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第33話
「お前っ、どうしてここに!?」
「教えてもらったんだよ、あの人に」
床一面に散乱する割れた窓ガラスの破片と吸殻、スナック菓子とシンナーの袋、空き缶。
荒廃の様相を呈す殺風景な工場内に風に乗って火の粉が吹きこむ。
「あの人……」
ヒステリックに髪掻き毟るボルゾイの目に理解の光が点る。
「そうか、そういうことか、はははははっなあんだわかった!!」
枝毛だらけの髪を振り乱し発狂したように笑い出すボルゾイにぎょっとする。
「あの人が言ってたお気に入りの二年って、あれお前か!びっくりしたぜ、まさか優等生と評判のお固い麻生クンが専属契約ドレイとは衝撃だ、そうかそうか、ならここ知ってても納得!フェラ一回と引き換えに教えてもらったのか、ベッドで教えてもらったのか、あの人も口が軽いぜ、大事な大事な俺たちの秘密のアジトぽろっとこぼしちまって……」
暴発、または起爆。
「ああッ、畜生ふざけやがって、おかげで台無しだ、漸くコイツを犯れるとおもったのに待った甲斐なしときた!!この前の美術室といい懲りずにいいところを邪魔しやがって、そんなにお熱か、他の男に犯らせたくないか、恐れ入ったね!!全くよく出来たストーカーだよ秋山のピンチとなりゃ目の色かえて飛んでくるヒーロー見参見参ってかくそったれが一人でカッコつけやがって、秋山も秋山だ、俺がこんなによくしてやってんのに麻生麻生馬鹿のひとつ覚えみてえに……」
窓から火の粉を伴う熱風がふきこみ髪をひっかきまわす。
麻生は平然と風を浴びて立ち、蔑みきった目であたりを威圧し、呟く。
「燃えたいなら燃えりゃいいさ」
投げやりな口調、淡白な表情、全てに無関心な態度。
俺が知る麻生そのもの、いっそ場違いなほど沈着な態度。
麻生の服装。裾が膝まである、フェイクファー付きの黒いコート。
シャツにジーパンのカジュアルな私服を見慣れているとひどくスタイリッシュで斬新に映る。
体躯に沿ったスリムなコートは似合っているが、黒一色の不吉なコーディネートは死刑執行人の正装さながら断罪の炎に映える。
火刑法廷の開幕。
裁判官と処刑執行人を兼ねるのは麻生、証人は俺、被告はボルゾイとその他大勢。
傍聴席なんて上等な物はない、ここは即席の法廷だ。
裁判官も処刑執行人も証人も被告も平等に立ち見だ。
「………あ………」
頭のてっぺんから爪先まで冷徹な視線にさらされ裸足で駆け出した理性が戻ってくる。
自分がどんなかっこをしてるか思い出し、恥辱で顔が燃える。
そのまま俯けば剥き出しの腹と股間がいやでも目に入り、咄嗟に横を向く。
パーカーの裾をはだけ、白濁が散った下腹から貧弱に薄い胸板まで大胆に露出し、ほとんど半裸に近い姿でボルゾイに抱かれてる。
「見んな!」
手錠を嵌められた両手で下腹を覆うも、ボルゾイがそれを払う。
「見ろよ、麻生。お前の可愛い秋山のエロいかっこ。興奮しね?」
ねちっこい揶揄が耳朶をねぶる。
剥き出しの背中にボルゾイが密着、長い舌が耳をなぞっていく。
俺の耳を唾液でべとべとにし穴をほじくり、片手を前に回して胸板をまさぐる。
「さわるんじゃねー変態、この露出狂、茶番はおしまいだ、とっとと手錠はず……ひっ!?」
乳首がちぎれる激痛に体を折って悶絶、声にならない悲鳴が嗚咽と混じって喉で沸騰する。
ボルゾイが俺の乳首を弾き、安全ピンを摘み、缶のプルタブでも引くみたいに引っ張ったのだ。
針で刺し貫かれた乳首にじわり血が滲む。
反応を面白がり、強弱を付け安全ピンを弾き、引っ張る。そのたび悲鳴を上げ身悶える。
「見ろよ、コイツの乳首下とおそろいでキレイなピンク色なんだ。そそるだろ?血が出て……赤く……尖りきってる。貞操帯代わりの粋なアクセサリーだ。ピアッシングだよ、ピアッシング。俺という飼い主がありながら他の男にもケツ振る悪い子にはおしおきしなきゃな」
「だれが、飼い主、だよ……犬扱いすんじゃねえ……ボルゾイのくせに」
痛すぎて舌が縺れる。目尻に涙が滲む。
安全ピンが肉を抉る。
肉の中で針が動き、鋭い痛みを生む。
ボルゾイが唾で湿した指で乳首をコリコリ揉み転がす。
安全ピンの上からー痛いー脳裏で赤い閃光が膨らみ炸裂、口から悲鳴が迸るー痛覚が焼き切れるー
痛いだけじゃない、理性も飛ぶ激痛の中に甘い刺激が隠れている。
ボルゾイが俺の胸をまさぐり、敏感な突起をねちっこく摘んで揉んでをくりかえすごと、微電流に似た性感が覚醒する。
「はあっ、は、はっ……痛ッ、いい加減にしろ……調子にのってると、後で……」
「後で?どうしてくれるのかな?ほら顔上げろ、コリコリ乳首もまれて感じまくってるエロい顔おともだちの麻生クンに見せてやれ」
無理矢理顎を掴み上げさせられる。
前屈みの姿勢から正面の麻生を仰ぐ。
やめろ、見るな、頼むから見ないでくれ。どうしちまったんだ俺は、体が熱を持て余して疼く、ボルゾイの手なんかでー……どうして………麻生が見てるのに……
無気力に四肢を投げ出す。
ボルゾイが優越感に酔いしれ腕を振りぬく。
「なんだかわかるか」
放物線を描き麻生の足元に落下したのは……さっきまで、俺の体内で暴れ続けていたローター。
今だスイッチが入ったまま、コンクリートの床で低い電動音を発し続けている。
「さっきまで秋山のケツん中に入ってた。ローションでぬるぬるしてんだろ。さわってみろ、まだあったかいぜ。ぐちゃぐちゃのどろどろだ。すごかったんだぜ、コイツ。入れっぱなし、イキっぱなし。目隠しされて……手錠で吊られて……腰揺すって……さっきまでうるさくて大変だった。頼むこれとっておかしくなる腹苦しい、あっ、ひあっ、おかしくなっちまうっ、頭が変になる、ごめん謝るだから手錠はずしてこれとって伊集院ーって、顔中涙と汗と鼻水でべとべとにして泣き叫んでさあ。ケツの穴もがばがばにゆるみきって……」
太股に固く熱いものが当たる。
腰を浮かし身をよじりケツを狙うそれを遠ざけるも、ボルゾイは俺の膝を器用にこじ開け、胡坐をかいた自分の上に座らせようとする。
「ローターは気に入ったか?気に入ったんならまた持ってきてやる、遠慮すんな、家にいっぱいあるんだ」
安全ピンに指が絡む。引っ張る。悶絶。
前屈みに突っ伏す、手錠で括られた手で床を掻く、掻き毟る、塩辛い涙を噛み締める。
嫌だ、こんな所、こんなかっこ悪くて恥ずかしいところ麻生に見られたくない幻滅かっこ悪い、恥ずかしい、ボルゾイが俺の胸をまさぐって乳首を抓って、嫌だ「あっ」俺の声?ー「んっ、く」ーこんなー
「お前は」
麻生が静かに口を開く。
コートのポケットに片手を入れたまま、炎の陰影が舐める床に立ち尽くし、レンズの奥から冷えきった目を注ぐ。
「殺しときゃよかったな」
ゴミを捨て忘れたみたいな口調だった。
麻生がローターを蹴り上げる。
無造作に蹴り上げたローターは放物線を描きボルゾイの眉間を直撃、ボルゾイが「ぎゃあっ」と絶叫、割れた額から血が滴る。
今だ。
拘束がゆるんだ隙に必死に身を捩りボルゾイの腕の中から抜け出し、膝と肘で這って逃れる。
ボルゾイの額はぱっくり裂け、傷口から鼻梁に沿って血が迸っていた。
眉間から顎先まで二等分する血の筋が、憤怒と苦痛に歪む醜悪な形相をより凄惨に染め上げる。
「………ろしてやる……」
犬歯を剥いて唸る。
「あの人のお気に入りだろうが知るか、殺してやるよ麻生、俺の邪魔ばっかしやがって……前から気に食わなかったんだ!!」
鉄骨を組んだ高い天井と、鉄骨を打ち立てた広大な空間に殷々と絶叫が響く。
「いいのか勝手に決めて」
「あの人のお気に入りなんだろ」
残りのメンバーがおずおずと意見を申し立てるも、ボルゾイは動じない。
「どのみちここ知られたら口封じしねーと……いや、わかった、そうか。はははっ、そうか、あの人は俺たちに口封じまかせたんだ!」
「え?」
「考えてもみろ、いくらお気に入りだからってあっさりアジトを教えるもんか、俺たちがいるって知ってて一人で来させたってことは……好きにしていいってことだ、口封じを兼ねてたっぷり遊んでやれってことだ、ちがうか!?」
ボルゾイの目が狂気に濡れる。男達が生唾を呑み、嗜虐的に唇をなめ、麻生を取り囲む。
工場内に殺気が充満する。
ボルゾイの言葉に触発され、まるで催眠術にかかったように理性を手放した男たちが、包囲の輪の中心にじりじりと麻生を追い詰めていく。
「麻生!!」
叫ぶ、自分が置かれた状況も忘れて。
俺も、俺だって麻生の心配をしてる場合じゃねえ。だけど、目と鼻の先で友達が危険な目に遭ってるのにじっとしてられない。
発作的に駆け出そうとして、立ち上がった途端に膝が笑い、二・三歩よろめいてけっつまずく。
足が縺れ、埃を舞い上げ倒れこむ。
膝が言う事を聞かない。
腰がだるい。
手錠されてるせいで歩行のバランスがとりにくい。
どうして麻生がここに?俺が捕まってるのがわかって?『あの人に教えてもらった』あの人ってだれだ、ボルゾイと共通の知り合いか、俺の拉致を仕組んだ黒幕か『あの人のお気に入り』ボルゾイと麻生はあの人を介して繋がっている……?
悠長に推理してる場合じゃねえ。
麻生は無防備にその場に立ってる。武器を持ってる形跡はない。コートの中に隠し持ってるのか?
あざやかな反撃を期待し息を詰めるも、予想は外れた。
正面に陣取ったボルゾイが顎をしゃくる。
唇ピアスの肥満が麻生の後ろに回り羽交い締めにする。
無防備に身を晒した麻生を悪意の波動が取り囲む。
ボルゾイが小声で指示し、パンクに場所を譲り、そして……
「かはっ!!」
鈍い音、鳩尾に重い衝撃。
パンク男が、ブーツの固い靴底で蹴りを入れる。
白目を剥いて咳き込む麻生の前髪を乱暴に掴み顔を上げさせるや、続けざまに二発、往復で頬を張る。
「麻生!!」
拳が腹にめりこむ。麻生が呻く。
脂汗にまみれ苦痛に歪む顔……今度は痩せぎすの男が前に出て、下腹を集中的に殴る。
鈍い音、連打、殴打……袋叩き。リンチ。暴力の熱狂に沸く男たちが、競うようにして場所を譲り合い、麻生の顔に肩に腹に全身至る所に蹴りとパンチを浴びせる。
「―っぐ!」
痩せぎすの男が高く乾いた音たて頬を張り飛ばす。
勢い余って眼鏡がとび、かしゃんと床で跳ねる。
「おい、顔はやめとけ。やるなら腹だ。あんま腫れると萎えんだろ」
「オーケー、わかってるって」
「三好ぃ、そのへんにしとけよ。吐かれたでもしたら後始末が大変だ、このブーツ結構高いんだぜ」
「ねえ、鎖骨折ってみない鎖骨。肋骨でもいいよ?きっといい顔するよお」
唇ピアスの愚鈍そうに間延びした声、痩せぎすの神経質に尖った声、パンク男の低く掠れた声、それらに被さるボルゾイの狂った哄笑……
麻生が殺されちまう。
俺を助けにきたばっかりに
「麻生に手を出すな!」
ボルゾイが愉快そうに目を眇め、片膝折った麻生の前髪を掴む。
「ちょうどいい、一緒に犯してやる。お友達がいた方が心強いだろ?」
おぞましい提案。
麻生の前髪を毟るように掴み、顔を引き起こし口笛を吹く。
「眼鏡はずしたとこ初めて見たけどそそるじゃん、しかめた眉間が色っぽいね。なるほど、あの人が夢中になるわけだ」
朦朧とした麻生のコートを剥ぎ、シャツの胸繰りに手をもぐらせる。
「ご奉仕してくれよ、優等生」
「麻生にさわんなゲス野郎、とっとと離れろ、殺すぞ!!」
渾身の力を振り絞って叫ぶ、変態どもを麻生から引き離そうとあがく。
俺が抗えば抗うほどボルゾイの笑みは広がり、右手が使えない自分の代わりにパンク男を呼び麻生をいじらせる。
シャツが捲れ白い裸身が覗く。
引き締まった腹筋とヘソ、なめらかな胸板。
指輪を嵌めたゴツい手が腰から上へと、性感の燻りを煽るように移っていく。
「あ………」
見るな、見るんじゃない。
理性が命じるも視線は正面に釘付けで、麻生と密着した男が前戯を施していく様をつぶさに追う。
指輪を嵌めたゴツい手がシャツの下にすべりこみ、腰を抱き、背中を支える。
麻生が押し倒される。
さっきの俺と同じ体勢、同じ状況。
痩せぎすと肥満が腕を掴み床に固定、パンク男が腰に跨り、麻生の胸板に根元から舌を這わせる。
不潔な床に寝転がった麻生は、シャツを捲り上げられ、上半身を外気に晒したあられもない格好のまま退屈げに男を見返す。
不感症的な無表情が気に障ったか、パンク男がおもむろに腕を振りぬく。
鈍い音、頬に拳が炸裂。
指輪を嵌めた手で殴られ唇が切れる。
「痛っ…………」
初めて生の反応を示す。
喉を焼く血の不味さに眉をよせた顔は普段がクールなだけに一層嗜虐をそそる。
喉が渇いてるのに気付く。
麻生から目が放せない。切れた唇に滲む血が鮮やかで……苦痛に歪む顔がやけに色っぽくて……
屈強な男にのられ首筋や胸板を舌でねぶられるうちに、眼鏡がはずれた双眸は淫蕩な熱に濁り、上気した肌が倒錯的な色香を放ち始める。
炎に冴える闇に朧に浮かぶ裸身、シャツから覗く肌、乱れた黒髪、仰け反る喉、撓る背中、しどけない衣擦れの音、上擦る吐息。
「こんな事してる場合か?」
パンク男は耳を貸さず、夢中で麻生の体を貪っている。
麻生の腹に顔を埋め、唾液を捏ねる音も卑猥に舌を使い、一方でベルトに手をかける。
眼鏡を見付ける。手を伸ばし、掴む。
片手で眼鏡をかけなおし、男の耳元で囁く。
「ほら」
静寂を切り裂き響き渡るパトカーと消防車のサイレン。
遠くから徐徐に音量を増し近付いて来るそれに、ボルゾイ達が硬直。
互いに顔を見合わせ混乱するボルゾイたちに眼鏡の埃を拭き取りながら釘をさす。
「現場にいたら放火犯扱いされるぞ」
「お前……時間稼ぎを!?」
「伊集院、まずい、早く逃げねーと」
炎の勢いが激しさを増す。男たちが慌てて退散していく。
仲間と仰いだ男たちに見捨てられ、最後に残ったボルゾイと麻生が工場のど真ん中で対峙する。
「秋山に手を出すな」
「………………っ」
「この前言ったよな」
「……………………」
「契約不履行か」
「待て、勘違い。単なる冗談、悪ふざけだよ、ははっ、本気にすんなって!たまたま外歩いてたら見覚えある顔に出会って懐かしくなっちゃって、工場寄っておしゃべりしてただけで……なあ秋山、そうだろ、俺たち友達だよな!?」
友達?
お前と?
「反吐が出る」
だから、そう言った。
心のままに真実を述べた。
「消えろ。二度と俺の前に現れるな」
「秋山」
「今度現れたら警察に行く。被害届を出す。お前が俺にしたこと洗いざらいぶちまけて檻ン中にぶちこんでやる。そこでカマ掘られる側の気持ちたっぷり味わってみろよ、ゲス野郎。お前にはみっともねー泣きっツラがお似合いだ」
コイツのせいで、俺がどれだけ。
どれだけの人が泣いたのか、苦しんだのか。
腹ん中はまだぐずぐずだ。内蔵が溶け流れたみたいで力が出ない。
四月同じクラスになってからこっちずっと溜め込んできたボルゾイへの怒り憎しみをかき集め、震える膝を叱咤し、壁に縋るようにして立ち上がる。
手錠をかまされた両手を膝の間にだらり垂らし、火の粉すさぶ視界にボルゾイを捉え、啖呵を切る。
「『そして誰もいなくなる』……お前が最後の一人だ。消えろ、負け犬」
本当は怖かった。
膝の震えを隠すだけで精一杯だった。
息が切れて今にもその場にしゃがみこみそうなのを気力だけでもちこたえていた。
沸騰する怒りが恐怖を上回り、虚勢を貫いた意地が俺を駆り立てる。
あらん限りの威圧と拒絶をこめボルゾイを睨む。
視線の熱量だけで殺せるならボルゾイなんて今この瞬間に蒸発していた。
ボルゾイの顔が歪む。
俺に対し罵声を張り上げようとして口を噤み、身を翻し猛然と逃げ出す。
「待てよ」
ボルゾイが感電したように振り向く。
麻生が無言で右手を突き出し、命じる。
「手錠の鍵」
虚空に突き出された手を無視し足元に鍵を放る。負け犬の最後の意地。
鍵を投げ捨て逃げていくボルゾイを見送るや緊張の糸が切れ、全身から嘘のように力が抜けていく。
「………勝った」
土壇場で逃げなかった。俺にしちゃ上出来だ。
壁によりかかりへたりこみ、高い天井を仰ぎ、呟く。
放心状態の俺の方へ、シャツに付着した埃を払いながら麻生がやってくる。
「立てるか?」
「……………」
「顔見て腰抜けたなんていうなよ。二度目だ」
「二度目だな」
「?」
「助けてもらうの」
一呼吸おき、前もって用意していた台詞をそうと思わせぬ自然さで口に出す。
「ありがとう、ゆずる」
「…………言ってる場合か」
初めて名前を呼んだ。
精一杯勇気を振り絞ってそれなりに緊張して呼んだのに反応はつれなかった。
無言でさしだされた手にすがり立ち上がると同時に麻生の腕を強く掴む。
腕に指が食い込む痛みに顔をしかめた麻生が、すかさず異変を察しパーカーの裾を捲り上げる。
「………馬鹿」
舌打ち。安全ピンに貫かれた乳首に血が滲む。
パーカーと乳首が擦れる痛み、ピンが生み出す痛みとで上擦る息を辛うじて整える。
「……あとでとるから……早く逃げねーと警察が」
「ちょっと痛いけど我慢しろ」
麻生の手が安全ピンに伸びる。
「!?っ、」
突然の事に気が動転、びくりと身が竦む。
器用そうな長い指が安全ピンを細心の注意力で取り外しにかかる。
「痛ッて、やめ……こんな事してる場合じゃね、自分でやる……ふあ、」
鋭利な針が肉を突き通す痛みに堪えきれず縋り付く。
「掴んでろ」
そうする。
麻生の服の胸を掴み深く深く息を吸い、もれそうな声を懸命に噛み殺す。
五指の間接が白く強張る。
尖りきった乳首が痛みの信号を増幅して脳髄に伝え、こみあげる悲鳴を聞かせたくない意地でシャツを噛む。
「ふっ………ふく、あふ………」
「ひっつかれちゃやりにくい」
麻生の胸に涙と汗と鼻水がしみこんでいく。……鼻水はいやだ。
「お前、ボルゾイより性格悪ぃ……抜くならじらさず一気に抜け……」
「アイツと比べるな。……できるだけ痛みを少なくしてるんだ」
「ーんっ、くふ……はっ、早く、こンなの生殺しだって……!」
シーツのように麻生の胸を掻く。嗚咽の発作に合わせ肩がひくひく上下する。
巧みな指をじかに感じ、性感の塊となった乳首がずきずき鼓動を打って疼く。
「あっ、あっ、あっ」
針が抜けるごと硬直と弛緩を繰り返しまだるっこしく絶頂へと駆け上がっていく。
スニーカーの靴裏でギブアップを表明しさかんに壁を蹴り付ける。
スッと冷気が通り、乳首から針が抜けていく。
「はあっ、はっ、はっ、は……」
びっしょり汗をかく。苦痛を和らげる脳内麻薬の過剰分泌で恍惚の余韻が長引く。
指はがちがちに固まったまま、服を手放そうにもなかなか言うことを聞かない。
「……とれた。行くぞ」
麻生が俺を引き離し鍵をさしこむ。手錠が外れ床に落下、甲高く澄んだ音をたてる。
自由になった手首をさすり駆け出しかけくしゃみ一発、先行する麻生がコートを放る。
「着てろ」
「いーよ、高そうだし。鼻水つけたら弁償弁償うるせーだろ」
「そんなにせこくねえ。いいから着ろ、ずっと半裸だったくせに」
「好きで半裸でいたんじゃねーよ、ひとを露出狂みてえに言うな」
不毛だ。ここは大人しく従いコートを羽織る。あったけー。
麻生に腕を引かれ工場の外に出れば、芝生の一隅が勢い良く燃え、割れた窓から炎の舌先が侵入していた。
「火をつけたのか?」
「工場は壁に囲われてる。近くに民家はない。廃工場に友達が拉致監禁されてるって素直に電話したところで証拠がなけりゃ説得力にかける、警察がすぐ来るかもわからない。その点火事なら一発だ」
放火犯の告白を存外冷静に受け止める。トラウマ物の衝撃的な体験をして心が麻痺してんのかも。
不意に言葉を途切れさせ、眼鏡のレンズに炎を映し、廃工場を仰ぐ。
麻生と並び、囂々と炎に呑まれゆく廃工場と煌々と染まる背景の空を見詰める。
降り注ぐ火の粉を払いもせず夜風に髪を嬲らせ、表情を消した麻生が呟く。
「こんな場所、燃えちまったほうがいいんだ」
ボルゾイ達の犯罪現場、浄化の炎に包まれゆく廃工場に背を向け、塀沿いにぐるり回りこみ反対側の塀を乗り越え外へ出る。
「あ」
黒い乗用車が一台夜闇に紛れて停まっていた。
麻生が臆さず歩み寄るのを待ちかね後部ドアが開く。
「早く乗れ」
当然のように促され、わけもわからずお邪魔する。
俺が乗ったのを確かめ車が出る。
ミラーの中、急接近するサイレンと逆行して廃工場がどんどん遠ざかっていく。
「麻生、この車……」
「譲さん、秋山くん、ご無事ですか」
運転席からの渋い声にはっと身を乗り出す。
「後藤さん!?え、帰ったんじゃねーの!?てか車で来てたの、さっき駅にむかってたからてっきり電車で」
「駅前の立体駐車場に停めてたんです。コンビニのすぐ近くの。あそこ人通りが多くて乗り入れしにくてて……大した距離じゃありませんし、譲さんが通う学校まで散歩がてら歩いてみようかと」
……詐欺じゃん。
口には出さなくても顔に不満が出たらしくミラーを一瞥した後藤が苦笑い。
落としたはずみにひびが入ったレンズを擦り、麻生がうっすら憂鬱げにため息を吐く。
「あの人って……」
「後藤のおかげだよ」
俺の質問は宙に浮く。
機先を制すように言い、座席に深く凭れた麻生が淡々と説明する。
「話は後藤から聞いた、携帯で。コンビニでお前と別れたあと、言い忘れたことがあって引き返したら姿が見当たらなくて……いくらなんでも早すぎる、妙だって思ったそうだ、コイツは」
「刑事ドラマ風に言えば現場の状況がいかにも不審でして。近くの路地をひょいと覗き込んだら、携帯が落ちている。失礼を承知で中身をチェックしたら、秋山くん、君のでした。拾い上げると同時にエンジン音、視界の隅で急発進するバン……拉致だと直感しました。だが行き先がわからない。そこで譲さんに連絡したんです」
「後藤はお前の恩人てわけだ」
「ちょっと待て、だからなんでお前が俺の居場所知ってたんだよ?」
向き直り詰問するも麻生は徹底して回答拒否、窓の外を眺めてだんまりをきめこむ。
胸ぐら掴みたい衝動を後藤さんの手前ぐっと堪え、長々と息を吐いてクッションのきいたシートに沈む。
………今日は色々な事がありすぎた。正直、体力の限界。眠たくて仕方がない。麻生をとっちめ真相を白状させるのは明日でもいい。
どっちにせよ、俺がまた麻生に助けられたのは事実なワケで。
「後藤さん、言い忘れた事ってなんだったんですか」
「メルアド言い忘れたんだと。女子高生かよ」
「譲さんにもし万一の事があった時こっそり教えていただければと思いまして……」
「本人の前で言うな」
泰然とハンドルを操作する後藤にあきれる。
瞼が重い。後藤と麻生が何か言い争ってる。
目を瞑る。
傾いだ頭が固く柔らかい物にあたる。
誰かが俺を支えてる。
黙って肩を貸してくれてる。
「おい」
「寝かせてあげましょうよ、家まで……色々あったんでしょうから」
憮然とだまりこむ気配。
車の心地よい振動にまどろむ。
信頼できる誰かの肩によりかかり眠りにおちながら、衣擦れの音に紛れて消えそうな呟きを聞く。
それは本当にごくささやかな
いかにも呼びなれてない感じの ぎこちなく不器用な響きで
「…………透」
耳朶をくすぐった自分の名前は、大事な人に呼ばれるからこそ、平凡だが特別な響きを有していた。
「…………やっぱ変」
最後の一言は余計だ。
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