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第19話
その絵は呪われている。
屋上から飛びおり自殺した生徒の怨念が取り憑いて夜な夜な涙を流す。
二筋ぼやけた頬がその証拠。
だだっ広い美術室のど真ん中で御手洗高に受け継がれる七不思議のひとつと遭遇する。
懐中電灯の光が褪せた絵を煌々と照らす。
時を封印する四角い枠組みの中、絵の少年ははにかむように微笑んでいる。
健康的な昼の光の中ならともかく真冬の夜の旧校舎、閑散とした美術室で向き合うシャイな笑顔はそこはかとなくホラーな趣がある。
懐中電灯の光が名もなき少年の顔に不気味な陰影をつける。
「どうも。また会ったな」
軽く首と肩をすくめ挨拶するも反応なし。当たり前、あったら怖い。
「大丈夫っすか先生、顔色悪いけど」
「大丈夫……ちょっとびっくりしただけだ」
敷島が片手で胸元を押さえる。心なし顔色が悪い。
むりもない、何の気なしに懐中電灯を振ったら教室の真ん中に人が立ってたのだ。
正体は絵と判明したけど、すわ幽霊かと勘違いしてもしょうがないシチュエーション。臆病な人間なら心臓発作をおこしかねない。
麻生め、意地悪い演出をしやがる。
「第三のヒントってこれか、ただの絵じゃん」
携帯を詰責するもこっちからも反応なし。麻生はだんまりを決め込んでる。
電波の状態が悪いのか?
都合が悪い時ばっか無視されてる気がしてならない。
舌を打ち、携帯をおろす。
俺より一足先に、魅入られたような忘我の横顔で敷島が絵に歩み寄る。近寄り難い雰囲気。敷島には絵しか見えてない。
美術室に第三のヒントがあると麻生は示唆した。
懐中電灯でざっと点検してもそれらしいものはこれしか見当たらず、したがってヒントに該当するのはこの絵。
夏休み最初の夜、ボルゾイの姦計にはまって美術室に閉じ込められた俺が半日間にわたり面突きあわせた絵。
結局美術室に放置して帰っちまった。呑気に片してる暇はなかった、勘弁してもらいたい。
あの時もぞっとしなかったが、時間制限下におかれ、一秒ごとに平常心を削られていく異常な状況で見ると輪をかけて不気味だ。ほのかに笑ってるのがなおさら。
先入観がそう見せるのかもしんねーけど……
「ん?」
美術室の肖像画は七不思議のひとつ、ボルゾイはたしかにそう吹いた。
正面にしゃがみこみ、ジャージの腹から抜いた部誌を懐中電灯の光のお零れに預かってぱらぱらめくる。声に出し七不思議を読み上げる。
「一、夜になると片目を瞑る校長像。二、旧校舎北トイレの啜り泣き。三、勝手になる音楽室のピアノ。四、図書室に紛れ込む血染めの本。五、体育館で誰もいないのに跳ねるバスケットボール。六、夜になるとスクワットしだす人体模型。七、校庭に埋まる不発弾……」
部誌をめくる手が止まる。
疑問に眉根が寄る。
「……変だぞこれ。なんで美術室の不思議が入ってないんだ?」
膝と両手をつき、床に広げた部誌をのぞきこむ。
奥付に印刷された発行年月日は六年前。
どういうことだ?ボルゾイが俺をびびらせようとありもしねえ不思議をでっちあげた?
ホラの線を考察するもすぐ否定、何故なら俺も美術室の怪奇を小耳に挟んでる。
事実、旧校舎美術室の泣く肖像画は七不思議のひとつとして校内に流布している。
「待てよ、そしたら不発弾はどこへ消えちまったんだ。七不思議が流行廃りで代替わりするってのも妙な……」
部誌の活字の上に血が飛び散る。
「!?先生っ、」
ぎょっと身を引く。
遅れて苦鳴が零れ、固い物が床にあたる騒音が続く。
跳ね起きた俺の眼前、敷島が片手を押さえ呻いている。
「どうしたんですか、その手!」
「絵を……持ち上げようとしたんだ……何か見付からないかと思って」
絵を持ち上げ裏表を点検しようとした敷島の手のひらがざっくり切れて鮮血が滴る。
手首を伝った血が垂れ落ちて床を汚す。
出血が酷い。洒落にならない。
激痛に蹲る敷島の肩を押さえ床に視線を滑らせば、懐中電灯の横に絵が倒れていた。
さっきの音は絵の落下音か。
裏向きに倒れた絵の後ろに何かが挟まってる。
胸が不吉に騒ぐ。
裏張りを見せて倒れた絵の後ろからおそるおそる慎重な手つきでそれを取り上げる。
「手紙だ」
一通の封筒。上品な薄青の紙。
軽く振ってみりゃ紙のふれあう乾いた音がする。
第三のヒントを入手した安堵と達成感も、怪我した手を押さえ苦しむ敷島と床に飛び散った血痕のせいで霧散しちまった。
冷えた空気に鉄錆びた匂いが混じる酸鼻な現場に胸が悪くなる。
落ちた懐中電灯を拾って絵に向ければ、鋭利な光が反射する。
「先生、その手は」
「わからない……絵にさわろうとしたら突然痛みが走ってざっくり切れていた」
片膝付き、懐中電灯を絵に向ける。敷島が手を怪我した原因が判明した。
「……剃刀だ」
絵の裏、ちょうど手で持つ部分に剃刀の刃が仕掛けられていた。
セロテープで接着された刃が懐中電灯の光を反射し剣呑にきらめく。
無防備にふれたらざっくり手を切る。
剃刀の刃は血を吸って赤黒く染まってる。一歩間違えば、俺がさわっていた。剃刀で手を切り裂かれていたのは俺かもしれなかった。
頭に上った血が冷却され爪先までゆっくり下りてくる。
「麻生、聞いてるか」
声が上の空だ。
目の前の現実を頭が拒否する。
手から出血した敷島と血痕の飛び散った床と部誌と剃刀が仕掛けられた絵。惨劇の現場。
「どういうつもりだ」
敷島の出現は想定外だった。麻生は俺が単身美術室に来ると予想して罠を仕掛けた、教室中央に絵を引き出し意味深な演出をした。
まさか。冗談だろ?
麻生が俺に危害をくわえようとするなんてありえない、じゃあ目の前の光景はなんだ、どうして絵に剃刀が仕掛けられていた?
暗闇の中、実際持ってみなけりゃ気付かない。
ヒントの餌で釣って、俺に絵を持たせて、そしてー
『よくわかってないみたいだからわからせてやったんだ』
「わからせるって」
『俺が人殺しだってこと。人を傷付けるのをなんともおもってねえ人間だってこと』
電話越しの声はうっすらと愉悦さえ含む。
『秋山、お前はおれを過大評価しすぎだ。……信頼しすぎなんだよ』
「な、に、言ってんだよ?だってさっきまで、普通に携帯で話して……こんなの全然、匂わせてなくて……」
『お前が気付こうとしなかっただけだ。見たくないものに目を閉ざし続けたツケが回ってきたんだ』
この世には死んでもいい人間が多すぎる。
人殺しが死ねだの殺すだの言っちゃ洒落にならないか?
厭世的な声が内耳に甦り、スノッブに冷め切った横顔を同時に思い出す。
旧校舎を駆けながら携帯で話してる時は普通だった……普通だったはずだ。
なんで人殺しちゃいけないのかとか哲学的で難解な問答を仕掛けてきたけど、もともとこいつにはそういうところがあった。別段不自然には思わなかった。心のどこかで油断してた。麻生が俺を傷付けるわけない、俺に敵意を向けるはずないと楽観してた。
その前提が今、根底から覆った。
「標的は俺か」
『………………』
「俺を憎んでるのか」
『………………』
「なんとか言えよ」
荒れ狂う激情に駆られ上擦りそうな声を必死で抑える。
「一体何がしたいんだ、何が目的なんだ、何考えてるんだお前。俺はお前のペットか?電話一本で呼び出されて意味不明な命令に振り回されて学校中駆けずり回って、その挙げ句がこれか。麻生、お前はたしかに頭がいいよ。それは認める。ボルゾイの追跡阻止しようってカッターでタイヤパンクさせるくらい悪知恵回る、でもこれは、こんな陰湿なまねするヤツだとは思わなかった!絵の裏にわかんねーように剃刀の刃しこんで人傷付けてやりくちがゲスで卑劣だ、確かにばれねーよこんなの、実際持ってみるまで凶器が仕掛けられてるなんて夢にも思わない、だれだって無防備にさわっちまう、そんで大怪我するんだ敷島先生みたいに。一歩間違えば今床にしゃがみこんで呻いてるのは俺だった、ああちがったっけ、最初から俺を狙ってたんだっけ、俺の手をズタズタにしようとしたんだっけ?せっかく治った右手を」
『秋山』
「違うだろ。違うよな、違うって言えよ、お前はこんなことしないって……だってこれじゃ、ボルゾイの同類じゃねーか」
信じない、信じたくない、否定してほしい。
頭が混乱を来たす。心臓が脈を乱す。怒りと哀しみで視界が真っ赤に燃える。
俺が知ってる麻生譲はこんな卑劣なまねはしない。
だから正々堂々挑戦を受けてたった、あいつが宣戦布告するなら乗ってやろうって気になった。学校に時限爆弾を仕掛けた、自分をさがしだしてとめてみろ。挑発的で悪趣味なゲームだとおもった、悪趣味どころか麻生の言葉が真実なら完璧犯罪だ、警察沙汰になるのは避けられない。
だけど麻生譲は不必要に人を傷付けたりするヤツじゃないと信じていたから、実際血を見るまで油断していた。
甘かったのか、俺は。
麻生はもう境界線をこえちまったのに。
俺の手の届く場所にはいないのに勘違いして引き戻そうと今の今まで頑張ってたのか。
人殺しの自己申告をした時点で、梶に爆弾を送り付けた時点で完全にあっち側にいっちまったのに、俺ひとりもがいてあがいてぶざまをさらして、麻生譲は友達だから、こっち側にもどってくる可能性はまだあるからと信じてすがってー……
「俺を殺したいほど憎んでるのか。だから無理心中の相手に選んだのか」
『…………』
「止めてほしかったから呼んだんじゃない、道連れにしたくて呼んだのか」
『…………』
「学校中走り回らせて、心臓破けるまで苦しめて苦しめて、殺そうとしてるのか」
『…………』
「憎まれる心当たりなんて」
ある。
口走ってから気付いちまった。
麻生には俺を恨む理由、憎む動機がある。
麻生が俺を心中の相手に指名するのはおかしくない。
俺は麻生を裏切った。
西日さす放課後の図書室。
片隅の書架にもたれ、学ランをはだけ肌をさらした麻生に被さる背中。
窓から射す夕日で図書室は赤く燃えていた。
埃の匂いが鼻先をつく。
「………あれが原因なのか」
聞きたくなかった。聞かずにいれば、気付かないふりをしてれば、今までどおり付き合ってけると思った。友達でいられると思っていた。
見たくないものに目を閉ざし続けたツケが回ってきた。
麻生の言葉が自責の葛藤を生む。
現実から目を背け続けてきた代償を今払っているのなら、現状に臨んだ俺がこんな言葉を吐くのは、ずるい。
本人に問うまでもなくあれが原因に決まってる。
おもえば麻生と出会ってから不自然な出来事は多々あった。
「………廊下で手を掴んだ時、過剰に反応したよな」
『……………』
「図書館裏で。お前の手、男のくせに爪がきちんと切られてあって、感心した」
『……………』
「夏休み、聡史と泊まりにいったとき……ほんとは起きてたんだ、俺。電話、盗み聞きしちゃって」
携帯の向こうからかすかな戸惑いが伝わる。麻生が動揺した気配があった。
この一年を振り返れば何個も何個も、数え切れないほどヒントはちりばめられていた。
謎に包まれた麻生の私生活。
ミス研の部室にまめに通うようになってからもある日の放課後突然消える。
清潔に切られた手の爪、首筋の淫らな痣、頻繁に来るメール、体育の授業はいつも見学していた。
夏休み最初の夜、二人乗りで坂を駆け下りた時シャツの襟ぐりがはためき痣が露出した。
体の至る所に生々しくも痛々しい情事の痕跡が残されていた。
決め手は夏休み、古本屋めぐりに一日かけて麻生のマンションに泊まった日。
「だれと話してたんだ?」
『………………………白々しい。気付いてるんだろ、もう』
麻生が嗤う。今のこいつはきっと悪魔のような顔をしてるんだろう。
白々しい質問を悔やむ。口に苦味が満ちる。片膝つき床をさぐり、慎重に絵をひっくり返す。
Z.K。
右端に小さくイニシャルが書かれていた。
敷島の手から飛び散った血痕が目尻に付着し、懐中電灯に照らされた少年は血の涙を流していた。
ジャージの懐をさぐる。ポケットを裏返す。
舌打ち。包帯代わりになりそうなものがない。
見れば敷島は片手で不器用にハンカチを巻いていた。
右手に巻いたハンカチに血が染みていく。
夏の夜の廃工場で俺の手に不器用に包帯を巻く麻生を思い出す。
「…………っ………」
「悪いね」
敷島を見かね、懐中電灯を横においてハンカチを巻きなおす。
敷島は申し訳なさそうにうなだれる。
「意外と傷が深い……ざっくりいっちゃってる。保健室で手当てしたほうがいいです」
「タイムロスだ。申し訳ない」
「こっちこそ……麻生のバカがくだらねー小細工したせいで、先生に怪我までさせちゃって」
俺に治療をまかせながら無事な方の手をのばし、取り上げた薄青の封筒を背広の内に保管する。
「大事なものだ。これも持っていく。おそらくはこの中に第三のヒントがある」
上の空で言葉を聞きながら応急処置を施していく。ハンカチに急激に血が染み広がる。
自分の手に麻生の手の残像が重なる。
人間失格をぶん投げる手、平然と窓枠を乗り越える手、金属バッドを大胆にぶん回す手、不器用に包帯を巻く手、綺麗に煙草を喫う手。
清潔に爪を切った手が絵の裏側に剃刀を貼る光景を想像する。
何度も俺のピンチを救ったあの手が陰湿な犯罪に加担する光景をありあり想像し、膨れ上がる不快感で胸がどす黒く塗り潰されていく。
「………綺麗な手、してるのに」
あの手が邪悪に染まるのか。
あの手が狡猾な罠を仕組むのか。
あの手が人を殺すのか。
「あの手で爆弾を作ったんだ。あの手でタイヤを切り裂いたんだ」
麻生の手はもう邪悪に染まりきってるのか。
取り返しがつかないのか。
「わかりました、先生」
「なにがだね」
「今まで勘違いしてたんです。あいつの狙いを誤解してた」
血の滲んだハンカチを右手に巻いた敷島を肩に担ぎ、寒々とした美術室を突っ切りながら、言う。
「あいつは学校と心中するつもりじゃない、俺と無理心中するつもりだ」
今の今まで自覚がなかったなんてバカな話だ。
麻生が俺を憎む理由ならたっぷりあるじゃないか。無理心中の動機は十分だ。
俺は卑劣な裏切り者だから。麻生の信頼を裏切ったから、先に逃げ出したから、冬の放課後図書室で目撃した出来事を見て見ぬふりで……
敷島の腕を抱いて廊下に出かけ、中央に絵が取り残された美術室を振り返る。
「復讐なんです、これは」
呪われた単語を発した瞬間、肩に凭れた敷島の体が鞭打たれたように竦んだ。
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