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第15話
「見ろよ、出したぞ、きったねえ」
ボルゾイの得意げな歓声を背中で聞く。
振り向く気力は尽きる。
前のめりの姿勢から壁に額を預け、荒く浅く息を吐く。
割れたシャツから貧弱に痩せた腹筋と白濁の飛沫にふちどられた色どりあざやかな痣が覗く。
のろのろと横を向けば、右手はしっかり壁に接着されていた。
「っは…………」
瞼を開けてるのが辛い。
細く薄目を開け、翳った視界に蠢く複数の影を捉える。
頬を預けた壁は固く冷たく絵の具の匂いが鼻腔にもぐりこむ。
「むりすると手が裂けるぜ。諦めろていい子で待ってろよ、気が向いたらそのうち水と食糧もって来てやるからさ」
明日から夏休み。
学校には丸一ヶ月間、人がいなくなる。
全身にびっしょりかいた汗が急速に冷えていく。
「冗談だろ」
乾ききった唇を舐め、かすれきった声でなんとか聞く。
手に取るように怯えと動揺が伝わる負け犬の声がよっぽどツボにはまったのか、ボルゾイの取り巻きが腹を抱え盛大に笑い、顔に唾がしぶく。
反射的に瞼を閉じ唾を避けるも、続く声で絶望にうちのめされる。
「一人じゃ寂しいだろうからトモダチ連れてきてやる」
企み声と邪悪な笑顔でボルゾイが指示をとばす。
同級生が隅から何かを抱きかかえて持ってくる。
目を凝らす。
同級生二人がかりで運んできた画架に、一枚の絵がのっかってる。
一見何の変哲もない男子生徒の絵。
描かれてから年数が経過して全体に埃を被ってる。
「知ってるか?御手洗高七不思議のひとつ、泣く肖像画」
画架に凭れかかり、ギャラリーの注目に酔っ払った調子で説明する。
「昔、一人の生徒が学校の屋上から飛び降り自殺した。その生徒は美術部所属で、生前自分の絵を描いて残してたんだそうだ。以来、その絵は涙を流すようになったってわけさ。顔近づけてよく見ろ、頬んとこが色変わってんだろ?涙のあとみたいに見えねーか……って、そうか悪い悪い、近付けねーんだったなそれ以上。忘れてたぜ」
ささくれた哄笑が炸裂する。その怪談は初耳……待て、ぼんやり聞いたことがある。記憶力が悪いから忘れかけていた。
ボルゾイに促され絵を隅々まで注視する。そう言われると不気味だ。
暗示のせいか、確かにほかと比べ頬んとこが少しぼやけてる気がする。
まるで涙が流れたあとのように……まさか、絵が泣くわけない、ひっかけだ。
「びびらせようって魂胆で適当ふいてるな?その手はくうか。もし噂がホントなら、トリック仕掛けられてるに決まってる。ナイフで削りゃ下にちがう絵が描かれてるとか、よくあるだろ。推理小説どころかめったに本も読まねーお前らは知らないだろうけどさ」
内心の怯えを笑顔でごまかし挑発すりゃ、ばか笑いがぴたりとやみ、敵愾心むきだしの険悪な雰囲が充満。
「なら逆に安心だよな、この絵と一晩中ふたりっきりでいても。心細くなくていいだろ、楽しくおしゃべりしてろよ」
「まかり間違って人に見られたらそっこー頭の病院送りだけど」
「下半身半脱ぎで上はだけたお前のエロいかっこに興奮してちがうもん流すんじゃねーか、この絵」
「ちがうもんってなんだよ」
「鼻血にきまってんだろばーか、目からザーメンたらすとでも思ったか。頭ん中エロしか詰まってねーな」
「お前だって似たようなもんだろ」
また爆笑。耳障りによく笑う連中。
「朱にまじわりゃ赤くなる、類は友を呼ぶ、か……むかしのひとはうまいこと言うな。お前らの無個性なゲスっぷり、いっそ痛快」
強がり呟く俺の前髪にボルゾイが手をかけ、荒っぽくかきまぜる。
「お前の手と壁が離れなくなる頃、楽しいおもちゃを持ってきてやるよ。携帯バイブお気に召したみたいだし、今度はローターでも試してみるか?中から震えが来て刺激的だぜ、前立腺びくびくしてあっといまにイッちまう。羞恥と快楽に弱いみてーだし、そういうプレイが好きなんだろ?調教だよ、調教」
しっとり汗ばむ俺の頭髪を最後にひとなで、ボルゾイが哄笑高らかに腰を上げ、同級生を引き連れ退散していく。
去り際ついでに蹴りを入れるヤツ、顔をひっぱたいてくヤツ、下腹に飛び散った白濁をわざわざシャツの裾で拭ってくヤツ……
六人も同級生がいて、ただの一人も助け戻ってこない。
良心の痛みなど微塵もなくぞろぞろ練り歩いて美術室に出るや、無慈悲に戸を閉める。
「………は、はは」
誰もいなくなった美術室、壁に手を接着され成す術なくへたりこみ、乾いた声で笑う。
シャツははだけっぱなし、ズボンは膝までずり下げられ、下腹にはろくに処理されず残された白濁が痣をふちどる。
「………参っちゃったなあ。どうするよ?」
正味笑うしかない状況。
壁に片手をひっつけた間抜けな格好で傍らの絵に問うも当然答えはない……あったら怖いと自分につっこみ物音に耳を澄ます。賑やかな靴音と騒々しい喋り声が廊下を遠ざかっていき、やがて静かになる。……ボルゾイめ、本当に帰っちまった。薄情な同級生を心から呪う。
「誰かいねー?おーい、今おれめちゃくちゃピンチでちょっとばかし洒落になんねー状況なんですけど、たまたま通りがかってくれるか先生か生徒か消防担任か名探偵か猫か正義の味方か、だれでもいいからこんにちはして壁と縁切るの手伝ってくれると嬉しいな、なーんて……」
精一杯声を張り上げ応援を求めるも返事なし、余韻の波紋が沈黙を深める。
野球部はまだ練習を続けてるらしく硬球とバッドの打撃音がかすかに響く。
焦りが募る。
「あの、ほんと困ってるんですけど!!俺ですよ俺、2年A組秋山透っす、アメリカ31代大統領はだれかの問いにベルトコンベアって書いたばかでおちこぼれで有名な秋山っすよ!でも冗談じゃないんす真剣なんです、俺これからバイトの面接入ってっし、遅れるわけいかねーし、家じゃ妹が腹すかせて待ってっし……っとそうだ、今日当番だっけ、夕飯なんにしよスーパーの値引きセールまにあうかな……じゃなくて!!あの、マジ聞こえないんですか?今肺活量一杯必死に叫んでんだけど職員室とどかねーかな、おい壁自重しろよ、後生だから俺の声やまびこで届けてくれよ外にさ!!」
ひっきりなし叫びうろたえながら下着を履きズボンを引き上げる。
とりあえず、これで第一発見者に変態扱いされずにすむ。
目一杯息吸って吐いて吸って吐いて、肺活量一杯怒号を放って助けを求めるもなしのつぶて、俺の声は分厚い壁に遮られ職員室には到底届かず、唯一生徒で居残ってる野球部の連中は特訓に夢中で硬球が飛ぶ音もキーンと高く耳を貸しゃしない。
恥を忍んで人の手を借りなきゃこの状態から抜け出せそうにない。
あがけばあがくだけ深みにはまる悪循環に頭が煮える。
右手は壁にべったりくっついて押しても引いても剥がれない、じれきってむりやりひっぺがそうとすりゃ生木を裂くような激痛が走って身も世もなく絶叫を上げる。
「ーッ、痛っでえ―――!!」
べりべりと音がする。たぶん幻聴じゃない。
これは、ほんと、やばい。しゃれになんね。
さっきから何度も言ってるけどわるふざけじゃすまねーぞ、こんな状態で腕上げっぱなしで放置されたら死ぬ、脱水症状だか餓死だかで絶対死ぬ。
終業式終わって生徒の大半帰って教師もいなくなって、俺は夜の校舎にひとり取り残されて……夏休み明け、一体のミイラが美術室で発見される。
『地方高校生 旧校舎の美術室で変死』の見出しが脳裏に浮かび、泣き笑いの形に口元がゆがむ。
「このままじゃ怪談のネタになっちゃうじゃん……て、そうだ、携帯!!」
そうだよ携帯だよ忘れてた!
ポケットに手を突っ込み頼みの綱の携帯をとりだそうとして、利き手が使えないのを悟る。
しかたない、壁に固定された右手の代わりに左手で……むずいな、これ。
ぎこちなく身を捻り、ひどく苦労してポケットから携帯を取り出す。
「誰にかける?聡史?真理はまだ学校か……今日ユキちゃんと遊ぶっつってたしお袋はパートだし、あと誰だ、えーっと」
登録者一覧を表示上からスクロール、一箇所で手がとまる。
麻生。
眼鏡をかけ取り澄ました顔が脳裏に浮かぶなり携帯の操作に不慣れな左手がすべり、携帯がカシャンと落下。
「あ!」
嘆くも、遅い。
慌てて手を伸ばすも既に携帯は床を滑って遠ざかっている。
災難に不幸が重なる。
「ドジった……!」
舌を打つ。
拾おうと床を掻きむしるも体力を消耗するだけでさっぱり成果が上がらない。
こうなりゃ助けに期待するっきゃない。
「お願いします、助けてください、礼は……持ち合わせがないんで金はむりだけど、断腸の思いで俺の宝物の松本清張直筆サイン本あげっから、こないだ古本屋でゲットしてサイン入りだって知って転げまわった……やっぱだめ今の却下、清張は渡さないッ、その代わり横溝正史のサイン本……やるか畜生、棺桶の中まで持ってくんだ―――――!!」
一時間。
二時間。
三時間。
………何時間たった?
「喉から出血大サービス、横溝正史愛用の万年筆の折れた芯と、松本清張が書き捨てたって噂の原稿用紙のかけらもつけるからっ………」
枯れた喉がひりひり痛む。
二時間だか三時間だかぶっとおしで叫び続けたせいか口の中に血の味が充ちる。
こんだけ叫んでも誰も来ない。生徒も先生も帰っちまったとしか思えねえ。
さっきまで耳が麻痺するほどうるさかった蝉の声も絶え、野球部も全員帰宅したのか硬球の打撃音が途絶える。
窓の外は夕闇に呑まれ、夏の夜がひたひた忍び寄る。
静寂。俺の息の音と鼓動ばかり荒い。壁に寄りかかり、呼吸を整える。
視線を感じて振り向けば、正面に据えられた自殺した生徒の絵が、はにかむような笑みを含んで見返している。
黄昏の光線の角度のせいか、モデルの運命を知ってるせいか、どこか寂しげな笑顔だった。
「…………あんたも手伝ってよ」
視界がオレンジ色に燃える。
一面の窓からさしこむ残照が床を染め、肖像の頬に二筋の光を点じる。
目の錯覚?
『知ってるか?御手洗高七不思議のひとつ、涙を流す肖像画』
『昔、学校の屋上から飛び降り自殺した生徒がいた。その生徒は美術部所属で、生前自分の絵を描いて残してたんだそうだ。以来、その絵は涙を流すようになったってわけさ。顔近づけてよく見ろ、頬んとこが色褪せてんだろ?涙の筋みたいに見えねーか……って、そうか悪い悪い、近付けねーんだったなそれ以上。忘れてたぜ』
思い出した言葉に息を呑む。
学校は、夜に突入する。
…………ははははは、はあぁ~……」
最初は自嘲の笑い、最後はため息。
不本意だが。
とてもとても不本意だが、清張と正史じゃ正義の味方は釣れなかった。
近代現代ひっくるめた往年ミステリファンとしちゃまことに遺憾で無念です。
あれから何時間経ったのかわからない。夜が訪れ、窓の外は暗い。
叫んで叫んで叫んで、それでもダメで。
とうとう力尽きて、がっくりうなだれる。
「………腕、痛え……」
肩も凝った。
この体勢は、生半可じゃなく辛い。
右手は壁に接着され上がりっぱなし、腕にひどく負担がかかる。
長時間緊張を強いられた筋肉はがちがちに強張っている。
付け根の感覚がそろそろ失せてきた。
頭も朦朧とする。叫び通しで軽い酸欠状態……少し眩暈がする。
喉が痛い。腕が痛い。
額をつけ壁に寄り添い、床の離れた場所、手の届かぬ遠くにぽつんと転がる携帯に諦め悪く手を伸ばす。
脱臼寸前、間接の限界ぎりぎりまで力んで手をのばすも爪が床を引っかき跡をつけるだけで終わる。
結局、面接すっぽかしちまった。
せっかく時間割いてくれたのに、悪いことした。
「行けねーなら行けねーで、電話くらい入れとくべきだよなあ……」
また最近の高校生の評判おとしちまった。全国津々浦々の勤労高校生同志に土下座。
胸に凝る罪悪感を吐息にのせて押し出す。
疲労で混濁した頭が家にとぶ。
妹はもうとっくに帰宅してるはず、飢えて戸棚のカップラーメンあさってなきゃいいけど……カップラーメンは塩分高いから太る原因、栄養は胸にいくが過剰な糖分と塩分は腹にいく。聡史はもう帰ってるだろうか、今頃は夕飯終えて部屋でゴロ寝かゲームか読書してるだろうか羨ましい。
麻生は?
「………彼女と一緒だよな………」
麻生の名前を見て、一瞬ためらったのは、彼女と一緒にいるとこを邪魔をしたくなかったからだ。
俺には想像できないけど。
彼女と一緒にいるときは、麻生はもっと、自然に笑うんだろう。
俺に見せないリラックスした素顔を見せるんだろう。
壁に繋がれたまま長時間放置され、忍び寄る闇と静寂とに精神を食い荒らされる恐怖をごまかそうと、考えを脇道に逃がす。
壁に額をつけ、麻生の彼女についてあれこれ想像をめぐらせる。
「眼鏡はガチか。頭よくて、麻生と付き合えるくらいだから性格よくて……知的な感じの美人で」
そのうち紹介してくれっかな。
首筋にキスマークをつけるくらい深い仲の彼女だ。
もし麻生が友達なら、俺の事を友達だと思ってくれてるなら、いつか、そのうち、紹介してくれると嬉しい……なんて。
「…………モテそうだもん、あいつ」
壁の冷たさが額に染みる。
俯けば割れたシャツから覗く下腹が目に入り、唇を噛む。
左手で不器用にボタンをとめかかるが、うまくいかずいらだつ。
ボタンを穴に通そうと試行錯誤する。
暗闇の中、下腹を汚染するいくつもの痣がおぞましい声を伴い生々しく浮かび上がる。
『クラスの余り者同士、傷でもなめあってんのか。別のとこも舐めあったりしちゃってんのか』
指が汗ですべり、ボタンがぬける。
『デキてるんじゃねーの、おまえら』
ボタンを拾い、再挑戦。
『どっちが下なんだ?麻生じゃないよな、まさか』
縦にして横にして斜めにして穴にくぐらせる。
『おまえ、童貞?人の手でされるのに慣れてないと、感じやすいだろ』
むりやり突っ込む、
『んだよ、その声。気分出してんじゃん。麻生にも聞かせてやったのか』
「入れよ」
突っ込む、
『同級生の前で下半身剥かれて、しごかれる気分はどうだ』
『色っぽい声出すじゃん』
『やべ、なんか興奮してきた』
『写メ撮るか、記念に』
『やべー、おれ勃ちそう。そっちの道目覚めちゃったらどうしよ』
『コイツ割に可愛い顔してるし、がんばればイケるよ』
『今度女装させてみようぜ』
『今話題の学校裏サイトあんじゃん、あれ作ってこいつの写真載せんの。アクセス稼げるぜ、きっと。うけるし』
入れ入れ入れ強くがむしゃらに念じる眉間の一点が集中の極みでじんと熱くなる、あせればあせるほど指先が緊張と動揺で震え何回も何回もボタンを落とす、嵌まったと思えば穴から抜け裾が割れ、痣ばっかの下腹をさらすー
「―――――――っ!!!!」
鈍い音、拳が割れる衝撃。
左手で拳を作り、渾身の力で壁を殴打。
「最高にかっこ悪ィ、ボタンひとつまともにとめられないって最高に最低じゃん、さっきから何意味ないことしてんだよ、叫んでも騒いでも誰もこねーのに諦め悪くぎゃあぎゃあと……びびってんのかよ、あれしきで、ボルゾイごときに。一日二日ほっとかれたって死にゃしねーよ覚悟きめろよ男だろ、麻生だったら」
麻生だったら?
「もっと落ち着いてる、頭使って切り抜ける、俺みたくみっともなくパニクったりしねえ」
麻生だったら。
二階の窓から軽々身を躍らせ俺のピンチを助けた麻生なら、同じ目にあっても、余裕で切り抜けるはず。
大丈夫、なんとかなる、悪い事はそう続かねえ。そのうち助けが来る、待つんだ。
いつ?いつ来るんだよその助けとやらはこんなに叫んで暴れて訴えたのに誰も来やしねえ、このまま死んじまうのか脱水症状か餓死かどちらにせよ最悪の死に方、しかもこんなかっこで死に際にボタンひとつまともにとめられず腹むき出しで、自分が出したものも始末できねえで……
生渇きの下着が気持ち悪い。
シャツの裾が割れ、痣にこびりつく乾いた白濁がちらつく。
惨めで最低な気分。
息を吸うごと打ちのめされ、息を吐くごと打ちひしがれる。
最中はどっか飛んでいた、切り離して考えられた。
敏感な部分に執拗に加えられる刺激と快楽に翻弄され、正常な判断力が働かず、状況を分析できず、一方的な流れに身を委ねていられた。
今は?
同級生の前でシャツむしられて、ズボンと下着剥かれて、体中あちこちまさぐられて、射精までしてみせた気分はどうだよ秋山透?
携帯のバイブで感じた気分は?
痴態を携帯で撮影された感想は?
接着剤で壁に繋がれ放置プレイ中の気分は?
「やめろ」
俺が悪かったごめんなさいお願いだからやめてください
口にしたのは身に覚えない理不尽への謝罪で命乞い、大人数に囲まれ嬲られ笑われびびって縮み上がって軽口忘れて、終始一方的にやられっぱなしだった。
かっこ悪い、最高にかっこ悪い。
妹にも後輩にも友達にも見せらんねえ負け犬の四つんばい、あんなかっこ写真に撮られて、あんなー
物音。
「!」
弾かれたように顔を上げる。
夜の校舎に一際大きく不吉に響くその物音は、接近に伴い靴音と判明する。
誰かが来た。
助けか?
おもいっきり息を吸い込みここにいると知らせようとして、しかし、ためらう。
本当に助けか、味方なのか、もし違ったら?
期待を裏切られ続け疑心暗鬼に苛まれるも、一度強く目を閉じ迷いを振り切って、湧いてきた希望と余力をふりしぼって叫ぶ。
「ここだ、助けてくれ!!」
腹の底から大声を出し、暗闇に射した一縷の希望に縋る。
「美術室にいる、早く来てくれ、ちょっと面倒なことになってっから手え貸してほし」
引き戸が乱暴に蹴り開けられる。
「またせたな、秋山」
聞き覚えある声。
暗闇に慣れた目が影を捉える。
ボルゾイ。
私服に着替えたボルゾイが桟を踏み越え、靴を履いたまま、教室にずかずか踏み込んでくる。
恐怖に喉が鳴る。
人影の正体がボルゾイと直感するなり体が拒絶反応を示し後退を始める。
壁にぴったり背中をくっつけできるだけボルゾイから遠ざかるも、相手は俺の反応を楽しむようににやつき大股に歩み寄る。
「ここだ、助けてくれ、早く~……か。必死な声。いっつもへらへら癇の障る顔で笑ってるお前らしくねー。どうしたんだよ、そんなびびって。昼間のがきいたか?俺の姿見ただけで震えてんじゃん」
ボルゾイが壁に手をつき、俺を押さえこむように前傾する。
陰険にぎらつく目と細い鼻梁、女受けよさそうな細面が至近に迫り、薄い口元がこの上なく楽しげに歪む。
「約束したろ。水、持ってきてやった」
恩着せがましく言い、俺の鼻先にペットボトルのミネラルウォーターを突き出す。
ペットボトルの中でたぷんと揺れる水に、自然喉が鳴る。
「喉渇いたろ。だからカクテルジューズ呑んできゃよかったのに」
「…………ただの絵の具水だろ。呑んだら泡吹いて死ぬ」
「欲しい?」
物欲しげに喉鳴らし、ミネラルウォーターを目で追う俺に向かい、手中のペットボトルをこれみよがしに振る。
正直、喉の渇きは限界。一滴でいいから水をくれとボルゾイの膝に縋りついて頼みたい衝動を一握りのプライドでねじ伏せる。
「さっきぶちまけた水は乾いちまったな。まさかお前、啜ったの?喉の渇きにたえかねて、犬みたいに這い蹲ってさ。新しい綺麗な水が呑みたいだろ」
頷けずにいると、ボルゾイは鼻白んだ様子で身をどけ、ペットボトルの蓋をひねる。
ペットボトルに口をつけ美味そうに喉鳴らし水を飲む。
口の端から顎から滴った水を手の甲で拭い、豪快に息を吐く。
喉が鳴る。渇きは耐え難い。
「水………くれ」
亡者のように貪欲に手をのばし、朦朧と呟く俺の視線を十分絡めとってから、まだ三分の二も中身の残ったペットボトルを逆さにする。
「!」
空気の抜ける音たて、逆さにしたペットボトルから水の残りが床へと流れ落ちる。
床一面にぶちまけた水を靴で跳ねちらかし、からっぽのペットボトルをそこらに投げ捨て、再びボルゾイが歩み寄る。
「呑めると思ったの?」
目に雫が入る。ボルゾイが俺の顔面めがけ水溜まりを蹴り上げる。
「呑みたきゃ床から啜れよ、ペットらしく」
「さわんなゲス野郎!」
牽制の一声役に立たず、次の瞬間、頬に鋭い痛みが走る。
平手で殴られた。
「ずっと目障りだったんだよ、秋山。学校から消えてほしくてしょうがなかった。でも、特別に許してやる。お前みたいなクズでも俺たちと一緒の空気吸っていいって言ってんだ、感謝しろよ」
熱をもち疼く頬にボルゾイの手が触れる。
強制的に顔を起こされ、頬の痛みを堪え、皮肉な笑みを作る。
「頭、おかしくなったのか?言ってること意味わかんないんですけど」
「ペットとして飼ってやる」
「は、ははは。やっぱ頭ヘンだよボ、伊集院。ペットってなに、鎖に繋ぐ気?ぺティグリーチャムでもご馳走してくれんの」
「写真、よく撮れてたよ」
背筋が凍る。
「ばら撒かれたら困るんじゃないか、お前さ。学校の教室でシャツはだけてズボンさげて下着脱いで、勃起して、ザーメン腹にとばしてよがってるとこ。校内に流したら完璧変態扱い、最悪地元にいられなくなる。家族も後ろ指さされる。母子家庭で家族思いの秋山くんは辛いんじゃないかなって思ってさ……俺たちの性欲処理用ペットになりゃ、恥ずかしい写真流すのやめっけど」
「………脅迫?」
「今はネットもあるし、この先どこ引っ越してもそこにいられないようにすることもできるんだぜ」
ボルゾイが携帯をちらつかせる。
指先でフラップを弾き、力づくで起こした俺の顔に、青白く発光する液晶画面をつきつける。
液晶には、俺がいた。さっき撮られた写メ。ズボンと下着を脱がされ壁に向き合い、後ろから伸びた手にしごかれべそかいてる。
ボルゾイや同級生の姿は切れて、手しか映ってない。
「…………ペットって………投げたボール、くわえてもってくりゃいいのか」
ボルゾイの手が動く。
ズボンのチャックをおろし、トランクスをまさぐり、萎えた性器を引っ張り出す。
「しゃぶれ」
思考停止。
「……悪い、今なんて」
「しゃぶれよ。俺のもん口に入れて、舌使ってイかせてくれよ」
聞き間違いじゃなかった。
反射的に身を引くも、壁に繋がれてるせいであまり意味がない。
頭におかれた手にぐっと圧力がかかる。
抗う気力ごとねじ伏せるように押さえ込み、萎えた性器の根元に手を添え、俺の唇にもってくる。
「ふざけんな、んな汚ねえもん口に入れられるか、こんにゃくでも使ってろよ!!」
「いいのかよ、学校中に恥ずかしい写真が流れても」
頭を容赦なく押さえつける手。
きつく唇を結び行為を拒否するも、ボルゾイは余裕の笑みを浮かべ、根元を持って支えたそれでぺちぺちと俺の頬を打つ。
生臭い匂いが鼻をつく。
勢い良く悪態吐こうにも、口を開くやねじこまれそうな恐怖にかられ、きつく目をつむり耐えるしかない。
「口開けよ。一番乗りしたくてわざわざ引き返してきてやったんだ、がっかりさせんな」
「……ッ、正気じゃねえ……だって俺、男で」
「知ってるよ。同級生で、男で、今時推理小説なんかに目の色かえて夢中になってる気持ち悪いヤツだろ」
馬鹿にしたように笑う。
「お前もお前の友達もマジ気持ち悪いよ。口開けば犯人はだれだ探偵がどうしたばっか、クラスの連中にばかにされてるって気付かねーの?空気読めよ、もっと。推理小説なんてガキっぽいもん卒業して俺たちのペットになりゃ根暗に本読むよりずっと楽しい遊び教えてやるぜ」
目を見開く。
「麻生なんかと付き合うよかずっと楽しいって。大体頭のレベルちがいすぎて話あわねーだろ、やめとけやめとけ、不釣合いだよ。第一お前みたいな馬鹿が本読んでわかるわけ……」
噛みつく。
情けない悲鳴をあげしゃがみこむボルゾイに向かい片膝つき、渦巻く激情を押し殺し、低く、言う。
「俺は馬鹿だから馬鹿にしていいけど、俺が好きなもん馬鹿にすんな」
膨張する殺気でボルゾイの髪が逆立つ。
愕然と剥いた目が憎悪に濁り、憤怒の形相に豹変するや、無造作に足を振り上げー
「ぁぐっ!!」
激痛に背中が撓る。
ボルゾイの靴裏が股間を直撃、脳髄まで一直線に衝撃が貫く。
痛い痛い痛い靴裏の圧力で押し潰され血が上る頭が爆発しそう、床でのたうつ俺に降り注ぐ狂気の哄笑、ボルゾイが悪態を吐きつつ蹴りを見舞う、脇腹を背中を太股を頭を靴がふみつけていく、左手でひりつく股間を隠し庇う、無防備な背中にめったやたらと蹴りが降り注ぐー……
ずくん、と膀胱が疼く。
「………っ…………」
体が変だ。
下半身が妙にむずがゆく、膝がもぞつく。
美術室に監禁放置から数時間経過、ずっとトイレに立てなかった。
股間を蹴られた痛みと強烈な尿意とが一緒になって重力の増した下肢をずきずき苛む。
ぎゅっと股間を掴み、はち切れそうな膀胱を揉み、じわじわ水位を上げる排尿感をごまかす。
俺の様子がおかしいのに気付き蹴りをやめ、ボルゾイが大げさに心配げな素振りをする。
「凄い汗。ひょっとして、小便か。トイレいきたいのか」
「……ちが………はっ……あ」
濁流のような脂汗。
壁から手をひっぺがそうと力を込めるたび生木を裂く激痛が走り、口からヘンな声が漏れ、前屈みになる。
「……っ、小便………いかせてくれ……」
体がぞくぞくする。
膀胱がどんどん重たくなる。
限界まで高まった尿意が下半身を過敏にし、排泄の欲求が膨れ上がって、下腹全体がじんと痺れたようになる。
羞恥に耳まで赤くして小声で頼めば、ボルゾイが俺の太股に手を這わせ、鳥肌立った肌を擦る。
「よく聞こえなかった。もう一回」
「…………トイレ……………いかせてくれ………」
「漏らしそうなのか」
唇を噛んで頷く。
ボルゾイの嘲笑が耳元で弾ける。
「高校生にもなって?教室の床で?下着はいたまま?おしっこもらしちゃいそうなんだ、秋山くんは。俺に見られて興奮してんの、見てほしいの、見せつけたいの?いっぱい出すこと見てほしいのか、じょぼじょぼ床に垂れ流しちゃうんだこれから」
視界が怒りと憎しみと恥ずかしさで灼熱する。
「……い……はっ………………たのむ、これ、とって……ッと、も、むり……でそう……」
体全体が瘧にかかったように震える。
限界まで腫れ上がった膀胱が鼓動にあわせて脈打ち、ズボンにじわりと上澄みがにじむ。
懸命に手で押さえ、痛みを感じるほどに締めつけ、呂律の回らぬ舌で許しを乞い助けをもとめるも、ボルゾイはにやにや笑うばかりで動こうとしない。
「可愛いな、ぺったり内股で女の子座りしちゃってさ。ぎゅっとちんこ掴んで我慢して、どうしたんだよ?膝がくがくじゃねーか」
「あっ………は、だめ、いきたっ……ぃ、かせて……」
涙で眼球が潤む。
鼻の奥が塩辛い。
噛み締めた唇が切れて鉄錆びた血の味が広がる。
海綿が尿を吸収し今にも破裂しそうに肥大する。
「ひあ、ひく、ぁ……でる、も、限界ッ……伊集院、笑ってみてないで、助け……」
「不快にさせてごめんなさいって言えよ」
「っ…………!」
「俺が存在したせいで不快にさせてごめんなさいって泣いて謝ればイかせてやるよ」
尿道に綿棒突っ込まれ掻きだされるような辛抱たまらない膨張感に、膝ががくがく痙攣する。
羞恥と憤怒と混乱で真っ赤に焼けた頭で、わけもわからずうわ言を呟く。
「……悪かった……ごめん、俺、のせいで……不快にさせて……だから!……」
ズボンの上から股間をぎゅっと握りこみ、与える痛みで排泄の欲求をごまかし暴発の瞬間をひきのばすも、長くはもたない。
「伊集院、お願いだから、手、とって、行かせて、トイレ行かせてくれ!!出す、も出る、出ちまう、ぅあ……こん、なとこで、服着たまま、もらし……恥ずかしくて外歩けね、うち、帰れね……」
内股で首を振る。
恥ずかしくて恥ずかしくて、ボルゾイの顔がまともに見れねえ。
この年んなって、人前でもらすなんて、ふざけんな、できるか。
でも生理現象はどうしようもない。ボルゾイに蹴りをくらった股間は、溜めた水分を体外に吐き出そうと切なく疼きに疼き、我慢を続けるうちに下腹全体が革の水袋みたくたぷたぷふやけきって、行きたい、出したい、便所行かせてくれるならなんだってする、やれというならどんなことだって……
「ペットになるか」
頷く。
「しゃぶるか」
二度頷く。
二度三度四度ほんとは何度くりかえし頷いたかわからねえ、頭ん中それどころじゃなくて出したいそればっかで気がくるいそうで、下半身が水で膨れて重くって熱くって膀胱がぱんぱんではち切れそうで、首を上下に振るのに連動して腹ん中でまた水が波打ってー……ああ、本当に
生まれて初めて人を殺したいと思った。
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