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第30話

 十一月上旬、お袋と喧嘩して家を飛び出した。  「唯ちゃんいつ見ても若いわね~。さすが元女優さんはちがうわ」  テレビでは国会中継が流れている。  議席に起立し、現職の大臣を手厳しく批判するのは決然と背筋が伸びた女傑。  半分は居眠りし半分は仏頂面で腕を組み議席を埋める親父たちの中で、華やかなスーツに身を包み、よく通る声で問題提起する彼女の周囲だけ颯爽と明るい。  いい声、いい喉をしてる。  暦がめくれ、季節はいよいよ冬に突入。十一月に入り一気に冷え込みが厳しくなった。朝は布団から出るのが辛い。うちでも本格的な冬の到来に備え炬燵を出した。  今日はたまたまパートがお休みでお袋が家にいた。珍しい。たまにはこんな日があってもいい、お袋は働きすぎだ。  居間の中央の炬燵を囲み、でがらしの茶を啜りささやかな家族団欒に興じる。  狭いけれども楽しい我が家、俺の向かいじゃ妹が寝転がって国会中継をBGМに漫画を読んでいた。例の裸の男が抱き合ってるフラチな漫画だ。道徳的観点と複雑な兄心から保健体育の教科書にさしかえたい。  炬燵の机上には茶菓子を盛った盆が置かれていた。  平和で退屈な土曜の午後。  今日は学校も部活もない、家でのんびりまったりだらけきって過ごす方針。  これぞ冬の醍醐味と炬燵に入ってぬくぬくまどろんでいたら、赤熱した中で足がぶつる。  「いたっ、兄貴今蹴ったでしょ!?もーいいとこなのにジャマしないでよ!」  「蹴ってねーよ、お前が蹴ったんだろ」  「マジ最悪。狭いんだから早く部屋帰ってよ」  「そっちこそ帰れよ。それかトイレで読みゃいいんだろ」  「冬場にトイレで読書なんかしたら凍えちゃうでしょ」  妹が不満げに口を尖らす。さいですか。  ふくれっ面で漫画に戻る妹はさておき、せんべいかじるお袋に聞く。  「この人女優なの?」  「元ね。綺麗だったのよ~唯ちゃん、今でも美人だけど。あんたが幼稚園の頃にはもう政界入りしてたけど……結局芸能界には二・三年しかいなかったかしら?活動休止してた時期もあったし」  「ふぅん」  「お母さんファンだったのよ」  「苦労してるよね、この人。ワイドショーで見た。ゲキドーの人生」  妹が漫画を中断し話に加わる。  漫画を伏せ起き直り、掛け布でぬくぬく膝を覆って天板に顎をおく。  茶菓子の器に手を伸ばし包み紙を開き、キャラメルを一粒口に放りこむ。  お袋が「そうそう」と相槌を打つ。  「一回映画監督と結婚して離婚してるの。子供はなし。政界では別れた夫の姓を名乗ってるそうよ」  「え、なんで?別れたんでしょ?」  素朴な疑問に、お袋はせんべいを口に運ぶ手をとめ少し考える素振りをする。  「知らない。ころころ名前変えたらおかしいでしょ、それでじゃない」  あっけらかんと答え、せんべいを一口噛み砕く。適当だ。  天板に頬杖つき、与党と野党が因縁の火花を散らし喧々囂々紛糾する国会中継を映すテレビに向く。  友永唯。  年齢はこないだ読んだ新聞の記載がたしかなら四十二歳のはずだが、ぱっと見三十代にしか見えない若作りの美貌の持ち主。  弁舌に定評ある女優上がりの才媛。  独学で大検とって上り詰めた経歴から「政界のシンデレラガール」というださい二つ名を頂戴してる。  顔の汗を拭き拭き優柔不断に答弁する大臣を友永議員は囲い込みの手腕と怜悧な才覚を発揮し、詰め将棋さながら完璧に構築した論理を流麗に駆使し追い詰めていく。  抑制のきいた口調と沈着で典雅な所作、聡明で鋭角的な美貌には女優時代に磨いた卓越した演技力の名残りが窺える。  へどもどする大臣とは対照的に落ち着き払って論陣を張り、一堂に会した議員の喝采を受ける。  議会で脚光浴びる議員の横顔を他にすることもなくぼけっと眺める。   神経質に尖った顎、酷薄そうな薄い唇、高い鼻梁、知性的な切れ長の双眸、きりりとアップにした艶やかな黒髪。うなじが色っぽそうなタイプだ。  口半開きの呆け顔で来年度予算案を討論する画面を眺めるうち、硬質に整った横顔に既視感が疼く。  「そういやお袋、ガキの頃よくしてくれたおまじないあったじゃん。風邪ひいたときにさ」  「おまじない?」  「忘れちゃった?治りますようにって願掛けした紙を枕にはさんどくの」  「ああ、あれね。あんたそんな昔のことよく覚えてるわね~」  お袋が感心したように頬に手をあてる。妹が黄色いくちばしを突っ込む。  「それ知ってる、小学校の頃兄貴がしてくれた。案外効くよね」  「そうなんだよ、ふしぎと効くんだよ。こないだ風邪でぶっ倒れた友達にやってみたら次の日ケロッと学校来て、びっくりしちまった」  麻生は全快した。  一日たっぷり寝てたのが良かったのか、俺が作ったお粥の滋養か、翌日には平然と登校してきてかえってこっちが拍子抜け。  気休めのまじないがここまで劇的に効くとは思わなかった。  正直驚きを隠せない。病は気からというが迷信も存外ばかにしたもんじゃない。  「お袋、実は呪術師の家系出だったりする?」  「あんたばかねえ」  「いやだって、そうでも考えねーと説明つかねーし」  おまじないの効力を身をもって体感した妹も興味あるのか「陰陽師?かっこいい」と目をミーハーに輝かせ身を乗り出す……兄が兄なら妹も妹だ。  お袋はせんべいを豪快に噛み砕きながら、炬燵に起き直った俺たちをしげしげ見比べる。  「あのおまじないね、実は」  「「実は?」」  いよいよ秘儀が明かされるのかと生唾を呑む。  「若い時、お父さんに教えてもらったのよ」  親父の名が出た瞬間身が強張る。  妹もおもわぬ成り行きに戸惑っている。  微妙に黙り込む子供の顔色と空気も読まず、齧りかけの煎餅を右手に預け、お袋がしみじみ昔語りを始める。  「結婚前の話だけど、風邪をひいて会社を休んだ事があったの。親元離れて一人暮らしだから何も手が付かなくて……お父さん、心配してお見舞いに来てくれて。見よう見まねでお粥まで作って食べさせてくれたの。不器用な人なのに、一生懸命ね」  俺とおなじことしてやがる。  争えない血を憎み、恥じる。  険悪な空気も読まずふくよかな顔を含羞に染め、細めた目を追憶の光に濡らし、首を振り振り科を作るお袋。  「『大丈夫だよ、すぐ治るから』って風邪で辛い私の耳元で励ましてくれてね……こう、手をぎゅっと握ってくれて。冷たくて気持ちよかったわ。手が冷たい人は気持ちが優しいっていうけど、本当ね」  何言ってんだよお袋。  どこまで底抜けにお人よしで馬鹿なんだよ。  その気持ちの優しい男が、俺たちになにをした?  あんたと小さい子供を捨てて、よそに女作って、会社の金を持ち逃げして駆け落ちしやがった人間のクズだろ。  掛け布においた拳を無意識に強く強く握りこむ。  伸びた爪が手のひらの柔肉を抉り鋭い痛みを生む。  妹は曖昧な反応。  中学生の妹は親父の事を殆ど覚えてない、顔なんかとっくにぼやけちまってる。  俺はちがう、はっきりと覚えてる。  お袋は噴飯ものののろけを垂れ流しつつとぼけて笑う。  「お父さん、突然紙と鉛筆ないかって言い出してね。渡したら、何か夢中で書いて私の枕にはさむの。絶対開けちゃだめだって言い含めて。翌日、嘘みたいに風邪が治ってメモを開けてみたら……なんて書いてあったと思う?」  治りますように  治りますように  治りますように  「憎い演出。そりゃ惚れちゃうわよ、小娘だったんだもの」  『透 母さんと真理をよろしく頼む』  お袋の治癒を祈願した手で、あの自己完結した書き置きを残したのか。  俺が妹や麻生にしたおまじないは、お袋考案じゃなく、親父から受け継いだものだった。  腹の底で巣穴から這い出た蛇みたいにどす黒く粘性の鬱屈がうねる。  お袋は消えた親父の事を懐かしそうに語る。  あの人今頃何してるのかしらねって他愛ない調子で、長い間九州に単身赴任中の旦那の事でも話すみたいに屈託なく話す。  お人よしを通り越し、いっそ間抜けだ。  俺は覚えてる。親父の浮気がばれた時お袋がどんなに怒り狂って嘆き哀しんだか、一度ならず痴話喧嘩の修羅場を体験したか鮮明に覚えてる。  なのにお袋は、それさえ振り返ればいい思い出だったと言わんばかりだ。  冗談じゃない。  話は脱線し、興に乗ったお袋は、親父との馴れ初めや初々しいエピソードや結婚に至るまでの道のりを饒舌にくっちゃべりはじめる。お袋に負けず劣らずおしゃべりな妹は相槌も打てず、ぎこちなく笑って聞いてる。膝を立て、揺すり、部屋かトイレに逃げ込みたそうにしてる。俺は戸惑いより怒りが勝っていた。親父に対しわだかまりがある、恨みがある、お袋はちがうのか?自分と子供を捨てて女と逃げた男が憎くないのか、浮気が発覚した時はあんなに泣いたくせにー  俺が麻生の回復を祈って手がけたおまじないは、家族を捨てたクソ野郎から受け継いだものだった。  どこへなりと失踪した後も、アイツが会社の金を持ち逃げしたせいで俺たちは近所から白い目で見られ学校で除け者にされお袋はパート先でも肩身狭いおもいして小さい妹はひとの顔色をうかがう癖がついて、俺たちは狭苦しく汚い借家に引っ越して、家族三人助け合って支え合って貧乏でもそれなりに楽しく暮らしてきたのに、お袋は親父の分まで働いて働いて子供育てて、俺は親父の分までしっかりしなきゃって自分に言い聞かせて、七年経って漸く吹っ切れたとおもったのに。  「失踪宣告の期限は七年」  おおらかな笑いを引っ込め、お袋がきょとんとする。    「小説で読んだ。失踪して七年経てば死人も同然になる。葬式だって出せる。殺人の時効は十五年だけど、失踪の場合は七年」  理性が手綱を引くも、一度堰を切って迸り出た言葉はとまらない。  荒れ狂う激情を極端に抑制し、込み上げる罵倒の文句をねじ伏せ押さえ込み、低い声を出す。  「今年で七年目だ。親父が、アイツがいなくなってちょうど七年。俺ん中じゃ死人と同じだ」  「透そんな、お父さんにむかって……」  その一言で忍耐力が切れた。  「うぜーんだよ、いいかげん!!」  その一言で。  お袋が眉をひそめ放ったその一言で、この七年間積もりに積もった親父への呪詛や怨みが爆発して、知らず叫んでいた。  激昂の発作に駆られ天板を平手で叩き立ち上がる。  衝撃で茶飲みがひっくり返り中身が一面に広がる。  お袋が半笑いで固まる。  妹がびくりとする。  とまらない。とめられない。  今まで鬱積したもの、七年間堪えに堪えてきたものが解き放たれ一挙に噴き上げて、狂ったように吠える。  「何がお父さんだ何がおまじないだ、わかってんのかよお袋アイツが俺たちに何したか、忘れたなんて言うなよさんざしなくていい苦労させられたのに!どこまでお人よしなんだよ、空気読まねえ天然もいいかげんにしろよ、誰もアイツの話なんか聞きたくないんだよ、俺も真理もアイツの事なんか一日も早く忘れたいんだよ、話に出して欲しくねーんだよ!」  「兄貴、ちょ、落ち着いて」  「ボケかますのもいいかげんにしろよ、あいつが俺たちにしたこと忘れたのかよ、よそに女作って会社の金持ち逃げしたせいで俺たちがどんだけ………」  熱い塊がせりあがり喉が詰まる。  薄暗い台所に残された書き置き。七年間、必死に忘れようと努めた親父の思い出。  必死に振り払い忘れようとしてたのに、七年かけて漸く少し薄らいだ面影が、他ならぬお袋の無神経でまたぞろ蒸し返された。  親父に一番迷惑かけられたお袋がなんだって呑気に笑いながら思い出話をする、俺も妹もお袋を慮ってできるだけ親父の事は忘れたふりで話題に出さず最初から三人家族だったように振る舞ってきたのに七年間の苦労と我慢が水の泡だ。  親父が消えてからお袋は子供抱えてパートに出て近所に白い目で見られてまだ四十そこそこなのに白髪が目立って、手はゴツゴツ節くれだって、若い頃はこれでも綺麗だったのよと懐かしみ笑うしかないー……  茶が染み広がった天板の上に重苦しい沈黙がおちる。  「指輪も外さねーで未練がましいんだよ」  お袋の左手薬指の根元、くすんだ指輪がはまってる。親父とペアの結婚指輪。  年月を経て疵がつき、垢染みて鈍い光沢放つ指輪を仇のように睨みつけ、言う。  俺をまともに見れず顔を伏せ、さりげなく薬指に手を添え回顧するように指輪をさする。  「……しかたないじゃない、抜けなくなっちゃったんだもの」  怒ってくれればまだ救われた。  お袋は傷付いた顔をした。  一方的に取り乱し怒鳴り散らす俺を責めも罵りもしなかった。  ただただ哀しげに萎れて目を伏せた面持ちは、休日で化粧してないせいか生活苦が刻む皺が目立ち、やけに老けて見えた。  働いて働いて働いて、固く節くれだった指の根元から、もう一生指輪は抜けない。  テレビでは淡々と国会中継が流れる。  お袋と同年代のくせに、肌の張りと声の艶を失わない議員の顔が画面に映る。  『大臣に回答を求めます。今回の消費税引き上げは国民にさらなる負担を負わせ、現状を省みても失策であると……』  いたたまれなくなった。  「兄貴!?」  「透、」  お袋と妹、音程のちがう二人の声を背に受け走り出す。  廊下を盛大に軋ませ玄関に直行するや踵を履き潰したスニーカーをつっかけ、引き戸を開け放つ。  十一月の風が顔を打つ。  風を切るように飛び出し、そのままあてもなく駆けていく。  『指輪も外さねーで未練がましいんだよ』  自分の声が耳の中でエコーする。  『しかたないじゃない、抜けなくなっちゃったんだもの』  厚手のパーカーを羽織っていても外気がもろに洗う顔がひりひり痛い。  どこをどう走ったか覚えてない。とにかく家から離れたい一心だった。  自分がぶざまで情けなくて、お袋に腹が立って、親父を殺したくて、色んな感情が湧き立って体が火照っていた。  俺の七年間はなんだったんだ。  親父の分までしっかりしなきゃと気負って妹を守ってお袋を支えてきた、あんなヤツいなくても俺がいるから大丈夫だと思ってた、思い上がっていた。お袋や妹も、口には出さないけど、俺を頼りにしてくれてると自負してた。   なのに。  「畜生」  結局俺じゃ、親父の代わりになれないのか。  お袋が今でも結婚指輪を外さないのは親父の帰りを待ってるからなのか。  憎しみが鼓動に溶け血に引火し体内を循環する。  走る、走る、猛然と風を切ってどこまでも。  肺活量の限界に挑む。首の後ろでフードが跳ねる。住宅地の景色が繁華街へと移り変わる。  自動ドアが開閉し、ゲーセンから軽快な音楽が漏れ出る。  パチンコ店から不況の世相を吹き飛ばす景気よい軍艦マーチがどんちゃん流れる。  雑音の洪水に取り巻かれ、膝に手をつき呼吸を整える。  いつのまにか駅前に来ていた。  酷使した肺が痛い。  貪るように酸素を吸い込む。  どっか遠くへ行きてえ。  試しにパーカーのポケットをさぐる。じゃらりと小銭が鳴る。  しめて百二十円……笑っちまう。  「せいぜい一駅しかいけねーよ」  麻生の住む町は五駅離れている。  聡史に匿ってもらう手もあったが、妹から電話が入るとめちゃくちゃ気まずい。  仕方なくたまたま目についたコンビニで時間を潰すことにする。  自動ドアが開くと同時に「いらっしゃいませー」と店員が元気よく挨拶する。  適当にやりすごし、窓に面した雑誌の棚に向かう。  漫画雑誌を立ち読みしようとして、ふと週刊誌の見出しが目にとまる。  「友永唯(42)議員に隠し子疑惑!?~若き日の乱れた生活~」  さっきまでブラウン管越しに目にしていた議員の顔が浮かぶ。   何気なく週刊誌を手に取り、ぱらぱらめくる。  記事には議員の略歴と政界入りに至る経緯が載っていた。  「『政界のシンデレラ』友永唯。  いまだ衰えぬ美貌とエレガントな立ち振る舞い、論理武装したクレバーな舌鋒で一部の層の絶大な支持を得る彼女にまつわるある噂が囁かれている。  読者諸氏は友永議員がかつて女優だった事をご存じだろうか?  女優としては短命でドラマ・映画の出演本数あわせて十三本とパッとしないが、これからというときに突然芸能界から引退を表明、政界入りを宣言。  猛勉強の末独学で大検資格をとり立候補、当選、議会に進出。若手映画監督と結婚するも離婚。  以上のように波乱のシンデレラストーリーを歩んできた彼女だが、実は業界筋の情報によると、引退表明までの一年余りの活動休止期間に子供を出産した疑いがあるのだ」   「当時、唯と同じ事務所に所属していたタレントA子はこう語る。  『活動休止に入るちょっと前、唯ちゃん、様子がおかしかったんですよね。出演予定の番組の直前に体調くずして……いきなりトイレに駆け込んだり。つわりじゃないかって事務所の女の子の間で噂になってましたよ。当時は売れっ子だったからまあ嫉妬もあったんでしょうね』  『それからすぐ活動休止に入って……オフレコだけど、上とだいぶ揉めたらしいです。で、ある日ふらっと消えて……一年経って戻ってきたら突然引退宣言でしょ?何かあったって勘繰らない方がおかしいです』  活動休止期間中の友永唯の足跡は謎に包まれている。  実家に帰ったという者もあれば内縁の男性と同棲していたという者、匿名で入院していたという証言もある。  本誌は友永議員の秘められた過去と私生活を今後も鋭意追跡していく方針である」  下世話な覗き見シュミにあふれた記事に目を通し、どうでもいい感想を述べる。  「隠し子ねえ。議員も大変だな」  週刊誌を棚にもどし、しばらく立ち読みで時間を潰すも、二時間も粘れば大概読み尽くす。  いい加減店員の視線が痛い。さっきからずっと睨まれてる気がする。  潮時かな。退散するか。  立ち読みの罪滅ぼしに缶コーヒーを一本持ってレジに向かえば、前に人がいた。  パーカーのポケットを探り、小銭を取り出そうとして、トチる。  「あ」  ポケットに手が突っかかった。  指の間をすり抜けた小銭が床を転がっていく。舌打ち。  慌てて屈み、這い蹲ってかき集めにかかる。  「大丈夫ですか?」  「すいません」  会計を終えた客が親切にもその場に屈んで手伝ってくれる。  買ったばかりの煙草を背広の胸ポケットにしまい、俺の正面にしゃがみこみ、素早く小銭を拾い集める。  「ありがとうございます」  顔を上げ、礼を言うと同時に既視感が騒ぐ。この人どっかで見たな。  相手も同様の気持ちを抱いたらしく、記憶の襞をなぞるように目を細め、俺の顔をじっくり見る。  「ひょっとして……譲さんのマンションにいた?」  「あの時、麻生の部屋の前にいた?」  後見人。  駅前のコンビニでばったり遭遇したのは、麻生と玄関先で押し問答してた背広の男。  困惑が晴れ、俺の手に硬貨を渡しながら男が口を開く。  「譲さんのお友達ですか」  俺が「麻生」と呼んだせいで、知り合いと見抜いたらしい。  立ち上がった俺と向き合い、ここでこうして会ったのも何かの縁と腰低く気さくに微笑む。  「よかったら少し話しませんか?コーヒーご馳走します」  コンビニの前には小さな駐車場があった。  車が三台とまれば一杯になっちまう狭い駐車場の置き石にふたり並んで腰掛け、おごってもらった缶コーヒーのプルトップを引く。  「いただきます」  「どうぞ」  ほろ苦いコーヒーを啜りながら、隣に座る男を横目で観察する。  俺はともかく、スーツで決めた大の男がそうして駐車場に座り込む様はひどく浮く。  実際、さっきから通行人が好奇と不審と詮索の入り混じった視線をちらちら投げかけてくるが平然とした素振りで缶コーヒーに口をつけている。  「喫茶店の方がよかったでしょうか」  「いや、全然!知らない人に喫茶店でおごってもらうんはさすがに気が引けるんで、こっちのがいいです」  手に持った缶をちょいと掲げフォローすれば男が「そうですか」と安心する。笑うとだいぶ印象が柔らかくなる。  「君は……ええと」  「秋山です」  「譲さんのお知り合いで?」  「クラスと部活が同じで。といっても俺がむりやり引き込んだんだけど、麻生も順調に染まってきて、最近は推理小説読んで勉強してます」  「推理小説というと」  「ミステリー同好会。部長は俺です」  「それはすごい」  「いやあ、ただ本読んでくっちゃべてるだけの部活っす」  褒められるのに慣れてないから嬉しい。  頭をかきかき挙動不審に照れる俺に向き直り、かすかに不安げに聞く。  「学校ではどうですか、譲さん」   「いっつも本読んでます。授業の時しか口きかねーし。正直クラスじゃ敬遠されてるけど、話してみると結構楽しいですよ。物知りだし」  「秋山くんは譲さんのお友達ですか?」  直球の質問。  面と向かって聞かれると答えにくい。  人さし指で頬をかきコーヒーを一口、面映げに呟く。  「一応……むこうもそう思ってくれてるといいんだけど、ちょっと自信ないす」  正直、麻生が俺の事をどう思ってるかなんてわからない。  俺の事を対等な友達だと思ってくれてるのか、四月から変わらず鬱陶しい位置付けなのか、冬風の如くドライな態度から内心を推し量るのは困難だ。  「ええと、おっさんは」  しまった、おっさんは失言か。  機嫌を損ねたか危ぶむも、相手は気にした素振りもなく、「申し遅れました」と背広の内側から名刺をとりだす。  「私、後藤といいます。譲さんの後見人のようなものを務めさせていただいてます」  「ども、ご丁寧に」  おお、推理的中。やっぱり後見人だったのか。  手馴れた礼儀正しさで頭を下げられ、恐縮して名刺を押し頂く。  名刺には「秘書 後藤弘文」とだけ刷られていた。  こっちの推理も当たり。さすが俺、部長の肩書きは伊達じゃない。  初対面も同然の高校生のガキ相手に礼儀正しく名刺を渡すさまは戯画化じみて滑稽であると同時に、相手を重んじる誠実さが伝わって好感をもつ。  「麻生とはどんな関係なんですか?」  「譲さんのご母堂の下で働いてます」  「ゴボドウ?」  「お母様です」  ごぼうとは無関係だった。  口語にそぐわぬ台詞がさらっと出てくるあたり教養と経験の差を感じさせる。  受け取った名刺をためつすがめつひねくりまわす俺をよそに、後藤は缶コーヒーを両手に握り淡々と続ける。  「譲さんの事は小さい頃から知っています」  「今日も麻生んちに?駅ちがいますよね」  「ええ。今日は譲さんの学校へ……先日の謝罪と事情説明に伺った帰りです」  後藤が何を指してるか察しがつく。三者面談の事を言ってるのだ。  「……麻生の親、三者面談にきませんでしたね」  「……はい」  「一応、連絡は行ってたんですか。麻生一人暮らしだし、連絡ミスで来れなかったとかじゃ」  「連絡は来ていました。しかしあの日は都合が悪く……どうしても抜けられない用があって。私が代行しようかとも考えたのですが、譲さんに言ったら余計な事をするなと叱られてしまいました」  「だって三者面談ですよ?進路を決める大事な話し合いなのに親が欠席したら意味ないじゃないすか」  「おっしゃるとおりです」  非難を甘んじて受け入れ苦渋の面持ちで俯く。  感情的に責め立てた事を反省、浮きかけた尻を再び置き石に戻す。第一、三者面談をすっぽかしたのはこの人じゃない。謝罪まで肩代わりしなきゃいけない立場に同情こそすれ理不尽に詰るのは筋違いだ。  名刺をポケットに突っ込み、ぬくい缶コーヒーをいじくりまわしつつふてくされた調子で言う。  「麻生の親ってどんな人なんですか」  三者面談を終えた帰り道。  強く吹く風に電線が撓む。  ススキが生い茂る斜面。自転車を引きながら窺った麻生の横顔を思い出し、やりきれなくなる。  後藤は遠くを見て、少し考える素振りをする。  駐車場の前の通りをベビーカーを引いた若い母親が歩いていく。  厚着に包まれた赤ん坊がこっちを見る。うさぎの耳付きフードが可愛い。  円らな目で不思議そうにこっちを凝視する赤ん坊に笑って手を振れば、隣でいい年した大人が慎み深く同じことをしていた。  子供好きなのか。きっと悪い人じゃないんだろうなと警戒の水位を下げる。  母親に会釈を返し、ベビーカーが通り過ぎるのを待ち、思い出したように口を開く。  「むずかしい人です」  去りゆくベビーカーを優しい目で見守り、慎重に言葉を選ぶ。  「周囲を信用しない。自分にも人にも厳しい。ある意味では容赦がない、酷烈といってもいい。常に理想と完璧を追い求め他人にもそれを課す。人に優しくするのもされるのも不得手で誤解されやすい……譲さんとよく似てます」  弁護とも擁護ともつかぬ口調だった。  もっと詳しく聞きたい欲求がもたげるも、警戒心と遠慮からためらい、違うことを聞く。  「後藤さんはどれ位の頻度で麻生のところへ?」  「月一ですね」  「様子を見に来るのは親に言われて?」  「半分は。もう半分はお節介です。譲さんには鬱陶しがられますが、子供の頃から見ているので気になってしまって」   麻生が鬱陶しがってるのは邪険な態度からよくわかる。  ささやかな好奇心から、もう一歩突っ込んでみる。  「子供の頃の麻生ってどんな感じだったんですか」  「博識で寡黙で偏屈」  「今とあんまり変わんないですね」   顔を見合わせ笑いあう。連帯感が生まれる。  缶コーヒーを両手に持ち、俺には想像できない麻生の子供時代を回想するように目を細め、訥々と言う。  「気難しい子供でした。少なくとも世に言う子供らしい子供じゃなかったな。あまり笑いませんでしたし……友達も多くはなかった。どこか周囲を距離をおいていた。当時から勉強はよくできたし、しっかりしてましたが……かえってそれが危なっかしく、痛々しかった」  「無理してるところが?」  「孤独を孤独と思わないところがです」  後藤の言わんとすることは漠然とわかる。  それは俺が常日頃から麻生に感じてる不安の輪郭をなぞる言葉だった。  後藤がふいに真顔になり、値踏みするように俺を見る。  顎を引き唇を結び、控えめな値踏みを意を決し受けて立つ。  麻生について知りたい。  三者面談に親が来なかった理由、だだっ広いマンションで一人暮らしする事情、全身の傷痕と痣の真実を知りたい。  だが一方で麻生が頑なに守る線の内側の核心に触れるのに抵抗があった。  この人なら何か知ってるかもしれない、教えてくれるかもしれない。  間接的にでも核心に触れることができるかもしれない。  缶コーヒーを握りこみ、一途に思い詰めた表情で見詰め返す。  俺の目をまっすぐ捉え、信頼できるか否か、話してもいいものかと思慮を働かせる。  「譲さん、小学校二年生まで自分の誕生日を知らなかったんですよ」  突拍子もない言葉に面食らう。  後藤は虚空に目を馳せ、感傷的に言葉を重ねる。  「譲さんは諸事情あって中学まで母方の祖父母と同居されてました。マンションを借りて一人暮らしを始めたのは高校から。本人たっての希望です」  「初めてのわがまま?」  「遅れてきた反抗期と言いますか」  ちらり笑うも、横顔はすぐ憂愁に翳りゆく。  「譲さんがご実家にいらしいた時からたびたび様子は見に行ってたのですが、なかなか打ち解けてくれませんでした。ある時、滅多にないことですが、譲さんのほうから話しかけてこられたんです。その時、開口一番聞かれたのが……」  『自分にも誕生日はあるのか?』  「知らなかったんですよ、自分にも誕生日があると。おそらく、クラスのだれかの誕生日の話がでたんでしょうね。それで初めて、自分にもあるのか疑問に思ったらしいです」  胸を殺伐とした風が吹き抜ける。  言葉を失う俺から顔をそむけ、手の中の缶コーヒーを見詰める。  「ああ、可哀相な子だなと思いました」  誰も教えてくれず、祝ってもくれず。誕生日の存在さえ知らなかった子供。  それだけで、幼い麻生が祖父母にどういう扱いを受けていたのか想像できる。  産み落としてすぐ人に譲ろうとおもったから譲。   愛された形跡のない名前にふさわしい境遇だった。  「自分を可哀相だと哀れめるうちはまだ大丈夫なんです。本当に可哀相なのは自分をないがしろにする人です。ないがしろな生き方しか知らない人です」  手の中の缶コーヒーはすっかり冷え切っていた。  思い出したように口に運び、あおる。  苦味を増した液体が喉を通り、胸が焼け、顔をしかめる。   コンビニの自動ドアが開き、袋をぶらさげた若い男が不審そうに駐車場に座り込む俺たちに一瞥くれるも、気にならない。  長い長い沈黙の末、アスファルトの地面に視線を固定し、吐き捨てる。  「俺、可哀相って言葉嫌いなんです」  後藤がこっちを向く。  全部飲み干した空き缶を落ち着きなくひねくりまわし波立つ胸中を宥め、言う。  「だって、相手を下に見てるじゃないですか。言ってる本人は気分いいかもしれないけど言われるほうはたまったもんじゃない。俺もたぶんひとに言われたらムッとすると思うんです。でも……今の後藤さんの話聞いて。上手く言えねーけど、自分を哀れむことで救われることもあると思うんです。誰も哀れんでくれないならせめて自分だけでも哀れんでやろう、自分の痛みをわかってやろうって。それで慰められることだってあるでしょう」  空き缶の底で地面を叩く。  麻生はおそらく自分を可哀相だなんて思ってない。自覚しないことで他人に哀れまれるのはさぞかし不本意だろう。  だから、俺があいつを哀れむのは傲慢だ。  ひとりよがりの偽善だ。  わかってる、俺にはあいつのために泣く資格がない。  だったら、この胸の痛みをどう処理したらいい?  涙で洗い流せない痛みをどこへ捨てたらいい?  「……麻生、全然自分の事話してくれねーから、俺、付き合い始めて何ヶ月もたつのにあいつのこと全然知らなくて。本当は、友達とか名乗る資格もなくて。わかってるんだけど、なんか、時々たまんなくなる。俺、そんなに頼りないのかよって……こないだもそうだ、風邪ひいて辛いのに電話一本よこさなくて、三日も経ってから初めて知って……びっくりして」  自己紹介から何分も経ってない人間にこんな事ぶちまけていいのか。  こんな、麻生本人はおろか長い付き合いの聡史にも打ち明けてないことを冬風吹くコンビニの駐車場で相談しちまっていいのか。  けれども今は羞恥より戸惑いより、誰かに胸の内を聞いて欲しい願望が膨れ上がって喉を衝く。  俺の知らない麻生を知ってるこの人に、俺より麻生と付き合いの長いこの人に、無性に縋りたかった。  後藤には硬軟併せ持ち人を懐柔する雰囲気、信頼に足る寡黙な度量がある。   話し込むうちに警戒心が霧散しちまえば、俺は実にあっさり口を割って、一言ぽろっと本音を零せば感情が決壊して、この数ヶ月、誰にも言わず胸に秘め続けた葛藤やら悩みやらを洗いざらいぶちまけていた。  よく知らない人だからこそ話せることがある。  自暴自棄に近い衝動に駆り立てられ、しゃべるうちに喉が渇いて、からっぽなのも忘れて空き缶に唇をつけて、それでも止まらない。  「俺、正直、頼られるのが鬱陶しかった。嬉しい反面、同じくらい、それ以上にうんざりしてた。もういい加減にしろよって叫びたかった。なんでもかんでも俺に押し付けるなよ、好きにさせてくれよって」  親父の分までしっかりしなきゃ  俺が。  俺が。  なんで俺だけ  「しんどかった。時々全部投げ捨てて、バイトでためた全財産はたいて電車とびのって、誰も知らない町に行きたくなった。家も学校も、何もかも投げ出したくなった。けど……麻生と会ってから、ああ、こいつ放っといちゃだめだって。放っとけないって思って」  麻生と近付くきっかけとなった四月、図書館の二階の窓から、颯爽と飛びおりる姿を思い出す。  「目を離したら、どっか行っちまいそうで」  ボーダーラインの彼方に行ったきり戻ってこない気がして。  「……俺がいてもいなくても変わんねーけど、でもそれでも、いないよりマシだって思う」  俺は麻生に、ここにいてほしい。  「麻生は俺を頼らない。頼らねーのに、そばにいてくれるんです」  麻生のそばにいると呼吸がらくだった。誰かに頼りにされなくてすむことがあんなに気楽だなんて知らなかった。他人が哀れむ家庭の事情も吹っ切れて、普通の高校生になれた気がした。  俺が守る必要のない人間、一人で生きられるくらい強い人間。  麻生譲はそんな少数の選ばれた人間だと信じて疑わなかった。  いつからだろう、頼ってもらえなくて物足りなさを感じ始めたのは。  頼ってもらえなくて息が苦しくなり始めたのは。  「俺……もっと、頼ってほしい」  今は、胸が苦しい。  口の中にカフェインの成分に溶け無力の苦味が広がる。  麻生にとって必要な存在になりたいというのはわがままだろうか。  俺の分際で、上を見すぎだろうか。  辛いこと苦しいこと哀しいこと遠慮なく話して欲しい、捌け口にしてほしい。  俺は麻生の前で鼻水たらし涙を見せたのに、あいつは一回も泣かない。  なにもできないと諦めるんじゃなくて、なにかできると信じたい。  辛かったら、苦しかったら、ちゃんと言ってほしい。  膝を抱え込むようにして黙り込む俺の隣、後藤が腰を上げ、背後のゴミ箱に空き缶をおとす。カコン、と金属音。  「こないだ譲さんの部屋を訪ねた時、私物が増えていて驚きました」  膝から顔を上げ、緩慢に振り向く。  「推理小説です。おそらく秋山くんの影響で手を付け始めたんでしょうね。私が不思議に思って聞けば、友達が読め読めうるさいからと、不機嫌な様子でおっしゃりました」  友達。  後藤さんがなにげなく発した言葉に、胸の氷が溶け、ぬるい水となって広がっていく。  「一方通行を気に病むことはありません。譲さんはただ、好意を表現するのが不得手なだけです。あの事があってから……」  「あの事?」  「大事な人が亡くなったんです。譲さんの支えだった人が」  後藤が手を差し伸べる。意図を察し、無言で空き缶を載せる。  俺が手渡した空き缶を金属の蓋のむこうへと落とし、向き直った後藤が、冬空に晴れ渡るような笑みを浮かべる。   「君と会えてよかった。安心しました」  「あの、」  踵を返し立ち去りかけた後藤を呼びとめる。  訝しげに振り返った後藤に一歩踏み出し、白い息を吐きながら、最後に肝心な事を聞く。  「麻生の誕生日っていつですか?」  「12月1日です」  「じゃあもうすぐだ」  俺の考えを読んだか、後藤の顔に一瞬驚きが広がり、次いで柔和な笑みが染み広がる。  駐車場を離れ、駅の方へと続く通りに立った後藤がゆっくりとお辞儀をする。  「譲さんをよろしくお願いします」  猥雑な雑踏を背景に、丁寧に腰を折る黒背広の男を、そこだけ日常から切り離された厳粛な空気が包む。  『透 母さんと真理をよろしく頼む』  親父によろしくされた時は反発と怒りと義務感で窒息しそうだった。  後藤のお辞儀からは誠意と信頼が伝わってこそばゆくなった。  雑踏に紛れかけた背中を追い駆け出せば、駐車場での青臭い会話を反芻したか、後藤が気恥ずかしげに呟く。  「過干渉ですかね」  「言い間違いです」  パチンコ店やゲーセンから流れる音楽に負けじと声を張り上げる。  「そういうのは過干渉じゃなくて、過保護っていうんです」  雑踏に埋没する間際、ちょっと振り返った横顔にはにかみがちらつく。  麻生にこの人がいてくれてよかった。  土曜日の午後、人で賑わう繁華街の通りで後藤と別れ、少し迷い、ポケットに手を突っ込み携帯をとりだす。  短縮を押し、家電にかける。  外をふらついて頭が冷えた。お袋に謝ろう。謝って、もう少ししたら帰ると言おう。  通行人の邪魔になるのを避け目についた路地にそれ、壁に凭れ、応答を待つ。   携帯に注意が行き、背後からの接近に気付くのが遅れた。      「もしもしお袋」  脇腹で電圧の火花が弾ける。  「!!―ッ、がっ」  脇腹に喰らった電撃に筋肉が弛緩、膝から挫けて倒れこむ。  表通りから引っ込んだ路地で倒れても、通行人は気付かない。  声を張り上げ助けを呼ぼうにも、声帯が痺れ、視界は急速に明度をおとし狭まっていく。  何が起きたかわからなかった。  力の抜けた手から携帯が落ちて地面に転がる。  倒れこんだ俺の周囲にどこからか沸いて出た人影がたむろする。   「捕獲完了。これでいいか、伊集院」  伊集院?だれだっけ。  中の一人が携帯で報告する。  鼻先を踏む汚い靴。ざらつくアスファルトが頬を削る。首筋に鋭利な冷気が忍ぶ。  誰かの足の間をすりぬけ向こうに転がった携帯に手を伸ばすも果たせず、か細い糸一本で繋がっていた意識が断ち切れ、真っ暗闇に飲まれた。

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