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第18話
「麻生くんが爆弾を仕掛けた?」
美術室の引き戸をガラリと開ける。
「そうです。今さっき電話かかってきて、いきなり……学校にいるから会いにこいって」
要は宣戦布告。
麻生譲はこともあろうにこの俺に、推理小説に魂売った秋山透に喧嘩を売ったのだ。
驚愕の面持ちで確認をとる敷島は見ず、桟を跨いで中に踏み入る。
途端、ひやりと冷気が吹きつける。
入り口に立ち、だだっ広く殺風景な美術室を見回す。
開放的に高い天井、後ろに組まれた机と椅子、乱雑に寄せられた画架と習作。
夏休み最初の夜、閉じ込められた時と殆ど変わらない光景がそこにあった。
見慣れるほど足を運んだけわけじゃないが当時の印象は強く残ってる。忘れようたって忘れられない忌まわしくも刺激的な体験だ。
正直葛藤があった。
ここは嫌な思い出が染みつく場所、学校にいるときはできるだけ近寄らないよう避けてきた。
これまではそれでよかった、旧校舎三階の部室にしか用がなかった。
部員でもない俺が美術室に行く口実も必要もない。
だけど今回ばかりは事情がちがう。
『俺が行きそうな場所、心当たりないか』
『お前が一晩中放置プレイされた場所』
麻生が指定したのは、ここ。
初めて俺たちの距離が失せたグラウンドゼロ、麻生の方から境界線をこえ手をさしのべた分水嶺。
怖気付いてる暇はない。事態は刻一刻を争う。
敷島と前後して美術室に踏み込めば、深沈と冷えた闇が迎え入れる。
「さぶっ!」
ジャージの腕を擦り、地団駄踏んで暖をとる。空間が広いぶん寒さもよりいっそうだ。
麻生の言を信じるならここに爆弾のありかを示す第三のヒントがある。
俺の隣、敷島は半信半疑。眉をひそめたしかめ面で疑い深く周囲を見回し、呟く。
「信じられない。あの麻生くんがそんな大それた事を……たしかにそう言ったのか、学校に爆弾を仕掛けたって」
「俺だって信じられない……信じたくないっすけど、本人がそう言ったんです。大晦日の夜学校に爆弾をしかけた、俺をさがしだしてとめろって。わざわざ家に電話かけてきて……ちょうど妹がゆでたそば食おうとしてたところだったのにすっげ迷惑、おかげで腹ぺこで夕飯ポテチだったんすよ。せめて食い終わってから」
「麻生くんは学校のどこかにいる。爆弾のありかを示すヒントを要所要所において、君を試してるのか」
「……だと思います」
「梶先生のマンションに爆弾を送り付けたのかも彼か」
「……多分」
「彼がそう言ったんじゃないのか」
『いまさら?俺、人殺しだぜ』
『人殺しが死ねだの殺すだの言っちゃ洒落にならないか』
今度は即答できない。怪我人がでてる件についてはさすがに慎重になる、へたしたら警察沙汰だ。いや、もうなってるか。
どうも学校にいると感覚が狂う。
非日常の闇に常識が侵されていく。
電波状態の不安定な携帯を介してしか外の情報をとりこめないせいで浦島太郎さながら時間的空間的孤立感を味わう。
案外学校から出た途端に呪縛がとけて真っ白髭のジジィになってるかもな……笑えねえ。
奇ッ怪な想像を笑い飛ばせなくさせる超自然的な空気が夜の校舎には充満している。
時空さえ歪ませるような得体の知れない何かに呪縛されてる。
校舎自体が巨大な怪物のようで胎内めぐりに似た居心地悪さをぬぐえない。
「………やはり警察に知らせたほうが」
「!だって先生、麻生が」
教師の範にのっとった常識的な一言で迂闊な告白を後悔する。
美術室の入り口付近に立った敷島は、痛ましげに俺を見下ろす。
「気持ちはわかる。麻生くんは友達だろう。だからこうして呼び出しに従って大晦日の夜学校に来た。突然かかってくる電話に振り回され、息を切らし、学校中走り回って彼をさがしてる。どれだけ彼を大事に思ってるか想像つく。しかし現実に犠牲者がでた、梶先生の事件は生徒の間に広がり波紋を生む。警察も動き出した。捜査の手がのびるのは時間の問題、いつまでも隠しとおせるものでは」
「一日だけ時間をください、日付が変わるまででいいから」
何かを堪えるような痛切な面持ちの敷島と向き合い、体の脇でこぶしを握りこみ、ひたむきな眼力で懇願する。
「……明日、元旦になったら、俺も止めません。警察にいってもしかたないかなって思う。だけどまだ時間がある、今日は終わってない、あいつを止めるチャンスは残ってる。梶先生は気の毒だけど、俺ん中じゃまだ最悪じゃないんです、先生。最悪ってのは俺が間に合わなかったせいで、これから起こっちゃうかもしれないことなんです」
梶の名を発するや口に苦味が満ちる。
ぶっちゃけ敷島を説得する自信はない。でもそんなこと言ってらんねえ、このままじゃ俺も麻生も破滅しちまう。
俺だってわかってる、もし麻生が梶に爆弾を送りつけた犯人なら警察から守り通せるわけない、理由はどうあれ法的に罰は受けなきゃいけない。
だけど、その前に、話し合いたい。
麻生と直接会って話をしたい。その為の時間が欲しい。
一日が無理なら大晦日が終わるまでのあと数時間でいい、チャンスをくれ。
「無茶言ってんのはわかってる、警察だってひょっとしたら今頃犯人突き止めてアイツさがしてんのかも、そのうちここに来るかもしんねー。推理小説読んでりゃ警察なめちゃいけないってわかるよ、十津川警部だってメグレ警視だってフロスト警部だって、忘れちゃいけねーコロンボだってすっげえ鼻もってるし。麻生が捕まるのは時間の問題かもしれねえけど……」
腹の中で激情が荒れ狂う。つっかえつっかえ、言葉がなめらかに続かない。
喉が詰まったように苦しくなって、敷島の顔がまともに見れない。
頭ん中がぐちゃぐちゃだ。
言葉も思考もとっちらかって合理的にまとめられない。
あせればあせるほど舌が縺れて粘りたどたどしい醜態をさらす。
顔が熱くなるのを感じる。
握り込んだこぶしが震える。
深く息を吸い、吐き、まっすぐに敷島を見つめる。
「お願いします敷島先生。せめて大晦日が終わるまで、この悪趣味でくそったれなゲームを続けさせてください」
ゲームの棄権はプライドに関わる。
ダチの挑戦を受けて立たなくてミス研部長が名乗れるか。
「自信はあるのかね」
敷島がしずかに勝つ自信を問う。
この人に嘘はつけないしつきたくない。正直に答える。
「ありません。けど、一応……この学校でアイツの事を一番よく知ってるのは俺だって自負ならあります」
足りない自信は自負で補う。
瞳に力をこめ、じっと挑むように敷島を見据える。
微動せず立ち尽くす俺と、敷島の厳格かつ静謐な視線とがぶつかりあう。
沈黙はひしひしと長く、耳にたっぷりと水を吸った綿が詰まったような気がした。
終止符を打ったのは譲歩のため息。
「………わかった」
「先生!」
「日付が変わるまでは待てない、間に合わなかったら学校に被害がおよぶ。十一時を切ったら警察に連絡を入れる。それでいいかね」
「ありがとうございます!」
妥協案をのむ。教師として大人として、これでも十分に破格で寛大な措置だろう。
ぬか喜びを制すように鋭く説く敷島にもう一度深く頭をさげる。
敷島が物柔らかに苦笑する気配が頭上に伝わってきた。
「話は終わり、微力ながら私も手伝おう。君一人で校舎中探し回るのはさすがに荷が重い。宿直の当番が重なったのも何かの縁だ、二人で手分けすれば少しは……」
懐中電灯の光が空を薙ぎ床を刷き、壁にそって緩慢に一周する。
手中の携帯が鳴る。
「麻生?」
生唾を呑む。
『今、どこだ』
「美術室だよ」
『よくきたな。夜の美術室、トラウマになってるんじゃねーかって心配した』
「……わざわざトラウマ抉る指定してきたのだれだよ、イヤなヤツだな」
顔が渋くなる。麻生が少し笑う。その笑い声で、そういや夜の学校を訪れるのは初めてじゃなかったなと思い至る。
『なに笑ってんの?』
「ん?別に。さっきまですっかり忘れてたけど、そういや俺、夜の学校体験大晦日が初めてじゃないんだ。夏休み最初の夜、美術室に放置プレイされて……よく考えりゃ前に一回体験してるじゃんって。変だよな。なんか、二回目って感じがしなくってさ……」
その理由も本当はわかってる。
一回目は美術室から出なかった。
日が暮れて夜になって、窓の外と中に完全に闇の帳がおちて、上がりっぱなしの腕は辛く空腹で心細かったのは事実。
ボルゾイと不快な仲間たちにさんざやられて、屈辱と羞恥で一杯で、かなり追い込まれてたなと懐かしく思い返す。
麻生が来てくれたから。
二人一緒に自転車で坂道駆け下りた。
風を切る爽快感、しがみついた背中の汗臭さと体温、車輪の回る音、夏のぬるまった夜。
美術室の窓を金属バッドでぶち破って麻生が殴りこんでからの一連の活劇、血湧き肉踊るスリリングな脱出劇が、へたしたら一生のトラウマになりかねない恐怖の夜の記憶を上書きしてくれたのだ。
バッドを担いだ優等生が窓から乗り込んだ衝撃で恐怖はねこそぎふっとび、夜の学校と密接に結び付くおぞましい記憶も今の今まで忘れていられた。ぶっちゃけ俺自身、半日にわたり美術室に閉じ込められた苦痛な体験より、その後の出来事の方が強く印象に残ってる。
あの後。
学校を後にして、二人一緒に自転車で駆け下りて。長い長い坂道が終わる頃。
「覚えてるか、あの日の事」
『ああ』
「ずっと疑問だったんだけど、ちょうどいい機会だから聞く。なんでカッターなんて持ってたの?」
『荷造りしてて』
「嘘だろそれは」
『嘘だ』
「今時のキレる高校生ってヤツ?キチキチカッターの刃出して悦に入ってたの?気持ちわりー」
『うざい誤解すんな。ただの護身用だよ。腕力に自信ねーし、相手が武器隠しもってたときのための用心』
「あー……バットじゃ足んなかったの?」
『リーチの問題。バッドは中距離攻撃にむくけど近接戦闘は不向き』
「よくよく考えりゃあん時ボルゾイに火はなったら俺まで巻き添えで炎上しね?」
『今頃気付いたのか』
「……いや、待て待て。聞き捨てならねーその発言。焼殺未遂肯定?」
『顔面にオイルぶっかけられりゃ普通は怖気付く。腰抜けボルゾイにゃ利いたろ?びびってくれたおかげで駆け引きがしやすくなった』
「バッド・カッター・ライターの三段戦法か。保険かけすぎ」
頭の回転が速いぶん気を回しすぎる。優等生は心配性。
『カッターは学校の備品、念のためポケットに突っ込んどいた。ライターは私物だけど』
麻生は俺の身に万一の事があった場合を想定し、万全に準備を整えていた。
耳に押し当てた携帯から淡々と声が流れる。
『校門ちょっと入ったとこに新品の自転車があった。ボルゾイが乗ってきた自転車だ。カッターでタイヤ切り裂いといたから、わざわざ足折らなくてもどのみち追ってこれなかったんだけど』
美術室の窓を割って殴りこむ行為こそ大胆不敵だが、決して無計画なわけじゃなく脱走を踏まえて入念に準備を仕込んでおいたのだ。
「………ボルゾイがいるって最初から気付いてたのか」
頭の良さと度胸のよさに改めて舌を巻く。
同時に今敵に回してる相手の手ごわさを痛感する。
俺と違って抜群に記憶力がよい麻生なら同級生の自転車を特定するのは簡単、仮に覚えてなくても夜の校舎に場違いな自転車が二台あったら俺の失踪と結びつけて考えそうなもんだ。
懇々と畏怖じみた感情が湧きあがるのをおさえきれない。
携帯を耳に構え歩きながら深呼吸、あの夜の続きを回想し、ためしに変化球を投げてみる。
「煙草の銘柄、変わってねーの」
『ああ』
目を閉じる。
瞼の裏の暗闇にライターの火の残像が浮かぶ。
廃工場の埃っぽい闇に点る小さな炎、炎が照らす端正な横顔、不機嫌げに引き結んだ口元。
汗ばむ手で携帯を握り、連綿と記憶を遡る。
夏休み最初の夜、ボルゾイの遠吠えを背に美術室から逃げ自転車で坂道を駆け下りたはいいものの、まっすぐ家に帰れない。
客観的に見ても俺は酷い状態だった。
シャツのボタンはところどころ取れて裾がはだけて、髪はぐちゃぐちゃに乱れて、体の至る所痣だらけ傷だらけ絵の具の染みだらけ。
あの状態でただいまと家に帰ったらお袋が卒倒し妹に通報される。
自転車の後ろで困惑する俺を見かね、麻生は提案した。
「時間あるか」
「え?家、帰るんじゃねーの」
「そのかっこで帰ったら通報される。輪姦されましたって宣伝して歩いてるようなもんだ」
「………おっしゃるとおりで」
俺の妹でも間違いなく通報する。
坂道の終わりには不良のたまり場と噂される廃工場があった。塀の向こうに廃車の残骸を積み重ねた山が覗く。
殺風景な塀沿いに自転車をとめ、先に立って歩き出したかとおもいきや、地面を蹴って身軽に塀にとびのる。
品行方正と定評ある優等生が、目の前で堂々不法侵入しちゃってる。
「あの、麻生くん。ここって暴走族の集会場とか不良のたまり場とか地元で噂のホットスポットなんだけど、俺、さすがに青春アミーゴの歌詞はなぞりたくないっていうか……」
塀に飛び乗った麻生が無言で手をさしだす。ぐだぐだ言わず来いの意思表示。
無事な左手で反射的にその手をとれば、体重をかけぐいと引き上げられる。
次の瞬間体が塀を乗り越え、雑草が野放図に生い茂った敷地に危なっかしく着地。
「表にバイクがない、エンジン音もしない、よって集会はない。不良のたまり場になってんのはホントだけど」
通学路の行き帰り、見慣れた塀の内側は雑草の無法地帯だった。
鬱陶しげに草を掻き分け薙ぎ払い突き進む背中を小走りに追い、シャッターが半端に開いた出入り口から中へ転がりこむ。
工場は荒廃していた。
床一面に吸殻が散乱しペンキの落書きで埋め尽くされ不特定多数が立ち入った形跡がある。
空気の底流に混じるオイルとシンナーの混合臭が鼻を突く。
暴走族の集会場に利用されてるのは事実っぽい。今日はたまたま休みだったんだ、幸運に感謝。
「初めて入った……こんななってたんだ」
物珍しげにあたりを見回す。
小学生の時探検を試みたが勇気がくじけ出入り口ですごすご引き返した。
中に入るのはこれが初めてだ。未知の領域に踏み込んだ高揚で胸が踊る。
「さすがに雰囲気あるな、ヤクザが取引してそ」
「映画の見すぎ」
「小説の読みすぎだよ」
暗いから一層不気味。
開放的に高い天井は鉄骨が幾何学的に組み合わさって声がよく響く。
工場内は埃っぽく、コンクリ打ちっぱなしの地面はざらついてる。
片隅に積み上げられた鉄骨に腰掛けるや疲労が襲い、のびのびと足を伸ばし、天井を仰ぐ。
「……お前、つくづく窓から出入りすんのが好きだよな」
「言ったろ?一番近道だったんだ」
「人間失格、猫舌、金属バッド。意外性のかたまり。窓ぶち破って殴りこんできた時はびびって心臓とまるかとおもった」
底抜けに明るい声を作り、おどけて胸をなでおろす。
麻生は退屈げな表情。
そばの赤錆びた支柱に寄りかかり、何かを投げてよこす。
「?」
「携帯」
反射的に受け取り、顔を上げる。
相変わらず白けた顔で麻生が口を開く。
「拾っといた。お前のだろ」
「……サンキュ」
手の中の携帯を強く握りこみ胸にあてがう。
ようやく返ってきた携帯をもてあそびつつ、ためらいがちに言う。
「麻生はさ、門限いいの?家の人心配してんじゃね」
「一人暮らしだから、俺」
「あ、そうなんだ。外食ばっかってそれでか」
「まあな」
「金持ちだなー」
「別に。……なんでも一緒だし」
会話が続かない。
迂回して迂回して、核心を逸れていくようなじれったさ。
さっき結ばれた線がまたばらばらに分かれていくようなあせりにかられる。
空々しさばかりが際立つ平行線の会話もやがて尽き、だだっ広い工場内に息苦しいまでに密度の濃い沈黙が充満する。
手のひらがじっとり汗をかく。
胸が苦しくなる。
縋るように握り込んだ携帯がべっとりぬれる。
腰掛けた鉄骨から尻に冷気が染みる。
スニーカーの靴裏で床を擦れば埃が掃かれて線を引く。
ズボンの外にはみ出たシャツから痣だらけの腹筋が覗き、顔が卑屈に歪む。
「引いた?」
麻生が顔を上げる気配が空気を縫って伝わる。
落ち着きなく携帯をもてあそぶ。
右手から左手へ移し、伏し目がちに視線を固定し、気を紛らわせる。
「さっきのあれ、ご覧の通り。お前と別れたあと、校門でボルゾイと不快な仲間たちに捕まっちゃってさ。美術室に拉致監禁、放置プレイ。きっついよなー、ほんと。悪ふざけも度がすぎるっつの。人の手を接着剤で壁にはって、そのまま帰っちまったんだぜ。ボルゾイがふらり戻ってこなけりゃ夏休み明けにミイラが発見されて全国区の事件になってた」
薄汚れたスニーカーの先端に目をおとす。
スプラッタなことになってる右手は努めて見ないようにする。
「見出しは『怪奇、美術室でミイラ発見!御手洗校、八番目の不思議誕生』。たしか金田一にそんな事件あったよな。あ、正史じゃなくて少年のほうな。七不思議殺人事件だっけ……俺、漫画も結構イケるクチ。見直した?異人館村殺人事件の死体消失トリックは評価高いけどあれ御手洗清が元ネタなんだよな。パクったパクってないのって当時は騒がれたんだけど、どっちにしろ斬新で大胆なトリックで評価高い。はは、けどさ、参っちまった。手、ほんととれなくて。押しても引いても全然だめで。暴れりゃ暴れるだけシャツもこの通り乱れちゃって、みっともねえし」
喉にひっかかって声が出にくい。
顔筋が妙な具合に突っ張る。口角が痙攣する。
萎縮する筋肉を叱咤して、苦しい笑みを作る。
麻生の方は見れない。
見たら完全に折れる。立ち直れない。だから避ける。
無心に携帯いじくるふりで、今夜俺が体験した事を、くだらねえ笑い話にする。
「……勘違いすんなよ。お前が想像してるような事なかったし、さっきのあれ、全部ボルゾイのほらだし。大したことねーよ、こんなの。大げさにする必要ない。まずい水呑まされて、喉がおかしくなっただけで、もう治ったし。でもさ、びっくりしたろ?お前あんま顔に出ねーけど、いざ窓ぶち破って乗り込んでみたら俺は壁際に磔で、シャツがいかがわしい感じに乱れちゃって、結構アレな絵だったとおもうぜ。ボルゾイは調子のってふざけだすし……男の股間揉んでなにが楽しいんだよ、アイツ。お前からかうための芝居だよ」
支離滅裂意味不明な事を口走る。危険な兆候だとわかっていても自制できない、一度堰を切ってあふれだした洪水は止められない。
自嘲から始まり自責を経て自虐に至り、最終的に自滅する。
自己嫌悪と羞恥心とに押し潰され、膨れ上がった劣等感に音をあげる。
「引くよな?引いたよな?助けに来てみたら俺裸だし、意味わかんねーし……痣だらけ絵の具だらけで汚ねーし、白いもん付いてる。なんで学校で脱いでんの、変態じゃん、露出狂かよ俺。好きで露出したんじゃないんだって、いくら暑がりだってあんなとこで脱がねーよ、あんな……」
体の裏表を這い回る汗ばむ手。
割れたシャツから覗く貧弱な腹筋に乱れざく大小色とりどりの痣。
ボルゾイの勝ち誇ったにやけ顔。
両手に握りこんだ携帯に願をかけるように俯く。指が小刻みに震えてる。まだ震えがとまらない。
「……ほんと、かっこ悪」
「気持ち悪ぃ」
吐き捨てるような声だった。
のろのろと横を向く。鉄柱に寄りかかった麻生が、眼鏡越しの目を不快げに細め、唇の端をねじる。
「引いた。その笑顔、滑稽だよ」
ポケットに手を突っ込みがてら鉄柱から背を起こし、床の鉄骨に腰掛けた俺を、軽蔑しきった顔で見下す。
見え透いた虚勢が気に障ったのか。
本当に引いちまったのか。
辛辣なまなざしに射すくめられ、鉄骨から腰を浮かした半端な体勢で硬直する。
関心が失せたふうに麻生が踵を返す。
片手をポケットにひっかけ、一定の歩幅で遠ざかっていく。
どこへ行くとは聞けなかった。拒絶する背中にかける言葉を失い、だだっ広い工場のど真ん中に呆然と立ち尽くす。
シャッターをくぐり、麻生が出ていく。草を踏み分ける音に続き、やがて見えなくなる。靴音も消える。
「………ッ………おいてけぼりかよ」
麻生を恨むのは筋違いだ。
あんな光景を見せ付けられて、引かないほうがおかしい。
頭じゃわかっていても愛想尽かされたショックはでかい。
「引いたって……そりゃ、引くよな。普通の感性の持ち主なら、まともな神経の持ち主なら、どん引きだよ。はははっ、だよなーそうだよなーぶっちゃけ俺でも引くって、人けのねー夜の教室で男二人絡みあってる現場に出くわしたらさ……かたっぽはシャツ脱げかけで腹丸見えモロ出しだし、鼻水とか汗とか毛穴から垂れ流れた汁で顔ぐちゃぐちゃできったねえし、そば寄られるんのもやだよなー」
乾いた声で笑い、鉄骨に座る。
麻生がいなくなった工場内は空疎なばかり茫漠と広く感じる。
こんなとこに用はない、早く帰ろう。
わかってる。わかってる、今立つよ、急かすなよ。
もう一度腰を浮かそうとして、膝に力を入れるや気力が萎え、崩れ落ちるようにへたりこむ。
「腰……だる……」
麻生が消えたとたん足を支えていた糸がプツンと切れた。もう一歩も歩ける気がしねえ。
麻生、あの薄情者め。もう絶交だ。穴場の古本屋も教えてやんねえ。どのみち今夜限りで友達ごっこはおしまい、麻生は完璧俺に愛想尽かして一人さっさと去っていった。一度も振り向かず、未練を残さず、工場から出て行った。長い夏休みの予定も白紙に戻った。
夏休み明け、どの面さげて会えばいい?
「………一ヶ月も先のことぐだぐだ考えて、バカじゃねーの」
バカなのは今に始まったことじゃねーけど。
『その笑顔、滑稽だよ』
「滑稽って何だよ?」
フラップを弾き、辞書を開いて検索をかける。
こっけい 0 【▽滑▼稽】
(名・形動)[文]ナリ
(1)おどけていて、面白いこと。おかしいこと。また、そのさま。
「―な事を言って笑わせる」
(2)いかにもばかばかしいこと。くだらなくみっともないこと。また、そのさま。
(3)常識をはずれていておかしいさま。
「ああ。俺の事だ」
納得。
力なくフラップを閉じ、膝の間に顔を突っ込むようにして深く深くうなだれる。
「………あ、電話」
どれくらい放心してたのか正確なところはわからない。
三十分か、ひょっとしたら一時間は経ってるかもしれない。漸く今自分がすべき事を思い出し、携帯の短縮を押す。
しばらく待って繋がる。
「もしもし……あ、お袋?帰ってたんだ。……え、マジ、もうそんな時間?十時回ってんの、ぜんぜん気付かなかった。真理は?戸棚のカップラーメン勝手に食ってね?……そか、聡史んちで。ユキちゃんと一緒に。あとでおばさんに礼言っとかなきゃ……わかってるって、ぎゃあぎゃあ言うなよ。連絡入れなかったのは悪かったけど別にうち門限ねーだろ。は?ちがうって、立ち読みじゃねーって、学校終わってから夜十時まで立ち読みぶっとおしで時間潰すってお袋の中の俺どんだけ迷惑な暇人で本屋の営業妨害常習犯!?大丈夫店の人に迷惑かけてねーから、立ち読みでボロボロんなった雑誌買い取らされたりしてねーから……主婦の友?だからちげ本屋じゃねーって、俺が失踪したら行き先絶対本屋なわけ!?もっと選択の幅広げて……ブックオフ、ネカフェ、漫喫って離れてねーし悪化してんじゃん、インドアオタク究極の三択かよ!?お袋自分が腹痛めて産んだ息子をネクラオタクにしたいのかよ、いやもー手遅れだけど本屋とブックオフとネカフェと満喫以外にも色々遊び場あるんだって!ファイナルアンサーとらのあな……って古いし真理に毒されてるよお袋!?だーかーら友達と一緒だったの、友達と。電話した?だから聡史じゃなくて」
押し問答に苛立ち、振り向きざま叫ぶ。
「なんとか言ってくれよ麻生!」
失言に気付く。
殺気だった俺の声が無駄に広い工場に殷々と響き、後ひく余韻が吸い込まれる。
携帯に向き直り、
「………今のなし。ノーカン。自作自演?違う違うエア点呼違う、ホントに今の今まで友達と一緒だったんだよ、ふたりで遊んでたら遅くなっちまって……うん、うん。わかった、もうすぐ帰るから。寝てていいよ。飯?なんかテキトーに食うから……うん。お疲れさん。真理にも謝っといて」
携帯を切る。
「本日二度目の放置プレイ……帰っちまったら成立しねーよ」
こういうときは暗示をかける。
俺の身に今おきてること俺が今されてること全部嘘だ。嘘だから平気だ。
だってこんなのあるはずない。さっきまでくだらない話してた、麻生がいた、だから大丈夫、まだ日常の続き。俺は境界線を踏み外してないあの時と同じ後悔はしない『透、真理と母さんをよろしく頼む』俺は平気だ。部長だから兄ちゃだから心配かけたりなんかしねえ、俺は大丈夫、まだ笑える、顔筋が生きてる。
さあ笑え。
深呼吸。
「……よし、笑える」
やればできるもんだ。普通に笑えた。ちょっと顔の筋肉が突っ張ってぎこちないけど、言い聞かせた通り、ちゃんと笑えた。
これで帰れる。
いつもどおりただいまが言える。
お気楽に、能天気に、俺らしく。何も悩みないみたいな感じで、玄関に入っていける。
シャツの裾をズボンに突っ込み、乱れた髪を手で押さえて軽く寝かせ、震えのおさまり始めた手で上からボタンをはめていく。
大丈夫。いける。平気だ。神経が図太いのが俺のとりえだ。家帰って、風呂入って、下着洗って
『同級生の前で下半身剥かれてしごかれる気分はどうだ』
……自分で洗って
シャツも絵の具の染みだらけ悲惨なありさま、全部おとすのは時間がかかりそうだ。
「―と、その前に飯……冷蔵庫なんかあったっけ……お袋が持って帰ったスーパーの残りでいいか。ひじきかきんぴら」
「リクエストに添えなくて悪かった」
不機嫌げな声にボタンをかける手をとめ、振り向く。
闇から等身大の輪郭が分離し、白っぽいものを手にさげた人影が現れる。
「麻生?」
中腰でシャッターをくぐり、廃れた闇に沈む工場を突っ切り、麻生がこっちに歩いてくる。
シャツから手が落ちる。
手首から先がだらんと垂れる。
ボタンを上三個だけとめた格好で立ち上がった俺の前に歩いてくるや、片手に持った袋を突き出す。
「近くのコンビニが売り切れで、駅前まで出ちまった」
胸に押しつけられた袋の中を覗き込む。
目を丸くし、がさごそ中身をあさる。
新品の下着、タオル、消毒液と包帯とバンドエイド……今の俺に必要なひとそろいが入ってた。
「駅前って」
「お前が今日面接受ける予定だったとこ」
元の鉄柱に凭れる。眼鏡の奥の表情は相変わらず読めない。自転車を飛ばしたせいか少し息が切れてる。
「………店長怒ってた?」
「かんかんだった」
「………そっか」
駅前まではかなりの距離がある。
麻生は自転車で夜道を飛ばした。
近くのコンビニが売り切れで、工場でひとりぽつんと待ってる俺の為に駅前まで必要な物を買出しに行ってくれた。
「サンドイッチ、0時で賞味期限切れだから早く食え」
袋の中には食料も入っていた。サンドイッチとおにぎりと
からあげくん。
「……俺の話、聞いてたのか」
麻生は答えず、どことなく拗ねた横顔を見せて腕を組む。
有難く受け取った袋からからあげくんをつまみ、ひとつ頬張る。
レギュラー味なのに、口に含んだからあげはやけにしょっぱかった。
そういや昼飯どころか夕飯もぬきだった。空腹を痛感する。
からあげくんをぱくぱく頬張りながらサンドイッチのパッケージを破き夢中でがっつく。ぼろぼろと食べ滓を零しつつ、殆ど三口で脇目もふらずサンドイッチをたいらげて、お次はおにぎりにとりかかる。からあげと一緒くたに噛み砕き呑みくだし咀嚼と嚥下をくりかえし、勢いあまって喉に詰まらせる。
「ふぐっ!?」
頬ふくらませ目を白黒仰け反る俺に、ペットボトルのミネラルウォーターがさしだされる。
「卑しい」
蓋をはずし一気飲み、激しく咳き込んでから漸く人心地つく。
美味い、まさに命の水。息を吹き返し、顎を滴る水を手の甲で拭う。
ペットボトルが左手へと移動する。
「?なに」
「手、洗え」
盛大にふきだす。
食うのに夢中で気付かなかったけどそういえば小便もらしたまま手を洗ってなかった漏らしたズボンをぎゅっと掴んでたのに
「途中で言うなよ、からあげくんのしょっぱさがまったく別の意味になんじゃん!?」
「言おうとおもったら食い始めてた」
「いっそ言わないどけよ、素手で食っちまった、手遅れだ!」
涙目で抗議すりゃしれっと返し、顎をしゃくる。観念し、大人しく左手をさしだす。
傾いたペットボトルから注ぐ水が左手を洗い流していく。
贅沢にもミネラルウォーターで洗った手をシャツのなるたけ綺麗な生地で拭い、残りの食料をたいらげる。
床に散らばったパッケージをかき集め後始末、コンビニの袋に詰めなおす。
「ご馳走さん。……金払うから」
「いい」
「いくねーよ、こういうのはちゃんとしとかねーと後々…………ツケといて?」
財布の中身と相談、前言撤回。
ため息吐く麻生をよそに袋の中をさぐり、パッケージを破いたタオルを取り出し、ざっと体を拭いていく。
麻生に背中を向け気味に、生渇きの白濁がこびりつく下腹部を重点的に拭き清め、ズボンに手をかけ逡巡。
横目でうかがえば、麻生は知らぬ存ぜぬとそっぽを向いていた。
意を決し、下着ごとズボンをおろす。
真新しいタオルのふかふかした生地が濡れそぼった肌に気持ちいい。
丁寧に太股を拭き、不自由に身を捻って小便臭いズボンを脱ぐ。
男同士なのに、背中合わせに衣擦れの音を聞かせるのが妙に気恥ずかしい。
頬と耳朶に血が集まる。
素早く脱いだズボンを蹴散らし、研ぎ澄まされた麻生の横顔をちらちら盗み見る。
乾いた下着に穿き替え、小便を吸ったタオルを濡れて変色したズボンの上に無造作に投げる。
「あー、すっきりした!下着は乾いてるのが一番だよな」
「生渇きの下着を穿く趣味ねーからノーコメント」
トランクス一丁で鉄骨に腰掛けると冷たさ固さが太股にじかに伝わり、背筋がしゃんと伸びる。
隣に置いた袋の底から消毒液とガーゼ、バンドエイドの箱を取り出し不器用に破いて治療を開始。
無事な左手に消毒液のプラスチック瓶を持ち、どうにか傾け、新しく清潔なガーゼの上に数滴たらす……
「……案外むずかしいな、これ。コツがいる。うわっ、どばっとでた!?」
「貸せ」
騒ぐ俺の手から包帯と消毒液が消失、麻生の手の中に移動する。
「手、上にしろ」
ひったくった消毒液をガーゼにしみこませ指示する。
言われた通り手のひらを上に向ける。
「!痛っ………」
「ちょっと染みる」
「~やる前に言えよ」
皮がずる剥け赤い肉が露出した手のひらを純白の包帯が覆っていく。
一周二周と手に巻かれていく包帯を手持ちぶさたに眺めるうち、違和感が確信へと変わり、笑いを噛み殺して呟く。
「意外」
「何が」
「カッターじゃすぱっと綺麗にやったのに、包帯巻くのは下手なんだ」
「………細かい作業は苦手なんだよ」
麻生の巻き方はお世辞にも上手いとは言えない。率直に言って、下手だ。
麻生はぐるぐると不器用に俺の手に包帯を巻いていく。おかげで俺の右手は包帯で膨れ上がって面白いことになってる。
包帯はあちこち縺れ弛んではみ出し、手首の方までだらしなく波打ってる。
大人しく麻生のされるままになる。闇に包まれ、信頼できる人間に身を委ねる安心感に浸りきる。
「……怒んねーの」
「は?」
「だから、ボルゾイに。あそこまでされたんだ、相応に本気で怒れよ。無理して笑われると気持ち悪い」
「……別に無理してねーよ」
「嘘吐け」
「痛みに鈍感なんだ、俺」
「鈍いの?」
「結構」
「警察行かなくていいのか。傷害罪だぞ」
「大げさだな」
苦笑する。麻生は笑わない。
俺の右手に包帯を巻きながら、どうでもよさそうに続ける。
「学校は戦場か」
「こんなぬるいのと一緒にしちゃ本当の戦場にいる人に失礼だ」
包帯を巻きながら目だけ上げ促すように俺を見る。
包帯が傷に触れる痛みに顔をしかめ、上っ面は気丈を装い、息を吸って口を開く。
「だって、帰る家があるだろ?」
帰る家があってさがしてくれる人がいるうちは、どん底じゃない。
ただいまが言える。おかえりなさいを言ってくれる人がいる。
だからまだどん底じゃない、こんなの不幸のうちに入らない。
「………そうか」
「ボルゾイなんか吠えるしか能のねー負け犬じゃん、痛くも痒くもねーよ」
「そうだな」
「右手が皮一枚べろりと剥けて、あとはかすり傷くらいなもんで……こんなのすぐ治るし。あ、しばらくコントローラーもつの不便だけど。本めくるのも大変そうだな。しまった、トイレでケツ拭く時どうしよう。くそっ、差別するわけじゃねーけどせめて左手だったら」
「平坦な戦場でぼくらが生き延びること」
「?何それ」
「ウィリアム・ギブスン。ふっと思い出した。お前なら余裕で生きてけそうだな」
「図太くしぶとくしたたかにが信条。地雷原ならなおさら一気駆け」
むしろそのフレーズは俺よか麻生に似つかわしい。平坦な戦場を歩くような危なっかしさをこいつは常に内包してる。
包帯を結ぶ。
じっと俺を見る。
触れれば切れそうな鋭利な眼差しに気圧され、治療の終わった右手を引っ込める。
「……ーでもさ、おっかなかったよ、さっきの。大人しそうな優等生面して金属バッドぶん回して、キレる十代って感じの危ないオーラ出まくりで。華氏457度の決め台詞しびれたぜー、マジでボルゾイ燃やしちまうんじゃねえかってはらはらした」
「燃してもよかったけど」
「はは、よせよ、しゃれになんねーって!第一ライターオイルもったいな……」
あれ。そういえばこいつ、なんでライターなんて持ってたんだ。ボルゾイ脅すために持参したわけじゃねーよな。
「なあ、さっきのライターって……」
言いかけ向き直る視線の先、鉄柱に寄りかかった麻生が自然な素振りでポケットからライターと煙草の箱を抜く。
あまりにさりげなくて違和感を感じるのが遅れた。
羽を広げた蝶が印刷された箱のパッケージが印象に残る。名前はエクスタシー。
箱から一本抜いた煙草を咥え、ライターで着火。
俺の鼻先をかすめ、穂先から仄白く香り高い紫煙が立ち上る。
あぜんとする。
「……実は不良だったのか」
「いまどき不良じゃなくても喫うだろ、息抜きに」
「俺はやめた。中学ん時一回試したけど苦いだけだった。おもいっきしむせたし」
「喫い方がへただからだ」
悪びれもせず煙草を喫う。紫煙に乗じて退廃した色気匂い立つ所作がいちいち目を奪う。
エクスタシー。
こいつに似合う煙草だ。
「……綺麗な喫い方。相当慣れてると見たぞ、優等生」
「舌がお子様だな、劣等生」
ちょっとした仕草が絵になり、それでいてちっともいやみじゃない。
俗っぽい仕草が鉄骨を組んだ無機質な背景と相まってスノッブな雰囲気を引き立てる。
指の間に煙草を預けた麻生に挑発され、ささやかなプライドと対抗心から煙草の箱に手を伸ばす。
ひったくるように一本奪い、口に咥える。
火を借りようとライターに手を伸ばせば、いきなり麻生の顔が目の前にきて、一瞬心臓が止まる。
煙草の先端が触れ合い、オレンジ色の火が燃え移る。
眼鏡のレンズが一点の炎を映じて輝く。
「げほがほごほがはごほっ!!」
油断した。
急接近した麻生の顔に見とれ軽い放心状態に陥ったせいで、おもいっきり煙を吸い込み、むせる。
「よくこんなまずいもん喫えるな」
「煙草の殆どは劇毒でできてる。喫煙は緩慢な自殺って言葉があるくらいだ」
しきりと唾を吐く俺を見下ろし、煙草の灰を叩いて落とし、やっぱりどうでもよさそうに聞く。
「ボルゾイ、なんでお前を目の敵にすんの」
「つまんねー理由。聞いたらそんなことかって思う」
空気を愛撫するような洗練された手つきを目で追う。
気だるそうに煙草をふかす麻生をまね、形だけ咥えてみる。
「入試の順位が上だったんだ」
麻生の目が動く。
続きを促され、俺にはまずいだけの煙草を口から放す。
「入試の順位、俺のが上だったの。ボルゾイもそこそこいい線いってたけど上位十番以内にゃ入れなかった。俺がいなけりゃ入れたのにって、多分それが原因。ほら、うちの学校、入試の成績がとびぬけてよかったら学費とか色々免除してくれんだろ?それめあてでガラにもなくはりきっちちゃったから……俺の場合、まぐれあたりなんだけど。俺みたいな母子家庭の貧乏人の息子に順位抜かれて、ボルゾイてば相当頭きちゃったみたいでさ。一年ん時はクラス違ったらそれほどでもなかったんだけど、二年で同じクラスになったらも~熱烈」
「それだけ?ボルゾイより上、お前のほかにもいたんじゃないか」
「まあな」
「もう一度聞く。ボルゾイ、なんでお前を目の敵にしてんの?」
「横領犯の息子だからだろ」
口が滑った。
しまったと悔やむも時すでに遅く、開き直る。
こうなったら笑い話でごまかすっきゃない。
不審げに眉をひそめる麻生に向き直り、人さし指と中指に挟んだ煙草をちょいと掲げてみせる。
「父親が蒸発したって噂、うっすら聞いてるだろ」
「ああ」
「よそに女作ってついでに会社の金持ち逃げしたの」
お涙頂戴の身の上話はがらじゃない。
不幸自慢はゲスのすることだ。
俺は自分が不幸だなんて思っちゃない、お袋がいて妹がいて聡史がいて麻生がいる自分を不幸だなんて貶めたくない。
けど。
何故か今日だけは、話してもいいかなって気分になった。
麻生なら例の聞いてるような聞いてないような素振りで流してくれるから、こっちも気楽に話せる。
片膝を抱き寄せ、その上に顎をのせ、何かから身を守るように丸くなる。
「小4ん時、学校から帰ったらテーブルに書置きがのっかってた。親父の神経質な字で……『透、真理と母さんをよろしく頼む』って。他にも色々書いてあったんだけど、変だな、そこしか覚えてなくって。俺の親父さ、普通の会社員だったんだ。真面目だけがとりえで、金も毎月ちゃんと入れて、俺とも妹とも遊んでくれて……お袋とも仲良さそうに見えたんだけど、ほかに女いたのがバレて、よくある修羅場。で、ある日突然いなくなった。会社の金持って」
口元を曲げて吐き捨てる。
「持ち逃げした金の額とかその頃俺ガキだったからよくわかんねーけど、五十万とか……多くても百万くらいかな。横領だよ、要は。よそに女作って会社の持ち逃げして、人間のクズだって思ったよ。親父が働いてた会社の上司がいい人で、子供さんが小さいし、秋山くんは今までよく働いてくれたからって同情して、金の事は不問にふしてくれたんだけど……そういう噂ってすぐ広まるんだよな。ほんと、やになるくらい。親父が働いてたの地元の会社でさ、同僚の家族が近所にたくさん住んでて……子供の学校も一緒で」
「だからか」
腑に落ちたように呟き、紫煙を吐く。
「ふしぎだったんだ。お前、いじめられそうなキャラじゃねーのになんで友達いないのか。時々はしゃいで調子のりすぎて空気読めない発言して場を白けさせるけどぬるくスルーされるキャラだろ」
「じっさい小4まではそうだったよ。そっからハブりハブられ人生開幕。聡史んちくらいだよ、近所で見る目変わんなかったのは」
聡史の父親も同じ会社で失踪前から家族ぐるみの付き合いだったけど、聡史んちだけは身内から横領犯を出した俺たちを疎外しないでくれた。
聡史には感謝してる。
おじさんおばちゃん、ユキちゃんにも。
「……高校上がって、漸くそういうのから自由になれたと思ったんだけど。考えてみりゃ殆ど地元のヤツだし、噂は勝手に広まっちまうし、なかなかうまくいかねー。……ここだけの話、結構本気で高校デビューねらってたんだぜ。同じ趣味のダチ作って読んだ本の感想言い合ったり部室で議論したり一緒に古本屋めぐったり……野望があったんだよ。ザセツしたけど」
「……わざとばかなふりしてる?」
「哀しいかな実力です」
「心にもないこと言って悪かった」
「……いや、もうちょっと突っ込め」
「ボルゾイに目を付けられないように勉強手をぬいてる?」
「ほどほどに。ま、入試の順位が奇跡みたいなもんだからさ。これがありのままの俺、今はそこそこ悪くない毎日」
気負いなく宣言し、あけっぴろげに手を広げる。
動いたはずみに煙が気管に入り、煙草を指の間でへし折って前のめりに激しく咳き込む。
麻生があきれ顔をする。
「かっこ悪い喫い方」
「どうせかっこよく喫えねーよ、初心者なんだ」
「いつだ」
「?」
短くなった煙草を弾いて投げ捨て、靴裏で踏み消す。
蝶を標本したエクスタシーの空き箱をもてあそびつつ、吐息に憂鬱をのせて根負けしたように言う。
「古本屋、案内してくれるんだろ」
「蝶?」
「!」
敷島の声で現実に戻る。
懐中電灯の光が一箇所にあたってる。
光が注ぐ方向、教室の中央。
懐中電灯の脚光を浴びた画架で一羽の蝶が羽を休めていた。
ビロードの黒で縁取った緑の光沢の美麗な羽、俺の想像から抜け出てきたような一羽の蝶……
「本物じゃない」
「秋山く、」
あんまり場違いだったから素で見間違えた。冷静に考えりゃ今の時期に蝶がいるはずない。
床を蹴り走り出し、画架と対峙する。
画架の溝に立てかけられた箱をひったくり中を改めるもからっぽ、拍子抜け。
『驚いた?一瞬間違えたろ、本気で』
「冬の美術室に舞い降りた一羽の蝶か。詩的私的ジャック気取ってんじゃねえ」
腹立ち紛れに箱を握り潰し、おもいっきりふりかぶって床に投げ付ける。
俺の肩越しに光がさし、教室のど真ん中に据え置かれた画架を照らし出す。
「あ、………」
敷島が懐中電灯を持ち絶句する。
『第三のヒントだ』
「ひさかたぶりのご対面だな」
自殺した生徒の無念が取り憑き涙を流す美術室の不思議が、俺を待ち構えていた。
懐中電灯の光がさした頬は二筋涙のあとをひいていた。
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