伏せがちのレンズが液晶の光を反射して青く染まる。
「電話、だれから?」
だれでもいいじゃん、詮索すんなよ。うざいよ。
だが、俺は追い詰められていた。会話に困り、どうでもいいことを聞く。
素早くメールを打ち込みながら麻生が呟く。
「人殺し」
酷く冷たい声だった。
「え?」
冗談?
顔が半笑いに引き攣れる。どう返したらいいか困る。
さめきった顔でメール送信、用が済んだ携帯をしまう。
居心地悪い沈黙が漂う。聡史も困惑している。
冗談で流してしまうには麻生の目は温度が低く、顔は少しも笑ってない。
眼鏡の奥に鎮座する黒瞳が、厭わしげに俺を見る。
「もう帰っていいか」
ここに来たのは義理だという本音が透けて見える。
長居する価値と義理はないと冷徹な顔が言っていた。
返答を待たず踵を返し、引き戸に歩み寄る麻生の背中に駆け寄る。
「待てよ、麻生、麻生って!」
「一回来りゃ満足だろ。明日からつきまとうな」
「怒ってんのか、空気も読まずお前にわからない話で盛り上がったから。悪かった謝るって、一回腰掛けてくれよ、座って話そうぜ」
「椅子がない」
聡史め、用意しとけよ。
心の中で舌打ち一回、手近のパイプ椅子を引き寄せる。俺の椅子だ。
「お前の椅子だ」
「お前はどこに座るんだよ?」
「ダンボール箱」
逃がしてなるものか。麻生を翻意させようと必死に舌を回す。
床には雑然とダンボール箱が置かれてる。
そのうちひとつに腰掛け足をのばし、正面の椅子に座れと、視線で懇願する。
「よし、ミス研の活動方針を改め」
空気の抜ける間抜けな音と共に底が抜ける。
言い終わるのを待たずダンボールがひしゃげ、尻がはまる。
「て」
災難は続く。
蓋が抜けダンボールに尻ごとはまったかっこでもがけば、流れ出た資料にずざざと足をとられ床に倒れこむ。
「先輩、大丈夫っすか!?」
椅子を蹴倒した聡史が慌てて助け起こそうとする。やべー顔から火が出る恥ずかしい、ほそっこい俺の体重も受け止めきれないダンボールの強度を恨む。床一面に部誌がなだれて惨状を呈す。どうにか尻を抜こうと身をよじるも箱の寸法が上手い具合にフィットして脱出困難……
「畜生ぬけねっ、このダンボールめ!そんなに俺の尻が好きか、ここ一番の大事な時に恥かかすなよ!?待ってたんますぐ抜けるから帰るな麻生、頼むからもうちょっと………」
「ぷっ」
嗤われた。
「え?」
聡史と同時に顔を上げる。
麻生が口元を引き締め俺を見下ろしてる。何かを懸命に堪えるような顔。
「今笑った?」
「笑ってない」
「ちょっと笑ったよな」
「笑ってねーよ」
「受けた?ツボ?俺の体当たりギャグ好感触?」
手ごたえを感じる。
あの麻生が、無表情がデフォルトで何話しかけても反応薄い優等生が、ダンボールに尻突っ込んだ俺にうけてる。
勝った。
歪んだ口元を見せないよう顔を背け気味に、引き戸に手をかけ出て行こうとする麻生に、苦渋の決断をくだす。
尻歩きしかない。
ダンボールから抜け出せないならひきずっていくまでよと心を決めいざ実行せんとして、床に転がった一冊の本が目に入る。
「入るか入らねーか、この本読んで決めろよ!」
素早く本をひったくり、麻生の背中めがけ投擲。
今しも戸を開け出て行こうとした麻生が背後に迫る気配に振り返り、肩の位置に手を掲げ、本を受け取る。
頭もいいくせに反射神経もいいとは、ずるい。ちょっと嫉妬。
反射的に掴んだ本を見詰め、眼鏡の奥の双眸を怪訝そうに細める。
同時に聡史の助力が実り、尻に喰らい付いたダンボールがへし折れ自由の身になる。
「何これ」
手の中の本を迷惑そうにもてあます麻生と対峙、毅然と顎引き宣言。
「虚無への供物」
「返す」
「貸す」
「いらねえ」
「一度貸したもんを受けとれるか。受けとってほしいなら読んでこい」
「虚無への供物」押し売りに困惑顔の麻生に接近、学ランの懐から引っ張り出した用紙を本に重ねて押し返す。
「学校一の秀才ならすぐ読めるだろ?読んだら感想聞かせてくれ。つまんなかったらお前の事はすっぱりあきらめる。でも、ちょっとでも面白かったら………」
おもわせぶりに一拍おき、それまでのお調子者の笑みから一転、真剣な顔で迫る。
「ミス研入れよ」
賭けに出た。
ミス研の命運を一冊の本に託した。
「虚無への供物」に俺のプライドとミス研の存亡を託しむりやり手渡せば、麻生はうんざりためらう様子を見せたが、試しに最初の方をぱらぱらめくり、眼鏡の向こうの目が知的好奇心に光る。
「…………借りてく」
本を小脇に抱え、今度こそ部室を出ていく。
戸に遮られて学ランの背中が見えなくなるまで俺はその場に立ち尽くし、硬質な靴音が遠ざかるのを聞いていた。
「いいんですか、あんな無茶言って」
「勝算はある」
ダンボールを圧縮し終えた聡史が口を挟むのに、自信をもって断言。
机に放置された昨日の烏龍茶をボトルから直接一気飲み、ぐいと顎を拭く。
「江神さんが持ってた虚無への供物がきっかけで、アリスはミス研入部を決めたんだ」
俺の読みは当たった。
翌日、旧校舎三階の部室にやってきた麻生は、寝不足のせいか少し赤い目を不機嫌げに逸らし、虚無への供物を俺に手渡した。
「……………面白かった」
入部届けには右上がりの端正な字で「麻生譲」の名が記されていた。
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