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第20話

 「残念、モルヒネがない」  「モルヒネ?」  敷島が胡乱げに眉をひそめる。  露骨に不安げな敷島に背中を向け、手を突っ込みがさごそ戸棚をあさりながら答える。  「知らないんすか先生、モルヒネはボームズ常用の麻薬として知られるけど適量なら痛み止めになるんですよ」  「いや、知ってるが……学校の保健室にモルヒネはないと思うよ?」  「やだなあ冗談だって、本気にしないでください。いくら俺でも保健室にモルヒネあるはずねーってわかってますよ、ジョークっすよジョーク。モルヒネはベーカー街221番地のアパートか病院にしかおいてないってわかってますよ。とりあえず手当てしますんで。……えーと、糸?針?家裁道具箱どこだろ」  「……目下捜索中のところ悪いけど秋山くん、針と糸を持ち出す必要はないのでは」  「赤チンで手を打つか」  「殺す気だね?」  敷島が懸念を示す。  消毒液の瓶と包帯を掴みとり、横に懐中電灯をおき、大人しくベッドに腰掛けた敷島に向き直る。  「ちょっと痛いけど我慢してください。なるべく早く済ませますんで」  「生徒に気を遣われるとかえって不甲斐なさが身に染みる」  「これからもっと染みますよ?」  正面に片膝つき、血に濡れたハンカチをほどく。  ハンカチの下からあらわとなった傷口に顔をしかめる。  引いてる場合か。びびる己を叱咤、嫌悪を堪えて傷の程度を調べる。  出血は多いが注意して調べれば縫合する程の怪我じゃなく安堵。  さすがに針と糸で縫うとなると素人の手に余る。  惨劇の現場となった美術室から渡り廊下を抜け新校舎の保健室へ場所を移し、緊急時故勝手に医療品を借り、負傷した敷島の治療にあたる。消毒液を染みこませたガーゼで丁寧に傷口を拭き清め、戸棚から拝借した新しく綺麗な包帯を巻いていく。  「手際がいいね」  「こういうの得意なんすよ。手先の器用さには自信ありです」  軽口叩きながらも手はとめず、傷口を覆ったガーゼの上から清潔な包帯を一周二周させる。  「おちこぼれにも世を渡ってくための特技があるもんです」  「おちこぼれだなんて思ってない」  「またまた先生てばうまいんだから。お世辞言ってもスマイル0円」  「本心から言ってる。君は心根が正しくてまっすぐないい子だ」  「高校生にむかっていい子はこそばゆい……」  「古典の授業中に寝なければもっといい子だ」  「………バレバレ?」  「教室の前列、机に突っ伏して豪快に寝てればね。よだれもたれてるし」  「一回も叱られたことねーし……」  「あんまり気持ち良さそうに寝てるから起こすのが気の毒になってね。……授業が退屈な自覚はあるし」  「うわ、哀れまれてたんだ俺。恥ずっ。あ、でも勘違いしないでくださいよ?断じて先生の授業がつまんないとか意味不明とかけりとかなりとかしかじかとか社会に出て何の役立つんだってバカにしてるんじゃなくて、ちゃんと聞かねーとって頭じゃわかってるんだけど、先生のおっとりゆったり聞き心地いい声聞いてるとついうつらうつら瞼がおもたくなって熟睡しちゃってるんです。一種の催眠療法?みたいな」  「いいんだよ、むりしなくて。古典は今も昔も不人気だからね。……なかなか奥深い世界ではあるんだけれど」  敷島はこういうことを面と向かって恥ずかしげもなく言えちゃういまどきの冷えた世相じゃ奇特な教師だ。しかも本人は大真面目ときてるんだから手に負えない。  手振りもあたふたと弁明はかる俺に苦笑し、自分の関心分野が人に理解されない一抹の寂しさを顔に過ぎらせる。糊のきいたシーツに猫背で腰掛ける地味な背広の男は妙に浮く。  「敷島先生はこの学校に来て長いんですか?」  「十年になる」  「じゃあベテランだ。そんなに長くいるなら、御手洗高の七不思議も知ってますよね」   世間話とみせかけ探りをいれる。敷島が思慮深く首を傾げる。  「生徒の間で流行ってるというのはちらっと聞いたが、あまり関心がなかったから、くわしくは知らない。どこの学校にもある怪談のたぐいだろう」  「こないだ古い部誌見つけて、そこに色々書いてあったんすけど、校庭に不発弾が埋まってるってマジっすかね?」  「さあ」  「ケータイ繋がりにくいのなんでだろって不思議だったんです。不発弾の噂がホントなら、電磁波に影響してんのかなって……不発弾って金属でしょ?よくわかんねーけど、特殊な磁場がケータイの電波妨害してんのかも」  「さすがミステリ同好会部長、鋭い推理だ」  敷島が合いの手をいれる。  悪い気分じゃない。が、不発弾の話は導入の前振りだ。  得々と推理を披露しにやけた顔を引き締め、核心を突く。  「昔からいるならセンセ、学校の屋上から飛び降り自殺した生徒の事、知ってますか?」  敷島の顔から笑みが拭い去られ、黙祷を捧げるが如く沈痛な面持ちに変わる。  「さっき美術室にあった絵……麻生が用意した肖像画。俺、前に見たことあるんです。七不思議のひとつですよね?むかし屋上から飛び降り自殺した生徒が残した絵で、夜な夜な涙を流すって……ぱっと見わかんねーけど、懐中電灯で近付いて照らすとたしかに頬のあたりがかすんでて。涙のあとみたいに見えないこともないんです」  Z.K。  涙を流す肖像画。学校の屋上から飛び降り自殺した少年の遺作。  懐中電灯の光の加減か先入観のなせるわざか、寒々とした美術室に放置された肖像画は救いがたい悲哀と孤独を帯びているかに見えた。  消えた不発弾、すりかわった七不思議。  持参した部誌を開かなければ見落としていたささいな矛盾点がどうにもひっかかる。  夏休み最初の夜、壁に手を接着された俺の前に例の肖像画を引き出し、調子こいてさんざん脅したボルゾイ。ホラを吹いたとはおもえない。  ミス研部長の面目躍如とばかり好奇心が疼き、七不思議の矛盾点を究明する。  「昔から学校にいたなら自殺した生徒も知ってるんじゃ」  「……ああ。覚えているよ、彼の事は。そんなに親しくはなかったが。真面目で大人しくて、いい生徒だった」  「先生が教えてたんですか?」  「担任じゃなかったが授業を教えていた。美術部で……絵を描くのが上手かった」  細めた目が追憶の悲哀を帯びる。  目尻に皺を寄せた苦悩の表情は冴えない中年男をなおさら老けさせてみせる。  肖像画の少年の顔が脳裏に浮かぶ。  夏休み最初の夜、そして今晩、二回遭遇した。敷島の言うとおり大人しそうな少年だった。  四角い枠組みに閉じ込められた笑顔は懐中電灯の橙色の光を帯びて寂しげだった。  不謹慎な好奇心が騒ぎ出す。  テープを切って包帯をとめながら世間話の延長のさりげなさで聞く。  「なんで自殺したんですか?」  追憶の余韻をひきずった敷島がのろのろと向き直る。  過去を映すその目に、迂闊な質問を悔やむ。  「秋山君は地元だよね。何も聞いてないのかい?当時は随分騒がれたんだが……」  「家の事とか……色々あったんで」  曖昧に言葉を濁す。  六年前といえばうちが一番大変だった時期。  一家ぐるみでハブられお袋は家計を支えるため慣れないパートに出て俺は妹の面倒にかかりきり、地元高校の自殺騒ぎがちらっと耳に入っても日常に忙殺されすぐ忘れちまった。  「いじめとか、受験ノイローゼとか?」  「…………動機はよくわからない。いじめられていた形跡はない。勉強に悩んでいたという話も聞かなかった」  「遺書はなかったんですか?」  「なかった」  止血完了と同時に断言。  「そうですか」と立ち上がり、余った包帯を手軽く巻いて消毒液の瓶と一緒に返しにいく。   敷島の話からわかったのは、過去、学校の屋上から飛び降り自殺した生徒が実在したこと。  事件が起きたのは六年前、俺が小学生の時。  自殺した生徒と面識があった敷島の消沈ぶりに胸が痛む。戸棚をがらぴしゃ閉めながら詫びる。  「………すいません。なんか、やなこと聞いちゃって」  「いや、いいんだ。疑問に思うのも当然だろう」  「麻生はなんであの絵を選んだんでしょうか」  「心当たりは」  「なくはねーけど……」  次の目的地に美術室を指定したまではいい。  あそこは俺たちの距離が初めて失せた場所、初めて麻生の方から境界線をこえ手をさしのべた分水嶺。  ここまでくればさすがにあいつの意図も察しがつく、携帯で誘導して俺たちに関連づく場所をひとつひとつ辿らせるつもりだ。  だが絵を用意したのは何故?  夏休み最初の夜の状況を忠実に再現しようとして?本当にそれだけの理由?  麻生の考えがわからない。  悪趣味で挑発的なゲームに巻き込まれ学校中さんざ走りまわされて、タイムリミットが迫った今になっても全貌が見えてこない。  敷島の右手に目をやる。  絵の裏側に仕掛けられた剃刀で切り裂かれた右手……狡猾で陰湿なトリック。  もし絵を持ち上げていたのが俺だったら、手を怪我していたのも俺だった。  麻生は俺を狙っている。  俺を殺そうとしている。  念のため携帯をチェック、着信履歴を辿るも麻生からメールが届いた形跡なし。  八方塞がり。一方的にかかってくる電話に振り回され、膨大な徒労が募る。  手首を返してフラップを閉じ、改めて敷島を見据える。  「聞いていいですか、先生」  「私に答えられることなら」  気安く応じる敷島に向かい、ひとつ息を吸う。  「なんで人を殺しちゃいけないんですか?」  敷島が困惑する。  「……さっき麻生に聞かれたんです、携帯で。走ってるときに。なんで人を殺しちゃいけないのか推理小説たくさん読んでる俺ならわかるんじゃねーかって……でもそんなの買いかぶりで……たしかに俺推理小説よく読むし、好きだし、ミス研の部長なんかやってるけど、そんなのいきなり聞かれたってわかんねーし。最初の電話でも聞かれたんです、同じこと。なんで人殺しちゃいけないのかって……俺、詰まっちゃって。笑い話でごまかして。あいつ、真剣に聞いてたかもしんねーのに」  あの時俺が問いに答えられていれば今の状況はなかったんじゃなかいか、もう少しマシな状況だったんじゃないか。麻生は答えを求めていた。俺は笑い話でごまかした。冗談かと思って、笑い飛ばした。  麻生をこっち側に引き戻すための答えが欲しい。  藁にも縋るような切実な心境で、火のような焦燥に炙られ訴える。  「あいつ、この世には死んでもいい人間が多すぎるって言ってた。俺もそう思う……そう思った、あいつの話を聞いて。あんまり酷い話ばっか聞かされて、やりきれなくて。なんで何も悪いことしてない人や子供が殺されなきゃいけないんだよ理不尽だ、言い逃れする犯人が許せねーって……」  耳から入る毒は魂を腐らす。  俺も知らず取り込まれかけていた。  「答えられなかったんです、俺。答えてやるべきだったのに。人を殺しちゃいけない理由ちゃんとあるはずなのに、うまい言葉が見つからなくて、一方的に言われっぱなしで……あの時、最初の電話で説得できてたら、麻生だって今頃」  「人を殺しちゃいけない理由はない。人を殺すと不都合があるだけだ」  「え?」  保健室の闇に裁きを申し渡すがごとく厳粛な声が響き渡る。  いつも力なく丸めた背筋をのばし、両手をきちんと膝の上におき、理性の光を双眸にやどした敷島が静かに言う。  「人間は社会的動物だからね、共同体を営み暮らすのを前提にしたら殺人は行われないほうが好都合だ。殺人行為で発散するフラストレーションと蓄積するフラストレーションを比べたら後者の割合が大きい、よって殺人は非効率的ともいえる。人はその発達した知性ゆえか、不安の継続に酷く脆い。隣人が潜在的殺人者であるかもと邪推すればきりがなく、ひとたび疑心暗鬼に陥れば人間関係が破綻し、健全な社会を築くのが困難になる。だから人殺しは異端とされ、行為そのものはタブー視された」  「ちょ、待ってよセンセ、それじゃ人殺しは別に悪くないみたいな……」  「人殺しは法律で罰せられる。しかし人を殺すと死刑になるから殺すなというのは本末転倒だ。たとえば、そう………自分の命になんら価値を見出さない殺人者、死を恐怖しない人間に、その理屈は通用するかね」  麻生の顔が脳裏に浮かぶ。  窓枠を軽々乗り越え二階から飛びおりる姿。ボーダーラインを飄々とこえる男。  命になんら執着を抱いてないような身軽さ。  「裏を返せば、人を殺せば死刑にしてもらえると思った人間が無節操に殺人に走りかねない。自分で死ぬ勇気はない、ならば国に殺してもらおうと他人を手にかける自己中心的な人間は意外と多い」  「そんな………」  「教師失格かね、命を軽んじるような発言は。しかし偽らざる本音だよ。明確な答えを求める君には悪いが……私だって、人を殺しちゃいけない理由を問われたら即答できない。この年になってもそうなんだ。四十そこそこ生きたところで答えなんて見つからない」  哀しそうに目を伏せる。  敷島は敷島なりに、俺の質問に誠実に答えてくれた。  精一杯の誠意を尽くし、慎重に言葉を選び、詭弁を弄して逃げずに本心から語ってくれた。  答えがないのが答えでも、その場しのぎの嘘を吐かれるよりはよほどいい。  俯く俺の肩にそっと手がかかる。  よわよわしく目を上げれば、敷島が真剣な顔つきで身を乗り出していた。  「秋山くん。君は、麻生くんが梶先生に爆弾を送りつけた動機を知ってるのか」  心臓が強く鼓動を打つ。   「知ってるなら教えてほしい、教師として私には聞く義務がある」  「先生………」  咄嗟に身を引けば、肩を掴む手に力がこもる。  治療したばかりの右手の傷が開くのをおそれ硬直すれば、敷島が思い詰めた眼差しで覗きこむ。  「無差別殺人とは思わない。麻生くんは頭がいい、これは計画的な犯罪だ。梶先生を狙った動機が知りたい。梶先生と麻生くんの間になにかあったのか、梶先生に殺意を抱くきっかけになるような事件がおこったのか?君もそれに関係してるのか?」  容赦ない追及。抉りこむような眼差し。  肩に指が食い込み、痛みが走る。  「麻生くんは君を狙った。美術室に罠を仕掛け、君を傷付けようとした」  絵の裏側に接着された剃刀の刃。  携帯電話からもれるうっすら愉悦を含む嘲笑。  『よくわかってないみたいだからわからせてやったんだ』  「秋山くん、君は何か知ってるんじゃないか。知ってるから止めにきたんじゃないか。警察まかせにせず、大晦日の夜道をひた走って学校にとびこんで、校舎中駆け回って麻生くんをさがしているのは、罪悪感と責任感のせいじゃないか」  「罪悪感て」  「罪滅ぼしと言い換えてもいい。秋山くん、君はなにを隠してる?麻生くんに引け目を感じる理由はなんだ?普通友達のためでもここまで必死にならない、タイムリミットを設定した爆弾が仕掛けられてるんだ、へたしたら巻き添えで死んでしまう。手に負えないと判断して警察に任せるのが普通だ、しかし君は挑発に乗ってここへ来た、心中の危険を犯してまでどこにいるとも知れない彼を救おうとしてる」  「麻生は友達だから、俺を名指ししたから、宣戦布告を受けて立たなきゃミス研部長の立場ねーし」  「詭弁だよ。欺瞞だ。私の目を見なさい。どうして避ける?そうまでして、何を守ろうとしている?」  夕日のさす冬の図書室、残照で真っ赤に燃える床、書架によりかかったふたつの影、やましい衣擦れの音……   あの日俺が見たもの。  一生忘れられないおぞましさ友達の豹変みだらがましい衣擦れの音息遣い、ずっと封印してたあのー……  「勘ぐりすぎだ、先生。麻生が梶をねらった動機なんて知らねーよ、俺はただ呼ばれたからここへ来た、そんだけだ。アイツが何考えてるかなんてわかった試しがない、俺とはハナっから頭のデキがちがうんだ」  「話せないのか?」  あんたにダチを売り渡せとでも?  言えるか。言えるわけない。  あの日見たことは俺の腹ん中だけにおさめとく、誰にもしゃべったりしない、秘密を守る。  ばれたら麻生はどうなる、梶に爆弾送り付けた事実が発覚するよりもっと酷い偏見と中傷が待ち構えてる、マスコミにぼろぼろにされる、地元にいられなくなる。  「麻生くんに殺されてあげるのが友情か」  敷島の言葉が、胸の奥深くに突き刺さる。  敷島が深刻な面差しで言う。  「……私じゃ頼りないかもしれないが、話してくれれば力になる。動機と事情次第では弁護もしよう。彼を救う方法を考えよう」   「先生……」  「麻生君が無差別殺人に走るとは考えにくい。梶先生を狙った動機が知りたい。それさえわかれば学校や警察に掛け合って罪を軽くすることだって不可能じゃあない。しかし話してくれなければどうにもできない、彼を救うも破滅させるもすべて君一人の決断にかかってるんだ」  「………………ッ…………、」  力強く肩を掴み揺すりたてる。  何が正しくて正しくないのか、またわからなくなる。  決断を迫られ、心が激しく揺れる。  俺の決断ひとつで麻生の運命が左右される。  麻生を警察に売り渡すのに抵抗を感じる、そんなこと言ってる場合か、敷島に本当の事を話すのはいやだと意地張って駄々こねてそれでいいのか本当に正解なのか麻生のためになるのか、俺はひょっとして間違ってるんじゃないか、あの時と一緒だ『透 母さんと真理をよろしく頼む』あの時と同じ………  なにもかも洗いざらいぶちまけたい衝動に駆り立てられる。  敷島なら信頼できる、相談できる、協力を頼める。告白してらくになりたい、重荷をおろしたい。  あの日俺が見たもの、見ちゃいけなかったものの実態を全部伝えて、正しい判断を仰げばー……  「実は俺、図書室で」  場違いに軽快な着メロが流れる。  「もしもし?」  出る。  『逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ……』  「ネルフじゃありません」  切る。    「誰かね?」  「シンジくんです。声変わりしてたけど」  「真二くん……友達?」  「最速の男です」  友達にはなりたくねえ。  再び着メロが鳴る。しかたなく通話ボタンを押す。  『なんで切るんすか先輩!見捨てないでください!』  「開口一番陰鬱な念仏リフレインされちゃ消したくなるよ、聡史」  携帯の向こうじゃ後輩が野太い声で泣き喚いていた。  まだ警察署にいるらしく背景がざわめいている。  敷島に目礼で断り、体の向きを変えて人騒がせな後輩を小声で叱る。   「いま取り込み中なんだよ、後にしろ」  『取り込み中ってまだコンビニから帰ってないんすか?どんだけ暇人なんすか?』  「お前こそ、まだ警察署に足止めくってんのかよ。事情聴取にいつまでかかってんだ」  『俺に言われたって困ります。なんでも忘年会で羽目はずしすぎた酔っ払いや大晦日だからってはしゃぎすぎた不良の方々で混みあってるそうで、なかなか順番回ってこなくって……さっきからずっとソファーで待ちぼうけっす。ユキなんかすっかり婦警さんと仲良しで、俺除け者にして盛り上がっちゃって……もー帰りたくって帰りたくって、孤独という名の精神的プレッシャーから逃げないよう逃げないよう闘魂を注入してたんす』  「かっこよく言ってるけどただの現実逃避じゃん」  『……先輩のイケズ………』  「いい年して泣くなよ」  『泣いてないすよ』  「ずずっ、ずずって洟啜ってんじゃねーか」  『あ、これそばです。ユキがびいびい泣くもんだから同情した婦警さんがそばとってくれて、ふたりして啜ってるとこっす』  「お兄ちゃんが泣いたんじゃん」とユキちゃんの可愛い声でツッコミが入る。この野郎、俺だってまだ年越しそばにありついてねーのにちゃっかりと。  呑気な報告に脱力の反面、安堵を覚える。  おかげで敷島の追及から逃れられた。  詰問の気迫に負け、うっかり秘密をしゃべりそうになっちまった。  敷島の視線を背に感じつつ携帯を持って移動し、たまたま思いついた疑問をふってみる。  「そういや聡史、七不思議って知ってる?」  『うちの高校の?知ってますよ、有名だし。俺もミス研部員の端くれ、ミステリと名のつくものならオカルトにだって食いつきます』  「ぜんぶ言えるか?」  『一、夜になると片目を瞑る校長像。二、旧校舎北トイレの啜り泣き。三、勝手になる音楽室のピアノ。四、図書室に紛れ込む血染めの本。五、体育館で誰もいないのに跳ねるバスケットボール。六、夜になるとスクワットする人体模型。七、涙を流す肖像画……なんすかいきなり』  やっぱり。  七不思議がひとつすりかわってる。  「……末広がりの八不思議じゃ語呂悪いもんな……」  『もったいぶらずに教えてくださいよ、いきなり七不思議の話なんか持ち出してどうしたんですか』  聡史が色めきだつ。  ミス研の端くれの自称は伊達じゃない。さっきまで暮れの警察署の片隅でべそかいてたくせに鼻先に吊るされた謎にがぜん興味を示す。  頭の中で推理をこねくりまわす。  六年前に発行された七不思議特集号には美術室の怪異は載ってなかった。  ということは美術室の怪が追加されたのは六年前以降、泣く肖像画は新興の不思議。  美術部の生徒が自殺したのは六年前、俺と聡史が小学生の頃。計算は合う。  「うちの学校で飛び降り自殺があったって話、知ってるか。七不思議のもとになった事件なんだけど」  『知ってます。地元じゃ結構有名な事件っすよ。むしろ先輩が知らなかった事に驚いたんすけど』  「六年前だよな?」  『……すいません、無神経で。それどころじゃなかったですもんね』  俺たち一家が当時おかれた状況に思い至ったか、聡史が殊勝な声で詫びる。  「いいって別に。気にすんな。しっかし考えてみりゃ妙な話だよな。過去に自殺者が出たなら学校でももっと噂になってそうなのに……」  『タブー視されてるんすよ、きっと。学校の屋上から在校生が飛び降り自殺なんて学校側にしてみればとんでもない醜聞。当時も色々騒がれたみたいだし、一日も早く揉み消したかった先生たちが生徒を締め付けたせいで自殺者の噂が下火になったかわりに、七不思議に組み込まれて語り継がれることになった……』  「なるほど。冴えてんじゃん」  聡史は機転がきく。説得力ある推理に感心。ひょっとしたら俺より頭いいかも。  携帯を握りながら想像を飛躍させる。  俺を美術室に行かせるのが目的なら手紙の置き場所はどこでもよかった、それこそ真っ先に目に付く入り口付近に落としておけばよかった。事実第一第二のヒントの切り抜きは机の上に無造作に放置されていた。  なんで第三のヒントだけ例外的に絵の裏側なんてわかりにくい場所に隠されてたんだ?  せっかくの手のこんだヒントも気付いてもらえなけりゃ意味がない。  第一第二のヒントと違って第三のヒントだけ故意に隠されていたのは不自然だ。  まわりくどい手口。麻生らしくない。何かがひっかかる。時間稼ぎ?そんなみみっちいまねするか?  「あの絵になにかあるのか……?」  わざわざ目に付く場所に絵を引き出した意味。  剃刀の罠を仕掛けた意味。  第三のヒントが手紙だけじゃなかったとしたら……  麻生はあの絵になにを託し伝えようとしている?  『先輩?』  「自殺した生徒について、くわしく知ってるやつに心当たりあるか」  『心当たりって言われても……あ、思い出した。友達の兄貴がたしかうちの卒業生で、自殺した人のこと知ってるかも』  「ほんと悪いんだけど聡史、一生のお願い。その友達の兄貴さんから自殺した生徒について、くわしく聞けないかな」  『え、だって先輩、「かも」っすよ?絶対知ってるとは断言できねーし年末の忙しい時期につかまるかわかんねーし、第一なんでそんなこと知りたがるんすか?先輩の頼みならどんと来いっすけど、せめて理由くらい』  「今書いてる小説で七不思議ネタにしようとおもって調べてるんだよ」  『夏休みに言ってた例の大作にとりかかるんスね!?』   苦しい言い訳かと危ぶむも案外すんなり通った。素直な後輩で助かった。     興奮に席を立った聡史が目を輝かせるさまを想像し、一抹の良心の痛みを感じつつ、すらすらと即興のホラを吹く。  「そーそー例の大作。オカルトとミステリが融合した大作、占星術裏鬼門殺人事件。学校内を通る霊道にそっておきた凄惨な連続殺人に、陰陽師安部清明の末裔で現役女子高生探偵・安部マリアと、マリアをお姉さまと慕う百合百合ロリロリな美少女助手にして小野篁の末裔・小乃野モモコの霊能マリモコンビがいどむ!タイトルは「霊能マリもっこリ~百合のち見立て殺人~七不思議にドキドキッ☆」、冬休み中に突貫で仕上げてメフィスト賞とる!」  『…………ワー凄イ。頑張ッテクダサイ先輩、微力ナガラ助太刀シマスンデ』  何故か聡史の声が遠い。  『……一応確認しますけど、メフィスト賞っすよね。フランス書院ナポレオン文庫じゃないっすよね』  「本格ミステリーだ。情報収集頼む」  『……わかりました……』  納得できないなにかを強引に飲み下すような敗北に折れた声だった。  何故だかどんより沈んだ雰囲気を盛り上げようと、夏休み一日かけて古本屋をめぐりながら、小説の構想を話した思い出を回想する。  「覚えてるか、聡史。神保町遠征夏の陣。俺とお前と麻生で電車乗り継いではるばる神保町でかけて……」  『麻生先輩までついてきてびっくりしたけど。どうやって説得したんすか?』  「ナイショ。でもさ、楽しかったろ?はしゃいでたもんなーお前」  『一番はしゃいでたの先輩じゃないすか。わざわざ東京神保町に出かけて穴場の本屋一軒残らず引きずり回して、くたくただったんすからね!よくまーあんなハイテンション維持できるなって脱帽ッスよ』  「しかたねーだろ、地元の本屋は夏休み上旬で制覇しちまったし……都会まで足のばさねーと掘り出し物ゲットできねー世知辛い世の中を恨め」  『修道士カドフェル全巻初版でゲットできたからいっすけどね』  ミステリマニアの業深く、聡史も嬉々として話にのってくる。  話が弾めば弾むほど寒々しい保健室から心は離れ、日本最大の古本屋街、膨大な量と質の書籍が集まる神保町を探訪した夏休みの思い出があざやかによみがえる。  本好きの聖地に乗り込んだ興奮に浮かれる俺、ペットボトルのコーラを汗だくでがぶ飲みする聡史、麻生は神保町の情緒ある風物にも興味なさげに買ったばかりの本をめくっていた。  俺たちの住む県から東京まで電車で往復四時間。ぶっちゃけ出費は痛かったが、遠出しただけの収穫は十分にあった。  神保町は以前から憧れの場所だった。  遠征に踏み切るに至ったきっかけは麻生の一言、「古本屋に案内してくれ」。  言質をとった俺は麻生の気が変わらないうちにと気合を入れて日程を組み、ネットで下調べをばっちり行い、当日は神保町のすみずみまで本領発揮とふたりを引きずり回した。  唯一失念していたのは帰りの電車の時間。夕方には余裕で帰り着く予定が、物色と観光に夢中になるあまり時刻表をド忘れしていたのだ。  「神保町は摩窟だな……」  神保町の熱気にあてられたせいか帰りの電車に揺られ地元まであと五駅というところで精根尽きた。  俺と聡史の両手は大量の戦利品でふさがっていて、持ちきれない本の袋が網棚に床に膝の上に大昔の石抱きの拷問さながらどさどさおいてあった。  時間はすでに夜九時を回っていた。  この状態で歩いて家に帰り着くのは物理的に不可能。  神保町をすみずみまで歩き回った足は不自然に突っ張って感覚がない。  明日は酷い筋肉痛に襲われること必至。  口から出た魂を戻す余力もなく座席に伸びた俺と聡史を見かね、自分の分の荷物を持ち上げながら、麻生はとてもとても嫌そうに言った。    「うち来るか?」  駅名のアナウンスとともに電車の扉が開く。

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