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第21話

 泊めた理由を尋ねたらしゃらっと人を食った答えが返ってきた。  「死屍累々」  困憊した俺と聡史に顎をしゃくり「死屍」、俺たちが両手にぶらさげた袋詰めの本および玄関先の袋詰めの本を見比べ「累々」。  ぽんと手を打つ。  「おれたちが死屍で本が累々ね。なるほど」  「感心してる場合じゃねっすよ先輩」  「放置して帰ったら色々なもの遺棄罪で捕まりそうな気がした。半分死んでたし」  「誰が死んでた誰が。半分だけだよなー?」  今日はミス研はじまって以来の歴史的な一日となった。名づけて神保町遠征夏の陣。  地元から東京まで電車を乗り継ぎ往復四時間、けっして短いとはいえない距離と時間を費やし足を伸ばした甲斐は、俺らの両手をご覧いただければわかるとおり十分あった。  東京神保町は本好きの聖地、日本屈指の規模と質量を誇る古本屋街。本好きを自認するなら一度は訪れたい憧れの場所。  神保町初体験の興奮冷めやらず、両手一杯に戦利品を携え気分上々の俺と聡史は帰りの電車でもハイテンションでしゃべりどおし。互いの戦果を得意げに見せ合っては健闘を称え合ったり羨んだり妬んだりと賑やかに車中の時間をすごした………  ……………………………………………のだが。  はしゃぎまくった昼間のツケで峠をこえる頃にはテンションローダウン、地元まで五駅の地点で真っ白に燃え尽きた。  口から魂吐いてグロッキーに果てた俺と聡史があんまり見苦しかったのか、公共の座席にゴミを捨ててくのはさすがに気が引けたのか、驚くべき事に人嫌いの麻生の方から泊まらないかと言い出したのだ。  以上、証明終了。  「本に埋もれて死ぬなら本望だけど、どうせなら読み終えてから死にたいよな」  「せっかくの戦利品、志半ばに読めずして行き倒れは切ないっすもんね」  「じゃあ持ちきれないほど買うなよ」  ドアを施錠しながらの麻生の突っ込みは無視する。  俺たちの地元から五駅離れた隣の隣の市に麻生のマンションはあった。  駅前はデパートが多く垢抜けていた。新旧の団地を擁するベッドタウンとして栄えてるらしく、駅から少し歩けば瀟洒なマンションが立ち並ぶ閑静な区となる。  コンビニやファミレスもそこそこ充実した暮らしやすそうな街だ。  俺と聡史が半死半生、あっちへふらふらこっちへのらくらのゾンビの歩みで辿り着いたマンションは、新しく綺麗だった。  家賃高そうというのが第一印象。  自動ドアをくぐり、開放的な吹き抜けのロビーを突っ切ってエレベーターホールに向かううちに、それは確信へと変わる。  驚くなかれ、エレベーターの中はちゃぶ台おいて家族団欒できそうな広さ。  本音を言えばちょっと、いや、かなり本気で間借りしたいとおもった、エレベーターに。  エレベーターは八階でとまる。  扉が開くと同時に走り出す。麻生の部屋は802号室。  扉が開ききるのを待たず飛び込めば、広々した玄関と飴色の光沢の床が出迎える。  そしたらもうこう叫ぶしかない。  「お邪魔しまー……明るっ!広っ!分譲!?ヨーイドンで走れんじゃんむこうまで!?」  「いや、賃貸」  直視したら目が潰れそうな広さ眩さだ。  床はおろか壁も天井もすみずみまで光を放ってるように見えたのは錯覚か?玄関から突き当たりまでの距離を目測で算出したところ俺の部屋が余裕で3個は入りそうだった。   麻生んちを訪ねるのは初めてだ。  聡史とふたり間抜け面さげて玄関に突っ立ち、好奇心旺盛にあたりを見回す。  俺と聡史ごくごく普通の一般家庭出身者は、明らかに中の上か上の下、裕福で悠々自適な麻生の暮らしぶりにブルジョワジーショックを受ける。   ……ごめんなさい、嘘吐きました。  聡史はともかく俺んちの暮らしぶりはせいぜい中の下か下の上レベル、一般人を名乗るのも肩身が狭い貧乏人だった。  「………一般人には刺激が強すぎるな、聡史」  「先輩、あれ、床が光ってます。ニスっすかね、ワックスですかね?」  「突っ立ってると邪魔。入れよ」  手持ちぶさた所在なげに玄関に立ち尽くす俺たちの横を素通り麻生がそっけなく促す。  麻生に促され、履き潰したスニーカーを脱ぎ散らかし廊下に上がる。  「麻生、マジでここで一人暮らししてんの?」  「ああ」  「すげー。いいなー。最高じゃん、毎日ピザとかとり放題じゃん」  「カロリーお高めで体に悪いっすよ先輩……」  「ピザはとらない」  「え、なんで?もったいない、一人暮らしっていやピザだろピザ。デリバリーだろ。店屋物バンザイ」  「毎日そんなもん食ってたら胸焼けする」  「今日はいいだろ、今日は。特別に。俺と聡史が初めてお前んちにとまりにきた記念日ってことで即興パーティー」  「金は?俺がもつの?」  「ワリカン。こないだからあげくんおごってもらっちゃったし」  「からあげくん?何それそれ聞いてないすよ先輩、いつのまに麻生先輩とからあげくんおごったりおごられたりする仲に……」  わやわや雑談しながらリビングに入る。……比喩ではなく光り輝いていた、本当に。フローリングの床が。ステンレスの流しが。もろもろが。   廊下の突き当たりはスケートリンクと見まがうだだっ広いリビングだった。  小手をかざしコンクリ打ち放しの壁にそって視線を一巡、開放的な空間の全容を把握する。  「リビングキッチンっていうんだっけ、こういうの」  新品同然、手垢の形跡一切なく輝きを誇るステンレスの流しに軽く感動する。  「自炊は?」  「してない」  リビングとキッチンは壁取っ払い一続きの床で繋がってる。視界に遮蔽物がなく見晴らしがいい。台所に使用された形跡はさっぱりない。入居した時から蛇口もひねってないんじゃねーかと邪推したくなる水回りの綺麗さだ。  リビングに荷物を置きにいった麻生の背中を盗み見、台所に屈み腰で忍んでいって、家電特有の低く単調な唸りを発する冷蔵庫の扉を開ける。  「…………ジーザズ」  冷蔵庫の中は殆どからっぽだった。ミネラルウォーターと烏龍茶とコーラのペットボトルが数本、あとは缶ビールと果実酒が入ってるだけ。  「人んちの冷蔵庫勝手に覗くな」  上から伸びた手が叩き付けるように扉を閉め、冷気の漏出を遮断。  傍らに不機嫌顔の麻生がいた。  叩き付ける寸前に手を入れてコーラのペットボトルを抜いていた。  「悪い、人んちの冷蔵庫と本棚の中身はつい気になっちゃって」  「主夫か、お前は」   「……反論できねーのが哀しい」   人んちに乗りこんで真っ先に冷蔵庫の中身の確認に走るあたり所帯じみてると自分でもおもう。  「しかたねーだろ、習性なんだ」  「覗きが習性?誇れる趣味じゃねーな」  「露出狂よりマシだろ。冷蔵庫の中見たら腹へっちまった。なんかねーの、なんでも。なけりゃコンビニに買出しにいくけど」  「出前とる」  「ピザがいいな、俺」  「大人しく本読んでろ」  随分な言われようだが、自覚があるので反省。  蝿でも払うように邪魔っけに追い立てられリビングに行く。  聡史の向かいに足をくずして座り、落ち着かない気分で壁に沿って視線を一周させる。  清潔で殺風景で生活感が希薄。モデルルームみたいに整っている。  数少ない家具は麻生の趣味か上品なモノトーンで統一されていた。  フローリングの床にじかに置かれたソファーは見るからに高そうな黒革の光沢を放ち、ガラスのテーブルに灰皿と文庫本がのっかってる。  「………不良め」  あいつが煙草の喫いすぎで肺癌になろうが関係ねーけど。  室温は肌寒いほど低く保たれている。ひんやりとした床の固さが疲れた足に心地いい。  飴色の光沢を放つ床にも上質な材質のソファーにもシンプルなテーブルにも塵ひとつおちてない。  ぶち抜きでリビングとキッチンが繋がっただだっ広い空間は、引越ししたてで荷物をほどいてないのかと誤解させるほど極端に物が少なく、明るく綺麗な廃墟とでも形容すべき空虚さをぽっかり漂わせる。  散らかり放題の俺の部屋とは雲泥の差。しかしどこか違和感も感じていた。  無個性な灰色のカーテンを掛けた窓から手前に視線を転じ、ああそうかと得心がいく。  麻生の部屋は親しい人間の存在をまったく感じさせない。  一人暮らしでも友達か家族か恋人なにがしか他人の存在を匂わせるものが最低限あるはず、持ち主の人となりを示す私物が置かれてるはずだ。  だが麻生の部屋には家族の写真とか友達の写真とかそういったプライベートの痕跡がまったく見当たらない。  この部屋、なにかに似てる。  「カメラオブスキュラ……」   「?なんすか先輩」  聡史が夢から覚めたように顔を上げる。  「いや……なーんかさ、この部屋カメラオブスキュラに似てんなって。こないだ本で読んだんだけど」  「ラテン語で暗い部屋の意味、素描を描くために使われた光学装置」  聡史が興味を示し、本を脇に伏せ胡坐をかく。体育会系に見えて博識なのだ、この後輩は。  「写真術発明にあたり重要な役割を果たした装置。写真撮影用の機械をカメラと呼ぶのはカメラ・オブスキュラに由来してるんだそうだ」  「言われてみればたしかにそんな感じっすね。照明は明るいけどモノトーンの沈んだ色調でまとめてるせいか妙に殺伐として……鑑識があらかた撤収した殺人現場のような……部屋のど真ん中にチョークで人型囲いたくなりますね」  悪趣味で不謹慎だが的確な聡史の比喩に、ルービックキューブがカチリと組み合わさるように違和感が晴れる。  暗い部屋に一人住む男。  カメラオブスキュラの住人。  口にした言葉に寒気が走る。  何故カメラオブスキュラを連想したのかわからない、新しく仕入れた知識がモノトーンの部屋の印象と結び付いてたまたま表層に浮かんだのか?  「片付きすぎてるから居心地悪いんですよ、きっと」  「だよな。俺んち散らかり放題だしな……真理のヤツなんて読んだ漫画居間に転がしとくんだぜ、踏ん付けて転びそうですげえ迷惑」  「先輩だってテーブルの上に推理小説おきっぱなしにしてるじゃないっすか」  「あれはだなー、トイレで中座して……」  軽口叩きがてら、テーブルに伏せられた文庫本に手を伸ばし最初の方をぱらぱらめくる。  麻生が読んでる本だった。  「なあ、悪童日記って面白い?」  「推理小説じゃねーよ」  「面白いかどうか聞いてんだよ」  「面白いよ。……興味深い」  「ふーん。読んでいい?」  「いいけど、ヨダレ付けるな」  「途中で寝るの前提!?」  麻生から許可をもらい、床に寝そべって、足を遊ばせながら読書にとりかかる。  床に腹ばった俺の隣で聡史も凄まじい集中力を発揮し本を読む。  電話の子機をもった麻生がキッチンを出てこっちにやってくる。  「ピザ何にする?」  「まかせる」  「まかせます」  偶然声が揃った。本から顔をあげる暇が惜しい。手元の本に全幅の意識を傾ける。  「肉が入ってないのにする」  麻生が薄くため息を吐き、自分はさして食いたくもないピザのメニューを決定し、注文の電話をかける。  ……おっと、忘れてた。これだけは言っとかねーと。本から顔を上げず、素早くリクエストを追加。   「「Lサイズで」」  「ぬかりない」  麻生もだんだん俺たちの色に染まってきた。      今夜は無礼講だ。  「アガサ・クリスティの最高傑作を決めようじゃんか」  濃厚にチーズの糸引くピザを豪快に齧る。  くちゃくちゃ下品な咀嚼音たてペットボトルのコーラを掴んで一気飲みすれば、麻生が気取って眉をひそめる。  「コップ使え」  「こまかいこと言うな男のくせに。それよかアガサ・クリスティだ。ミス研メンバー全員そろった今夜こそ、ミステリの女王と名高い彼女の最高傑作を決める絶好の機会」  到着したピザを中心に車座になり、遅い夕飯にとりかかる。  景気よくコーラをラッパ飲みする俺の向かい、顎を規則正しく動かしながら聡史が挙手。  「おへはだんひぇんそしへだへもいひゃくひゃるへす」  「口の中のもの飲み下してから言え」  義理でピザをつまむ麻生の小言に猛烈な勢いで咀嚼嚥下し口の中をからっぽにしてから、意気軒昂に宣言。  「断ッ然そして誰もいなくなるっす!アガサ・クリスティの傑作にして孤島ミステリの傑作、疑心暗鬼に陥る人間の描写が巧みでぐいぐい読ませます」  「ポアロでもマープルでもない単発を上げるか」  「その二人はたしかにアガサ作品を代表するキャラ立ち抜群の名探偵っすけど、ストーリーテリングの意外性で言ったら『そして』にかないませんよ」  鼻の穴をふくらませ力説する聡史の青さを笑い、コーラを呷るや手の甲で顎を拭い、ぴんと人さし指をたてる。  「俺はあえて火曜クラブを推す。アガサ作品の中じゃ地味な位置付けだけどマープルデビュー作としてもっとスポット当たっていいとおもうんだよね、トリックもよくできてるし。なんといってもアガサ最大の美点、ウィットとユーモアに富んだ台詞の応酬がたまらなく小気味いい。そしてみたいなどんでん返しの奇抜さこそねーけど、大佐をはじめとしたアクの強い脇役の個性が際立ってる。ちなみに原題はミス・マープルと13の謎、ホームズの五粒のオレンジの種思い出すよな」  「青いゼラニウムはよくできてるなあと感心しました」  「動機対機会も好き。あとさあとさ、アガサ作品はヒロインがめっちゃ可愛いんだ!お茶目でコケットリーでちょっとお間抜けで……バントリー夫妻の晩餐会に招かれた女優のジョーン・へリアなんて、頭ゆるゆるのおばかと見せかけてラストで憎い演出を」  「火曜クラブに捧げる先輩の愛はよくわかりました、でもやっぱマープルよりポアロっしょ、常套。灰色の脳細胞にかないっこありません。オリエント急行は興奮したなあ」  「待て、ポアロの脳細胞が灰色だってなんでわかる?ぱかっと開けてみなけりゃわかんねーじゃんか、自称だよ、自称」  「ミセス・マープルはしょせん田舎のおばあちゃんじゃんじゃねっすか、世界を股にかけ精力的に活動する名探偵ポアロにかないませんよ」  「世の人々はしばしば誤解してるけど声を大にして俺は言いたい、人がばたばた死ぬばっかじゃミステリじゃねー!」  「フランス人じゃない、ベルギー人です!この灰色の脳細胞を見よ!一発芸、頭蓋骨ご開帳ッ!」  コーラ回し呑みピザぱくつきつつ気心知れあう者同士の無礼講がどんどん混迷の相を呈してきた。ノンアルコールで酔っ払えるのは高校生の特権。  手振り身振りもはげしく熱弁ふるい議論を戦わせる俺と聡史から少し離れ、ソファーに凭れた麻生はスマートに本をめくる。  「神保町一日歩き回って電車ん中じゃ死んでたのに、どっからその元気でてくるんだ?」  「栄養補給で完全復活!徹夜でミステリ談義!」  「よそでやれ」  「そうそう聡史、麻生がさ~有栖川有栖読んでそこそこ面白いって……」  不快げに本を閉じるや立ち上がり、一片残らず貪り尽くされたピザの空き箱を片付ける。  「いいじゃん、恥ずかしがらなくても。お前も加われよ。大歓迎だぜ」  「寝ろよ」  「だってもったいねーじゃん、せっかく……」  せっかく麻生んちに泊まってるのに、すぐ寝ちまったらもったいねえ。  昼間の興奮の余熱で体が疼く。  聡史んちに泊まったことは何度かあったが、同級生のうちに泊まるのは初めてだ。  そのへんにいる普通の高校生みてーに、もっと色々なことをくっちゃべりたい。  ソファーまわりの床には俺たちが神保町から持ち帰った大量の書籍が傾いだ袋から乱雑になだれて散らばってる。  「あー、食った食った」  床にゴロンと横になる。大の字に手足をのばし天井を仰ぐ。  「日に焼けたな~聡史」  「先輩も焼けてますよ、ほら、首んとこの色がちがう」  「一日歩きぱなしだったもんなあ。ご苦労ご苦労」  「修道士カドフェルも全巻ゲットできたし戦果は上々。また行きましょうね、神保町。今度はふたりで……」  「三人で!」  聡史がむくれる。  変なヤツ。大勢でいったほうが楽しいじゃんか。  ふたりして寝転がり頬杖つき、紙魚を標本した古本の埃っぽく褪せた匂いの中に通人の粋を感じさせる神保町の風俗を回想する。  神保町探訪で得たものは大きい。三人でめぐれば楽しさも三倍。古本屋を片っ端から回り、棚のこちらからあちらまで掘り出し物の発掘にいそしみ、昼間は実に精力的に活動した。暑さにばてたら自販機で水分補給、穴場から穴場へはしごして、聡史と競って両手に持ちきれないほどの本を仕入れた。  本に囲まれた至福の時間、充実した一日を振り返り、頬がゆるむ。  「先輩が迷子になっちゃった時はどうしようかと……」  「迷子になるかよこの年で。店の反対側にいただけだろ。ずっと時計回りにぐるぐるぐるぐる行き違って……」  「成人指定の漫画コーナーで発見した時はこの人捨てていこうかなって」  「……大目に見ろ。俺も男だ。あとで見せてやるから」  「買ったんすか」  全力で話をそらす。手近な本をとってぱらぱらめくり目を通していく。随分古い本らしく、日に焼けた匂いが鼻を突く。古本屋の店頭ワゴンセールで売り叩かれてた一冊。奥付には鉛筆の殴り書きで100円の表記が。  「小説書いてみよっかな」  「先輩が?」  大仰に驚く。  「心外だ、その驚き方は。一応ミス研てご立派な名が付いてんだから、放課後集まってだらだらだべってるだけじゃなくなんか活動しなきゃ対外的にまずいだろ。俺もまあそこそこ古今東西の推理小説読んでるし、ここらで一本長編しあげてメフィスト賞に応募してみようかなって……」  突然、骨が軋むような握力で両手を握られる。  驚く俺の眼前で跳ね起きるや尊敬の眼差しを無垢にきらめかせ、興奮に鼻の穴をふくらませた聡史が、感極まって俺の手を鷲掴みぶん回す。  「俺ッ、俺ッ、先輩はやればできる人だっておもってました!!」  「痛て、痛いって聡史手が軋む骨がばきばき……」  「先輩は普段ちゃらんぽらんだけどやればできるひとだって中学から信じて疑わなかったけどついに、ついにやる気になってくれたんすね!?それでこそ高校までおっかけてきた甲斐があるってもんす、俺の野望はメフィスト賞から作家デビューした先輩を熱血編集者として補佐して二人手に手をとりあってスターダムに……」  「痛い痛い関節が変な方向に曲がってるーって、聞けよ聡史ィいィい!?」  夜のマンションに近所迷惑な絶叫が響き渡る。  俺の決意表明というか野望の暴露に感銘を受けたか、分厚い手でぶん回しただけじゃ足らず暑苦しく抱擁までされ限界まで反った背骨がへし折れんばかりに軋む。  感動的な抱擁の光景が一方的に関節極められ悶絶する生き地獄へと成り果てる。  必死に身を捩り関節技から抜け出し、両手を突っ張って聡史を引き剥がす。  図体のでかさと腕力が比例した後輩とのじゃれあいは毎度命がけだ。  肩で息をしながら腕をさする俺に向き合い、聡史が太い眉をよせる。  「……先輩。手、どうしたんですか」  聡史が心配げな面持ちで俺の右手に巻かれた包帯をゆびさす。  「これ?こないだ自転車で走ってるときに転んで、手えついた拍子にべろりと剥けちまってさ……たいしたことねーんだけど」  さりげなく右手を隠す俺の前に正座し、膝の上で拳を握りこみ、息を吸う。  「……夏休みに突入して聞きそびれてたんすけど……終業式の日、帰り、遅かったっすよね。心配した真理ちゃんからうちに電話かかってきて」  俺の顔色を遠慮がちに、しかし油断なくうかがいつつ、熾火ちらつく表情で聡史が言う。  「あの日、ひょっとして、なんかあったんすか」  「なんもねえよ。勘ぐりすぎ」  聡史は鋭い。野生の勘が働く。下手な嘘は邪推を招く。  右手を背に隠し、左手を顔の前で軽く振って否定するも、追及はゆるまない。  「先輩、最近ちょっとおかしいですよ」  「おかしいって、何が」  「今日も……自分で気付いてないんすか?たまにぼーっとしてるし。心ここにあらずって感じで。顔色も……あんま寝てないみたいだし。調子よくないんじゃ」  「そんなことねーよ」  「その手、ほんとに転んだんですか」  ひしひしと重圧を感じる。  剛毛が密生した太い眉の下、黒く小さな目が純粋な懸念を湛えて潤む。  「俺、前に………」  「シャワー行って来る」  聡史が何か言いたげに口を開き、諦めて唇を噛む。  膝の上においた手を親指を内にして握り込む。  リビングを抜け、廊下を歩き、浴室のドアを開ける。浴槽に湯が張ってない。  「あいつ、風呂に浸かる習慣ねえのか」  人さまんちで贅沢は言うまい。シャワーを貰えるだけ有難い。  一日中歩き回って汗をかいた。  塩を吹いたシャツを脱衣カゴに放り込み、ジーパンを脱ぎ、上にかける。  浴室にとびこむなりコックをひねる。  適温に調節された湯が頭上に降り注ぎ、一日の垢と汗を洗い流していく快感に息を吹き返す。  人んちのシャワーは勝手が違う。ちょっと戸惑うも、すぐ飲み込む。  濡れた前髪を右手でかきあげ、気付く。  「……あ。やべ、忘れてた」  前髪から雫が滴る。  湯を吸って変色した包帯はもとからゆるんでいたのか、ほどく前から自然に螺旋を描き落下していく。  波打つ包帯の下から治癒過程の右手のひらがあらわになる。  手のひらに張った赤い皮膜が水滴を弾きかえす。  シャワーの放水に流され、タイルの床を滑って排水溝にとぐろを巻く包帯を拾い、ぞんざいに手首にひっかけ、外へ。  そこで初めて着替えもタオルも持ってこなかった失態に思い至る。  逃げるようにリビングを出て、浴室に避難して、右手にふやけきった包帯を雑に巻いた間抜けな全裸で立ち尽くす。  「あー……なにやってんだ、着替えも持ってこないでさー……」  隅のクズカゴに叩き付けるように包帯を捨てる。  腕を振った瞬間、同じ動作をなぞる人影が視界にちらつく。  顔を上げれば、たまたまそこに洗面台の鏡があった。  壁に嵌めこまれた鏡に一糸まとわぬ上半身をさらした俺が映る。  『先輩、最近ちょっとおかしいですよ』  『今日も……自分で気付いてないんすか?たまにぼーっとしてるし。心ここにあらずって感じで。顔色も……あんま寝てないみたいだし。調子よくないんじゃ』  「あたり」  目の下にうっすら隈が浮く。少し頬が痩せた。最近よく眠れない。  吸い寄せられるように鏡の前に立ち、へその上あたりに手を添え、なでる。  夏休みに入ってだいぶ経って痣は薄まった。夏休みが終わる頃には綺麗に消えてるはず。  貧弱に痩せた腹筋、軟弱に薄い胸板、左右対称の細い鎖骨。広範囲の痣。  下腹部に重点的に広がる痣を緩慢に円を描くような動作でたどり、いちいち顔をしかめ、指に慎重に圧力を加える。  『覚えてろよ、殺してやる、お前らふたりとも学校にいられなくさせてやる!!』  腹の柔肉に指が沈む。  『こっちにゃ証拠がある、お前が逆らったらアレを流すだけだ、家族そろって地元にいられなくしてやっからな!!』  抉るように指を立てる。  洗面台に左手ですがる。  痣だらけの汚い下腹を右手でまさぐり、目を固く瞑るー……  「秋山」    振り返る。  扉が開き、廊下にタオルを抱えた麻生が立っていた。  「タオルと着替え。なかったろ」  「……サンキュ」  「服、俺のだけど。サイズ合わねーかも」  「なんでもいいよ、別に。はは、お前こんな趣味してたんだ。アディダスとか着るんだ、意外」  「素っ裸で笑ってるとばかみたいだぞ」  深呼吸で平常心を回復、麻生に背中を向け、投げ渡されたタオルで湯冷めした体を拭く。  乾いた生地に水滴が吸い込まれる。  タオルの端を握って頭を覆い、乱暴に髪をかきまぜる。  麻生はずっと廊下に立って俺が体を拭くのを見ていた。  男同士だから別にどうもしない。  俺は至って普通だ。  落ち着いてる。  あの時みたいに取り乱したりしねえ、異常な状況に取り込まれてべそかいて醜態さらしたりはしない。  男同士だ。友達だ。麻生はこの痣を見てる、俺の裸を知ってる。だから……  「沢田がしょげてた。なんかあったのか」  「おせっかい焼かれた」   「お前の得意分野じゃねーか」  「後輩に気ぃ遣われたら立つ瀬ねえ」   麻生が服を放る。  左手で受け取り、体にあてる。  やや大きく、裾が膝まで来るも気にせず羽織る。  首から襟を抜き、裾を引っ張り、下腹を完全に隠し、同時に体の強張りが解ける。  「お前んちの風呂きれいだよな。広いし、余裕で足のばせそ。使わねーならうちにくれ」  ぶかぶかのシャツの中で細い手足が泳ぐ。もどかしい手付きでトランクスを穿く。  平静を装う。  指が縺れる。  動揺を糊塗する。  心臓が速く鼓動を刻む。  シャワーを浴びたばっかの腋の下を汗が伝う。  性急に着替えを終え、すれちがい出て行こうとした俺の耳元で低い声が囁く。  「びびってんのか」  弾かれたように顔を上げる。   廊下に立った麻生が眼鏡の奥の目を意地悪く細め、試すように言う。  無慈悲に整った横顔と、羽織ったシャツを透して皮膚病の進行度合いでも観察するような無感動な目に、腹の底で溶岩のように濁った感情が渦巻く。  正面を向いたままそっけなく問う麻生から顔を背け、苦りきって吐き捨てる。  「お前に何がわかるんだよ」   あの日重なり合った線と線とがすれ違い、二本の平行線に分かれていく。

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