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第17話

 窓ガラスの割れる音が夜の校舎に響き渡る。  耳を聾する騒音を伴い破れた窓から大量のガラス片が舞いこむ。  「!?なっ、」  ボルゾイの口が楕円形で硬直、非常識な乱入者に凝視を注ぐ。  ガラス片の溜まった窓の桟に片足かけ、バッドのような細長い物を肩に担ぐ影。  ちがう。  ようなものじゃなくて、バッドそのものだった。  「麻生……」  信じられない思いで呟く。  麻生がいた。  一度目は二階の窓から、二度目は美術室の窓から。つくづく窓から出入りするのが好きなやつだ。  シャープな知性を加味する眼鏡の奥、切れ長の目はいつにもまして冷めきっている。  桟に紛れたガラスの微塵を踏み砕き、美術室の中へと軽捷に乗り入れる。  ひらり桟から飛び下り、猫科の動物を彷彿とさせるしなやかな静けさで着地。  床一面に散乱した破片を靴裏が噛み、ジャリッと耳障りな音をたてる。  「なんでお前がここにいんだよ麻生!?」  ボルゾイが物凄い剣幕で噛み付く。  肩に流した不揃いな茶髪が殺気を孕んで膨らむ。  お預けくった狂犬の如く猛るボルゾイから壁際で浅く息する俺へ視線を移し、呟く。  「やっぱりここか。沢田が捜してたぞ」  「聡史が?」  「お前が帰ってこないって妹から沢田に電話行って、沢田から俺に来た。ひょっとしたら一緒じゃないかって思ったんだそうだ。心当たりがないって言ったらめちゃくちゃ心配してた。それでぴんときた、まだ学校にいるんじゃねーかって」  無関心に冷めた目からは何の感情もうかがえない。  大儀そうにバッドを引きずる立ち姿には斜に構えた倦怠感さえ漂う。  麻生と金属バッド……こんな状況じゃなきゃ吹きだしちまってたろう妙な組み合わせ。  眼鏡の似合う大人しそうな優等生が、不似合いな金属バッドをひっさげガラスの破片がばら撒かれた床に立つ光景はいっそシュールで、映画の一場面のように現実味が薄い。  眼鏡のブリッジを押し上げるやため息を吐き、足元に散らばった破片をバッドの先端ですりこぐ。  「案の定、校門前に自転車が倒れてた。秋山、お前の自転車だ。一発でわかった。自転車があるってことは、まだ学校にいるってことだ」  「学校中走ってさがし回ったのか。泣かせるね」  ボルゾイがからかう。麻生は無視する。  校門前に放置された自転車からまだ居残ってると確信した麻生は、学校中走りまわって、ついに俺の居場所を突き止めた。  「よくここがわかったな。旧校舎なんて誰も近寄んねーのに……」  ボルゾイの素朴な疑問に無言で顎をしゃくる。  不審顔のボルゾイと同時にそっちを向く。  床に落ちた携帯が青白い光を放っていた。  「あ」  さっき俺が落とした携帯。  「校舎は大体さがした。でもいなかった。旧校舎に向かってる時、美術室の窓に光が見えた。それが決め手だ」  操作に不慣れな左手が滑り携帯を落としたのが幸いした。  なすすべなく床を滑っていったときは自分のドジさ加減に歯噛みしたが、液晶の光が窓から漏れたおかげで、麻生が気付いてくれた。  ボルゾイが嘲弄の形に唇を捻じ曲げる。  「……品行方正な優等生がド派手な登場だな。窓ぶち破って、修理費大変」  「一番近道だったんだ。迂回してたら間に合わない」  「そのバッドは?」  「野球部から借りてきた」  悪びれずしれっと言う。たいした度胸だ。  蒸し暑い夏の夜の旧校舎、絵の具の匂いが沈殿する美術室の床にへたりこみ、悠然とバッドを佩く麻生を仰ぐ。  一度目に負けずとも劣らぬ度肝を抜く登場の仕方。  五月初め、俺と麻生が互いを認識するきっかけとなったあの日の出来事がくりかえし脳裏をよぎる。  二階の窓枠を蹴り宙に身を踊らす麻生。  軽捷な跳躍、優雅な身ごなし、綺麗な放物線。重力の法則を従えた非日常と隣り合わせの身軽さ。  あの時と同じく今度もまた、麻生はひどくあっさりと境界線を踏み越えた。  一片の躊躇なくバッドを大きく振りかぶって窓を破壊し、桟をとびこえて、夜闇を等身大にくりぬいて美術室の床に降り立った。  距離が消滅し、境界線が無意味に帰す。  俺は今まで麻生が引く境界線を消そうと努力してきた、いやがる麻生にしつこく付き纏い線の内側に入ろうと頑張ってきた。  今、存外あっさりとそれは実現した。  俺が意識していた不可視の境界線など、本人にとっちゃ真実どうでもいい存在だったのかもしれない。  こいつは平気で境界線をこえる。  平気で線のこっち側に非日常をもちこむ。   麻生譲は境界線の向こう側にいるんじゃない、対極が隣接する境界線上を歩いている。  こいつが常に漂わせる戦場の線上を歩くかのような不安定な危うさの正体はそれだった。  「お前は何やってんだ、伊集院。ズボンとパンツおろして、みっともないもんぶらさげて。夏休みの校舎で露出狂ごっこ?同級生がそんな変態だとは思わなかった」  「何って?たんなる遊びだよ、遊び。ネクラでオタクでいい年して推理小説なんかにハマってる秋山くんと遊んでやってたのさ」  卑屈に歪んだ目元に虚勢と滾る憤怒とが透けて見える。  片手でズボンをたくしあげジッパーを上げつつ、意味深に俺を見やる。  「だろ、秋山。楽しかったよな、俺たちに遊んでもらえて。まんざらじゃねえ声出してたし」  「黙れ」  「気持ちよかったんだろ、な?泣いてよがって白いもんたくさん飛ばしちゃったくらいだし。つまんねえ本ばっか読んでろくにオナニーしねーから携帯のバイブでイケるくらい溜まるんだよ、やさしいやさしい同級生にヌいてもらえてよかったろ」  ボルゾイがなれなれしく肩に腕を回す。  込み上げる嫌悪に必死に顔背けるも、頬と頬とがぴたり密着し、生温かい息と口臭とが匂ってくる。  片手で俺の肩を抱き、もう片方の手を腰から下腹に沿わせ、シャツの裾を割り開く。   「!やめろっ、」  「見ろよ麻生。あ、ごめん、もう見飽きてる?デキてるんだっけ、お前ら。忘れてた」  むざんに割り開かれたシャツの裾から貧弱に痩せた腹筋と色とりどりの痣、生渇きの白濁が外気に晒される。  「黄色、青、紫、黒……そそる色に染まってんだろ?色白いから目立つんだ、こいつ。ザーメンは……はは、もう乾いちまったか!そうだよなあ、たっぷり五時間はたってるもんなあれから。レンジでチンした牛乳の膜みてーに腹まわりにこびりついてやがる」  ボルゾイの爪がへその横の白濁をひっかく。  鋭い痛みとともに白濁のかさぶたが剥がれる。  「……ッの、野郎……いいかげんにっ……」  痛みに歪む俺の顔を至近で見物し片腕でしっかり戒め、麻生の視線を絡めとって生渇きのかさぶたを爪の先でこそぐ。   麻生は表情を変えず、後ろ抱きに下腹まさぐられる俺を眺めている。  衣擦れの音が理性をかき乱し、羞恥に全身が熱くなる。  耳朶が発火しそうだ。  麻生が見ている。  「見るな」  瞬きもせず。  「遠慮すんなよ、見てもらいたいんだろ本当は。たっぷり見せ付けてやれよお友達の麻生くんに、汚い痣と感じやすい体をさ」  「うるせえ黙れボルゾイの分際で口出すな、麻生あっち向いてろ、頼むから………ーぃっ!」  「下着ぱっつんぱっつんで半勃ちじゃねーか。まさか、さっきからずっとこの状態?携帯バイブそんなよかった」  「やめ……さわん、な……ぁく」  耳裏に熱い息を吹きかけられる。  ぬめる舌が耳の孔にもぐり唾液で潤す。  ボルゾイの手が下着ごしに股間のふくらみをなでさすり膨れ上がった膀胱を揉み、意地悪く尿意を煽り立てる。  とっくに限界を迎えた膀胱はボルゾイの手が触れるごと熱を持ち、痒みを伴う水っぽい膨張感が下腹全体を重たくする。  見るな見るなと一心に念じそっぽを向き、消え入りそうな声で懇願する。  麻生が助けにきた安堵に痴態を見られる恥辱が勝る。  こんなかっこで。こんな姿で。  こんな俺を見て、麻生はどう思う。きっと軽蔑する、引く、どん引き。  男の同級生にあちこちいじくられて浅ましく勃起して、はだけたシャツから丸見えの下半身は内出血の痣だらけで、まともな神経の持ち主ならとてもじゃないが正視に耐えない。  耳裏を執拗に這う唇に息が上擦り、股間をやんわり揉む手に腫れた膀胱ごと包まれ、痛みに近い性感が下腹を貫く。  「……………手、どけろ……」  「麻生とどっちがいいか言ってみろよ」  首筋が息で湿る。  ボルゾイが腕をずらし、俺の首を絞め、強引に引っ立てる。  首に片腕挟まれ立たされた視界に麻生を捉える。  「デキてんのか、お前ら。男子校にありがちなおホモだちってヤツ?人嫌いのすかした優等生がお前にだけおちこぼれのお前とは一緒に帰るくらい仲良くて、正直浮いてるぜ。麻生も趣味悪いよな、こんな貧乏人のどこがよくて付き合ってんだよ?やっぱ顔、体?ははっ、やっぱそうか!オツムは足んねーけど感度いいもんな、遊び甲斐あるだろ」  一人合点して仰け反るように笑う。  美術室の高く開放的な天井に狂った哄笑が響く。  万力じみた腕の拘束から抜け出ようと半狂乱で暴れる、身をよじって首ふって歯を立てようとして、そのつど首を圧迫され窒息の苦しみに喘ぐ。あがけばあがくほどボルゾイは調子に乗り、股間に這わせた手を発情した蛭じみて淫猥に波打たせる。  「けどな、残念だったな。秋山は別にお前の手じゃなくてもいいんだとさ、誰の手だってイけるんだとさ」  「麻生はそんなんじゃねえ」  「その証拠に見ろ出したもんが腹に飛び散って」  「やめろ見んな」  「大嫌いないじめっ子にちょっとさわられただけでびんびんに勃っちまって、笑えんだろ?いいぜ泣きたきゃ泣いても泣いて助けを呼べよ麻生くんに縋れよ、こっちにゃ証拠がある、お前が逆らったらアレを流すだけだ、家族そろって地元にいられなくしてやっからな!!諦めてペットになれよ可愛がってやっからさ、ケツにローター突っ込んで全裸で校庭散歩させてやるよ」    「くそったれ、耳が腐る、変態は死ね!!」  興奮の熱に浮かされ饒舌にしゃべり倒すボルゾイ。  劣情に火照った顔、しきりと唇をなめる癖、すべてがおぞましい。  爛々と目を濡れ光らせ一方的にまくしたてながら大胆に股間を揉み責め立てる。  麻生が動く。  破片を踏み砕く音がやけに大きく響く。  金属バッドをひっさげ、無防備に一歩を踏み出す。  「来るな!動くと酷いぞ」  ボルゾイが俺を盾に鋭く制す。  俺という人質をえて自信を回復、優位を誇示するようににやつく。  俺の首に腕を回した体勢から摺り足で横に移動し、接近しつつある麻生を牽制する。  「正義の味方登場。残念、ちょっとばかし遅かった。秋山はこの通りドロドロのぐちゃぐちゃですっかりいうなり」  麻生が歩く。  美術室の床を影が突っ切る。  床一面にばら撒かれた破片が甲高く硬質な音たて砕ける。   「見ろ、このエロい顔。目を赤く潤ませて、口の端っこから涎たらして……お前も興奮してきたんじゃね」  床の破片を薄氷でも踏み割るみたいにへし折り軽快な足取りで間合いを詰める。  ボルゾイの顔に戸惑いが走る。  麻生は立ち止まらない。  暗闇が包む美術室、俺を拘束し吠えるボルゾイのもとへ悠然と歩いてくる。  「待、」  ボルゾイが狼狽する。  再び制しかけたその顔面に、揮発性の刺激臭を発する液体が跳ねる。  麻生がおもむろに腕をふって手に隠し持った物から液体をぶっかけたのだ。  「!?っ、なん」  目潰しくらって怒号するボルゾイの正面に対峙、興味なく人を観察する癖がついた顔で宣言。  「華氏451度」  平板に低い声が静寂に同心円状の波紋を投じる。  ボルゾイが固まる。  ボルゾイの腕の中で俺も怪訝な顔をする。  闇に慣れた目をこらし、麻生の手の中の物体を視認。  銀の光沢のライター。  不審げなボルゾイに挑み立ち、眼鏡に表情を隠し、静かに口を開く。  「なにが燃える温度か知ってるか?……お前が燃える温度だよ」    ようやくボルゾイの顔に注がれた液体の正体に思い当たる。  ライターオイル。  同時にボルゾイも気付き、慄然と立ち竦む。  ライターの中身はボルゾイの髪に顔に服に染み付き、強烈な臭気を放つ。  「冗談だろ?」  「秋山から離れろ」  不細工な半笑いで念を押すボルゾイに、そっけなく言う。  生唾を飲む。  麻生は相変わらず退屈げな表情で眼鏡の奥の双眸を細め、さりげなくライターを翳す。  ライターのスイッチに指をかけ、上半身オイルに塗れたボルゾイを脅す。  「人はたんぱく質でできてるから燃えると甘ったるい匂いがする」   「……正気かよ。いかれてやがる」  「燃えるゴミになりたいか」  ボルゾイの顔が恐怖と焦燥に歪み、余裕ぶった半笑いが完全に消える。  麻生は冷静さを保ち、ライターを翳す。  美術室に充満するオイルの臭気が胸を悪くする。  麻生の足元で破片が砕ける。  眼鏡ごしの双眸が一段と鋭く細まり、冷徹な光を放つ。  「秋山を放せ」    場が緊迫する。  俺の首を押さえあとじさるボルゾイ、麻生を仰ぐ目に紛れもない怯えと苦渋の色が浮かぶ。  一瞬で優位がひっくりかえった。  麻生の得体の知れぬ威圧感と度胸に気圧され、後退を余儀なくされる。   「まさか、マジで火いつけたりしないよな。生きたまま焼き殺したり……んなことしたら、事件になるぜ。新聞にのるぜ。お前、破滅だ。夏休み入って早々学校に放火した優等生が、世間でなんて騒ぎ立てられるか、今から楽しみだよ」  「そしてお前は生きながら焼き殺された可哀相な被害者として全国区で有名になるわけだ。新聞に載れて嬉しいだろ」  オイル塗れの顔で強がるボルゾイに酷薄なまなざしを返す。  俺は何もできず、心理の裏の裏を読む緊迫した駆け引きに息を呑む。  度胸頼みの脅迫というには、渡り合う麻生の態度は底冷えする凄みさえ帯びている。  ライターを翳した麻生は、目の前で唾とばし喚くボルゾイになんら関心も同情も抱かず命乞いを聞き流す。  ライターを投げればボルゾイは炎上、美術室は一面火の海と化す。  「手軽に火葬してやる」  麻生がスイッチを押しこむ。  闇が一点燃焼し、ライターの先端にオレンジ色の炎が揺れる。  ボルゾイの目が極限まで剥かれー  舌打ち。  「!うあっ、」  背後から突き飛ばされ勢い良く前にのめり、右手を引き裂く激痛に目が眩む。  ボルゾイが一陣の疾風と化し俺の横を全速力で駆け抜ける。  目指す先には麻生が立つ。  最短の出口は窓、しかし麻生を突破しないかぎり辿り着けない。  狂気の形相に変じたボルゾイが甲高い奇声を発し床蹴り跳躍、体当たりで麻生を組み倒しにかかる。    「あぁあああああああああああああぁああああああああああぁあああああ!!」  「麻生!!」  凄まじい怒号をあげ麻生に向かう。  不揃いな茶髪が風を孕み膨らみ、血走った目が凶暴にぎらつく。    麻生にむかい宙掻く手の先、バッドが風切る唸りを上げ一閃される。  一瞬なにが起きたかわからなかった。  麻生が鋭く呼気吐きバッドを振り上げ水平に宙を薙ぐ。  至近に迫ったボルゾイの足へ半弧の軌道を描き、風に乗じたバッドが吸い込まれる。   衝撃、骨折音、絶叫。  ボルゾイがへし折れた足を抱え悶絶。  「あがっ、あっ、ひあぐ、俺の足、足がああああああっ!?」  激痛に引き裂かれた絶叫が美術室に満ち満ちる。  もんどりうって倒れるや変な方向に曲がった足をかばいのたうつボルゾイを跨ぎ、バッドをさげた麻生がこっちに歩いてくる。  たった今目撃した光景に衝撃を受ける。  品行方正と定評ある大人しい優等生が情け容赦なくバッドを振るい、物凄い剣幕で襲いかかるボルゾイを渾身の一撃で沈めた。  間違っても球技の用具や自衛の武器じゃない、破壊と暴力の象徴。  さっきまで優等生に不似合いな無害な飾りでしかなかったバッドは、悪意と殺意をこめ振られると一転、侮りがたい殺傷力を秘めた凶器に変貌する。  同級生の腕にバッドを叩き込んでおきながらその顔は冷静そのもの、歩みは平静そのもので、かえって地雷原を直進するような危険な雰囲気が漂う。  瞬きも忘れ戦慄する俺の前で立ち止まり、泰然とした風情でポケットを探る。  ポケットから抜いた手がライターの代わりに握ったものを見て、背筋が冷える。  キチキチとねじ巻きカッターから鋭利な刃が飛び出す。  「目、瞑ってろ」  「-!痛ッ」  言われた通り目を瞑る。  手のひらと壁の間にひやりと刃が滑りこみ、皮膚の剥離が完了。   切除手術は一瞬で済んだ。  それほど痛みもない。手際がおそろしくよかったからだ。  それでも手のひらは酷い状態だった。  接着剤を塗りたくられ壁と同化した皮膚はむざんにずる剥け、赤い肉が露出してる。  べろりと皮膚が剥けた手に外気が染みる。  変わり果てた右手を見下ろし、泣き笑いで呟く。  「やっととれた……」  「行くぞ」  カッターの刃を引っ込めポケットにしまい、とっとと背中を向ける。  「ぐずぐずすんな」  「………お前の顔見たらなんか……安心して、腰ぬけちまって……」  壁によりかかって歩きに挑戦するも腰がへたれ、膝があっけなく挫ける。  麻生が舌を打ち引き返してくる。  バッドをそこらに投げ捨て、俺の腕をとり肩に回す。  手から抜け落ちたバッドが床ではね、甲高い音を奏でる。  抱き方自体は全然優しくなかった。むしろ露骨に迷惑そうだった。  苛立ちと腹立ちがないまぜとなった横顔を見上げるうちに、それまで忘れかけていた尿意がぶり返し、下半身が熱く疼く。  「麻生、ちょ、待っ………放せ……」  「は?」  「いいから手、放して、あっち向いてろ……はっ、く……頼む……」  限界まで腫れ上がった膀胱が脈打ち、不自然な前屈みで股間を隠す。  ぬるい外気に接した肌が過敏に粟立ち、脊髄が発する悪寒に下肢が痺れる。  訝しげに眉根をよせる麻生を突き飛ばし、肩で擦るようにして壁に凭れ、熱のこもる息を吐く。  「気分悪いのか」  「ほっとけ……いいから、ほんとなんでもね……こっちくんな……」  駄目だ、こんな時に、こんなところで、麻生が見てるのに、隣にいるのに、至近距離から覗き込んでるのに。  視線を感じて横顔が火照る。  視線を避けて俯き、ズボンの股間に両手を重ね置き、懸命に尿意を堪える。  「……んっく………ふ………」   股間をぎゅっと握る。  膝が小刻みに震える。  便所……間に合わない、今から走っても遅い。  「秋山」  「余計なことすんな!!」  俺の様子を不審がった麻生が肩に手をかけ、軽く揺する。  その手を拒み激昂すると同時に、下腹に溜まった熱い水がおりてくる。  「―!ッは………」   麻生の手が肩に触れた途端、それまで堪えに堪えていたものが弾け、ズボンの股間に生温かい染みが広がる。  麻生がぎょっと手を引く。  重ね置いた俺の手をもぬらしズボンの股間に広がるどす黒い染みから湯気がたつ。  自制心と理性を振り絞って塞き止めていたものが決壊し、勢い良く迸った小便が下着とズボンからびっしょり滴る。  「…………見んな………」  ぐっしょりぬれた下着の気持ち悪さにも増して麻生の視線がいたたまれない。  この年で失禁の醜態をさらし、自ら作った水溜りに虚脱してしゃがみこむ。  恥ずかしい。瞼がじんと熱を帯びる。よりにもよって、麻生の目の前で漏らしちまった。  小便我慢できなくって、だってしかたねえじゃん、どうすりゃよかったんだ、さわんなって言ったのに……  羞恥でふやけた頭が働かない。  軽い放心状態に陥った俺の腕をだれかが引く。  麻生。  俺の腕を掴み、無言で導いて教室を突っ切る。  まともに顔が見れず、唇を噛み、俯く。  せっかく来てくれたのに、不機嫌な麻生が嫌がる俺を無理矢理引っ立ててるような状況だ。  桟にたまった破片を払い、片足をかけ、現れた時と同じ身軽さでひらり外に出る。  俺も麻生も何も言わず、あえて互いの視線を避ける。  麻生がさしだす手を借りて、俺も桟を乗り越える……  「行かせるかよ」  濁った呪詛に振り向くや、風圧が前髪を浮かせる。  「秋山!」  麻生の行動は迅速だった。   鈍重な動作で窓枠をこえかけた俺をとっさに庇い、自分が上になって地面に伏せる。  押し倒されたはずみに胸が重なり、唇が目の前に来て、鼓動が伝わる。  俺の肩を掠めるように投擲されたバッドが目標をそれ、からからと地面に落下。  「……人の足叩き折っといて二人仲良く逃避行ってか?させるかよ。お前らふたりとも、思い知らせてやる」  瘴気をまとって這いずるボルゾイが脂汗の濁流に塗れた壮絶な形相に笑みを剥き、渾身の力で窓枠に這い上がる。  「逃げろ!」   跳ね起きるなり麻生が叫ぶ。  服に付いた泥と雑草をおとす暇も惜しみ踵を返す麻生を追い、縺れる足取りで駆け出し振り向けば、ボルゾイが今まさに窓枠をこえ鉤爪の形に手をのばしー  「どあっ!?」  すっ転ぶ。  「はっ、ははははっははははっ!」  大の字に床に倒れもがくボルゾイ、すっ転んだ原因は床の水溜り、今さっきわざわざ俺の目の前で捨ててみせたペットボトルの水。  自分で撒いた水に足を滑らせ、転倒の物音も派手に突っ伏したボルゾイに、狂気走った哄笑を浴びせる。  「なあ見たかよ今の開脚大の字、アイツ自分で撒いた水に滑ってこけてやんの、馬鹿すぎ!ははざまーみろいい気味だ思い知ったか、水くんなかったバチがあたったんだ!!」  ボルゾイを指さし爆笑しながら俺はそんな自分をどっか冷めた気分で見ている、顔筋が痙攣して喉が膨らみ萎み振り幅の大きい奇声を発する、目尻に涙を浮かべ哄笑あげる俺に背を向け麻生が金属バッド片手に取って返す、ひらりと窓を乗り越え再び降り立ちー……  金属バッドを振り上げる。  「待て麻生今のなし、ちょっとしたおふざけ、冗談だよ!俺たち同級生だろだから見逃し」  振り下ろす。  「ひがっ」  鈍い音  携帯に這って縋らんとしたボルゾイの手がひしゃげ破けた皮膚から骨が飛び出す。  携帯ごとボルゾイの手を粉砕した麻生、鼻水と涙と汗を滂沱と垂れ流すボルゾイの幼稚で醜悪な顔、手放した金属バッドがからからと床を打つ。  骨の突き出た手を押さえ苦悶に呻くボルゾイにはもはや一瞥の注意も払わず窓枠に手を付きあざやかに飛翔、膝を撓め着地、颯爽と駆け出す。  夜の旧校舎に後引く絶叫、腕と足をへし折られ美術室に取り残されたボルゾイの悲鳴、瞼の裏に鮮烈なフラッシュバック。  バッドを振り上げ振り下ろす麻生の無表情、廃線の枕木でも叩くような機械的単調な動作、同級生の腕と足を叩き折ってもなんら良心の抵抗と感慨を示さない。  ただただ退屈そうに、ただただ不快そうに、眼鏡の奥の目は永遠の傍観者じみて冴え冴え透徹した色を湛えている。  酸鼻を極めた凶行の現場を這いずりボルゾイが号泣する。  「覚えてろよ、殺してやる、お前らふたりとも学校にいられなくさせてやる!!」  麻生譲は窓枠を乗り越える気軽さで倫理と常識の境界線をあっさり踏みこえる。  蒸し暑い夜気を震わせ負け犬の遠吠えが追っかけてくる。  「乗れ」  校門前に倒れた自転車を素早く蹴りおこしサドルに跨り、もたつく俺を叱責。  「なにぐずぐずしてんだよ、まだなにかあるのか」  「だって俺、小便くせーし……」  頭をひっぱたかれた。  「つまんねーこと気にすんな馬鹿!」  この日初めて、麻生の表情が険悪に変化する。  半身ひねって振り向くやあぜんと立ち竦む俺にほんの一瞬、真剣に怒った顔を見せる。  叩かれた頭の痛みより、麻生が声を荒げるのを初めて聞いた驚きが勝る。  気圧される剣幕で怒号を放ち、再び前を向いた麻生が背中で急きたてるのにためらい、自転車の後ろに遠慮がちに跨る。……よく考えなくても自分の自転車に遠慮するっておかしな話だ。  転落を防ぐため、腰におずおず手を回す。  抱きしめた胴から熱い体温が伝わり、汗ばむシャツの匂いが鼻腔にもぐりこむ。  俺が乗ったのを確かめ、力強く地面を蹴り、自転車を出す。  校門から抜けた自転車がぬるい風を切るごと加速、坂道を一気に駆け下りる。  振り落とされぬようしっかり掴まり、後ろ髪がなびく引き締まった首筋に顔を埋める。  激しい風にばたつくシャツの襟ぐりから血の寄り集まった痣がいくつか覗き、ピンチを切り抜けた図太い心臓が急に騒ぎ出す。   吹き付ける風に逆らい、ノーブレーキで坂を駆け下りる無茶な麻生に呼びかける。  「麻生!」  「なんだよ!」  「バッドあのまんまでよかったのか!?」  「だれか拾うだろ!」  「ボルゾイは!?」  「知るか!」  「知るかって手から骨とびだしてたじゃん、病院とか電話……」  「~どこまでお人よしなんだよお前、自分の手を壁に接着して放置プレイしたヤツの心配してんじゃねーよ!!」  叫ぶ声が吹きちぎれ、高い夜空に持ってかれる。  夏の生ぬるい風が肌に纏わり、シャツの裾や袖が風を孕んで激しくはためく。  線となって流れる両側の景色を視界におさめ、俺と大して変わらない広さの背中に縋り付く。  「ちゃんと掴んでろ」  「……手、痛いんだよ」  車輪が高速で地面を削る。  風と一体化し駆け下りる爽快感が、恐怖に竦んだ体を全方位に解放する。   体に当たり髪を嬲る夜風が気持ちいい。  赤く剥けた手のひらを上にして、無事な左手を下にして、一連の鎖のように麻生の胴をしっかり噛む。  「麻生」  「なんだよ」  自転車をこぐのに必死なせいか声に常の余裕がない。  息を切らしながら答える麻生の横顔に、ありったけの勇気をふりしぼり、腹の底で燻っていた疑問を投げかける。  「なんで助けにきてくれたんだ」  彼女、いたのに。  俺なんかのために、時間割いてくれたんだ。  麻生は前を向いたまま、境界線の彼方を見据えるような例の読めない目をし、風にかき消えそうな声で呟く。   「携帯」  「え?」  「呼ばれた気がした」  言われて思い出す。  落とす直前、俺が手にした携帯は、麻生の名前を表示していた。  麻生にかけようかどうしようか迷い、送信ボタンの上で指を遊ばせていた自分の姿が甦り、熱くなった頬がばれないよう背中に隠す。  「携帯にメールきた。さっきの、別れ際のメール。落としたはずみで再送信されたんだろうな」    『夏休み、遊ぼうぜ』  「……だから来た。そんだけ」  無愛想に呟き、前傾するように体重かけペダルを踏み込む。    そして坂道の終わりが見えてくる頃、自転車こいで風に立ち向かいながら、聞こえるか聞こえないかの声で付け足したのだ。  「夏休み、遊ぶんだろ?」   麻生譲はたしかにそう言った。  汗染みの出来たシャツに背中を埋め、くぐもる嗚咽を噛み殺し、鼻水垂らして咽ぶ俺の方は振り向かず。    俺の手が胴に回って、平行線が円に結ばれて、距離がゼロになった。

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