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第22話
おかえりなさいが返ってこない。
玄関のドアを開けると同時に違和感の第一波が襲う。
肌に感じる空気がいつもと違う。
家の中が妙に薄暗くがらんとして人の気配が絶えてしない。
帰ったらまずただいまを言うのが習慣だった。
お袋特有の間延びした声でおかえりなさいが返ってくるとその日も俺は信じて疑わなかった。
背中のランドセルがやけに重い。もどかしげに靴を脱ぎ捨て上がり框にあがる。
どうして家の中が暗い?お袋は、真理は、家族はどこへいった?
輪郭の曖昧な不安に絡めとられ騒々しく廊下を駆ける。
歩きから小走りに、焦燥に急き立てられ、軋み撓む床を蹴る。
背中のランドセルがかしゃかしゃうるさく跳ねる。
無造作に突っ込んだリコーダーと定規が中の教科書とぶつかりあって耳障りな音をたてる。
床板が軋む。走る。
日常が破綻する。世界が歪曲する。視軸が伸縮する。足が萎縮する。
ここから先にいっちゃいけないと理性が制止する、本能がそれに逆らう、床と接した足裏から非日常が浸水し緊張の水位が高まっていく。
どうしてこんなに暗い、どうして空気が澱む、どうして胸がざわつく。
なにか異常な事がおきてしまったと肉眼で確かめる前からわかった。
廊下の右手の台所に転がりこむ。
台所はきれいに片付いていた。
水を切った皿が流しに立てかけられている。
三角コーナーはからっぽだった。お袋が出かける前に捨てていったらしい。
テーブルの中央にみかんがのっていた。
帰宅した俺がよくつまみ食いした、まるまる肥えた美味そうなみかん。
テーブルには家族の人数分の椅子が用意されてる。
朝出かける時に見たのとどこも変わってない光景に膝からへたりこみそうな安堵を覚える。
杞憂か。
見慣れた台所に立ち尽くし、細く息を吐く。
ランドセルの吊り革を握る手はいつのまにかじっとり汗ばんでいた。ひっぺがすと手のひらにくっきり痕が食い込み充血していた。
テーブルを時計回りに迂回する。台所をぬけて居間に行こうとして、気付く。
テーブルの端に一枚のメモがのっかってる。
電気を消した台所で、その白っぽい紙は、妙に浮いて見えた。
一旦沈静化した胸騒ぎがまたぶりかえす。心臓が速足になる。
嫌な予感。
おそるおそるテーブルに近付き、メモを覗き込む。
『今まで世話になった。
保奈美 迷惑かけてすまない。
真理 駄目なお父さんでごめん。もう遊んでやれない。いい子になってくれ。
透 母さんと真理をよろしく頼む』
筆圧の強い神経質なボールペンの字で、たったそれだけが記されていた。
たった数行の走り書き。
メモに手をとり、息を詰め、食い入るように読み返す。
何度も何度も最初から字をたどり最後まで来たらまた最初から何度も往復反復する。
服の下を汗が流れる。
メモをとった手から感覚が失せていく。
呼吸が急にしににくなる。
俺を包む重力が何倍にも増したような錯覚。
日常が破綻する。世界が歪曲する。視軸が伸縮する。
俺がこれまで信じていたもの、これまで当たり前に依存してきたものに根底からひびが入って壊れていく。
何、この深刻な書き置き。
ベタなホームドラマみてえ。
俺が朝寝ぼけた頭であたりまえに朝飯とったテーブルにたった一枚きり残されたメモには、見覚えある筆圧の強い神経質な字で辞世の句が記されてる。
……辞世とは言わないか、親父は生きてるんだし。
どっかで。俺たちが知らないどっかで、俺たちが知らない若い女と。でもそれ、生きてるっていうのか?死んだも同然じゃないか。親父は俺たちの人生を放棄した、家族を養う義務を放棄した、家族との関係を最悪の形で断ち切った。
離婚の手続きも踏まず、なにも言わず、ある日突然会社の金を持ち逃げして女と出奔するという考えうるかぎり最悪の形でふらっと行方をくらました。
最初に書き置きを見付けたのは俺だった。
学校から帰って、台所に行って、偶然それを手にした。
一番最初に親父の絶縁状を読んだ。
そうだ、あれは今までの感謝と謝意をこめた詫び状だとか家族への最後の手向けとかなまやさしいもんじゃない、俺たち家族とすっぱり一方的に縁を切ったという宣言、もう俺の人生にかまうなと叩き付けた最終手形だった。
手にとったメモの裏はところどころボールペンの芯先で抉れてへこんでいた。
耳の奥で今はもういない親父の声で幻聴がこだまする。
『透 母さんと真理をよろしく頼む』
最後の一文に目が釘付けになる。
言葉に呪縛される。
身勝手で無責任でくそったれな親父、家族を捨て会社の金を盗み女と逃げたクソ親父。あんたなんかいらない。あんたなんか必要ない。家族に迷惑かけるだけかけて尻拭いもせずとんずらこいたあんたなんかこっちから願い下げだ、どこへなりとも行っちまえ。
手に無意識に力が入り、勢い余って握り潰しそうになる。
『透 母さんと真理をよろしく頼む』
メモの内容が一字一句違わず閉じた目に焼きつく。
俺は長男だ、兄ちゃんだ。
親父が消えた今、お袋と妹を守ってやれるのは俺だけだ。俺が家族を守る。メモから託されたものが重く、ずっしりと手に食い込む。暗い家。暗い台所。窓の外で日が暮れていく。台所の床に呆然と立ち尽くす俺の影が伸びる。ランドセルを背負ったまま、手の中のメモを見詰める。
俺は今どこに立ってるんだろう。
線の内側か、外側か。
ボーダーラインのどっち側にいるのか、自分でもはっきりとわからない。
いや、わかってる。
本当はわかってるんだ。
俺は自分に嘘を吐いてる、罪悪感を軽くしようとごまかしてる。
親父の様子がおかしいのには薄々勘付いていた。
疲れたを理由に俺たちと遊んでくれなくなった。
夜帰ってくるのが遅くなった。
朝は俺たちと顔を合わせるのを避けて出ていった。
今日だって
『お父さんいないいないで寂しいか、秋山』
もう二度と聞きたくない声がする。
床が傾斜し、視軸が歪み、酩酊を誘い、色彩が混沌と渦巻く。
『知ってるぜ、秋山。お前の弱みは家族だ。会社の金を持ち逃げして女作って出ていったクソ親父、あとに残されたのはくたびれた母親と小さい妹。家族おもいの秋山くんはバイトで必死こいて稼いで家計助けて、えらいえらい』
ふざけて拍手のまねをする。やる気のない乾いた音が響く。
いつのまにか立ってる場所が変わっていた。
台所全体が歪み、次元の位相がずれ、認識が塗り替えられ、あの日の美術室に移動していた。
ボルゾイが目の前にいた。
例の癇に障るにやにや笑いを顔一杯に浮かべ、肖像画を立てかけた画架にだらしなくもたれてる。
『よくできた息子で妹おもいのおにいちゃん。そんなお前のエロ可愛い姿、家族にも見せてやろうか』
『やめ、ろ』
語尾が情けなく震える。
恐怖と憤りとあせりと、激情に掠れて声が出ない。
喉を鳴らし牽制する俺を無視し、画架に自堕落によりかかったボルゾイが、ポケットから出した携帯を手早く操作する。
『ほら見ろよ、四つんばい。俺たちに押さえ付けられて、むりやり床に這わされて、半泣きの』
『やめろ』
『シャツがはだけて下腹まるみえ、いい色に染まった痣も大胆に公開。美術室で露出プレイ、次いでに記念撮影会。おかげでいい絵が撮れたぜ。コレクションに追加っと』
『消せ』
液晶に写メを表示、鼻先に突き付ける。
液晶には俺がいた。
何本もの腕によってたかって押さえ付けられ、壁に向かい這わされ、シャツをはだけた俺が。
乱れたシャツから覗く下腹には青紫黄淡色の痣が不浄に重なり合って散らばってる。
苦痛と恐怖に歪む顔、涙にぬれた目尻、快感の微熱に潤む瞳。
腰が萎えた不自然な体勢。
股間に忍んだ手によって強制的に快楽を注入され、めめしくべそをかいてる。
『へっぴり腰で強がっちゃって、ざまあねえな。学校中にばらまいて地元にいられなくしてやる。お前の家族ともども』
『――っ!!』
理性が爆ぜる。我慢の限界。
視界が真っ赤に燃える憤激に駆り立てられ、全力で床を蹴り、脱臼の危険も厭わず手をのばし掴みかかる。
さも得意げに写メの痴態を見せびらかすボルゾイの手から携帯をひったくらんと床を蹴るも、同時に背中に重みがのしかかり前のめりに転倒する。
いつのまにか取り巻きが背後に迫っていた。
背中からのしかかられ押さえ込まれ、交差した腕を締め上げられ、激痛に仰け反る。
『はなせよ、はなせって!お前らこいつのいうなりで恥ずかしくねーのか、ちょっとは自分の頭で考えろ、こんなやつに顎で使われて情けなくねーのかよ!?教師にバレたらお前らだっておしまいだ、停学か退学くらう、学校にいられなくなんぞ!』
『そこんとこは抜かりない。表じゃうまくやってるよ』
ボルゾイが嫌味っぽく肩をすくめフラップを軽快に開閉する。
『優等生の俺とおちこぼれのお前の証言、先公がどっち信用するか試してみるか』
よってたかって床に這わされ、拘束から抜け出そうと必死に身をよじり暴れ喚く。
背中を容赦なく押さえ込む手、手、手、悪意にさざめく嘲笑。
手荒く小突かれるたび頭が左右に傾ぐ。
それを見て同級生が笑う。
腰から尻にかけてみだらがましく手が這う。
ズボンの尻をねっとり揉まれる。
内腿に入った手が緩慢にすべって股間のふくらみに触れる。
奥歯を噛み締め、耐え難くふくらむ生理的嫌悪と不快感を堪える。
毟らんばかりに前髪を掴み、吊り上げられる。
『続きしようぜ』
強引に上を向かされる。
雑草を毟るように掴まれた前髪に灼熱の痛み。
『こないだは邪魔が入ったからな。フェラチオショーの続きだ』
『ふざけ』
んな、と続けられない。口の両端に指がかかり、横に広げられる。
顎も外れんばかりにこじ開けられた口に指を突っ込まれる。
舌を摘まれ、抓られ、口の中でさんざん遊ばれる。
唾液が逆流し、むせる。
息苦しさに生理的な涙が浮かぶ。
あふれた唾液で顎がぬれる。
口の端から滴った唾液がシャツにたれて染みを作る。
ボルゾイが片手でズボンのチャックを下ろす。
下着の中心の切れ目から猛りきった男根を掴み出す。
『歯、立てたら殺すぞ』
赤黒い肉の塊を口に突っ込まれる。
発作的に吐き出そうとしたが、できなかった。
後ろから伸びた手に頭を固定され、強引に前を向かされ、こじ開けられた口をさらに押し広げる形で怒張したペニスが唇をなすって割り込む。
『かはっ、』
猛烈な嘔吐の衝動。胃袋と腹筋が痙攣する。
口一杯に広がる生臭い味と匂いが鼻腔に抜ける。
酸っぱい胃液が食道を焼いて喉元に込み上げる。
はち切れんばかりに怒張したペニスを咥えさせられ、隙間を埋め尽くされ息が吸えない。
『さぼるな。ちゃんと舌使え。楽しませろ』
ボルゾイの手が前髪にかかり、俺の頭を乱暴に振る。
喉の奥にペニスが突き当たり、くぐもり濁った呻き声がもれる。
『麻生とどっちがでかいか言ってみろよ』
『ん、で、麻生が、でてくん、だ……も、やめ……ッ、んなの、入るわけね……』
『入ってるだろ、お口いっぱいに。味はどうだ?うまいか。美味そうな音たててねぶってしゃぶってっけど』
粘膜を犯される。喉に逆流した唾液にむせる。同級生の哄笑、ボルゾイの卑猥な含み笑い……
『次は俺だな、伊集院。一回試させてくれよ』
『男でも女でも口の使い道は一緒』
『はは、可哀相に、お前のもんがあんまりでかすぎて唇の端っこ裂けちゃってる』
『初めて男のもんしゃぶった感想はどうだ、秋山』
『初めてじゃねーだろコイツ、麻生とできてるって噂だぜ』
『あの優等生と?まっさか。で、どっちが女役なんだ?』
嘲弄、罵倒、野次。
卑猥な水音とともに粘着な唾液の糸引き抜き差しされるペニスを朦朧と目で追い、ボルゾイの手で頭ごと揺り動かされる。
『夏休み明けが楽しみだ。二学期から晴れて俺たちの奴隷だ。ここにいる全員しゃぶって、ケツ掘らせて、公衆便所になってくれよ。登校拒否とか転校とか考えるなよ、んなことしたらお前の恥ずかしい写メが学校中……ネットで全国に出回るからな。家族そろって地元にいられなくさせてやる。引越し先でも地獄が待ってる。諦めてペットになれよ、秋山。可愛がってやるからさ。俺たちが卒業するまで、いや、学校出てからも一生ー……』
くそったれ変態野郎それ以上言うなつきまとうなどこまで俺を苦しめれば気がすむ『迷惑かけてすまない』俺がお前になにしたってんだ何もしてないお前に手を出した事なんかないお前の家族に手を出した事もない『透』なのに何でこんな理不尽に憎まれる蔑まれる嘲られる虐げられる『母さんと真理をよろしく頼む』いい加減にしてくれ!
『は………ふぐっ………』
口の中に青臭い苦味が満ちる。ボルゾイの味。
吐きたい。吐き出したい。
目尻に溜まった涙が頬を伝う。
息ができねえ。
前髪を毟られる痛みにも増して口の粘膜を蹂躙される苦しみが耐え難い。
恥辱で頬が熱くなる。
酸素が不足して頭が朦朧とする。
耳朶が熱をもち、体が火照って疼き、それでもボルゾイの手に強制され、頬を膨らませへこませ、稚拙な舌使いで怒張した肉を慰める。
汗でぐっしょりぬれそぼった俺の髪に手を絡め、恍惚と愉悦に満ちた薄笑いで、ボルゾイが陶然とほざく。
『アルコールランプの火を内腿に押しつけて焼印くれてやる。安全ピンを乳首にさしてやる。ローターケツに突っ込んで校庭十周させてやる。逃げようなんて考えるなよ、秋山。お前の大事な大事な家族が破滅する。二学期、ちゃんと学校来い』
盛大にシャツをはだけ、制服の下に手がもぐりこむ。
後ろにのしかかった同級生の劣情の息遣いと体温、勃起した股間の固さを感じる。
『こっちには証拠がある』
『やめ、んく………!』
ズボンにもぐりこんだ手がじかに股間をまさぐる。
前をしごかれて腰が沈む。
前のめりに突っ伏す耳朶に淫蕩な熱で濁った吐息がかかる。
『今のお前見たら麻生も幻滅するだろうな』
後ろから前から手が群がる、口の中でペニスが脈打ち抜こうとあらがうも果たせず痙攣が激しくなってー……
目を開ける。
天井が高い。
「はあっ、はあっ、はっ、はっ、は………」
もがいてもがいてもがき続けて、四肢に絡まりつく藻をひきずって、ようやく悪夢の泥沼から現実の岸辺に這い上がれた。
全身にびっしょり寝汗をかいていた。
大きめのシャツが汗を吸って素肌に不快にへばりつく。
「夢か………すげーお約束なオチ………」
フローリングの床にタオルケット一枚羽織り、大の字に寝転がった聡史の隣、タオルケットごと片膝を抱き寄せる。
俺らの簡易宿泊所にあてられたリビングキッチンはよく冷房が利いていた。
……ちょっと冷えすぎだ。寒い。
コンクリ打ち放しの灰色の壁のせいか、物が極端に少なく殺風景なせいか、モルグさながらスノッブに冷えた空気が漂ってる。
惰性じみた緩慢さで起き上がるまでの間に、麻生んちに泊まってることを思い出した。
「かー。かー。かー」
聡史はよく寝てる。間抜けな寝顔が笑いを誘う。
起こさなかった事に安堵し、出来心でその鼻を摘めば、いびきが低くくぐもった。
鼻詰まりのいびきでもがく聡史にちょっと憂さを晴らし、手を放す。
元の規則正しいいびきと平和な寝顔が回復する。
『こっちには証拠がある』
『学校中にばらまいて地元にいられなくしてやる。お前の家族ともども』
調子のりくさったボルゾイの声が絶望の深淵から呪詛の如く響く。
俺は間違っても枕が変わると眠れないような繊細な人種じゃない。
どこでも図太く熟睡できるほうだ。でも最近はよく眠れない。
眠りは浅くすぐ目覚める。
途切れがちな夢の中でも安息は得られず、酷くうなされる。
測ってないから正確なところはわからないが夏休みに入って体重がかなり減った。
夏バテの言い訳がきかないほど肉がおちてただでさえ貧弱な体がさらに薄っぺらくなった。
包帯をとった右手で前髪をかきあげ、タオルケットに包まり放心してたら、床を席巻する大量の本が目につく。
神保町から持ち帰った大量の本。遠征の戦利品。
本に埋もれて死ぬなら本望と公言しながら本に囲まれ悪夢にうなされ、自嘲の形に頬が歪む。
「………ばかじゃん、俺。こんなに買っちまってどうすんの」
どうせもうすぐいなくなるのに、買ったって邪魔になるだけだ。
頭じゃ分かっていても掘り出し物を見つけると浪費の衝動を自制できない、本好きの哀しいさがだ。
夏休みが終わる前に家を出る。
東京かどこか、誰も知らない町に行って自活する。俺は若い。来年で十八だ。働き先はいくらでもある。さいわい中学ん時新聞配達でコツコツ貯めた金がある、それと今年入ってバイトで貯めた金をはたけば安いアパートくらい借りれる。
どこでもいい、どこでも。地元から消えるんだ。お袋と妹に迷惑はかけられない。高校は辞める。一人で生きてく。
『透 母さんと真理をよろしく頼む』
「……忘れてたのに……」
カメラオブスキュラ、暗い部屋からの連想か。
暗い家。暗い台所。テーブルに残された書き置き。
筆圧の高い神経質なボールペンの字……蒸発した親父が俺に託したもの。
約束、守れそうにない。
俺が地元にいたらお袋たちに迷惑がかかる。
真理はまだ中学生だ。親父の時と同じ目に遭わせたくない。
身から出た錆だ。自分のケツは自分で拭く。図太くしぶとくしたたかにが信条だ、どこでだって雑草みたく根をはってやる。
だから……
「…………思い出、ほしかったんだけど」
高校生活最後の思い出。
ミステリー同好会の面子で神保町に遠征して、浮かれて騒いで片っ端から本屋覗いて、どっさり収穫もって帰還して、ただいまが言いたかった。
高校生活、やなことばっかじゃない。聡史がいた。麻生と出会えた。高校二年の夏は一生の思い出に残る最高の夏だった。
他のだれでもない自分に、胸張ってそう言いたかった。
言えるようになりたかった。
「現実的に考えてどうすんだよ、この本。こんなにたくさん持って家出れねーよ……うちに残しとくわけにもいかねーし……おいとくのもやだし………待てよ、そもそもダンボール一個に入りきんのかよ、これ。全部読み終えるまで延期すっかな、家出……」
行くあてはないが、このまま地元に居残るわけにはいかない。
お袋に、真理に、迷惑がかかる。
二学期になるのが怖い。
学校が始まるのが怖い。
カレンダーがめくれる想像だけで胸の動悸が速くなり全身にびっしょり冷や汗をかく。
ボルゾイは病的に陰湿で狡猾だ。
絶対に俺を逃がしはしない。
あの日美術室で宣言した通り、写メの証拠で脅して、俺をペットにする。
警察には言えない。
俺も男だ、プライドがある、同級生によってたかって押さえ込まれて裸に剥かれてナニされたなんて言えるわけない。第一お袋が知ったら、妹にばれたら……守ってやらなきゃいけないのに、しっかりしなきゃいけないのに、俺が
親父の代わりに
「…………はは……手、震えてるし……」
情けないこのていたらく。
違う、この手の震えはと室内が寒すぎだからだ。冷房かけすぎなんだよ現代っ子め、風邪ひいちまう。
鳥肌だった二の腕を擦り、殺風景な室内をぐるり見回せば、自然な夜風が頬をなでる。
空調で人工的に冷やされた室内に、一筋清流を引くような風をたぐり、そっちを向く。
窓が開いていた。
夜風を孕みふくれあがるカーテンの向こうに背中が見え隠れする。
麻生がベランダにいた。
声をかけようとして、やめる。
距離を隔てたせいか俺が起きたのに気付きもせず、ベランダに出て煙草を喫っていた。
ベランダの向こうは闇に沈んでいる。
道路を走る車のライトだけが点々と光る。
口に咥えた煙草の穂先からゆるやかに紫煙が漂い、スモッグを含んだぬるい風と戯れる。
声をかけるのを忘れたのは、多分、その背中に見とれたからだ。
麻生は片手に呑みかけの缶ビールをもち、それを時折口に運ぶ。
煙草とビールを併飲してるのだ。依存性が二乗高い嗜癖にあきれる。
おっさんかよと心の中で突っ込むも、くすんだ夜を背景に麻生が物思いに耽る姿は絵になった。
静かだった。
エクスタシーの匂いが鼻腔をくすぐる。
ベランダの向こうの闇と手摺ひとつへだて麻生は煙草を喫う。
気化した生き物のようにかそけき儚く紫煙が漂う。
ゆるやかに流動する紫煙の向こう、孤高とも孤独ともつかぬ秘密の気配がつきまとう背中が漠とした不安を煽る。
胸が騒ぐ。
前屈みになると同時にタオルケットが膝から滑るも、気にせず背中に手をのばす。
ベランダに立つ麻生は世界を斜めに眺め非日常の空気をまとう。
語らぬ背中はすぐにでも手摺を乗りこえ虚空の闇に墜ちていきそうな危うさを漂わせる。
麻生と向こう側を隔てるものは一本の手摺しかない。
あまりに頼りなく心もとないボーダーライン。俺が手をのばせば、今ならまだー……
携帯の電子音が静寂を破る。
「!」
感電したように手を引っ込め、タオルケットをまとい、ゴロンと床に横になる。
咄嗟に寝たふりをするも、聴覚を研ぎ澄ませ、カーテンの隙間から夜風にのって漏れ聞こえる声に耳を澄ます。
「……俺。今から?」
そっけない返答。
脳裏を疑問が掠める。こんな時間にだれと話してるんだ?
片目だけ薄く開けてベランダを覗き見る。
一瞬、心臓が止まる。
麻生が体の向きを変えていた。
体ごとこっちに向き直り、手摺に背中をもたせ、携帯と話している。
「………別にいいけど。……不満?ないよ」
闇に慣れた目でわずかな表情の変化をうかがう。
自堕落に弛緩した姿勢で手摺に寄りかかった麻生が、耳につけた携帯にむかい、俺の見たことない顔で笑っていた。
淫猥さと狡猾さを織り交ぜた含み笑い。
虚無と溶け合う紫煙の揺らめきの向こうにちらつくは、自嘲と自虐が綯い交ぜとなった、俗っぽく露悪的な表情。
「俺はあんたの奴隷だから」
『俺の奴隷になれよ、秋山』
品行方正な優等生の口から放たれた所有格の単語に耳を疑うも、その時にはすでに携帯をおろし、リビングに戻ってきていた。
「またあとで」
切った携帯をソファーに放り、床に寝転がった俺と聡史をつまらなそうに見る。
俺たちがいることをたった今まで忘れていたみたいな空白の表情。
眼鏡のレンズに覆われた目の表情は読めず、足音も殆どたてず、だだっ広いリビングを抜けて廊下に出る。
『俺はあんたの奴隷だから』
扉を開け閉めする音。次いでシャワーの水音。
背中がざわざわ毛羽立つ。
麻生がシャワーを使ってるのがかすかに響く水音でわかる。
なんでこんな不自然な時間にシャワーを浴びるんだ。
「………奴隷って……普通の会話で出てくる単語か?だれと話してたんだよ」
胸が変に騒ぐ。
むりやり目を閉じるももう寝付けそうにない。
詮索はやめろまたうざがられるぞと良心が咎めるも、一度騒ぎ出した好奇心は謎の解を見つけるまでひっこみそうにない。
麻生を奴隷にする人間。彼女?にしちゃあ色気のない会話だった。
彼女に愛を囁く麻生ってのもなかなか想像しにくいが……
少なくとも俺には、彼女と話してるようには見えなかった。
麻生の顔からはうっすらと嫌悪が読みとれた。
いや、ちがう、あれは……
『憎悪』。
憎悪と嫌悪の区別くらいつく。自慢じゃないが俺は憎しみを浴びるのに慣れてるのだ。
「ピロートークにゃおもえなかったな……」
タオルケットを顎までたくしあげて呟く。
何故か落ち着かない。
あの時と一緒、親父が出てった日と同じ底知れぬ不安感が胸に広がる。
水音がやむ。
反射的に目を閉じ、規則正しい寝息をたてる。
麻生がシャワーを終えて帰ってきた。
耳に全神経を集中しかすかな足音を聞き分ける。
ソファーが撓む音を聞き分ける。
麻生がソファーに腰掛けた気配が空気を縫って伝わる。
携帯が再び鳴る。行動を監視してたかのようなタイミングの良さ。
「シャワー浴びてきた。やることは一緒なんだ、そっちのが手間省けるだろ」
体重がかかりスプリングが軋む。
麻生が深く背凭れにもたれる。
俺の知る麻生らしくない皮肉な口調。
瞑った瞼の向こうで空気が変わる。
目で見なくても麻生の顔が不愉快げに歪むのがわかる。
不自然な沈黙から疑問とかすかな当惑の気配がはっきり伝わる。
「……聞いてない。何人?………三人?あんたも入れて?……じゃあ四人だ。………そういうの、困るんだけど」
不安が芋虫でも這うみたいに胸の内をせりあがって喉を塞ぐ。
諧謔と倦怠を均等に含んだ口調で、辟易と続ける。
「この前も言ったろ、後始末が大変だったんだ。……知ってる、あんたはそういう奴だよ、こっちの都合は全然考えない。……恩に着せるな、こっちも予定は調整してるんだ。まわりに不自然に思われないよう気を遣ってるんだ。……友達?」
心臓が跳ねる。
麻生が目を上げてこっちを見る気配がした。
背中を向け、床に寝転がった俺と聡史を等分に見比べた視線が、俺に固定される。
「関係ない」
背筋に氷柱を突っ込まれたような気がした。
じかに寝転がったフローリングの冷たさ固さが身にしみる。
タオルケットの端を握る手に力が篭もる。
麻生は平然と続ける。
「授業中にぶっ倒れて保健室に運ばれでもしたら困るのはあんただ。……まずいだろ、下見られちゃ。………こないだだって、あせってたじゃないか。秋山に腕掴まれて。だから血相かえてすっとんできたんだ。笑えた」
不意に名を呼ばれ、全身の毛穴が収縮し、汗が噴き出す。
ソファーが体重を受けて軋む。
かすかな物音……麻生が低いテーブルに手をのばし、灰皿を引き寄せる。
灰皿のふちで煙草の灰をおとし、再び唇にはさみ、右手に持った携帯に冷めた声を送り込む。
「………非難してるんじゃない。あんたの趣味をとやかく言える立場じゃねーし。でも……わかるだろ?表向き優等生で売ってるからさ、俺。制服脱がしてみたら実はなんて、笑えないだろ」
非難。立場。趣味。表向き。優等生。制服。その下。
「そうだな。できるだけ痕残さないでもらえると助かる」
痕。
廊下で手首を掴んだときの過剰反応、大げさな痛がりよう。
心臓が狂ったように脈を打つ。
全身が熱くなる。
タオルケットの端を握りしめ、慎重に慎重に薄目を開ける。
ぼやけた視界に人影が浮かぶ。
ソファーの真ん中に姿勢をくずし腰掛けた麻生の姿を捉え、息を呑む。
裸だった。
肩にタオルを掛け、トランクスを穿いただけで、上半身には何もまとってなかった。
しなやかでなめらかな上半身、タオルに隠れた以外の場所、広範囲に散らばった淫靡な痣。唇で吸われたあと。引き締まった首筋にも鎖骨の上にも窪みにも胸板にも腹筋にもへその横にも、薄赤く妖艶な痣がちらばっていた。それだけじゃない。もっと酷いものがあった。
傷。
痣。
内出血の痣。
拘束のあと。
携帯をさりげなく持ち上げた手首にロープで縛られた内出血の痕縄目もきめ細かくくっきり左手首にも同じものが、下着から突き出た太股足に鞭打たれたみみず腫れ、麻生が携帯もって何か話しながら心臓うるさい聞こえないちょっと横にずれ背中を向ける、剥き出しの背中に縦横斜めに走る痛々しいみみず腫れ、肩甲骨の間に煙草のやけどー……
なんだ、これ。
俺の痣より、ぜんぜん酷いじゃんか。
何をどうしたら、こんなになるんだ?
何をどうされたら、こんなになるんだ?
手首に残る独占欲の烙印束縛の痕も気にせず煙草を口にもっていく。
床から見上げる俺に気付かず、煙草を口に近付け、含み、綺麗な動作で紫煙を吐く。
くっと喉を鳴らす。
最高に悪趣味な冗談を聞いたふうな淫らな笑み。
俺に見せたことない俗悪で性悪な顔。
「淫乱にしたのはあんただろ?」
失望に染まりきった声で共犯者じみて低く囁きかけ、携帯を切る。
だだっ広いリビングに透明な沈黙が降り積もる。
冷房の稼動音だけが空気を単調に攪拌する中、床に脱ぎ捨てたТシャツを取り上げ、素肌にじかに羽織る。
ジーパンに足を通し尻ポケットに携帯をしまい、顔を右へ左へ傾げ、なにかを探す動作をする。舌打ち。
足の低いガラステーブルに手を伸ばし、伏せてあった読みかけの文庫本を取り上げ、奥付に一枚はさまった白紙を切り取る。
俺が読みかけた悪童日記から一枚破きとった白紙をテーブルにおき、そばに転がったボールペンを拾い、何かを素早く書きつける。
書き置き。
どこかへでかけるつもりだ。
寝転がった俺に背中を向けテーブルに前屈み、ペンを動かして書き物をする麻生に親父がだぶる。
さらさらと手が動く『透 母さんと真理をよろしく頼む』器用そうな長い指がボールペンを操ってカリカリと『よろしく頼む』芯先とガラスの天板がふれあって引っかくような音をたてるー……
瞬きも忘れ、書き置きを残す麻生の横顔を仰ぐ。
書き置きを終えた麻生が、灰皿でメモをとめ腰を浮かすと同時に、勝手に手が動く。
宙を走った手がシャツの裾を掴み、おもいっきり引っ張る。
麻生がぎょっとする。
一瞬覗いた無防備な素顔。
眼鏡の奥の目が驚きに見開かれ、次の瞬間、怪訝そうに細まる。
剣呑な光を帯びて細まった目が自分の裾を掴んだ手を、床に這った俺を射抜く。
「どこ行くんだよ」
「起きてたのか」
「今起きたんだよ、物音がして。……それ、書き置きだろ。どこ行くんだよこんな時間に。もう夜じゃん」
「どこでもいいだろ」
心臓が蒸発しそうだ。体温が急上昇し、異様に喉が渇く。
体をおこしたはずみにタオルケットが床に落ちる。
シャツの裾がすっかりのびきっちまうほど引っ張り、冷房に冷やされた床に跪き、頑是なく翻意を促す。
さっき見た麻生の裸、全身の傷跡、内出血の痣、ロープの痕は見ないふり忘れたふりでたった今起きた演技を続け、非常識な時間にどこぞの誰かに呼びだされたふらり出て行こうとする友達を全身全霊をもって諭す。
「よくねえよ、こんな時間に。危ないだろ」
「男だぞ、俺」
「車とかよく見えねーし、危ないだろ」
「こんな時間に車走ってねーよ」
「走ってるよ少しは、日本の交通事情甘く見んなよ。起きた時電話してたけど……寝ぼけて話聞いてなかったけど、様子おかしかったし。起きたらもう書き置き終えてどっか行こうとしてて、でもお前、ほんとは行きたくないんだろ?そんな顔してる。すっげえいやそうな顔してる。どこの誰の呼び出したか知んねーけどすっぽかしちまえよ、こんな非常識な時間に電話してくるような相手の言うこと真に受けんなよ」
「盗み聞きしてたのか」
「してねえよ!顔見りゃわかるんだよ!!」
支離滅裂な事を叫びぐいと裾を引けば、バランスを崩した麻生がソファーに倒れこむ。
我を忘れソファーに寝転がった麻生にのしかかり、胸ぐら掴まんばかりの勢いで饒舌にまくしたてる。
「第一お前ホストだろ、自分から言い出して泊めたくせに勝手にどっか行っちまうのかよ、あんまり無責任で不用心だろ!?」
「鍵かけとく」
「~そういう問題じゃなくて!俺らを泊めたからにはせめて一晩一緒にいろっての、一人ですましてねーで馬鹿騒ぎに付き合ってくだらない話しろっての!」
「俺がいない間に家荒らす気か?一応信用してるんだけど、お前らはそういうことしないって」
「信用してくれんのは嬉しいけど今引き合いに出されても嬉しかねーよッ、なんだよその面、人ばかにして……お前だって本当は行きたくないんだろ、じゃあ簡単だ、行かなきゃいいんだよ、俺たちと一緒にいりゃいいんだよ、ここはお前んちなんだから!!」
「自分んちなんておもったことない」
暗い部屋。
カメラオブスキュラ。
私物が極端に少ない、冴え冴え行き渡る照明が空虚さを暴き立てる、がらんとした廃墟。
憤激のあまり胸ぐらにかかった手を邪険に払い、針のような目で俺を串刺し、失笑を漏らす。
「父親と勘違いしてるのか」
ぶん殴らなかったのは奇跡だ。
俺が廃工場で打ち明けた話を、コイツならばと信頼して打ち明けた身の上話を、こんな最悪の状況で引き合いに出す。
胸を抉る指摘はしかし、的を射ていた。俺は麻生が書き置き残してふらり出かけたまま二度と帰ってこない気がして『透 よろしく頼む』ボーダーラインの向こうに行ったまま永遠に戻ってこない気がして『俺は奴隷だから』手を伸ばしても伸ばしても届かなくて、手が届くうちに引きとめようとして、こうしてソファーに押し倒してのしかかって胸ぐら掴んでゆさぶって『淫乱にしたのはあんただろ』……
こいつはまた傷を増やして帰ってくる。
境界線のあっちとこっちを行き来して、帰ってくるたび傷を増やして、そしていつか、あっちに行ったきり帰ってこなくなっちまう。
駄目だ、行かせちゃだめだ、なんかわかんねーけど絶対だめだ。
携帯の会話。相手は誰だ?
頭で疑問符が渦巻く。
何かがわかりかける。
知りたくない、暴きたくない。
ソファーに倒れこんだ麻生に馬乗りになり、至近距離で睨み合い、荒い呼吸のはざまから切実な懇願をしぼりだす。
「行くな、麻生」
「俺の生活に踏み込む権利ない」
「ならなんで泊めた。先に踏み込ませたのはお前だろ」
鼻梁にずれた眼鏡の奥、切れ長の目に当惑の波紋が生じる。
麻生自身、俺らを泊めた判断に戸惑ってるらしい。
「秋山、どけ」
「ほっとけよ。行く必要ねえ。ここにいろ」
「怒るぞ」
「殴るのか?」
全然怖くない。
俺が怖いのは、おいてかれることだ。勝手に重たいもん持たされることだ。
優柔不断が原因でボーダーラインの向こうに消えた背中を終えず、何年も何年も、ずっと同じ場所でぐるぐる後悔し続けることだ。
今なら間に合う、麻生はここにいる。全力でとめる。
窓枠を蹴る気軽さでベランダの手摺を乗りこえはるかな虚空に墜落しそうな背中を、今ならまだ現実に引き止められる。
「……事情はわかんねーけど、お前、らしくねえよ。らしくねえ顔してる。ボルゾイみたく悪ぶって、かっこつけて………むりしてんのどっちだよ。滑稽だよ」
「廃工場の逆襲?」
「滑稽なお前、見たくねーよ」
「いいかげんにしろ。腹蹴っ飛ばして内蔵破裂させるぞ」
「いいよ、やれよ。ボルゾイに絵の具水のまされて壁に磔にされて殴る蹴るされて、いまさら腹に一発くらって音を上げるような俺に見えるか?いじめられっこなめんな」
麻生が苛立ち乱暴に俺の肩を掴みおしのけにかかる、俺は抗う、二人して激しく揉み合う、ガキの喧嘩みたく互いの前髪を掴んで引き剥がし揉みくちゃにし勢い余って床に落下、上下逆転しつつ転げる。騒々しい物音をたて床を転がるうちに蹴り上げた足がテーブルをひっくりかえし灰皿が弾む、缶ビールが転倒して床一面に中身が広がる、その中身が大口あけて熟睡中の聡史の首根っこに触手を伸ばし「ひゃあ!!?」と可愛い悲鳴があがる。
「せ、先輩と麻生さん……なにやってんすか、ご近所迷惑っすよ!?」
タオルケットをどけ跳ね起きた聡史が仲裁に入るも俺と麻生は躍起になってやりあい、真ん中に割り込んだ聡史を哀れ巻き添えにする。
「ガキかよお前は!」
「ガキはそっちだろ、優等生のくせに!」
「関係ねーだろ今、いいからはなせよ、お前と遊んでるひまねーんだよ!」
「嘘吐け俺たち以外友達いねーくせに暇なら夏休み一杯あるだろ、まだまだまだまだ遊べるだろ、だって前そう言ったじゃんか夏休み遊ぼうぜって、いまさらなしでしたはなしだ、こうなったらいやがるお前を巻き込んで夏休み一杯遊んで遊んで遊び倒して男だらけでしょっぱい青春の思い出作りまくる!!」
台風の如く怒り狂った俺が拳と一緒にぶちあげた抱負に麻生が辟易と顔を顰める。
体格では俺が少し劣る。腕力もちょっと負ける。くそ、分が悪い。しかたない、作戦変更。
床を転がって麻生の手から抜け出し、手近に置きっぱなしの袋を兵糧さながら抱え込む。
「どうしても出てくってんなら考えがある、この本がどうなってもいいのか!?」
「ゴミ捨て場にもってくのか?」
「んなことするか、本に土下座で謝れ!」
神保町で麻生が買った本は文庫ばかり十冊、俺と聡史に比べたらごく少量だ。
その袋をひしと抱え込み、麻生から庇うように油断なく後退しつつ言う。
「この本は俺がもらう!」
「はあ!?」
「どうだ悔しいだろ、せっかく買ったのに読めなくて残念だな、お前が俺たちと大事な大事な本を捨てて出てくってんならこの本は俺のもの、俺が家に持ち帰って大事に大事にムッツリ愛でるからせいぜい泣いて悔しがるんだな!!第一お前は投げたり破いたり本に対する愛が致命的に欠落してる、そんな粗末な扱いしときながら自称本好きとかちゃんちゃらおかしいぜ、へそで熱燗が沸いちまうぜ!」
「お前だって投げたろーが虚無への供物!」
「あれはいいんだよ供物だから!だって真正面から行ったら絶対受け取らねーだろお前、突っ返すだろ、条件反射に付け込むっきゃなかったんだ!要は奇襲作戦だ!」
麻生が買ってきた本を袋ごと懐に抱えこみ、廊下を転げるようにしてひた走り玄関にむかうや、ドアを背に絶叫する。
「さあ、俺と本の屍をこえていけ!どうしてもというなら俺と本を踏ん付けて薄情にも行っちまうがいいさ!」
「先輩抑えて抑えて、ご近所迷惑ですから……」
「どっちだよ!?」
両手を上げ下げ宥める聡史の肩越し、あきれ顔で歩いてくる麻生に猛然と食ってかかる。
ずれた眼鏡を神経質に直し、喧嘩の疲労でぐったり消耗しつつ、こっちにやってくる麻生にたじろぐも足で床を掴んで踏ん張り、二者択一の眼光を放つ。
胸に抱いた本に力強く腕を回す。麻生の視界から隔てるようにドアを隠す。
心臓が肋骨を叩く。血液が沸騰する。
絶対どくもんか。
葛藤を克服し決断に至り、玄関に立ち塞がる。
正面に立った麻生が口を開くのを遮り、呟く。
「頼む」
本を抱く手に決死の力が篭もる。
膝が笑い、その場にへたりこみそうになるのを気力をかき集め辛うじて支える。
「先輩?」
俺の様子がおかしいのに気付き、聡史が不安げな面持ちで呟く。
深呼吸で度胸を吸い込み覚悟を決め、無表情な麻生と対峙し、混乱を来たした頭で必死に考えに考え抜いて、たどたどしく訴える。
「……俺、ほんと言うと友達んち泊まるの初めてで……そりゃ何度か聡史んちに泊めてもらったことはあったけど……小学校から振り返って、同級生のうちに泊めてもらうのって、恥ずかしいけど、これが初めてだったんだ。はしゃぎまくって迷惑かけて……冷蔵庫ん中勝手に覗いて……不快にさせちまったけど。なんか、畜生、うまく言えねー……とにかく、浮かれてたんだ。お前と一晩中くだらねーことで騒げるかなって期待して……寝ちまうのもったいなくて……夜が少しでも長く続きゃいいなって……」
ああ、何言ってんだ俺、かっこ悪ィ。
わざわざ小学校から友達いねえって暴露して、同情誘ってんのかよ?
くそ、誘えるもんなら誘ってやる、同情でも憐憫でもいい、付け込むすきがあればがっちり付け込む。手段を選んでられっか、いまさら。
絶対行かせるもんか。
ここが俺の正念場、運命を分ける分水嶺。
扉を開けた向こうは境界線のあっち側、蒸発した親父が属する非日常の空漠が広がるばかり。
そんなとこに、やっとできた友達を行かせてたまるか。
俺はまだまだ麻生と遊び足りない騒ぎ足りない、こいつを立派なミス研部員に育て上げるまでどこにも行かない。
くそ、もうやけだ。どうとでもなれ。家出は取り止めだ。
だってそうするっきゃないだろ、俺が家を出たら麻生もふらっと消えちまう、麻生をこっち側に引き止める人間は今度こそ本当にだれもいなくなる、どうぞお好きに、いやそれじゃだめだ、ああ支離滅裂だ、とにかくいやなんだいやなんだ俺は、地団駄踏むさ駄々だってこねるさ
だって俺は、
「おいてけぼりは反則だろ!」
喉までせりあがった感情を言葉にして解き放つ。
胸に本の袋を抱いたまま、正面にたたずむ麻生の方へ前傾し、胸板に頭突きして押し戻す。
そうしたはずが途中で力が抜けて、膝からへたりこみそうになって、麻生の胸に額を預けた間抜けなかっこをさらす。
「……今出てったら、お前の本、全部もってくから。部屋に入りきらなくてももってくから」
「先輩」
「聡史と手分けして」
「俺もっすか!?」
巻き込まれた聡史が抗議と非難の入り混じった悲鳴を上げる。
頼む、いかないでくれ、ここにいてくれ。
気も狂わんばかりの一念で祈り、目を瞑る。
額に麻生の鼓動と熱が伝わる。
麻生の手が肩にかかる。
さりげない、しかしうむをいわせぬ力で俺をどかし、ドアを開錠する。
「麻生、待」
振り向かずノブを捻る。
追い縋る俺の鼻先で無慈悲にドアが閉じ、麻生が外廊下に消える。
ドアが閉じる。
空気に振動の波紋が広がる。
本の袋を抱え玄関に立ち尽くす俺の横に、寝ぼけた顔で聡史がよってくる。
「……先輩……?」
「………………」
「………あの、よくわかんないっすけど……麻生先輩なら、どうせすぐもどってきますよ……夜も遅いし、先に寝てましょうよ」
親切心から気休めを吐く聡史をよそに、俺は呆然と玄関に立ち尽くしたまま、閉じたドアに虚ろな凝視を注ぐ。
止めたのに無駄だった。
必死に伸ばした手は、今度もまた、届かなかった。
「…………まだ間に合う」
「え?」
小首を傾げた聡史に本の袋を預け、「先輩!」の呼びかけと共に伸びた手をふりきり、ドアノブを掴む。
まだ間に合う、走れば追い付く、ぼけっと立ち尽くしてるひまがあるなら追っかけろ、ボーダーラインの向こう側に行っちまうまえに……
開けドア、
「どわああっ!?」
開いた。
そりゃもうあっけなく開いた、俺が腰ぬかし吹っ飛ばされる勢いで。
俺が掴んだノブを捻ると同時に外側からも同じ動作がされ、二乗の反動で吹っ飛ばされ、玄関に派手に尻餅付く。
「だいじょぶっすか!?」
「痛ッて~………」
視界が反転、打ち付けた尻の激痛に涙が浮かぶ。
静かにドアが閉じ、蝶番が再び噛み合わさり、携帯をさげた人影が中へ入ってくる。
「…………何してんの?」
麻生がいた。とんでもない馬鹿を見る目で冷ややかに俺を見下ろしてる。
「………なに、て……追っかけようとして」
「必要ない」
携帯を尻ポケットに突っ込み、靴を脱ぎ、框に上がる。
転んだ俺に手を貸しもせず横を素通り、廊下を抜けてリビングに入り、視界から完全に姿を消す。
聡史の肩を借りてリビングに帰還した俺をソファーに腰掛け出迎えた麻生の手には、いかなる早業か、ちゃっかり果実酒の缶が握られていた。
プルトップを引き、水でも呑むみたいに酒を呷る麻生を、肩を組んだ後輩と一緒にただただ呆然と見詰める。
あっけにとられた俺たち二人は完全に無視し、世にいうヤケ酒っぽいぞんざいさで缶に口をつけながらテーブルに手をやる。
「ほら」
腕を一閃、無造作に何かを投げる。
反射的に手を前に出し受け取れば、冷蔵庫でキンキンに冷やされた果実酒だった。
結露した缶を目をしばたたき見下ろす俺と聡史の方は見ず、惚れ惚れするくらい粋に慣れた呑み方でアルコールを喉へ流しこむ。
嚥下に伴い動く喉の艶かしさに、俺の喉仏もまた呼応して、生唾をのみこむ。
「あのさ、俺たち一応未成年なんだけど……」
「引き止めた責任とって付き合え」
むちゃくちゃな言い分。
酔っ払いのなせる業かそれとも地が出てきたのか、俺たちに平然と理不尽な要求をした麻生は、酷く不機嫌な仏頂面で果実酒をあおりながら、眼鏡をはずし、瞼を揉み、完全に据わりきった三白眼で薙ぎ払うようにこっちを睨む。
視殺の気迫みなぎる眼光で射すくめられ、手にした缶の冷たさ以上の悪寒が背筋を駆ける。
「先に言っとく。そっからさきは素面禁止。アルコールが入ってねー奴と話す気はない」
無防備に踏み込もうとした俺を鋭く制し、片頬を歪め挑戦的に笑う。
リビングの桟の手前、手のひらの体温が移ってぬるまりつつある缶をみおろし、言う。
「挑戦を受けて立つ」
「正気っすか先輩、お酒なんて飲んだことねーのに無謀……!?」
「男には引けない時がある。あそこまで馬鹿にされてすごすご引き下がれるか」
テーブルを挟んで対面にどっかり胡坐をくみ、プルトップを引く。
「後悔するなよ」
「そっちこそ。俺に酒飲ましたこと後悔させてやる」
「そりゃ楽しみだ」
挑発にのって啖呵を切り、高々突き上げた缶の表面をかち合わせる。
「「乾杯」」
心配げに見守る聡史と麻生の前で引くに引けず深呼吸、一気に―
朝まで記憶がない。
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